05.怒涛の展開に主人公はついていけない
「渡、車に戻るぞ」
低い低い声でそう言ったのは渡の父、譲だった。
譲がラウンジの入り口でそわそわしていたのを渡も知っていたので、おとなしくあとをついていった。
「詳しく」
車の後部座席に並んで座り、シートベルトを締めた途端に、譲が低い声で言った。
小さくため息をついてから、渡は披露宴前に再会したこととラウンジでの出来事を説明する。
譲は相槌も打たず、頷きもせずに最後まで話を聞いた。
いつの間にか車は走り出していて、渡の家まではもう三十分もかからないだろう。
「はーーーー、また……また……えらいことになって……」
「……これ、連絡していいんだよね?」
「したいか?」
譲が十歳くらい老けたように疲れた顔で渡を見る。
気苦労をかけて申し訳ないと渡は思ったが、それでも先ほどあれだけ泣いていた凪を思えば、連絡しないわけにはいかなかった。
「……月詠のお嬢様かもしれないけどさ。だからって、あんなに泣いてる女の子を俺は放っておけないよ」
「そんなに泣いてたのか……」
「うん。あと『月の民は強欲なんです。覚えていてください!』って啖呵を切られたし」
「怖い……えっと、あの方、今おいくつでらしたっけ?」
「十六だったかな」
「月詠の姫ともなると、十六でそんな啖呵がきれるんだな。女って怖い……」
渡はつい笑ってしまう。
それでは怖いのが月詠家なのか女性なのか、渡にはよくわからなかった。
「それに、このIDは『母君も承知の上』ってボディガードが言ってたからね。月詠の女主人に連絡しなかったことを詰められて、親父が矢面に立ってくれるなら考えるけどさ」
「やだよ、怖い。無理だ」
「諦めが早えよ」
そう言うと、譲はギロッと渡を睨んだ。
「お前は月詠の奥方を知らないからそんなことを言えるんだ。直接お目にかかると、圧が強すぎて顔が上げられねえぞ」
「そんなに?」
「疑うなら姉貴に聞いてみろ」
「美佳伯母さんも十分怖いから嫌だよ……」
「姉貴が頭が上がらないお方だからな」
怖い。渡の頭はそれでいっぱいになった。
そんな人の娘にこれから連絡を取らなくてはならず、それが先ほど渡にしがみついて泣いていた凪だと思うと、もう渡には訳が分からなかった。
「連絡するのは、帰って、風呂入ってからでいいかな」
「俺に聞くな。……まあ、御祓は済ませてからにすべきだな」
「御祓……」
そうこうしているうちに、車は音もなくマンションのロータリーへと入り、そのまま入り口に止まった。
渡は譲のあとについて帰宅し、席札を自室の机に置いて、風呂へ向かった。
いつもなら譲が先に入るが、
「姫様をお待たせして何かあったらことだから」
と、渡に先を譲った。
歌帆に愚痴と報告に行くつもりなのだろうと察し、渡はありがたく先に入らせてもらう。
「あー……疲れた」
湯船に浸かると、疲れが一気に押し寄せ、そのまま眠ってしまいそうだった。
寝たらダメだ。
死んでしまう。
お家騒動的な意味で。
そんな益体もないことを思いながら、渡はなんとか身体を起こして風呂から上がった。
部屋着に着替え、髪をいつもよりゆっくり乾かしてからリビングへ向かうと、渡の想像どおり、譲は歌帆に泣きついていた。
「渡、ご連絡は差し上げたの?」
「いや、これから」
「さっさとなさいな。女性を待たせるものではないわ」
「うん。親父は大丈夫そう?」
「大丈夫よ。美佳さんの弟だもの」
「それ、どういう意味?」
「弟っていう生き物は姉の無茶に慣らされているから、多少のことならどうとでもなるのよ」
月詠の女主人に詰められる可能性があるというのは、本当に「多少のこと」で済むのだろうか。
渡は首をかしげつつ、蛙前に冷たいお茶をもらって部屋に戻った。
「……連絡、するか」
渡は深呼吸をして唾を飲み込んでから、スマホを取り出す。
ニャインの友達検索で席札に書かれたIDを入力すると、すぐに該当の名前が表示された。
漢字一文字で「凪」とある。
名前をタップしてトーク画面に移動した。
「どうしよう?」
そもそも何を送ればいいのかがわからない。
送って違っていたらどうしよう。
本当に凪なのだろうか。
スマホの上で指をぐるぐる回しながら、結局は自分の名前と相手の名前を確認するだけにとどめた。
「よし、送信……うっわ、既読早い」
送って十数秒で既読がついた。
もしかすると凪は、渡からの連絡をずっと待っていたのだろうか。
