20.春の風が吹いた
渡が凪を家に招いてから一週間ほど後の金曜日。
授業を終えた渡は、いつも通り宗輔と別れて校門に向かった。
空を見上げると、厚い雲が垂れ込めている。
渡はゆっくりと目に力を入れた。厚い雲はさらに暗さを増し、やがてぽつぽつと雨が落ち始めた。
手にしていた傘を差して、渡は校門をくぐった。
後ろからぱしゃぱしゃと水音が近づいてくる。
「雨水くん」
振り返ると、細蟹が傘も差さずに立っていた。
「今、いい?」
「ダメ。用事があるから」
「彼女?」
「さあ? 用事があるんだ」
「……今日が何の日か、知ってる?」
夕方の薄暗さと雨でかすんで、渡には細蟹の表情がはっきりと見えなかった。
けれど、どんな表情であっても関係はなかった。
「知ってる。だから俺は、君とは帰らないし、何も受け取らない。……必要であれば、蜂須賀を呼んでもいい」
「なんだ、そこまでわかってたんだ。でも別に家がらみじゃないよ」
細蟹が気落ちしたように言った。
渡は何も答えずに彼女を見る。
細蟹の足元や腕、首の周りへと視線を向けた。
「ただ私が雨水くんにバレンタインのチョコを渡して、告白したかっただけ」
「そのために、眷属に俺を監視させたんだ?」
「……ごめん、気持ち悪いよね。他に、やり方を知らないの」
細蟹の足元に、淡い影がゆっくりと広がった。
渡は眉をしかめて、拳を握る。
雨脚が強まった。
「雨水くんにも、彼女さんにも危害を加えるつもりはない。今後は良き隣人としての距離を保つ」
「そうしてもらえると助かる」
「ごめんね、雨水くん」
細蟹は踵を返して去って行った。
渡は握っていた拳を開き、そのままゆっくり歩き出した。
雨脚は次第に弱まっていった。
高校の前につくと、猿渡が車のドアを開けてくれた。
「こんにちは。いい雨だね、渡くん」
「そうかなあ」
「そうだよ。いい匂いがして安心する。……チョコ、受け取ってもらえる?」
「もちろん。ありがとう凪」
渡は凪が差し出す紙袋を受け取った。
小さな紙袋には、丁寧にラッピングされた箱が収まっていた。
「綾と作ったの。味見したから、たぶん大丈夫」
「妹さんと?」
凪の妹と弟は、以前は渡を強く警戒していたはずだ。
しかし凪は苦笑した。
「ママと私が怒ったからね。悠はまだダメだけど、綾は馴れ初めを話したらすっかり渡くんのこと気に入っちゃって。女の子だから、そういう恋バナが好きなんだよ」
「そういうものなんだ。とにかくありがとう。大事に食べるね」
渡が微笑むと、凪がそわそわと渡の手を取った。
「……あの、今日は他にチョコもらった?」
「ううん。一つももらってない。母と妹からももらってない」
「そうなんだ? それはもらえばいいのに」
「もらったらもらったで、お返しの要求がうるさいからね、二人とも」
「ふふ、雨水さんの皆さんって、本当に仲がいいよね」
「そうかな。ところで凪、ホワイトデーは何がいい?」
「わ、どうしようかな……」
他愛もない話をして、マンションのロータリーで渡は凪を見送った。
帰宅して歌帆と雫にからかわれた後、自室に戻った。
渡はスマホを取り出し、宗輔に電話をかけた。
「当たってた。ありがと」
「いーえ。まー、本人のお気持ちはさておき、相性が良くないね」
スマホの向こうで笑う宗輔に渡は肩をすくめた。
……細蟹家の能力は蜘蛛を使役するものだ。
『細蟹』が蜘蛛の古い呼び名の一つだと、蟹沢に教えられなければ気づけなかった。
蜘蛛使いは昔から諜報の家系に仕えてきた。
風間を筆頭に、猿渡や蟹沢とも縁があるらしい。
蜂須賀は、その名の通り蜂を使役する家系だ。蜘蛛を散らすことができるため、細蟹にとっては天敵とも言える家系で、昔から雨水家と付き合いがある。
細蟹自身は分家の出で、諜報の家系という認識はあまりなさそうだし、本人の言うとおり家柄で渡に近づいたわけではなさそうだった。
しかし、宗輔の言うとおり渡とは相性が悪い。
同じ分家でも雨水本家の側近を務める渡一家に、諜報の家系の者が近づいて不審に思わないわけがない。
しかも近づくときに、蜘蛛に渡を見張らせていた。
その手の諜報を仕掛けておきながら、『ただの好意でした』では通らない。
「彼女からチョコはもらえた?」
「おかげさまで」
「いいなー、ホワイトデーどうすんの?」
「悩んでるんだよね」
「俺なら、一緒に山登って星見てイチャつく」
「なるほど?」
宗輔の案に、渡は頷いた。
凪からは
「もう少し考えさせて!」
と言われていた。
渡は通話を続けながら、スマホでホワイトデーのお返しを調べる。
バレンタイン当日まで凪に心配をかけ、不安にもさせたため、ホワイトデーは気合いを入れて喜ばせたいと渡も思っていた。
