04 夫への失望と新たな覚悟
そして、初夜に至る。イースは凍えるような冷たい表情で、寝台のふたりを見下ろしていた。サリアスは不愉快そうに眉間にしわを寄せる。
「お断りする、だと? その目はなんだ、自分の立場をわきまえろ。俺に庇護されず、希少種のお前が病の弟と生きていくなど苦労するのが目に見えているだろう」
イゾルデ王国において、精霊族はとても希少だが、人族より社会的な地位が低く、時に迫害される。
だから、貴族の番に選ばれることは、これ以上ない栄誉であり、誇りだとされている。
けれどそれは、人間を精霊族が支配することを正当化するために、特権階級が生み出した幻想に過ぎない。
サリアスに寄り添いながら、愛人のリアンヌはのうのうと言い放つ。
「跡継ぎのことは心配なさらないで。わたくしが産んでみせますから。あなたは領地のことだけしてくださっていれば大丈夫ですよ」
「…………」
そんなことを気にしているのではない。
「あら、黙ってしまいましたわね。もしかして怒ってますの? それとも……悔しくて何も言えなくなってしまいました?」
イースはリアンヌからサリアスにゆっくりと視線を移し、口を開いた。
「離婚してください」
「なんだと……?」
「もう、限界です。あなたの番でいたくありません」
これまで我慢してきたのは、この屋敷にいるのがルビを守る方法だと信じていたからだ。けれど、ルビの安全が脅かされている今、ここにいる理由はない。
「もしや、そんなに初夜に思い入れがあったのか?」
「違っ――」
「だから、そんなに機嫌を悪くしているんだろう」
おかしな勘違いをしたサリアスは立ち上がり、こちらに歩み寄って、手を伸ばしてきた。顎を持ち上げられて全身に鳥肌が立つ。
「や、やめてください……っ、そんなつもりじゃ……」
「はっ、そうして純情なフリをして俺を誘っているのか? ――痛っ、何をするんだ!」
唇を親指で撫でられ、イースは思わずそれを噛んだ。
イースはさっと後ろに下がる。
「離婚を望む理由は、そんなことじゃないです。あなたはルビを、大切にしてくださらなかった。最初に、約束したのに……!」
「屋敷に住まわせてやって、食事も含む与え、医者にも診せてやっている。十分に約束は守ってやっているだろう。これのどこが不満だ?」
ルビを薄暗い部屋に閉じ込め、ひどい言葉を浴びせて何が守る、だ。サリアスが気持ち悪いと言ったこと、忘れていない。
確かに最低限の事はしてくれているかもしれないが、ルビの心はちっとも尊重されていない。
何より許せないのは、ルビを――処分すると言ったこと。
「あいつは実家でも疎まれ、修道院送りにされそうだったと聞いた。本来なら、捨てられる存在に情けをかけてやったんだ。むしろ、感謝すべきだろう?」
すると、それまで話を聞いていたリアンヌが、「そうよ」と口を挟んだ。
「生まれ損ないの世話ばかりして、哀れを通り越して笑ってしまいますわね。そんな荷物をずっとこの屋敷に置いておくくらいなら、ふたりともまとめて消えればいいのに。あ、言い過ぎたかしら」
「…………」
自分のことはなんと言われても構わない。けれど、ルビを侮辱されることだけは許せない。
「ですから、離婚をお願いしているんです。離婚と番契約の解除に応じてくださるなら、ルビと一緒にここを去ります」
家族とはすでに縁を切っており、屋敷を出ても頼るあてはない。
去ったあとのことはそのとき考えよう。だが――
「――離婚はしない。番契約も解除しない」
イースの訴えを、サリアスがにべもなく斬り捨てる。その直後、イースのブラウスを両手で掴んで強引に引っ張った。
「きゃっ……」
ボタンがちぎれで床に落ち、イースの白く滑らかなデコルテがあらわになる。そこには、サリアスと対になる番の証が刻まれていた。
「番契約は、双方の同意がなくては解消できない。お前は生涯、番として俺に仕えるんだ」
「どうして……」
「お前は俺の装飾品であり、使い捨ての駒だ。恨むなら、精霊族に生まれたことを恨め」
「…………」
(人でなし)
心の中で毒づいたイースは、黙って客室を後にした。
部屋に残されたリアンヌは、サリアスに尋ねる。
「あの子、ほっといてよろしいの?」
「いいさ、どうせ俺から逃げられはしない。この――番の印がある限りな」
サリアスは契約印が刻まれた自分の胸に手を当て、意地悪に口角を釣り上げた。
契約は、精霊の血が濃ければ濃いほど強い効力を発揮する。
通常、ほとんど影響がない番の証だが、イースの場合、サリアスから遠くに離れると命すら危ういほど、契約の影響を強く受けている。
◇◇◇
客室から出たあと、イースは自分の部屋に戻り、引き出しから隠しておいた書類を取り出した。
それは、離婚届。彼は書類を読まずにサインをする人なので、他の確認書類に紛れ込ませて、サリアスのサインと証印を取っておいた。
(まさか、こんなに早く使うことになるなんて)
何か起きたとき、ルビを連れて屋敷を逃げる準備をしておいたのだ。
この国では、番契約より戸籍が優先されるため、離婚届さえ受理されれば書類上の夫婦関係は解消される。
イースは離婚届をぎゅっと握り締め、封筒に入れて机に置き、破かれたシャツを着替えた。
「ぅ……ふ、……っぅ……」
クローゼットの前で崩れ落ち、イースは泣いた。サリアスの前で堪えていた感情が溢れてしまったのだ。
何度も傷つけられ、踏みにじられても耐えてきた。けれどもう、限界だ。サリアスのような危険な男の傍に、ルビを置いておくわけにはいかない。イースもあの人の顔を見たくない。
◇◇◇
それから、自室からルビの部屋に移動し、扉の前に立つ。
(しっかりしなくちゃ)
自分の両頬をぱしんっ、と叩いて気を引き締めた。それから深呼吸をし、部屋の扉を押し開く。
部屋には、使用人が昔使っていたという古い寝台に机と椅子、チェストが置いてある。ルビが眠る寝台に、月明かりが静かに差し込んでいる。イースがそっと寝台の傍に歩み寄ると、その足音でルビが目を覚ました。
「ん……どうしたの?」
ルビは重い瞼を擦りながら半身を起こす。
「今日は大切な夜なんじゃ……」
心配そうな顔をする彼。しかし、イースははふわりと微笑みながら言った。
「ルビの顔が見たくなって」
仮面姫と呼ばれるイースだが、弟の前では笑顔を絶やさない。ルビがイースの唯一の心の拠り所だった。
ルビの小さい身体をぎゅっと静かに抱き締める。
「ねえ、さま……」
イースはそっと身体を離し、囁きかける。
「大切な話があるの」
「何?」
「今夜、この屋敷を出よっか」
「……!」
こちらの提案に、ルビはわずかに目を見開く。突然こんなことを言われたら、驚くのも当然だろう。けれど、ルビは迷いなく答えた。
「うん、いいよ。姉様がそれがいいと思ったなら」
ルビは大人びた表情でそう言った。まるで竜の鱗のように凹凸ができた痛々しい頬を、月明かりが照らし、どこか神秘的な雰囲気をまとっているように見えた。
ルビはイースと顔立ちはとても似ているが、精霊族の特徴である水晶眼を持たない。
「ごめんね、ルビ」
イースはそう言い、もう一度ルビを抱き締めた。