『結わえ草』の一幕
人はみんな、役割というものをもって生まれてくるらしい。
だれが言い出したとかでもなく、みんな自然とそういうふうに考えている。
わたしだってそう。この『結わえ草』の二代目店主として、かつて流浪の魔女の一族だった母の跡を継いで、夜の町『ナーナ』で生きていく。この静かでおだやかな日々がわたしの役割。
それが、少し前から悪い方向に変わっていってしまって──そして、月の光に出逢ってしまった。
「──ありがとうよ店主さんっ! おかげでアイツも峠は超えたみたいだ!」
町で猟師をしている男性たちが、開店から少ししてお店に顔をだした。昨夜、『ノクトの森』でヒグマに襲われた三人のうちの二人。重傷を負ってお医者様のところへあずけられたもう一人は、どうやら一命を取り留めたみたい。
「いえいえ、お医者様の腕あってのことですから」
「いやいや勿論そうだけどよ、店主さんの薬だって、なぁ?」
「ああ、先生もそう言ってたぜ!」
「……ふふ、なら良かったです」
カウンターに駆け寄ってきた二人が次々にお礼を言ってくれる。
ちょうどストックを補充しておいた薬が役に立ってくれたみたい。ここに生まれて二十三年、まだぜんぜん未熟だけど、母から継いだ技術が町のためになっているのは嬉しいな。
「…………とはいえ、いよいよ森へは入れなくなっちまったな……」
「ああ……」
……うれしい話題もつかの間、猟師さんたちの顔はすぐに暗く沈んでしまった。二人ほどいたほかのお客さんも、同調するように不安げな表情に。
ヒグマまでもが、本来の縄張りよりもずっとずっと浅い場所に出てきてしまっている。『汚濁』──鑑定術師さんがそう呼んでいたあの泥のようなモノに、ひどく蝕まれた姿で。
昨夜それが分かってから、町長さんの一声で『ノクトの森』への出入りは一切禁止されていた。それは、先代から続く信用もあって一人での立ち入りが許されていたわたしも、例外ではなく。
猟師さんが言った通り、いよいよという雰囲気。
これが一時的なものなら、まだどうにか耐えられるかもしれないけど。もしも長く、今後ずっと森へ入れないとなれば、最悪、この『ナーナ』の町は立ち行かなくなってしまうかもしれない。
森と町はつかず離れず。けれども町はたしかに、森の生態系のなかに組み込まれている。わたしの目にはそう見えている。
「チクショウ、なんなんだよあの『汚濁』とかいうやつは……!」
『汚濁』。
こんな場所に、どこから現れたのかも分からない存在。まるで地面から湧いて出てきたかのように、静かに突然に、確実に『ノクトの森』を蝕んでいる。猟師さんの憎々しげな声は町のみんなの総意でもあって、一層、お店の中は重たい空気に包まれてしまう。
「…………」
「……いっそ、あの銀色の触手がどうにかしてくれたりしねぇか……」
だからこそ、そのあとに続いた言葉はよく響いて、お店にいたみんなの顔色が変わった。
「ウワサには聞いてるよ、なんかスゲェのがいたんだって?」
ほかのお客さんたちも二人のもとに近寄って、話題は“彼女”のことへ。
町のみんなでは手も足も出ない、侵蝕されたヒグマを倒してのけた銀色の触手さん。
助けられた当人たちの吹聴によって、たった一日で彼女の話は広まりつつある。少なくとも森に出入りする職の人たちはみんなもう知っているらしい。
『ノクトの森』にはいないはずの触手のモンスター。『汚濁』と戦ってくれるのか、それともただの気まぐれか。そもそも一体なんなのか。森の味方だと思っていいのか。なんて。
『汚濁』と同じく突然現れたということで、訝しんでいる人もいるけども。やっぱり、明確に猟師さんたちを助けるそぶりを見せたのが大きかったみたいで、彼らやお客さんたちのように好意的に見ている人のほうが多い印象。
「──店長さんもそう思うよなっ?」
「え、あ、うん。いい触手さんだったら嬉しいな」
わたしも昨夜聞いてはじめて知った、っていうていで会話に混ざる。
触手さんの存在を、わたしは町のだれにも話していなかった。
たぶん、良くないことだったとは思う。
奇妙なモンスターの話でみんなを不安がらせたくない……なんていうのは建前で、本当はわたし、きっと、彼女を独り占めしたかった。わたしだけが彼女を知っていて、彼女もわたしだけを知っている。二週間足らずのそんな関係が、怖いくらいに心地良かったから。彼女と二人でいるあいだは、いっそふわふわと夢見心地ですらあった。
異様だ。
わたしの中の魔女としての勘、みたいなものもそう告げている。
『汚濁』で大変なことになっている最中、こんな危機感のないことを言ってる場合じゃない。おっとりしてるって言われがちなわたしにだって分かる。
分かっているはずなのに、彼女のこととなると思考が甘く蕩けてしまう。それをどうにか抑え込もうとして、理性と陶酔の狭間で、どっちつかずな行動を取ってしまう。
ああ今だって、彼女に会いたい。
初めて出逢った瞬間の、あの衝撃といったらもう。
木々の隙間から現れた……さながら射す月の光のように、神秘的で、柔らかさと鋭さを併せ持った姿。蠢くという表現をあれほど美しく身にまとっている存在は、きっとほかにいないだろう。
触手さんでありながら人間のように情緒豊かでもあって、それがあの綺麗な体の動きで表わされる、胸が疼くかわいらしさ。
言葉はなくとも意思疎通ができる。なのに、ふとした拍子に……どこか思考の根底が、わたしの知る何者とも違うんじゃないかと思わされる、そんな雰囲気を纏うときがある。『来訪者』さんだから、というだけではない気がする。あの特異な雰囲気は。
その言いしれぬ色香が、もしかしたらわたしを少しだけ狂わせているのかもしれない。そうと分かっていても心惹かれてしまう。そんな彼女の魅力を独り占めしていたい。
これは独占欲なのだろうか。そんな言葉で片付けて良いものなんだろうか。まるで、わたしが彼女に魅入られてしまっているみたい。
「──っとと。ちょっと話し込んじまったね」
……なんて、彼女のことを考えているうちに、話も一段落ついてしまっていたらしい。
「すまねぇ、できることもねぇからって居座っちまった」
「いえいえ。こんなときだからこそ、みんなでお話するのもきっと大切ですよ」
「改めてありがとうよ、店主さん。んじゃ俺達はアイツの様子見てくるわ」
そんなやりとりで終わって、お客さんたちはみんなお店をあとにした。各々ハーブだったりアロマオイルだったり、ちょっとしたものも買っていってくれた。ありがとうございます。
「…………はぁ」
そうして静かになった店内で、一人ため息をこぼす。自分でも、なんというかその……恋する乙女みたいな甘ったるい吐息になっているのが分かってしまって、少し恥ずかしい。
彼女に会いたい気持ちを抑えるために、服の内から胸元に隠し下げていた小瓶を取り出す。
このあいだもらった彼女の花の蜜。銀色で、透き通っていて、光の粒子のようなものが揺蕩っている、ほんの少しだけの蜜。
月の光のようでもあり、彼女自身のようでもある。それをなにかの材料にする、なんてことはとてもできなくて。こうやっていつも、ひっそりと、肌身離さず持ち歩いている。
「触手さん……」
眺めれば眺めるほどに彼女が思い起こされて、会いたい気持ちは余計に強まるだけだった。




