第11話「金曜の夜にもう一度」
金曜の夜。仕事を終え俺はひとり歩いていた。
行き先は決まっていた。あの居酒屋だ。
紗英と何度も通った、いつも温かく迎えてくれるあの場所。
以前訪れたときには、イタリアンバルに姿を変えていた。
だが、今日はどうしても確認したかった。もし、また店が戻っていたら——。
期待と不安が入り混じったまま、路地を曲がった。
そこにあったのは、紛れもなく、あの居酒屋だった。
木の看板。丸い赤提灯。引き戸の擦れる音と、出てきた客の笑い声。
間違いない。
思わず立ち止まり、目を見開いた。
俺は、深く息を吸ってから、その引き戸を開けた。
「——おひとり?」
店員の声に頷き、カウンターに通される。
いつもの場所。紗英が好んで座っていた、端の席。
グラスのビールが運ばれてきた。
乾いた喉に流し込み、ふと視線を横にやった。
「先輩」
その声に、心臓が跳ね上がる。
隣の席に、彼女はいた。
海野紗英。
少し短くなった髪。
柔らかな表情。
まるで、何もなかったかのように、そこに座っていた。
「……紗英」
「うん」
言葉が出てこなかった。
会いたかった。
本当に——
紗英は笑った。
「なんだか、懐かしく感じる。」
「……ごめん」
とっさに出た言葉はそれだった。
「ううん。謝るのは私の方かも」
紗英は、ビールを一口飲んで、ゆっくりと話し始めた。
「私ね、あのあと、あなたのことばかり考えてた。勝手に決めつけて、勝手に傷ついて、勝手に逃げ出して……」
「俺も。自分の不安ばかりで、ちゃんと向き合えなかった」
「……でも、ね。私、あれからいろいろ考えたんだ」
彼女の声は落ち着いていて、それでいてどこか優しかった。
「先輩と別れてからなんか夢の中で生活しているみたいだった。そこでは先輩と出会わなかった世界で、私には旦那さんがいて子供がいて…」
「……うん」
「そこでも私はたまに先輩を夢で見てた。夢の中みたいな世界で夢を見るって変だよね」
「その夢の中でね。ずっと後悔してたことがあったの。最後に飲みに行こうって約束。それを破って私はいなくなっちゃった」
「いや、それは俺のせいで…」
「ううん。先輩のせいじゃないよ」
「いや…」
「でも、また会えるって信じてた」
店内のざわめきが、少しだけ遠く感じた。
紗英の声だけが、はっきりと胸に届いていた。
「ねえ、先輩。あなたは今どんな気持ち?」
その問いに、俺は即答できなかった。
けれど、心の中には確かに言葉が浮かんでいた。
それを、形にする勇気が——もう少しだけ、欲しかった。
* * *
その夜、ふたりで何杯も酒を飲んだ。
たわいのない話。
思い出話。
夢の中の話。
時計の針が深夜を回っても、俺たちは席を立たなかった。
まるで、時間だけがそっと止まってくれているようだった。
帰り道、店を出て並んで歩く。
風は少し冷たかったけれど、それすら心地よく感じられた。
「また、こうして会えたの、不思議だね」
紗英の言葉に、俺は頷いた。
「……うん。でも、俺は、ちゃんと覚えてる。全部」
彼女は立ち止まり、俺の方を向いた。
「ありがとう。お互い幸せになろうね。」
その言葉が、すべてだった。