俺は吸血鬼の従僕
怪物の王————吸血鬼。
そう呼ばれる怪異が、この世界には存在している。
人間を凌駕する身体能力と高い再生能力、血液を操るという異能を有する夜の王。
その容姿は人と変わらない。いや、人間の血を求める彼らの容姿は、人を魅了するための進化か。
皆、傾国を思わせる美男美女であるという。
一年前。
俺は、そんな美しい吸血鬼の少女と……恋に堕ちた。
だが、人間と怪異の世界は決して相入れることはない。
二人がどれだけ幸せであっても、必ず、終わりは訪れる。
彼女が……怪異であるかぎり。
俺が……人間である限り。
◇
「……広いな」
六畳間……。
決して広くはないこの部屋で、俺は大の字に寝転がり、朝からずっと天井を眺めている。
数日前まで、ここには同居人が一人いた。
態度はでかいし、家事の手伝いだってしたことはない。
それでいて、人一倍よく食べたし、よく飲んだ。
本当に、どうしようもない女だった。
……それなのに。
あいつがいなくなって、狭いはずのこの部屋が、とたんに広く感じるようになった。
何も手に付かないというのはこういうことなのか……。
春休みも終わりが近づく三月の末。
溜まった課題をやる気にもなれず、俺はゆらゆらと上がる煙草の紫煙を眺めながら……ただ時間だけが過ぎる毎日を送っていた。
もう、あいつが帰ってくることはない。
分かっているのに、ふとした時に、視線は玄関を向いていた。
「はぁ……」
しばらく玄関を見つめて、ため息を吐いていた……そんな時だった。
ピンポーン!
突然、玄関の呼び鈴が押され、聞き覚えのある電子音が聞こえてきた。
もしかして……と一瞬期待が込み上げ、俺は急いで玄関に向かった。
すぐにでもドアを開けて、「おかえり!」と言いたくて、気持ちが逸っていた。
だけど、俺がドアノブに手をかけるよりも早く。
鍵の掛かっていたはずの扉から、メキィ……という金属の軋む嫌な音が響いた。
「え?」
予想外の出来事だったが、続くさらなる予想外によって、俺の顔からは、たちまち全ての表情が剥がれ落ちていった。
「————ぱんぱかっバァあああン!」
扉が勢いよく蹴破られ、桜の花びらや鳩が舞った。
締めとばかりに、エレキギターの轟くようなディストレーションが、耳を貫き脳を揺らした。
あぁ……こんな妙に派手な登場を好む奴は一人しかいない。
「……相変わらずふざけやがって」
「やぁ! いつも通りだけど……今日は随分辛気臭い顔をしているね」
「アリス……」
扉の前に立っていたのは、同居人の少女ではなく。
怪奇探偵を自称する、同級生(?)の、猫宮アリスであった。
なんという間の悪さか……。
俺は扉を壊されたことより、勝手な期待を抱かされたという行き場のない怒りのこもった視線を彼女に向けた。
「はぁ……顔に出過ぎだよ。まだ一月経ってないだろう?」
「うるせぇな……何の用だよさっさと帰れ」
「……用を聞いておいて帰れとか……辛辣すぎやしないか。一応君に耳よりの情報を持ってきたんだぜ? もっと歓迎してくれてもいいだろ」
「分かった。十秒以内に喋って帰れ」
「はいはい……分かったよ。じゃあ端的に。彼女、緋紅 夜宵の居場所が分かったよ。————君の大切な恋人の、ね。」
「————ッ」
時が止まった。
そう錯覚を起こすほどの衝撃が、アリスの一言にはあった。
緋紅 夜宵……それは、数日前にいなくなった同居人の名前である。
この数日、考えうる限りの場所に行ってあいつを探した。
探して……探して……探し尽くした。
それでも、俺は、あいつの痕跡すら掴めなかった。
「どうする? 探しに行く? それともやめておくかな?」
「……」
