33 新しい契約と偽番の絶望
サリアスはイースを組み敷き、恍惚とした表情でこちらを見下ろす。
「お前には本当に手を焼かされた。大人しく俺の傍にいれば良いものを、まさかザナルティアに逃れ、王族を籠絡するとは。さすが――俺が選んだ番だ」
どこか自慢げに鼻で笑うサリアス。
彼の節くれだった手がするりと伸びてきて、顎を掴まれる。
「触らないで。ルビを返しなさい」
「はっ。生意気な口を利くようになったものだ。だが、悪くない。嫌がる方がそそられる」
「何を……」
「お前が俺の子を産めば、王族でも容易に手出しできない」
こちらをねっとりと見つめる瞳には、執着心のようなものが滲んでいた。歪んだ笑みを浮かべた唇で、彼は言葉の続きを口にする。
「愛している、イース」
全く、理解できなかった。この人は今なんと言ったのだろう。
(愛している?)
イースを散々こき使い、支配し、傷つけたサリアス。それを笑いながら愛と呼べる神経に、鳥肌が立つ。
「こんなもの、愛なんかじゃない。間違ってる」
イースにとっての愛は、もっと優しくて、暖かくて、触れたら涙が出るようなものだ。頭の中に、慈しんできたルビの顔がまず最初に思い浮かび、その次に、この国で出会った番の顔が思い浮かんだ。
「…………っ」
サリアスは首筋に唇を押し当てて強く吸い上げ、ゆっくりと鎖骨に下がっていく。
「嫌っ……ヴィル、さま……」
「俺の前で他の男の名を口にするな」
「……ぅっ、」
軽く頬を叩かれ、イースは眉間にしわを寄せる。
ヴィルハインの名前を呼んだイースは、ぎゅっと瞼を閉じた。しかし、それ以上サリアスが触れてくることはなく、身体にかかっていたサリアスの重みも消えていた。
目を開けると、サリアスは殴り飛ばされて床に倒れ込んでいた。サリアスを殴ったのは、ヴィルハインだった。部屋の扉は開いており、王宮の騎士に拘束されたリアンヌも部屋に入ってきた。
「……何をしますの!? わたくしは部屋を貸しただけで何もしておりませんわ。離しなさいっ」
そして、扉の外からルビが、イースのもとに駆け寄ってくる。ルビに手首の拘束を解かれたあと、身体を抱き締め、両頬を手で包んだ。
「姉様……っ」
「ルビ、大丈夫? 怪我は?」
「あの人が解放してくれたんだよ。それで、ヴィルさんに助けを求めたんだ」
ルビが振り向いた先に立っていたのは、イゾルテ王国の検問所で、国を逃れようとするイースとルビを見逃してくれた騎士だった。「お久しぶりです」と挨拶してきた彼に、感謝を込めて会釈する。
「イースに何をしようとした」
「うっ……ぐ、ぁ……」
そのとき、地を這うようなヴィルハインの声がして、はっと視線を戻すと、彼は凍えるような表情を浮かべ、サリアスの首を片手で掴んで持ち上げていた。
「……ふ、ぅ……息が……」
「手を出すなと言ったのを忘れたのか? どこまでも性根が腐っているらしい。この首を落として大地に還せば、腐った頭も肥やしとして役に立つか」
いつも飄々としているヴィルハインからは考えられない、尋常ではない怒りを感じた。イースが責められているわけではないのに、その迫力に圧倒されて思わず息を呑む。
(ザナルティア竜王国で、竜族の番に手を出すことは禁忌とされている。なぜなら、竜族は番を傷つけた者に――決して容赦しないから)
サリアスはこの国で許されないことを、絶対にしてはならない相手にしてしまった。
竜族は人と同じ見た目をしているものの、他の種族に比べて肉体能力が優れている。サリアスは力でヴィルハインには到底敵わない。
ヴィルハインは怒りで周りがすっかり見えていない様子だった。
(止めなくちゃ)
あんな男のために、ヴィルハインの手を汚させたくない。
「ヴィルさま――……けほっ、ぅ……」
「姉様!」
