ネネカ
約束通り、私とネネカさんは次の日の夜に森の入口で再会した。
昨日出会ったときよりも少し早い時間、日が暮れてからまだそう経ってもいない頃合いに。三日月というにはちょっと丸みを帯び始めた月も、今日は雲に隠れがち。
昨日別れた地点から少しだけ入っていったところ、草原はもう見えないけれども森としてはまだ全然浅いような──つまりモンスターも出にくい安全な場所で、私とネネカさんは木々を背に向かい合って座る。いや私のこの姿勢が座るであってるのかはしらないけど。
「ごめんね、『来訪者』さんとはいっても見た目はその、モンスターだから……人目につく場所はちょっとね。でも、また会えて嬉しい。触手さんも夜行性、なんだよね?」
まずは挨拶がてらのその問いに、マルのポーズで答える。リアルでの諸々の都合上、私がこのゲーム──イデアにinできるのは基本的に夕方から夜にかけてになるから。
ゲーム内での時間の進みは現実と完全に同期していて、つまり私ことルミナという触手の化け物は、夜のイデアを生きる存在になるというわけだ。これはまあ、私にとってもいろいろと都合が良かった。
「ふふ、わたしたちお揃いね」
そうたとえば、夜の民であるネネカさんと同じ時間に活動できることとか。
昨日も言っていた通り、ネネカさんは夜の町『ナーナ』の住人。『ナーナ』は住民のほとんどが夜行性の種族や夜型人間で構成されていて、町全体が“昼に眠り夜に起きる”コミュニティらしい。
彼女の営む『結わえ草』の営業時間も同じくで、かつ週に何度か、夜早くに『ノクトの森』に入って採集したりもするんだとか、そういうことをネネカさんは柔らかな口調で話してくれる。
「もちろん、商品の多くは家で栽培しているんだけど……中には人の手で育てるのが難しかったり、天然物のほうが効能が良かったりするものもあって」
昨日、急遽必要になったものなんかもまさにその例だったと。お医者さんの処置にネネカさんのサポートも合わさって、急患の子も危機は乗り越えたらしい。
「だから改めて、昨日は本当にありがとう。あなたのお陰であの子もわたしも助かった」
いえいえ。正直、私はその場の流れで動いてただけだし。なんだったらそのぉ……下世話な話、ネネカさんの魅力といいますかお姉さん味にあてられて体が勝手に、みたいなところありますし。
……なんていうのはまあ、さすがに本人には伝えにくいけども。気恥ずかしいし、引かれないかって心配もあるし、なにより触手ジェスチャーで伝えるには難しいって意味で。
なのでとりあえずマルのポーズで返しておいた。ネネカさんは嬉しそうに微笑んでくれる。かと思えば眉根を寄せて「でもわたし、ここまでして貰ってどうお礼をしたら良いんだろう……?」なんて言うもんだから、それに対してはバツのポーズ。ぎゃぁあっ指でバツ作って返されたっ可愛すぎかァ……?