行く……そう即答したかったが、できなかった。
アリスの情報は、確かに魅力的だった。
今まで衝動的に、何も考えずにあいつを探していた。
……望めばすぐに、あいつの居場所が分かる。
知りたい……知りたいはずなのに……。
……今、俺は、あいつを迎えに行った後、自分に降りかかるであろう、あらゆるリスクを想像してしまっている。
「やめておくのも手だよ。君だって、いつも言ってたじゃないか。『厄介事に巻き込まれるのだけは勘弁だ』ってさ。」
「……あぁ、確かにそうだな」
確かに頭では……それが正解だって分かってる。あいつを迎えに行ったところでなんになる。怠惰でわがまま、癇癪持ち! その上、警察も頼れないような厄介ごとの塊だ。何度も死にかけたし、リスクを背負うだけで、百害あって一利なしだ。
頭では分かってる……。
だけど————。
「それでも、俺はあいつを迎えに行く。行かなきゃいけないんだ」
俺の答えを聞いて、彼女の声音がさっきまでのおどけた調子から一転した。
部屋の気温が二、三度下がった様に感じられ、全身の産毛が逆立つようだった。
「分かっているの……? その意味が」
「ああ」
「もう……後戻りはできないよ?」
「……ああ」
やっぱり……アリスは最初から俺に、夜宵への未練を断たせたかったのだ。
夜宵……いや、吸血鬼なんて危険な存在と関わらず……普通の人間としての生活を送る、そんな人生を選ばせたかったのだろう。
俺たちなんかよりも、遥かに多くの悲しい結末を見てきたからこそ。
「もう……止めても無駄なんだろうね」
「……悪い」
「いいさ。 でも……もう知ってるとは思うけど、これだけは覚えておいてね。もしも君が、人に仇なす魔性の獣に堕ちた時。僕は……君を殺さなくてはいけない」
「分かってる。その時は、頼む」
アリスの静かで明確な殺意に、俺は口では平然としていたが、額には脂汗が滲んでいた。
「うん、任せてよ! でも君はそうならないように頑張ってよね!」
「……善処はするよ」
アリスは「はぁ……」とため息を吐き、小さく目を細めた。
どこか悲しげで、諦めた様な表情を浮かべていたが、アリスは……少しだけ、嬉しそうに微笑んだ様にも見えた。
◇
アリスに居場所を教わり、向かったのはアパート近くの商店街。
あまり夜宵と訪れたことのない場所だ。
思い出といえば、散歩の途中。ここで二人で肉まんを買い食いした事があるくらいか……。
目的の商店街の入り口で、徐にアリスは立ち止まると、くるりとこちらに首を傾けた。
「じゃあ……私は帰るよ。夜の営業があるからね」
帰るでいーだろ。意味深なこと言ってんじゃねーよ……。
夜の営業というのは、卑猥な意味ではなく。アリスが自称する怪奇探偵とやらの仕事である。
俺は事情を知っているため、特に思うこともないのだが……。
どう見ても高校生……いや、アリスの容姿(主に身長)なら中学生かそれより下に見えなくもない。そんな女の子の発言を聞いた、通りすがりの主婦たちの視線が痛い……なぜアリスではなく俺の方を睨むのだろうか。
「そう言えばそうだったな……ありがとよ」
「ふふ、まぁあとで情報料はもらうけどねー」
「金とんの!?」
「あたりまえだろ? 慈善事業じゃないんだ、誰がタダ働きなんてするものか」
「く……へいへい。分かったよ」
「くふふ、まいど〜。また怪奇探偵アリス様の力が必要な時は、【旧部室棟】事務所の方まで!」
情報料と言っていたが、いくら払う羽目になるのか寒気がする。
アリスはこうやって、情報を売ったり、時には依頼されて怪異の調査から退治を請け負うこともあるのだとか……。
