其の三
月明りの下、クユヌ巫堂の伽藍の陰に、人影が踊っていた。
人影は伽藍の影から影へと伝い、人の気配をさぐりながら夜闇に身を潜めつつ先を急ぐ。
その出で立ちは巫女の纏う白い装束ではなく、夜の闇に溶け込む暗灰色の衣と褌――…。
月明りに一瞬照らされたその顔は、この日の夕刻、侵入者騒動の際に馬で駆け付けた巫女の中に居た、ソル・ジュノと視線を交わしたあの少女のものだった。
やがて少女は、神域の中心部の大伽藍の影にその身を滑り込ませると、明かりの漏れる障子窓へと視線をやった。
小さく印を切り、〝風を操って声を拾う〟ために意識を集中する。
部屋の中の声を発する存在……人の気配は三つだった。
「……神域を穢されたのです。黙っているわけにはいかないでしょう」
敢えて抑制をしたその声音は、今夕、騎馬巫女らを引率した筆頭巫女、タク・ユジのものだった。神域への侵犯というチェ家の非を糺す口上を述べた女性である。
巫堂における序列は堂主に次ぐ二位で、今日のように堂主が神域を離れているような折には、堂主に代わって巫堂を取り仕切る立場にあった。
その筆頭巫女は、五領家 第三席『タク家』の本宗家に親しい権門…――先代当主の姪、現当主の従兄妹という血筋――に生まれ、一四年前、一〇歳で巫堂に入った彼女は、〝家の教え〟に忠実で、論理的であることを好んだ。
いまも今日の出来事について報告を終えるや、巫堂として領主会議への詮議の申し立てをすべきと、理路整然と持論を展開している。
「いかにも杓子定規ではないか。領主会議でチェ家とソル家を糾弾したところで、結果は形ばかりの謝罪の言葉。……糅てて加えて五領家の恨みを買うだけだぞ」
対して、少しばかり癇の立った声音で応じるのは、クユヌ巫堂の現在の主人イム・ノユンである。
タク・ユジ筆頭巫女よりも一回り以上――一三歳――の年長の現堂主は、五領家やそれに準ずるような大領家の出身ではない。それ故に領主会議などでは〝巫堂の振る舞い〟に慎重を期するよう自らに課している、そんな人物である。
イム堂主は続けた。
「そもそも、近隣の狩場から領家所縁の者が獲物を追って迷い込むようなことはよくあることではないか。殊更に騒ぎ立てることではあるまい」
「恐れながら私はそうは思いません」
タク・ユジは正面から堂主を見て言った。その常の彼女の平淡な物言いに、イム堂主は片方の眉を上げて先を促がした。
「巫堂の権威は領家間の利害から距離を置かれるべきです。――…少なくとも〝表向き〟は……」
イム堂主はふんと鼻を鳴らしたが、タク・ユジは構わず続けた。
「権威とは〝力を示す〟か〝理を説く〟かせねば保てませぬ。今回、ソル家の嫡子は私にこう言いました――…〝神域を穢したチェ家の者を糺そうというのならば、領主会議の場で申し立てられよ〟と。つまりこれは、我ら巫堂の権威に対する挑戦です」
言い終えたタク・ユジの顔をしばし見据えたイム堂主は、続いて口を吐いた長嘆を隠さなかった。
「如何にもそうであろうな。だがソル家主導の領主会議に持ち込んだところで、むしろソル家の力ばかりが示される結果となろう」
「それは先方の勝手――」 タク・ユジはというと、蓋碗を口許に引き寄せ蓋をズラして香りを愉しんでさえみせた。
「――…ですが巫堂として〝巫堂の理〟は説いておかねば」
「ただの虚仮威しでしかない」 イム堂主は投げやりに言った。
「ですが、それこそがクユヌ巫堂の権威の源泉です」 タク・ユジは肯いて返す。
正しいものの見方である。
タク・ユジという女は、〝白西〟タク家の者によくみられる怜悧な顔立ちの儘に理詰めで事を進めるが、筋は曲げようとしない。〝理に適う〟ということを至上とし、その為に波風が立とうが体面が傷つこうが、一向、意に返さない、そういう女だ。
つとイム堂主は、タク・ユジの隣に座ったいま一人の上位巫女へと視線をやった。
いまだ一言も発していないこの女は、巫堂においてイム、タク・ユジに次する立場にある。
……今日のことはイム堂主に同道していて、直接には見聞していない。
「〝大領家の縁者であれば何をやっても赦される〟……そんなことが〝巫堂が沈黙したことで〟認められてしまうのは、たしかに口惜しいですね」
やわらかい声音のその言い様はタク・ユジよりもずっと穏やかに聞こえたが、言っていることはずっと直情的だった。
「いいだろう。やってみるがいい」
イム堂主はついに折れた。
半刻(1時間)ばかり後――。
少女の姿は神域の境界の辺りにあった。
神域と外の世界とを隔てる築地塀の一角に張り付いた少女は、しばらく周囲の気配を探るように耳を聳てていた。やがて両手を組んで口許へと持っていった。その手もとから〝ホゥホゥ〟とフクロウの鳴き声に似た音が漏れ出る。手笛による合図だろう。
しばらくすると、同じような音が返ってきた。
