其の二
「神域を血で穢すというこの暴挙、如何にして贖われるか」
馬上の巫女は、いっそ冷たい響きの声でグァンリョルを糾弾する。
己が失態を自覚するグァンリョルは、この場をどう切り抜けるのが最適か思案を巡らせたが、良案は浮かんでこない。やはりここは、赦しを請う以外はなさそうだった……。
グァンリョルの視線が馬上の巫女から下げられたときだった。
「何を騒いでおいでか?」
誰にともなく尋ねるふうのそのやわらかい声は、若かったが落ち着いていて、そしてよく通った。
その場の誰もが声の主を捜すこととなり、ほどなくして灌木の陰を回って騎馬の若者が姿を現した。自ずと衆目が集まる。だが、誰もこの若者の素性に思い当たる者はいないようだった……一人の巫女を除いて。
若者の装いは麻衣に葛褌といった粗衣だった。とてもこの神域に似つかわしいものではない。そもそもクユヌ巫堂の神域は禁足の地。巫女以外の立ち入りは禁じられている。このような市井の装いの者が足を踏み入れるなど言語道断であった。
だが男の見目は、そのような〝装い〟を意識させない、貴公子然としたものがあった。
よく見れば色白で、馬上からでもそのすらりとした長身が判る。
黄色い布で束ねられた射干玉の髪が一際目を惹いた。
その整った白い貌に浮かんだやわらかい微笑は、否応なく、育ちの良さを物語っている。
「な、何者か?」
見惚れるふうな者の多い巫女の中から、ようやく一人が若者を誰何し、咎め立てる言葉を発した。
「ここはおまえのような卑賎の者の立ち入ってよい場所ではな――」
「――〝黄の央〟……ソル家が嫡男、ジュノである」
それを遮った声は決して大きくも鋭くもなく、むしろ穏やかなものであった。
が、その声には、他者に軽んじられることに慣れておらず、またそれを許すことのない響きがあった。
白装束の巫女らは、息をのみ、目線を交わし合う羽目となった。
そしてチェ家の娘セミも目を見開き、グァンリョルもまた言葉を失ったのだった。
「父の病に効く薬はないかと巫堂の薬園をお訪ねしようというところ、偶々この騒ぎに行き合わせた次第…――」
気後れし、言葉のない巫女らを前に、若者――ジュノは尤もらしい委細を告げた。
いや、一人だけ微かに目を伏せた巫女がいたが……誰も気づいてはいない。
そうして腰に手挟んだ小剣を鞘ごと抜いて、それを手近の巫女へと放った。その剣の把頭にはソル家の家色である〝黄〟の剣穂(吊り下げ紐)があり、剣格(鍔の部分)にはソル家を表す〝麒麟〟の意匠が嵌め込まれていた。凝った造りの豪奢な剣である。
剣を受け取った巫女は、チェ家の一党に向かって最初に口上を述べた巫女を振り見やった。
巫女二人は頷き合い、剣を受け取った巫女はジュノの側まで馬を進めて、受け取った剣を恭しく持ち主に戻す。
「ソル家のジュノさまであること、承知いたしました」
返された小剣を受け取ったジュノは声を潜めるようにしてそう言う巫女に視線を向けることなく、グァンリョルと口上を交わした巫女――おそらく彼女が、巫女らを引率する立場なのだろう――に声を放った。
「ソルの家名と私の顔に免じ、此度のこと、ひと先ず収められよ」
それには巫女らだけでなくチェ家の者らも、息をのみ動きを止めた。
それは五領家 首座の権勢を盾にとっての恫喝であったから。
……尤もこれは、わがままいっぱいに育てられた貴族のドラ息子の所業、とも言う。
「それは出来かねる。神域の禁足に関わる処遇は巫堂の勝手。そもそもクユヌ巫堂は領主会議に出席を許され、五領家とは対等の立場。首座ソル家といえども一領家の指図は受けかねる」
引率の巫女は忌々し気な声音でそう一気に応じた。
ジュノの方は整った面差しに難しい表情を浮かべ、切れ長の目を横目に伏せた。
「そうか……。これが一番穏便な解決だと思ったのだが。……やはり指図か、これは」
独りごちるように言って、それから引率の巫女に向き直ったときには、その表情も声音も。元の〝他者に軽んじられることを許さない〟ものに改まっていた。
「確かに巫堂は五領家と同格。しかしそれは五領家からしてみても同じことです。五領家所縁の者を裁こうというのであれば、ソル家は領主会議での詮議を求めます。巫堂は領主会議の場で正式に申し立てられたい」
正論であった。
さらにソル・ジュノは続ける。
「もし、いま敢えてチェ・グァンリョルを罪人として搦めようというのなら、私はことの次第を横暴と、領主会議に訴える所存…――如何か?」
それは今度こそ、正真正銘の〝恫喝〟であった。
結局、巫女らはチェ家一党をその場で搦めることはせず、引き上げていった。
その時、引き上げていく馬上の巫女らの中に居た、一六、七歳くらいの――まだ若い巫女見習いだろう――少女が、ちらとソル・ジュノの顔を窺うように頭を小さく振り、ジュノもまた少女の視線に応えるように小さく顔を向けるのを、グァンリョルは見逃さなかった。
* * *
「さて――」