しかも、依頼を持ち込む事務所というのが、俺の通う高校の使われていない旧部室棟なのである。
勝手な商売に加えて、なんらかの手段で部室棟の取り壊し工事を中止に追い込んだりと、好き勝手にしている。
そんなことをしてるからか、一部では、『旧部室棟の魔女』とか言う怪談話が広がっているらしいが、本人は「客が増えた」と喜んでいた。
もう呆れるしかないのだが……アリスの商売には助けられたことも多いし、文句は言えない。
「んじゃな! 〜♪ 〜♪ 」
もう用はないのか、アリスはいつもの変な鼻歌を歌いながら、赤く揺れる陽炎の中へと走っていく。
一瞬、首にかけられた懐中時計が翻り、小さく陽光を反射しているのが見えた。
アリスはなぜ、あの止まった懐中時計をいつも身につけているのかと思い、俺は小さく首を傾げた。
「あ、ドアの修理代」
思い出して振り返るが、アリスはもう見えない。
もしかしたらこれを予期して早めに退散したのかもしれないが……まぁ、また今度請求するとしよう。
「はぁ……。 にしても、半年でだいぶ寂れたな」
以前は、この商店街ももっと人がいて、活気があった。ちょっと前に、近くにスーパーができたから……今はもう、店主たちの騒がしい売り文句も聞こえない。
ほとんど思い出はない場所だったが、こうして歩いてみると、ほんの少しだけ懐かしさと寂しさを感じた。
日が傾いて、空は夕焼けに染まっている。
前に来た時も、こんな時間だったと思う……。
あの時あいつ、自分の肉まん食い切ったくせに食い意地はって……俺の肉まん横取りしようとした挙句。「アッチャッ!」って盛大に舌やけどして慌ててたっけ。
想像して、自然と口から笑みが溢れた。
「あ……思い出した。俺が初めて買い物したのも、この商店街だったけ」
進むほどに、景色は移り変わっていく……いくつも、シャッターの締め切られた店が並んでいる。
記憶の中の活気付いた明るい景色が過去のものだと、突きつけられている気分になった。
もしかしたら……俺はあいつに会えないのかもしれない。俺とあいつの関係も、このシャッターの閉まった無数の店のように、もう取り戻せない過去の幻想へと変わってしまうのかもしれない。
そんな考えが浮かんで……恐怖に立ち止まりそうになる。
足がぶるぶると震えて、商店街を吹き抜ける風がやけに冷たく感じられた。
それでも脳裏によぎるのは、彼女と出会ったあの日の光景。
騒がしい商店街の片隅で、うずくまるあいつと目が合ったあの瞬間のことを、今でも鮮明に覚えている。
親の離婚、親権の押し付け合い。
金切り声に鼓膜を揺らし、八つ当たりから必死に命を守る。
生きたい理由もないのに、死ぬのは怖い、でも死にたいと考えた。
そんな地獄のような日々が続き、ついには一人暮らしを強制された。
毎日が虚無に塗れていた。
でも、夜宵と出会ったあの日から……俺の日常は変化していった。
なぜか夜宵が居候になって。
なぜかアリスと出会って……夜宵が吸血鬼だって知った。
吸血鬼のくせに血は吸わねーし、日光は平気だしで、ずっと冗談だと思ってた。
ただのだらしない女。そう思って、接してきた。
最初は面倒に感じていたけど。
泣いて笑って怒って笑う……そんな毎日を過ごす中で、あいつが、俺の日常の一部になっていった。
俺の中で、あいつはかけがえの無い……大切な存在になった。
それは……あいつにとっても同じだったと思う。
だから俺は……あいつを、手放すべきじゃなかった。
独りにするべきじゃなかった。
俺は……進まなければならない。俺は、絶対にあいつに会わなくてはならない。
だから、俺は震える足を前に出した。
一歩……また一歩。
カツン、カツン……と、乾いた音だけが商店街に響いていた。