「んー、確かに『ごはんに連れて行ってもらう』は人気らしいけど」
「だろー? そういう思い出作る系はいいと思うよ。まあ二人きりは難しいかもだけどさ」
「そうなんだよなあ」
「いいなー、俺もそういうことで悩みてえよ」
宗輔は風間の跡取りだから、恋愛結婚は望めない。
「でも学生のうちくらいは、自由に女の子といちゃいちゃしたいなー!」
とよく言っていた。
その相手はなかなか見つからないらしいけど。
「まあ、本人と相談してみるよ」
「それがいい」
結局、ホワイトデーはダブルデートになった。
「なんでこんなことに?」
「ご、ごめんね渡くん……」
アウトドアウェアを身に着けた凪が、渡の隣で苦笑していた。
渡と凪の前を、テンションの高い宗輔と……凪の妹、綾が並んで歩いている。
凪にホワイトデーについて電話で聞いた際に、ふと宗輔の案を話すと凪が乗り気になり、近くで聞いていた綾が
「私も山登りしてみたいなあ」
と食いついた。
その後、宗輔に相談したところ
「素人だけだと大変だから、俺も付き合おうか」
と引き受けてくれたことで実現した。
凪の母親と雨水の頭領で相談し、いずれ婚約の予定でもあるため、月詠から情報の取り扱いについて釘を刺した上で風間家に公式に護衛を依頼した。
そのため渡には見えず気配も感じないが、周囲を風間の人間に取り囲まれての山登りだった。
彼らは普段から宗輔のサークル活動に付き合っている精鋭らしい。
すぐ後ろを猿渡と蟹沢が歩き、綾の斜め後ろには綾付きの護衛も付き添っていて、渡の想像するホワイトデーデートより、だいぶ物々しい雰囲気だった。
凪が楽しそうにしているので、まあいいかと渡は何も言わずに、ここまで山を登ってきた。
「わあ、いい眺めです!」
先を歩いていた綾が歓声を上げた。
その隣で、宗輔が飲み物と塩飴を用意する。
「こちらをどうぞ。思っているより疲れてますから、早めに水分補給をなさってください」
「ありがとうございます。……風間様はしっかりしていらっしゃいますのね」
「そうでもないですよ。山では自分のことは自分でしないといけませんからね」
「そうなんですね。……あの、またご一緒させていただいてもよろしいでしょうか? 楽しかったので」
綾が照れた顔で宗輔を見上げていた。
宗輔の方はいつもどおり、穏やかに微笑んで頷いていた。
「凪、君の妹はずいぶん宗輔に懐いたように見える」
「そうだね。あんなにしおらしいのは珍しいよ。……私がママにブチ切れられているときくらいかな」
「宗輔がどう思ってるかは、ぱっと見よくわかんないな」
「家の格的にはなくもないんだよね」
「まあね」
渡と凪もお茶を飲みながら、綾と宗輔の様子をのんびりうかがった。
渡としては、お目付け役だと思っていた綾が積極的に山を楽しみ、宗輔にも心を開いていたのは予想外だったが、不満そうにされるよりずっとよかった。
「まあ、宗輔は爽やかだし」
自分とは違う、という思いは飲み込んだ。
凪は塩飴を口にしながら、渡にもたれかかった。
「スポーツマンって感じだよね。風間家の方らしいけど」
「たしかに」
「綾の好みなのかな。知らなかった」
「だから俺は気に入られなかったのかな。それなら仕方ないか」
「綾と渡くんを取り合いたくないから、好みが違ってよかった」
渡が凪を見ると、やはりニコニコしながら宗輔と綾を見ていた。
二人は展望台で地図を見ながら、遠くに見える風景の地名や山の名前を調べている。
「渡くん、風が気持いいねえ」
「うん。ねえ凪。ホワイトデーのお返しなんだけど、これも受け取ってくれるかな」
渡は小箱を凪に差し出した。
凪は笑顔で受け取って小箱を開けた。
そして、目を丸くして黙り込んだ。
「ちゃんとしたのは、正式に婚約してからね」
「ありがとう、渡くん。嬉しい」
凪は小箱から指輪を取り上げた。
細いチェーンが付いていたので、凪はそれを首にかけた。
指輪には赤茶のマーブル色の石がついていた。
「それ、ムーアカイトっていう石なんだけど、『雨を呼ぶ石』とも呼ばれてるんだ。俺にできることなんて少ししかないけど、俺だと思って側に置いてほしい」
「肌身離さず身につけておくよ。今度、お揃いの指輪も用意するね」
「楽しみにしてる」
渡が顔を上げると、宗輔が綾の手を引いて展望台から降りてきた。
蟹沢と猿渡が近くの東屋にランチを広げている。
山の上はまだ寒いけど、空は高く澄んでいた。渡も凪の手を引いて、東屋へとエスコートした。
細蟹編、完結です。
***
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