少女はもう一度周囲を窺うと、懐の冊簡(文字を書いた木の札を紐で束ねたもの)を塀の外へと放った。
それから、もう一度〝フクロウの鳴き声〟がしたのを確認すると、少女は音も無くその場を離れたのだった。
* * *
黄央ソル家の統領ソル・テヨンは、その朝一番の報告に激怒した。
廟堂・官衙に配してある手下から屋敷に届けられた冊簡の内容は、こうだった――
〝今朝、クユヌ巫堂が『神域への越境侵犯に対する抗議と速やかな事実確認、関係する者への処罰を求める請願』を領主会議に提出する〟との由…――。
添え書きには、昨夕、供の者と狩場を訪れたチェ家の嫡男グァンリョルが、獲物を追って神域に踏み入り、そのことを巫女に咎められた件と、その際、居合わせたジュノ――なぜ息子がそんな所にっ⁉ ――が仲裁に託け、ソルの家名を以って恫喝に及んだ、と記されている。
テヨンは冊簡を床に叩きつけると、直ちに息子を呼べと、家宰に叫ぶように命じた。
この日、クユヌ巫堂は領主会議に、神域の禁足を破ったチェ家への対処を正式に申し立ててきた。……ソル・ジュノの言をその通りに実践してみせたわけである。
そしていざ申し立てがなされると、当初の見立てと異なり、会議での対応が紛糾することとなる。
座長のソル・テヨンは(息子が当事者であるにも関わらず……)ことを穏便に済ますべく、チェ家に形ばかりの謝罪を促した。チェ家の統領ガンギュは、いち早く謝罪の姿勢を取り繕いはしたが、同時に支族であるマ族に異を唱えさせ巫堂を牽制する。それをテヨンが窘める…――。
こんな半ば儀礼じみた裁定がこれまでの領主会議での常であったが、この日は違った。
五領家次席〝黒北〟ハン家の長、デグォンが、この流れの腰を折ったのだ。
ハン家はクユヌの北部を流れる大河スワナンの水運で財を成した家である。〝世界の富の集う地〟と呼ばれるクユヌの諸領家の中でも随一の富を誇り、五領家首座の地位を狙っていると目されている。
自らも次の首座たらんという野心を隠そうとしないデグォンは、先ずハン家に親しくすり寄る中小領家の当主の一人に〝拙速な幕引き〟への疑義を呈して議場の耳目を集めさせ、その上で自らの発言を仰ぐよう仕向けた。
そうして、他の中小領家から意見を求められた、という体裁を作ってから、デグォンは重々しく口を開いたのだった。
曰く――
禁足を破ったとはいえチェ家が殊更に神域を穢そうとしたわけではない。つまり過失である。
そうである以上、ハン家としても徒にことを荒立てることを望むわけではないが……。
クユヌ巫堂の申し立てについては、むしろその場でのソル家嫡男ジュノの口上こそが問題ではないか――。
ソル・テヨンは、ハン・デグォンの曇りのない正論に、やはりそうくるであろうな、と内心でだけ長嘆息をした。
デグォンの語調は淡々としていたが、昨夕の顛末を承知――おそらく巫堂に居る身内から委細を伝えられているのだろう――の上で、この領主会議でソル家所縁の者を正しく弾劾しようとの剣呑さが、全身から滲み出ている。
テヨンは、ひょっとしたらこれは嵌められたのでは、とすら思った。
デグォンの朗々とした声が、持論を仕舞に掛かる。
「…――我ら大領家の者は、その与えられた大権を恣意的に使うことを厳に慎むべきものです。然るに巫堂の言い分によれば、ソル家の嫡男ジュノは、ソルの家名を盾に無理押しをし、巫堂が理を以って拒んだのちは恫喝に及んだという……。
事実であれば、これは由々しきこと。このようなことが罷り通れば、クユヌの〝共和〟の治世は、早晩、翳ってゆくことになりましょう」
デグォンは、テヨンの方に顔をまっすぐに向けて言を止めた。
ことが自らの息子に関わることなだけに、テヨンとしてはハン・デグォンのこの立ち回り方を座視するよりほかない。その外連に走った演出は気に入らなかったが、もっと気に入らなかったのは、デグォンの言っていることそのものが正しいということだった。
デグォンに言われるまでもない。
我ら貴族こそ〝正しき事〟を率先垂範しなければならない。
権力と地位を持つ者は、それ相応の社会的責任と義務を負うものだ。
だが今日この場でテヨンが、内心でだけ歯噛みをする理由は、貴族の自尊心からばかりではない。
誰からも後ろ指を指されることのないよう自らを律するのは〝貴き者〟の務めであるばかりでない。そうすることが貴族にとっての処世の術でもある。
ジュノがそこのところを理解して行動していれば、このような窮地に陥ることはなかったのだ。
自家の狩場から獲物を追って神域に侵入してしまったチェ家の一党を、最初から咎人として扱おうというクユヌ巫堂のやり様に疑義を呈したジュノの言い分も解からないではないが、望む結果を得るまでの話の進め方は如何にも拙かった…――。