そして————。
静寂の中……その声は聞こえてきた。
風に吹かれれば消えてしまいそうな小さな声だった。
だけど……一年間、毎日のように聞いてきた、透き通るようなその声は、はっきりと俺の耳に届いた。
「肉まん一個くださいな」
それは————空っぽの商店街には似つかわしくないのんきな声だった。
だけど、それはこの世界でたった一人の大切。……俺だけが知っている、あいつの声。
「————……夜宵」
いつの間にか。
俺は……届くはずもないのに、あの声の方へ手を伸ばしていた。
「燐、なんで……」
俺に気づいて、夜宵は目を見開いて固まった。
肉まんを受け取ろうと伸ばした手は、途中で止まっている。
帽子を目ぶかに被っているが、そこにいるのは間違いなく俺の知っている夜宵であった。
「ひ、久しぶり、元気だったか……?」
……顔色が悪い。
目の下にはくっきりと隈があり、着ている服はシワが目立ち少し薄汚れている……お世辞にもまともな生活を送っていたとは思えない。
夜宵は一瞬、嬉しそうに微笑んだが……すぐにその表情は恐怖に塗りつぶされて暗く沈んだ。
「ッ来ないで!」
「夜宵……俺は————」
「私は、君を傷つけたくない……ッ だから————ごめん」
近づこうとした瞬間、夜宵は逃げた。
土煙が舞い上がり、飛んだ帽子の中から長い黒髪が顕になる。
「待って!」
俺はすぐに後を追って駆け出した。
夜が近づき、ちらほらと増え始めた人ごみを掻き分けて、遥か前方の夜宵を追った。
でも……夜宵は吸血鬼だ。
体の作りからして人間とは違う。
虎と赤ん坊を比べて意味があるのか、そもそも同じ土俵にすら立てていないだろう。
それと同じだ。
追い付こうという考え方自体、根本から間違っていた。
「ハァ……ハァ……」
どんどん、彼女との距離が広がっていく。
走っても、走っても……差が縮まることはない。
疲れが広がり、全身が重い。
でもそれ以上に、彼女に拒絶されたという事実が重しになって、さらに俺の足を引っ張っている。
「くそッ」
人混みを抜けると、もうそこに夜宵の姿はなかった。
「はぁ……」
話もさせてもらえないとは思わなかった。
もしかして……夜宵は、本当は帰ることを望んでないんじゃないか?
また探して、見つけたとして……また逃げられるんじゃないのか。
探すという選択も探さないという選択も……どちらを選んだって、結果は変わらないのかもしれない。
だったら……もう、これで終わり。それが一番いい選択なのかもしれないな。
「結局……アリスの言うことが正しかったのか」
諦める……俺の中で、その選択が確定しかけていた。
その瞬間、心臓の奥底に微かな灯りが灯った。
そうだ、一ヶ所だけ……夜宵が行くかもしれない場所があった。
思いついた時には、もう身体は走り出していた。
あいつがそこにいるという保証はどこにもない、
あるのは……そこにいなかったら、もう諦めるしかないだろうという事実だけだ。
恐い……それでも、あいつが待っている可能性がコンマ1%でもあるなら、俺が行く理由には十分だった。
◇
「ひっく……あぁ、私、何やってんだろ」
公園のコンクリートの中から、少女の啜り泣く声が聞こえてきた。
コンクリート製の丸いドーム型の遊具。名前は知らない。
どこかに穴が空いていて、そこから中に入る……子供達の秘密基地だ。
俺は、ゆっくりと近づき、穴の中を覗き込んだ。
ふんわりと懐かしい煙草の香りが鼻を抜け、胸の奥でがんじがらめに絡まってた鎖が解けて、安堵と恐怖が一気に溢れ出した。
「やっぱり、ここにいた……」
「……“燐”?」
「うん」
「————ッ」
「待て」
