戴冠者
アルファが絶命するのと同時、ほかのオオカミたちも息絶え『汚濁』が溶け落ちていった。残ったのは死骸とも言えないような、形も曖昧な腐った肉の塊だけ。
さすがに憐憫の気持ちも湧いてしまうというか、とりあえずそれらとアルファの死骸をひとまとめにして『汚濁』に穢されていない地面まで抱えていき、横たえる。とはいえまあ、べつに埋葬とかしてあげるほどの仲ではないからね、今はこれくらいでね。
で、再び『汚濁』の中心地に戻りまして。
アルファを仕留めた地点からさらに一歩(触手の一歩ってなんだ)、繭だか蕾だかよく分からない『汚濁』の塊に近づいた、その瞬間。
「────」
声なき声、穢れた波動のようなものがその内から放出された。
同時、繭が溶け落ち、産まれ堕ちる。
[戴冠者:『ノクトの森』のカンムリヘラジカ 汚濁侵蝕体 侵度Ⅴ]
──前にネネカさんが言っていた。
この『ノクトの森』には、カンムリのような立派な角を携えた巨大なヘラジカがいるのだと。そのヘラジカこそが、この森の主なのだと。それは『ナーナ』に長く伝わるお話で、直接見たことのある人なんて今はもう誰もいなくて、だけども町の住人は誰もが信じている伝承。遠い遠い昔に森と町との共生を定めた、森の守護者なのだと。
その悍ましい成れの果て、きっと当人も望んでいなかっただろう穢れた再誕が、これか。
まずもってデカい。
四足歩行の体高がこの前のヒグマの全長を優に超えている。当然、体長もそれに準じて大きく、そしてなにより頭から生えたツノの巨大さ荘厳さは相当なものだ。左右一対、それが環状に伸びて頭部を飾るさまは、まさに『戴冠者』の称号を体現する立派な冠。
だからこそその冠の中央に、凝縮された『汚濁』の球体が我が物顔で浮かんでいるのがどれほどの冒涜なのか、私にすら理解できた。
体はヒグマやオオカミどもと同じく、もはや『汚濁』と肉体との判別がつかない状態。黒い泥モヤが体表で波うつことで体毛のようにも見えているのが、またなんとも怖気を誘う。
目は落ち窪んでいて眼球もなく、これまでの侵蝕体に見られた怒りや攻撃衝動のようなものすらうかがえない。よくよく注視してみれば、体表の黒よりもさらに冥く濃く濁った『汚濁』が滞留しているのが分かった。少し開かれた口内も同じ様子で、まるで奈落へ繋がる孔のようだ。
ゆっくりと頭を左右に振っているのは、状況を把握しようとしているのか。それとも意思のないただの『汚濁』の揺らぎなのか。
……ぇあー、ちなみにですが戴冠者とは特定のエリアを統べる存在のこと、らしい。それを倒しその称号を奪取することも、エリア踏破と見なされる行動の一つとなる──っていうのは、ちょっと前に公式が発信していた情報だ。つまり、ゲーム的に言うならエリアボス。
ちょうどこのタイミングで覚醒したってことは、やっぱりオオカミどもを倒すことがこいつが出てくる条件だったんだろう。分かりやすくて良い。
逆に考えれば私がこの化け物を解き放っちゃったとも言えるかもしれないけど……やー、まあ、『汚濁』の影響は日に日に増していってたし、なにもしなくともそのうち出てきてたでしょ。
ここは良いほうに考えよう。侵度Ⅴ以上に成長する前に出てこさせられた。うん、たぶんそう。きっとそう。
「────」
──それは不意なものだった。
それと表現できる鳴き声ではなかった。今しがた、こいつが産まれ堕ちる直前にも感じた波動。
ただドロドロと濁った音なき威圧感が、咆哮のように大気を揺らす。同時、掲げられたツノと『汚濁』の球体から黒い奔流が迸った。
「────」
シンプルに強力な、全方位への衝撃波のようなものが放出される。この開けたエリアの外側にある木々にまで届き、それらをなぎ倒すほどに広範囲の。当然、至近にいた私はモロに喰らい派手に吹っ飛ばされた。
…………うわぁー……
ヤバいな、一発で体力7割以上持ってかれてる。咄嗟に丸まって防御姿勢を取ったけども、それでも大半の触手が千切れ飛んだ。侵度ⅣとⅤでここまで差がある……ってだけじゃないんだろう。元々はエリアボスだ、そもそも素体の強さからして格が違うはず。
しかも、オオカミ戦のときはノーダメだったから気付かなかったけど、体の復元速度がいつもより遅い。空気まで黒濁りしていて月明かりの届きが弱いせいか。
こーれはマズいかもしれん。ちょっと調子に乗りすぎたかも。というか普通に痛いし、ショック状態でまともに動けない。
「────」
そんな私の焦りなんて知ったこっちゃねぇといわんばかりに、ヘラジカはこちらへ踏み出してきた。
歩み自体はゆったりとしたもの。だけども体格のぶん、一歩の進みが大きい。そしてこいつが前進するごとに、地面への侵蝕も広がっていく。まさに『汚濁』の元凶だ。
残った僅かな触手で身体を引きずる今の私には、その鷹揚な一歩一歩が恐ろしい。ろくに逃げることすらままならないうちに、ヘラジカは再びすぐ目の前にまで迫っていた。
「────」
左の前足が振り上げられる。頭上に迫るそれへと、私は『月光波』を撃ち込み──
「────」
──蹄の裏から噴き出した『汚濁』に、もろとも呑み込まれる。
侵度Ⅳを瞬殺した私は、触手の化け物は、侵度Ⅴの本物の化け物にあっけなく踏み殺された。