そこからしばらくは「お礼を」「いえいえ」みたいなバツのポーズの応酬が続いて、まあそのあまりの可愛いお姉さんぶりに負けそうになること一度ならず……でもなんとか粘りに粘って「ひとまず保留」という言葉を引き出すことに成功。
私の勝ち。やはり触手は強い。
……なーんて、呑気なことを考えていたら。
「…………」
少しだけ会話が途切れたそのときに、柔く射していた月の光が弱まった。
分厚い雲が月光を隔ててしまったのだと、見上げずとも分かった。ネネカさんの顔にも影が落ちていて、それで。
「……ああいう、泥に取り憑かれたモンスター。少し前からこの森に現れるようになっていて」
ああ、せっかくの微笑みが隠れてしまう。そういう類の話なのだと、声音で分かってしまう。
「あんな恐ろしいもの、以前は『ノクトの森』にはいなかったの。ここは静かで、『ナーナ』とも良い関係を築いてくれていた」
『ナーナ』の住人たちは、生きるのに必要なだけの恵みを森から頂戴する。
『ノクトの森』のモンスターたちは、森の外に出てまで『ナーナ』を襲ったりはしない。
森と町はつかず離れず。
自分が生まれる前からずっとずっと長く続いてきたというその関係を、ネネカさんは尊ぶように語っていて。だからこそその顔に落ちる影は、いっそう深く悲しげだ。
「あのオオカミさんだって本来なら森のもっと奥にいて、昨日の場所くらいの深さじゃ遭遇しないはずなんだけど……」
それがいるはずのない場所にいた、というイレギュラー。
最初に言っていた私を人目に晒せないというのだって、『汚濁』の異変が起きているからこそなんだろう。たとえ泥をまとっていなくとも、見覚えのないモンスターがいるということ自体が、今は町の住人たちを刺激してしまいかねない。それほどまでに張り詰めた状況。
ゲーム的に言うならば、『汚濁』の存在そのものやその発生まで含めたある種のイベント的な要素の可能性はある。あるんだけど……
「……『ノクトの森』が、どんどんおかしくなってしまっている」
……このゲーム、少なくとも人型NPCはそのすべてに『I see,テスト』をクリアしたAIが個別で搭載されている、というのはリリース前から公開されている情報だ。ネネカさんもほかの住人たちも、人の心にも近しい高度な精神様知核を宿している。
だから彼女の思い悩むような表情は、決してただ貼り付けられただけのテクスチャじゃない。
「それでも生計を立てるために、森へ入らないといけない人たちがいる。森の恵みを必要としている人たちがいる」
わたしだってその一人なんだけどね、と無理におどけるような声音すら胸に刺さる。
「昨日のことも考えると、今まで以上に警戒しなきゃいけないなぁ……触手さんも気をつけてね? 『来訪者』さんはみんなすごく強いって聞くけれど……でも、それでもね」
ネネカさんは私の身まで案じてくれた。昨日の一幕があってもなお、強さとか関係なく心配してくれる。昨日の一幕があってもなお、私を利用しようとか考えていないのだと分かる。
ただ単調なプログラムなんかじゃないネネカさん。だからこそ昨夜、私は彼女のウィンクに心ときめいてしまった……っていう話を親友にしたら、「あらぁ〜♡ 明里にもついに気になる相手が……♡」なんて色ボケたメッセージが返ってきたけど。まあそれはおいといて。
つまり正直なところ、一日考えて多少なり予測はできていた。『汚濁』の問題についても、ネネカさんの態度についても。ここで私が「今後も貴女の護衛を務める」なんて切り出しても、彼女はそう簡単に首を縦には振らないだろう。昨日は子供の命までかかった緊急事態だったからこそなのだ。さっきのバツのポーズ合戦でなおさら理解らされた。
──だから、承諾は得ない。
私はこの『ノクトの森』に現れた謎の触手の化け物として、ネネカさんが森に踏み入るたびに、勝手に彼女に付いて守る。それが私の──『来訪者』ルミナのロールプレイ。ひとまずそういう方針でこの『INTO:deep anima』の世界を生きる。
そう決めた。絶対決めた。超決めた。
私はこの触手のときめきを信じる。
……これも親友に話したら「発想がストーカーのそれねぇ〜♡」なんて返されたけど……ぇあー、まあその、たぶん違う。違うよね?
「──暗い話はこのくらいにしよっか。ねえ、よければ触手さんについて教えて? わたし、あなたのこともっとよく知りたいわ」
まさかネネカさんに直接「これってストーカーですかね?」とか聞くことなんてできるはずもなく。決意と親友からのメッセージは胸に秘めたまま、私はもうしばらく彼女と雑談にふけっていた。
話すうちに彼女の顔に微笑みが戻って、雲の退いた月明かりが再びそれを照らす。店を開く時間だと言って帰るその時まで、ネネカさんはずっと私を見てくれていた。