俺の顔を見て、また逃げ出そうとした夜宵の腕を掴み、俺は夜宵の隣に腰掛けた。
「……離して」
「逃げるからやだ」
「逃げないから、離して」
「次逃げたら、俺自殺するかもな」
「!? ……卑怯」
夜宵の非難するような視線が刺さる。
本気で逃げようと思えば、ちょっと強く腕を振るだけで簡単に逃げ出せる。
それをしないのは、人間の俺を傷つけたくないからだ。
結果的にだろうと俺が傷つく可能性があるなら、こいつは逃げられない。
こいつはそういうやつだ。
「はぁ……」
夜宵は深いため息を吐いて、諦めたように肩をすくめ、懐から煙草の箱を取り出した。
白の箱に特徴的な赤い丸。
銘柄は相変わらずの「ラッキーストライク」のようだ。
「なぁ、俺にもくれよ」
「……未成年でしょ?」
「これ教えたお前が言う?」
「……ふふ」
「はは」
夜宵が火をつけてくれた煙草から、懐かしい香りが立ち上る。
俺たちはただ、並んで煙を吐いた。
以前と同じように、何も言わずに。
このまま永遠に、二人で煙草を吸っていたい。
そう思えるくらい、この沈黙は心地よかった。
だけど、俺には聞かないといけない事があった。
聞きたいことはたった一つしかないのに、それを聞いてしまうと……もう一生、こいつとこんな時間を共有できなくなる気がした。それがとても怖くて。俺は、唇を震わせながら、しばらく目の前の煙草を見つめていた。
「……なぁ」
「なに?」
「なんで……いなくなったんだよ。それも黙って」
夜宵は一瞬、動きを止めて……それから、申し訳なさそうに顔を伏せた。
「……ごめん」
「いや、責めてるわけじゃ」
「私は……燐の側には居られない」
「それって、俺との暮らしが嫌になったとか?」
「違う!」
「じゃあなんで……」
「私がいたら、燐は不幸になる。……死んじゃうかもしれない」
「不幸って……もしかして、怪異殺しの件か?」
一ヶ月前、俺はとある男に襲われた。
そいつは怪異殺しと名乗る、吸血鬼なんかの怪異を殺して、その死体なんかを売るロクデナシだった。
俺は人間だが、吸血鬼のそばにいるってことで、眷属に間違われ、攻撃された。
その時の傷はそこまで重症じゃなかったが、それから少しして夜宵は俺のもとから居なくなった。
「あの時、俺が怪我したのは、別にお前のせいじゃないだろ。あの件でお前が思い詰める必要なんてッ————」
「————違う! ……違うの」
顔を上げて、怒鳴るように否定した夜宵の目からは、大粒の涙が溢れていた。
表情には、悲しみを覆い隠してしまうほどの怒りの色が浮かんでいた。
でもその怒りは……俺に向けられているものではない。
「あの時……傷ついた燐を見て。燐の血を見て。私……『美味しそう』って思った。燐を食べたいって……血を飲み干してしまいたいって欲求が溢れてきた。気づいたの、私、燐とは違う。吸血鬼だから、人間の燐とは居られない。だから離れないといけないの……私……燐を食い殺したくないよ……」
手で顔を覆い、震える夜宵の姿は、泣きじゃくる子供のようだった。
「今も、ずっと……頭の中で声が聞こえるの、『人間を喰らえ』って。これはね、吸血鬼、ううん……怪異の本能だと思う。
どこまで行っても、怪異は……人間と相入れることはないんだよ」
それだけ言って……夜宵は黙ってしまった。
だが————俺は夜宵がなぜ落ち込んでいるのかわからなかった。
「なぁ……それで終わりか?」
「え?」
「うちに帰れない理由はそれだけか?」
「う、うん」
「だったらさ! 俺がお前の眷属になれば解決じゃねーか!」
「はぁ!?」
人間と怪異は相入れない……? だからなんだ。
そんなの、人間辞めれば済む話じゃねーか!
