其の二
結局、酒甕を割られた〝怒れる〟店主は引き下がり、そそくさと逃げるようにその場から消えた。
少年は、その去り際の店主に続く使用人を呼び止め、「……耳飾りを」と、返却を促してくれた。
シンヨンは、そんな流れのままに耳飾り――やはりそれは非常に高価な代物だった――を取り戻すことが出来たわけだったが、懐からきっちり〝一両〟を取り出して握らすのを忘れなかった。そういう〝腹心の友〟の是々非々の対応に、スヨンは満足もできた。
さて、事件が決着し黙ってその場を去ろうとする少年を、スヨンは呼び止めた。
そうすることを躊躇う自分もいたが、やはり礼はしておくべきだろう。
「お待ちを――」
声に反応して、少年は振り返った。
その背で射干玉の髪が踊り、白い貌がこちらを向いた。
スヨンの胸が、小さく高鳴った。
こうして真面に向き合うと、少年の貌はやはり端麗だった。〝貴公子然〟と言ってよい。
「感謝します。危うく一〇〇両を払わされるところでした」
隣にシンヨンが寄ってくると、威儀を正して並んで立った。
スヨンは思わず息をのんでしまったことを気付かれぬように、ことさら慇懃に頭を下げた。
――なにを舞い上がっているのかしら、わたし……。
そうして面を上げたスヨンは、自分を見返す白い貌になんら好意的な表情のないことに、すぐに気づいた。
五領家の次席〝黒北〟『ハン家』の長者の一人娘であるスヨンは、このような目を向けられることに慣れていない。
一気に胸の高鳴りが納まってゆくのを感じた。
* * *
一方、少年――ジュノにしても、傍目の涼やかな見かけほどに平静でいたわけではなかった。
振り返った視界の只中に入り込んできた娘に、ジュノは心躍る自分を感じた。
男物を模倣した旅装は簡素といってよく決して美麗なものではなかったが、結い上げた、豊かに波打つ蓬髪の下の顔は、ひときわに生気を放っている。
何より、まっすぐに向けられた娘の瞳には、黒曜石の輝きがあった。
物怖じのない目。
そんな目を持つ娘の顔が、いったん伏せられた。
ふと思った。…――ソルの家名を出しても、この娘の目の光は変わらないだろうか?
娘の面が上がった。
その娘の目許に〝何かを期待する〟表情が浮いているのではないかと怖くなっている自分に気付く。
〝悪い癖〟が出るだろうことを自覚したときには遅かった。
「――女連れで供回りも連れず、のこのこ河岸に入るとは……世間知らずだな」
赤南の地――チェ家の本領から中央に戻ってからというもの、〝ソル家の御曹司〟に向けられる他者の目というものがどういうものであるか、いやというほど意識させられた。周囲の誰もが同じように振る舞う。顔色を見るか、媚びを売るか……。
結局それは〝自分の立場〟にあるものを値踏みする、ということだ。
だが同じ立場にあっても、それを苦痛に感じることのないものもいる。
血を分けた姉ヒェスンは、生まれてよりずっとこの地で育ち、そういう人の関わりの中で生きてきた人物だった。だからそのような他者の目を、彼のように感じることはないと言う。〝そういう馴れ合いは、空気のようなものでしょ〟と、姉は言った。
ジュノは、七年たった現在でも、そういうふうに受け取ることはできていない。
替わりに、一つの振る舞い方――処世の術――を覚えた。
本当の表情を消し、他人に期待を抱かせないようにすること。
ときには他人の期待する自分と反対の自分を見せるようなこともする。
煩わしさから逃れるために……。
当然、そのようなことが他者を遠ざけるのは承知している。寧ろそうなるようにするためにしているのだから。
このときも、そうなった――。
娘の〝生き生きとした表情〟を形作る太めの眉が寄った。……案の定だ。
だがジュノは、こういうときの話題の転じ方を知らない。
最悪の印象を与えるだろうことがわかりながら、言葉を止めることすらできなかった。
「性悪な香具師まがいの遣り口に腹が立っただけだ。礼は要らぬ」
もちろん、言って後悔している。
だからこんな余計なことを付け足してしまった。
「――…ここはハン家のシマだが、彼の家がしっかりと目を光らせていれば、あなた達のような世間を知らぬ女連れでも安全に物見遊山ができようが……現実はこうだ」
* * *
ハン・スヨンは、目の前の貴公子が〝聞き捨てのならない〟ことを宣うのを聞いた。
それは耳に痛いことを含んではいたが、ハンの家の者として黙ってはいられない。
隣でシンヨンが小さく顔を顰めたかもしれない。彼女の視線を感じる。
スヨンは、もう一度だけ確認をすることにした。
「では、ハン家の怠慢こそが、あのような不届き者の勝手を許していると?」
少年は肯いて返した。
「結果としてはそうだ。民を治める意思が足りない」
