其の一
タク家との婚姻話が持ち込まれ、あきらかにそれを面白がるふうの姉と父とに辟易としたジュノが気晴らしに外出した市場で事件は起こった。
「もし――」
ジュノが市場の片隅で起こった……そして起こりつつある事態を危惧して足を進めようとしたその時、場に新たな登場人物が現れたのだった。
喧騒の中でも聞き取りやすい、しなやかで、それでいて柔らかな抑揚に富む女の声だった。
「その娘は私の連れですが、いったい何をしたというのです?」
見れば、〝その娘〟――酒甕を割られた店主とやり合ている方の娘――と年のころの変わらない、やはり男の旅装姿に寄せた服装(……やはり良い生地と仕立てのもの)の〝二人目の娘〟が、人垣を割って店主の方へと進み出ようというところだった。
物怖じのない態度が衆目を集めつつあったが、当人はいっこうに気付くでもなく、自分の友人のために場を収めねばと、その顔を店主とその周囲の人工姿の男らへと向けている。
その目の表情が真摯で、少し〝美しい〟と感じた。
ジュノは足を止め、もう少し様子を窺うことにした。
「あっしらの大事な商売品を、地面にぶちまけてダメにしてくれたのさ」
娘の問いには店主ではなく傍に控えた番頭らしき男が応じた。
態とらしく肩をすくめてみせた番頭の〝悪人面〟は、まるで絵に描いたようだったが、娘の方はそんな外見に何ら頓着するでなく、友人の方を見て目で質した。
「シンヨン?」
(……どうやらそれがこちらの娘――酒甕を割った方の娘――の名なのだろう。)
「事故でしょう!」
シンヨンは「それはちょっと話が違う!」とばかりに、反射的に眦を吊り上げ、番頭の〝悪人面〟を睨め上げた。
「甕にぶつかってきたのは確かに嬢ちゃんだ。それに弁償するとも言ったろう?」
〝ひっひっ……〟と、番頭が〝悪い顔〟で嗤うのに代わり、店主の方がシンヨンを見下ろして言う。シンヨンは渋々とした表情になって、尖らせた口から小さく漏らした。
「……それにしたって、一〇〇両だなんて」
「一〇〇……」
それを聴いて目を丸くした〝二人目の娘〟が、呟くように聞き返した。
シンヨンの方は娘の方に返すのではなく、喚くように店主に嚙みついた。
「一甕一〇〇両の酒なんて〝超〟のつく高級酒じゃないかっ」
その剣幕は、その装いのとおりに男の子のようだった。
店主の方は面倒くさげに、だがその目には剣呑な光を浮かべてシンヨンに言う。
「おいおい。人さまの商売品をダメにしておきながら、いったんは弁償を口にし、それで値段を知れば難癖を……と。本当に弁償する気はあるのか?」
その言には、世に名高い〝クユヌ商人の強欲〟を地で行く厭らしさを含んでいた――それは警戒すべきことだ…――が、シンヨンにとっては、自らの自尊心を甚く傷つけたことの方が重大であったらしい。
シンヨンは小首を傾げると、自分の耳元に手をやった。
「とりあえず、いま持ち合わせがないから、まずはこれで……」
両の耳朶から外した耳飾りを店主の方へと突き出す。それはなかなかに上物の宝石を使い質の良い細工のなされた逸品だった。
――一〇両……いや、一二両はするかな。
横から娘の手許を盗み見たジュノが、ほぅ、と目を細めるほどに。
さて……。
「残りは……」 当のシンヨンはもう話をまとめようと言を急ぎ――
「いやいやいやいや…――」 それを店主は遮った。
店主は突き出された耳飾りを手に取りはしたものの、その価値を量ることはできなかったようで、後ろに控えた使用人の一人にぞんざいに放ると、シンヨンに厭らしい笑いを向け、こう嘯いた。
「――どこの領家に縁を持ってるのか知らんがね、嬢ちゃんが残りを持って戻る保証は、いったいどこにあるんだい?」 ……おそらくシンヨンを挑発している。
「必ず戻るよ!」 ……効果は覿面だったようだ。
「だからその保証は?」 噛みつかんばかりのシンヨンに、小馬鹿にしたような目線の店主が質す。
「信じてもらうだけよ!」 顔を真っ赤にしてシンヨンが返した。
「……シンヨン」
市場の往来で睨み合う二人――店主とシンヨン――に、ここで〝二人目の娘〟が声を上げた。
ジュノは、シンヨンが声に向き直ったと同時に首を横に振って返すのを見て、凡そ〝起こりつつあること〟を察した――。