「何言ってんのさ! 人間をやめるって……そんな軽々しく言っていいことじゃない! 下手したら、またあの怪異殺しみたいなのがくる。それに今度は、半殺し程度じゃ済まない!」
「だからなんだよ? そんなもん、俺が強くなれば問題ないだろ」
「そんな簡単に……」
「お前はどうしたいんだ?」
いつまでも結論を言わない夜宵に、俺は切り裂くように言った。
「さっきからずっと、俺のことばっか。いつものお前らしくもない……リスクやらなんやらは、後で考えればいーだろうが重要なのは、今、お前がどうしたいかだ!」
「私……?」
「俺とあのオンボロアパートに帰るか、このまま一人ホームレスみたいな生活するのか。お前が決めろ」
「私は……」
夜宵は少し考えるように目を瞑り、そして————。
「私は……帰りたい。燐と、あの家に」
吐き出すようにそう言った。
「よし。決まりだ!」
夜宵が泣き止むのを待ってから、俺たちは眷属化の儀式を始めた。
儀式と言っても、夜宵が俺の首に噛みつくだけという、お手軽なものだ。
「本当にいいの?」
俺に覆い被さるような体勢で、夜宵は言った。
「いいって。別に人間の自分に未練はねーからよ」
俺の覚悟は変わらない。人間としての人生より、俺は怪異として、夜宵と二人での人生を選ぶ。
そこに微塵の後悔もない。
「分かった————ごめんね」
「謝んなよ……」
俺の首筋に、夜宵の犬歯が食い込み……プスっと、異物が侵入した不快感と、少しの痛みを感じた。
何か、血液以外の液体が血管内に入り、全身を回る。
そして、変化は突然現れた。
今まで感じたこともないほど、強力な睡魔に襲われた。
「う……あれ、なんか……眠く」
これが吸血鬼になる行程かと思っていた。
だが、続く夜宵の言葉によって、それは俺の勘違いであったことを知り……同時に、俺が夜宵に嵌められたのだと理解した。
「吸血鬼の体液にはね、いろんな効果があるの。魅了に催淫……それに、誘眠効果」
「なん、で……」
瞼が重くなる……閉じるのが、止められない。
「ごめんね……吸血鬼が眷属を作るには、条件がある。それは、相手が捕食対象になる前じゃないといけないの。私の本能は、もうすでに、燐をその対象にしている。だから……もう、遅いの」
「待って、俺は……まだ」
「目を覚ましたら……私のことなんて忘れて、新しい人を好きになってほしい。いや……それは少し寂しいかな?」
「く、そ」
「じゃあね、燐」
瞼が落ちきり、俺の意識は……微睡の中に消ええていった。
だが、瞼が落ち切る刹那————。
一瞬見えた彼女の表情からは、どこか悲しげで、どこか覚悟を決めたような何かが伝わってきた。
「……う」
そして目が覚めると……そこに、夜宵の姿はどこにもなかった。
穴から差し込む日差しに目を覆い。
ドームの中を見回した。
「夜宵……?」
あいつの姿はどこにもない。
あるのは……一面に広がる灰の山。
あぁ……そうか。
俺は、間に合わなかったのか……。
あぁ……どうすれば良かったのかな。
俺はまだ……何も……お前に、伝えられてないってのに。
灰が風に吹かれて消えていく。
夜宵の姿はどこにもない、涙の跡も……乾いて消えた。
俺は結局、最後まで……お前になにもしてやる事はできなかった。
あいつが、何を思っていたのか。
俺はどうするべきだったのか……その問いに答える者は、もうそこにはいない。
公園のコンクリートの中からは、ずっと誰かの嗚咽が漏れている。
コンクリート製の丸いドーム型の遊具。名前は知らない。
穴の空いた……子供達の秘密基地。
二人が出会った思い出のその場所で、あの吸血姫の従僕は……いつまでもあいつを待っている。