溜息交じりに言い終えた少年が踵を返したその背中に、スヨンはこう投げつけた。
「聞き捨てなりません」
え、と、少年が動きを止めた。
のろのろと振り返ったその顔は、さすがにバツが悪そうだった。だが、何を恥じようがもう遅い。
「わたしもハンの家名に些かなりと繋がる身です。わたくしどもに詫びていただけますか」
はっきりとそう告げた。――自分がハン宗家の娘であることは伏せたが。
隣でシンヨンは、わたしがここで素性を明かしてしまわないかとやきもきしただろうか。
今日、ここへ、シンヨンと二人きりで来たことは家族に告げていない。
大丈夫よ。父さまのお叱りを招くようなことは、さすがにしない。安心して、シンヨン。
「他家をそのようにあしざまに言うのは、いかにも無礼でしょう」
少年の視線が泳いだようだ。
スヨンは辛抱強く待った。
だが、少年の口から詫びの言葉でなく長嘆息が聴こえてくるに及んで、自分の眦が吊り上がっていくのを感じることとなったのだった。
視界の中の少年は、つとこちらに視線を向けた。その表情だが、もう先ほどのバツの悪さは消えており、昂然としたものが浮いている。
「そなたの礼は拒んだ。だから私の礼も省く」
その言に呆気にとられたスヨンにまっすぐに向いて、少年は勝手にひとり頷いて言った。「――互いになかったことにしよう」
言ってその場を立ち去ろうという少年に、今度こそ堪忍袋の緒が切れた。
「本当に無礼で横柄な人ね」
自分でも驚いたくらいに、〝呆れ果てた〟という感情の滲んだ声を、少年の背中に叩きつけていた。……そう、これは〝売り言葉〟だ。
それに反応して振り向いた少年が〝買い言葉〟を口にする前に、
「年はいくつなの? 女には横柄な物言いでいいと?」 矢継ぎ早に言ってやった。
言葉を失った少年の整った顔が、いまでは間抜けに見えている。
少年の目がまっすぐにこちらを向いている。
今日はいったいどれくらい目線を合わせているだろう。
少年は、フっ、と嗤うと、やれやれと小首を振って――そのいちいち芝居がかった仕草も気に入らなくなっている…――、こちらへと歩いて戻ってきた。
長身に見下ろされる。
スヨンは黙ってその視線を睨め上げた。
「良家の娘のようだが慎ましやかでない」
少年は不躾な視線のままに言った。なるほど、これは先方からの〝売り言葉〟だ。
その〝売り言葉〟を、スヨンはすぐに返した。
「そちらこそ麗しくない」 ……もちろん〝買い言葉〟で。
「では横柄に話せ」
少年はこの流れに乗ってきた。
睨め上げてくるスヨンの視線を意に介さず、ひとを舐めた言い草で続けた。
「ああ……すでに横柄か。許そう」
――許そう……? はぁ⁉ いったいどっちが横柄よ……っ!
スヨンは唇を引き結んだ。
すぐ脇に立ったシンヨンが、表立っては表情を曇らせる。だが、その実内心で〝おもしろくなってきた〟と心躍らせてもいたのだが……。
さて、スヨンだが、昂った癇が面に顕れるのを苦労して抑えて、少年に言い放った。
「誰だか知らないけど、今日の無礼は許さない」
その怒りに燃える黒曜石の瞳は、たしかに美しかった。
* * *
ソル・ジュノは、こうなったことを後悔していた。
怒らせるべくして起こらせたのを自覚している。
目の前で怒りに燃えている娘の瞳を美しいと思う。
いまこの場で、ソルの家名を告げても、この瞳の炎は消えないのだろうか?
それを確かめてみたいという想いが湧いた。
同時に、この娘にはこのままであって欲しいとの〝想い〟と〝期待〟も湧いていた。
「…――私が誰だか知りたいか?」
娘が目を不快げに細め何かを口にしようとするのを遮り、ジュノは口早に伝えた。
「私の名を知りたくば、ここに明日また来られよ。文句があれば、そのとき聞いてやる」
娘の表情が一層きつくなった。
いよいよ面白い。
明日ここで再開したとき、正しく大領家の男子の装いに身を包んだ自分を見てもこの威勢を保てるのなら、そのときは詫びでも何でもしてやろう……そう思った。
「覚えておけよ。この顔を」
ジュノは悪戯者の微笑を敢えて隠さず、娘の耳元に口を近づけてそう囁くと、あとはもう踵を返し、大股でその場を立ち去った。
その背中を見送るスヨンの隣で、それまで黙ったままでいたシンヨンが、毒気を抜かれた声で言った。
「上品な顔立ちなのに人柄が問題だね、あの御仁は…――」
けれどスヨンは、そんな声を聴いていない。
明日、あの自意識過剰の不愉快な若者を、いったいどう懲らしめてやろうかと、そんなことを考えるのに忙しかったから。
...と、ここまで書いてみました。
こういうアジアンテイストな時代劇ってどうでしょうか? こういうのを読みたいって人いますかね?
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