〝わたしが質(⇒人質)に残るわ。どう? 名案でしょ〟
〝は⁉ ちょっと何言ってるの、それはダメ! ぜったいにダメ! そんなんだったらわたしが――〟
大方そんなところだろう……。
ことここに至って、これはもう見ているばかりではいられないと、ジュノは判じた。
* * *
ハン・スヨンは、〝我が腹心の友〟シンヨンに首を横に振られたことに、その形の良い眉根を寄せた。
シンヨンも怒り心頭――「弁償する」と言っているにも関わらずそれを反故にして逃げるのだろうと疑われたことに甚く自尊心を傷つけられたのだろう――だったが、一甕一〇〇両の高級酒をダメにされたという店主の方も冷静になる様子はない。
自分が質に残ってもいいと提案しようとしたものの、それは言葉にするより先に否定されてしまった。
――…さて、どうしよう……。
スヨンがもう一度シンヨンを向いたとき、その視界を横切る人影があった。
背は高かったが顔つきはまだ少年といってよく、女のような射干玉の髪が目を惹いた。
少年は周囲の目線をまるで気にするふうもなく、さっと場の中に入ると、店主の足元に広がったままの水溜まりを覗き込み、懐から手巾を引張出すと、それを浸して形のよい鼻梁の下に持っていった。
「…――白酒かい?」
手巾を鼻から離した少年は、店主の方へ視線を向けるでもなく訊いた。透明感と柔らかさを同時に感じさせる声音。それは大人を相手にも物怖じを感じさせなかった。
店主の方も、この闖入者に何か感じるものがあったか、唸るように応じた。
「おうよ」
少年はやはりそれを聞き流すと、今度は小指を酒の溜まりに付け、それを舌で舐めた。
「――仕込みは七回?」
「当然」
七回という数字は〝特別な酒〟を象徴するものだったから、店主は、その数字に反応して頷いていた。
少年はようやく身を起こすと、手巾を懐に店主へと視線をやった。
微笑を浮かべ、少し小首を傾げたようだった。
店主は少年のそういう挙措に面白くないような表情になったが、とりあえずここは大仰に応じた。
「――熟成は四年。正真正銘、最高級の白酒だ。……それをこの嬢ちゃんが全部こぼしやがったってわけさ」
その言葉に、ばつが悪そうにシンヨンが唇をわずかに尖がらせる。
「ほぉぅ」 少年は〝そりゃ大変な粗相をやらかしたもんだ!〟というふうに目を剥いてみせ、それからシンヨンの顔を覗き込むように言ったのだった。
「一両」
「――え?」「――…‼」
先ずシンヨンが俯いた面を上げ、次いでスヨンが丸くした目で少年を向いた。
「一両で十分だ」
少年は涼やかな声と表情でそう言って笑った。
〝育ちの良さ〟と〝人を食うかのような鷹揚さ〟の同居した表情だった。
「いいや、一〇〇両だ――」
話が〝おかしな方向〟へと勝手に進み始めたので店主が慌てて割って入った。その顔も、怒気と呆気とが同時に浮いている。
「小僧、話を聞いてなかったのか?」
小僧呼ばわりされた少年は、店主に向き直ると、鷹揚なままの口調で言った。
「本物でも二〇両がとこだし、こいつは本物じゃない……」
柔らかな物言いながら〝断言〟だった。
店主は、今度こそ剣呑な声を上げた。
「はぁ⁉」
「仕込み七回というが雑味が残ってるし香りに品がない……一年も熟成させてないだろ」
だが少年はいっこうに涼しい顔で続ける。
「一両で納得しろ」
「何言ってやがんだ小僧…――」
言葉が出なくなった店主に代わり、番頭の方が声を荒げた。
と、少年の表情が一変した。
「……白酒は禁制品だぞ。北河の交易ならばハン家の特許が必要のはずだが、そなた、交付は受けているのか?」
それまで浮かべていた〝薄ら笑い〟――そう、見方によってはそう見える…――が消え、冴え冴えとした顔つきとなって店主を睨め上げる。
「それに……」 シンヨンの傍らに佇む男を指し、低めた声で質す。
「…――そこな男と示し合わせ、世間知らずで無知蒙昧の女を嵌めようというのは、いったいどういう了見かな……?」
店主の表情に苦み奔ったものが浮く。
スヨンは〝腹心の友〟シンヨンと顔を見合わせた。
シンヨンの横の男は、さあ困った、とばかりに笑って目を逸らせる。
少年は、畳み掛けるように言った。
「――なんなら、ここで亭長(市を差配する役人)かハン家の家人を呼ぼうか。どうする?」