披露宴の後から、ずっと。
「親父なんか放っておいて連絡すればよかった」
そして一分経たないうちに返事が来た。
『凪です。連絡ありがとう。嬉しい』
「こっちこそ。席札ありがとう」
『また会いたい』
そう来るだろうと、想像していない訳ではなかった。
でも、会っていいのだろうか。
もちろん渡はまた凪に会いたかった。
会って、手をつないでぶらぶら歩きながら他愛もない話をしたい。
あわよくば別れ際にちょっとキスして、「次はどこに行こうか」なんて別れを惜しんだりしたい。
渡は、自分が悩んでいるのか妄想を広げているのか、よく分からなくなってきた。
いったんスマホを伏せて、渡はベッドに転がった。
しかし渡が目を閉じかけた途端にスマホが震えた。
慌てて起き上がると、凪から電話がかかってきている。
渡は思わず床に正座し、通話ボタンに触れた。
「わ、はい、雨水……渡です……」
『こんばんは。さっきはどうも。デートしよう』
「直球過ぎる……」
『もう、私とデートするの嫌?』
「まさか」
考えるよりも先に、渡の口が動いていた。
「会いたいよ、君に。でも俺は月詠のお嬢様にほいほい会える身分じゃない」
『あなたに月詠のお嬢様とか言われたくない』
俺だって言いたくない。
そう言い返すのを、渡はなんとか堪えた。
「俺に、なんて呼んでほしい?」
『凪』
「凪。俺だって会いたいよ。前回のデート楽しかった。また凪と出かけたい。雨でも晴れでもなんでもいよ。また、会いたい」
『その言葉が聞ければ十分よ』
「えっ?」
突然凪の口調が明るくなり、渡は困惑した。
凪は機嫌よさそうに続けた。
『あなたのこと、渡くんとお呼びしていいかしら?』
「あ、はい、どうぞ……」
『渡くん、私に会いたいのよね?』
「……うん」
『奇遇ね、私もあなたに会いたくてたまらないの。つまり合意ってことよね』
「合意?」
渡は困惑したまま、「合意」という言葉の意味を考えた。
自分は今、何に合意させられたのだろう。
気づけば手のひらが汗でべたつき、スマホが滑り落ちそうになっていた。
『さしもの私も、相手の合意無しに連れて帰ったら駄目なことくらいわかっています』
「う、うん?」
『でも、合意なら大丈夫ね。万事問題ありません。先程お伝えしたとおり、月人は強欲で、欲しいものは諦めないの』
凪の欲しいものは自分なのだろうか。
渡が口を挟む間もなく、話は進んでいった。
『あと、猿渡……さっき渡くんに席札を渡したボディガードなんだけど。彼から聞いたと思いますけど、私が渡くんとこうして連絡を取ることを母には伝えて、承知してもらっているから』
「……それは、うん。聞いた」
『ご両親に話はした?』
「うん。両親は知ってる」
さっきから自分は相槌しか打っていないと渡も気づいていたが、だからといって口を挟むことはできなかった。
立場的にも、勢い的にも、渡は完全に流されていた。
『ご両親は、私と連絡を取ることを反対された?』
「いや、反対はされてない」
『じゃあ、大丈夫。ねえ渡くん』
「はい」
『首を洗って待っててね』
「えっ」
『お疲れのところ、長々とごめんなさい。私の言いたいことばかりをあれこれ言ってしまったわね。でも、全部本心だし、本気なの。おやすみ、渡くん』
「……うん。おやすみ、凪」
『いつか直接聞かせてね』
「ちょっ!?」
意味を聞く間もなく、通話は切られた。
渡はしばらくスマホを見つめて、やがてベッドに倒れ込む。
ずっと正座で話していたせいで、渡の足は痺れていた。
渡はまだ晩ごはんも食べていないうえ、今の通話内容を両親に報告しなければならない。
「……なんもかんも、明日でいいか」
慣れない披露宴でただでさえ疲れていたところに、怒涛の展開が重なり、渡はすっかり疲れ果てていた。
渡はなんとかベッドによじ登り、ニャインの家族用グループをタップする。
『会いたいから、首洗って待ってろって言われた。疲れたから寝る。おやすみ』
と送って、スマホを充電器につないだ。
部屋の外で誰かが椅子から転げ落ちる音に続いて、騒がしい足音や扉をノックする音がしたが、渡はすべて無視して頭まで布団をかぶった。
彼女は今どうしているだろうか。
凪も同じようにまどろみながら、自分のことを考えていてくれたらと思った。
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