32.あなたと見るから、月はきれいなんだ
長かった夏休みもやっと最終日となった。
渡は自宅のマンションのエントランスでそわそわと歩き回っていた。
凪と会うのはかれこれ一か月半ぶりだ。凪からは昨日の夜に地球に戻ったとメッセージが来ていた。
やがて、約束の時間の十分前にロータリーに月詠の車が入ってきた。
「お待たせしてしまったようですね」
蟹沢が笑いながら降りてきて、後部座席のドアを開けた。
「凪、久しぶり」
「渡くん! 本物だあ……」
渡の顔を見るなり、凪がぶわっと泣き出した。
「ちょ、凪?」
「会いたかったよう……」
凪はおいおい泣きながら渡にしがみつく。
「お嬢様、車を出しますのでシートベルトをご着用ください」
「やだ、渡くんから離れたくない……!」
「凪、俺も離れたくないよ。だから、もう少し二人でゆっくりできる場所に移動しよう?」
「ん……」
涙目のまま、凪は体を起こしてシートベルトを締めた。
渡は言ってから、少し言い方が誤解を招きかねなかったと気づいたが、凪は何も言わないし、猿渡と蟹沢も指摘しないので黙ってシートベルトを締めた。
車はいつも通り静かに動き出した。
渡は手を伸ばして凪の手に重ねた。
「一か月半、お疲れさま。月はどうだった?」
「すっごく大変だった!」
凪は渋い顔で、月の話を始めた。
月に大使を置いている国はそもそも多くはないが、それぞれの国の言葉で最低限の挨拶と会話ができるよう、延々と外国語の勉強をしていたこと。各国の大使の家族とお茶会をしたり、月の発展について試されるような質問を受けたりしたこと。
「ほら、日本人は童顔だし、私は小柄だから。どうしても相手が上から来るでしょう。お国柄もあるし」
「そうだね。欧米系は特にガツガツ言ってくるね」
渡も父とその手の場に参加することがあるので分からなくはないが、きっと女性で小柄な凪には、渡には想像もつかないような苦労があるのだろう。
車が駐車場で止まった。
「到着いたしました」
「行こう、渡くん!」
凪が車から降りて、渡の手を引いた。
渡は指を絡めて彼女の後に続く。
二人は、初めて会ったときに来た海の近くの水族館へ向かった。
「わ、相変わらずマンタは大きいねえ」
「前に見たときより、育ってるような気がする」
以前と同じように、水槽の間をゆっくり歩いて回った。
凪が歓声を上げるたびに、渡は頷きながら彼女に寄り添う。
「渡くん、今日はなんだか甘えん坊だね」
「うん。寂しかったから」
「そうなの?」
「当たり前だろ」
「そっかあ」
凪は嬉しそうに微笑んで渡にもたれかかった。
水槽の中では、タツノオトシゴがヒレを羽ばたかせるようにして浮いていた。
「渡くんはあまり会いたいとか寂しいとか言わないから」
「それで不安にさせてた? 凪が頑張ってるの分かってたからさ。ワガママ言いたくなかったんだよ。あと、かっこつけてた」
「そんなことしなくてもかっこいいのに」
渡は凪の手を離し、その肩を抱き寄せた。
細くて華奢で、気をつけないと壊しそうだ。
「凪に会えなくて寂しかった。連絡もつかないし、会いたくてどうにかなりそうだったんだ」
「私も会いたかったよ、渡くん。ね、冬休みは月においでよ」
「えっ」
凪がニコッと笑って渡を見上げた。
「緑化に向けての視察とか理由つけてさ。日本が月の緑化にどう手をつけるかは、注目されてるからね。雨水の人たちが言って前面に立って話をしてくれると、説得力が出る」
「……なるほど。父と相談してみるよ」
確かに、そういう手もあるかもしれない。
地上で月を見て泣くくらいなら、自分から会いに行ってしまえばいいのだ。
渡はぼんやりと透への引き継ぎや、美佳と園佳の予定を思い浮かべた。
今から、冬の予定は抑えられるだろうか。譲と歌帆とで顔を出して、他国の月の関係者に納得してもらえるだろうか。
そんな渡を凪が見上げて手を引いた。
「渡くん、タコだよ。あのね、前に来たときに買ってもらった靴下とスニーカー、取ってあるんだ」
「そうなんだ?」
「うん。蟹沢に靴の洗い方を教わって、自分で洗って飾ってある」
「もっとちゃんとした靴、送るよ?」
「ううん、あれがいいの」
微笑む凪を見て、渡は我慢できずに抱きしめた。
「次、見に行こう渡くん」
「うん、行こう」
水族館を最後まで見て、二人は外に出た。
夕日が眩しく、渡は目を細めた。潮風が穏やかに凪の髪を揺らしている。
「晴れてると気持ちいいな」
「雨でもいいよ。傘差してさ、その中で渡くんと二人きりになれるから」
「今は、月が見たいな」
「任せて。あと、一時間もすれば上がってくるから。そしたらとびきりきれいな月を見せてあげる」
渡は凪の手を引いて浜辺を歩いた。
夕日はゆっくりと水平線へ沈んでいき、代わりに月が昇った。
凪は月で見えた地球の話や、月の天気や気候の話をしていて、渡は相槌を打ちながら耳を傾けた。
今はただ、凪の声を聞いていたかったのだ。
「そろそろかな」
ふと凪が空を見上げた。
太陽はすっかり落ちて、辺りは暗い。
空に昇る月だけが、ぼんやりと明るかった。
「渡くん。この先も、ずっと私の隣にいてね」
「もちろん。死ぬまで凪と一緒に月を見るよ」
「雨が降ったら二人で傘に隠れよう」
「二人しか入れないくらいの傘を用意しておく」
「あなたに会えてよかった」
「俺のセリフだ。君に会えてよかった」
渡が視線を月から凪に移した。
凪は笑顔で渡を見上げていた。
どちらからともなく顔を寄せ、一瞬触れてから離れた。
しばらく月を眺めてから、黙ったまま歩き出した。
車に戻り、二人は手をつないだまま、言葉少なに夜景を眺めていた。
マンションのロータリーで車が止まると、凪が渡の手を強く握った。
「渡くん、明日の午後って空いてる?」
「本家に顔を出そうと思ってたけど、何?」
「まだ先だけど、私も渡くんが通ってる大学に内部進学するから、見学に行きたいんだ。学生証を見せたら入れてくれるでしょ?」
「案内は喜んでするけど、大学は二学期まであと半月以上あるよ」
「そうなんだ?」
「また大学が始まったら教えるから、一緒に見て回ろう。凪と一年間だけ在学期間が被るんだよね。楽しみにしてる」
渡は凪の手を握り返してから、そっと手放し車から降りた。
「凪、またね。明日は無理だけど、後で迎えに行ける日と大学の予定を確認して連絡する。俺から連絡するから、待ってて」
「わかった。待ってる」
手を振って、渡は車を見送った。
渡はもう諦めないし、身を引かない。自分で月を掴むと決めたからだ。
月の姫と雨男の話はこれにて完結です。
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