巫女らの後ろ姿を見送って馬首を返したソル・ジュノは、チェ家の異母兄妹へと視線を巡らせ――…グァンリョルの、こちらを凝視する視線とまともにかち合うことになった。
ジュノは、とりあえず愛想笑いを浮かべて見せる。
「…………」
「ジュノ……、ソル・ジュノか?」
グァンリョルは近づいてくると、顔を寄せ覗き込むようにして訊いてきた。
それでジュノは、鬱陶しげに腕を振り、グァンリョルの精悍な顔――…いまは現実を受け入れるのに難儀するふうであるが――を遠ざけた。
「そうだよ――」
その声音はそれまでの〝外交向き〟のものではなかった。
それまでのような取り繕った表情でない〝気の置けないものに向けた〟と判る少年の表情のジュノが、グァンリョルを見返して言った。
「私の顔、まさか見忘れたか?」
「…………」
グァンリョルの表情がその〝まさか〟であるらしいことを読み取り、情けない表情になったジュノは後ろに控えるセミを見る。
だが、そのセミの表情もまた、異母兄同様、驚き一色であることにジュノの少年の顔は苦笑いとなり、ため息を吐くばかりとなったのだった――。
ソル家のジュノ、チェ家のグァンリョルとセミの三人は、旧知の間柄なのであった。
三人の出会いは一〇年前に遡る。
その年、ジュノは七歳で母を喪った。流行り病と聞いている。
当時、ジュノの父テヨンは家督争いの渦中にあり、幼いジュノの養育に感けることができない状況であった。思案した父はチェ家に嫁いだ実妹の許に息子を預けることとした。それがセミの母である。
セミの母ソル・チョヨンはチェ家の正妻として二人の男児とセミを生んでいた。チェ家の家風では、男子は支族たるマ族の有力な家の許で養育される。そのため二人の男子は物心がつくや手許から離され、手ずから育てることを許されたのはセミ一人であった。
そのチョヨンは兄の妻の生んだジュノを引き取り、セミと共に育てることを決めた際、セミに扈従(貴人に付き従う人)をつけた。それがグァンリョルである。
グァンリョルの出自には曰くがあった。
先にも記したようにグァンリョルとセミは異母兄妹。父はチェ家の統領ガンギュである。
三男として生まれたガンギュはもとから嫡子ではなく、若い時分に、家格や政略といったものに縛られずに恋をした。
相手はチョヨンとは異なるソル家の娘。傍系の端に連なる家に生まれた女であったが、嫡子である兄が健在であった時分にはその家格のつり合いが問題となることはなく、二人は婚儀を迎えられるはずであった。
だが嫡子であった長兄とすぐ下の次兄が相次いで不慮の事故に斃れたことで、二人の運命は引き裂かれる。
大領家の嫡子となったガンギュの妻にはふさわしい家格の女でなければならぬとなり、その結果、ソル本家よりチョヨンが迎えられることとなった。
女には妾としてガンギュの側に残るという選択肢もあった。
しかし、この女はそれを良しとせず、静かに身を引いた。女はすでにガンギュの児を宿しており、万が一生まれた児が男子であれば、跡目争いの種となるとでも考えたのであろうか……。
今さら実家に戻ることも出来ずにいた女は、マ族のミンガンという男に保護される。ミンガンは行く当てのない女に出産の場を提供し、そこで生まれたのがグァンリョルである。
我が子を産み落とした女は力尽きて、遺された稚児はミンガンの一族に育てられた。
…――時は経ち、マ族のうちに育ったグァンリョルも九歳となる。
養父として育てたミンガンは、領家の血筋を引くこのグァンリョルという貴種には、せめて相応の教育を施してやりたいと思っており、主人として仕えるガンギュに出生の秘密を明かし便宜を求めた。
この事実を口外しないことを条件に、然るべき領家との養子縁組を求めたのである。
話を聞かされたチョヨンは養子縁組先を捜すことはせず、すぐさま手許で養育することを決めて、グァンリョルにとり異母妹であるセミの扈従に抜擢したのだった。
チェ家の血胤である出自を伏せたのは、やはり家督争いの種となることを恐れたからだろう。
だから、当時五歳のセミは自分に宛がわれた扈従の少年――九歳のグァンリョル――が血を分けた異母兄であることを知らなかった。
ほどなくしてジュノが引き取られてくると、三人はチョヨンの許で兄妹のようにして育った。七年間ほどである。
三年ほど前、ジュノはソル家に戻り、その後、セミの二人の兄が相次いで夭折したことでグァンリョルがガンギュの跡目を継ぐ者として認知されることとなった。
セミはグァンリョルの異母妹ということになり、〝女主人と扈従〟ではなくなったのだった。
とまれ、そういうわけで三人は幼馴染、幼少の頃は兄妹のように育った仲であったのだが…――
いま三年ぶりに再会したグァンリョルは、ジュノを見て、それがはじめて会ったあの日、不用意にも「女みたいだ、おまえ」と言ってしまって眦を吊り上げさせた細面の少年であったことに気づけなかった自分自身に、心底呆れているようであった。