こんなときにまで、イースの身体に不調の波が襲いかかってくる。血がシーツにぽたりと滲んだ瞬間、ヴィルハインははっと我に返り、サリアスを手放して、すぐさまイースに駆け寄った。
「イース! 大丈夫!?」
「ごほっ、けほっ……」
吐血し苦しむイースの様子を見て、ヴィルハインもルビも心配そうにする。一方、サリアスは呼吸を整えながら意地悪に微笑んだ。
「その苦しみは、お前が俺から離れた罰だ」
ふたりは番契約を結んで夫婦になった。番契約はイースの身体に負担が大きすぎて、サリアスの傍から離れると、命が蝕まれていく。
するとヴィルハインは、再びサリアスに対峙した。
「今すぐに番契約からイースを解放しろ」
「それはできませんよ、王子殿下。番契約はイゾルテ王国の神官の立ち合いがなくては行えないのです。それに、俺の同意が必要です。もっとも、俺にその意志はありませんが」
「神官をここに連れて来ればいいだけ。解くと誓え。これは――『命令』だ」
するとサリアスの目が虚ろになり、「ご命令のままに」と口をついたように誓った。
「お前たち。この者を牢屋に閉じ込めて見張っておけ」
その後、ヴィルハインの指示で、騎士たちがサリアスを拘束していく。だが、サリアスは抵抗して声を上げた。
「な、何をする! 妻を迎えに来ることの何が問題なんだ。そちらこそ、よその夫婦の問題に首を突っ込まないでいただきたい」
「もう夫婦じゃありません」
ルビに支えられながらイースは立ち上がり、サリアスの元まで歩み寄った。
「離婚の手続きは終わっているはずです。イゾルテ王国の法では、番契約を結んでいても、離婚手続きが成立すればそちらが認められます」
「これまで屋敷で面倒を見てやった恩を忘れたのか? 観念して俺の元に戻れ」
「嫌って言ってるでしょ!」
賓客室に、イースの大声が響き当たる。普段は怒鳴ることなんてないため、ルビがびっくりして目を見開いた。
「もう、あなたに支配されるのはごめんなの。もう一度戻るくらいなら、いっそ……死んだ方がマシだわ」
「安心して。君を罪人のもとに返すつもりはない」
「ヴィル様……」
ヴィルハインはイースの腰をそっと抱き寄せた。そんなヴィルハインに、サリアスが反論する。
「罪人? 確かに書類上は夫婦でなくなりましたが、俺たちには深い絆があります」
「絆だって? 笑わせるな。嫌われてるようにしか見えない」
「そ、それは……っ、これから愛情を深めていくだけで」
「君たちは事実上他人だ。他人を部屋に連れ込んで暴行を加えることを認める法は、ザナルティアにはないけど君の国ではあるの?」
「…………」
ヴィルハインの言葉に、サリアスは言葉を失った。
ザナルティア竜王国に滞在中は、ザナルティアの法で裁かれる。特にこの国は性犯罪に厳しく、貴族であっても流刑などの厳しい罰を受ける。
「昔は妻だった……なんて言い訳は一切通じない。お前は立派な罪人だよ」
最後にヴィルハインが冷たくそう言い放つと、サリアスは何も言わなくなった。
今回の場合、協力したリアンヌも罪があるということで、ふたりは王宮に留置されることが決まった。
部屋から連れ出される途中で、ルビがサリアスのもとに行き、小さな手でバシンッ、と頬を打った。サリアスは赤く腫れた頬を抑えて困惑する。さらにルビは、もう一度力いっぱい叩いた。
「なっ……」
「これは、僕と姉様の分です」
サリアスを叩いた小さな手が、赤くなっていた。
◇◇◇
それから、ザナルティア竜王国にイゾルテ王国の神官が招かれ、番契約の解除が行われたのはおよそ二週間後のことだった。
サリアスは解除を拒んだが、ヴィルハインが異能の力で強制させた。
「ごほっ、ケホッ――っく、ぅ……」
留置所でサリアスは、激しく咳き込み血を吐いた。鉄格子の内側で、サリアスを冷たく見下ろすヴィルハイン。
「苦しそうだね」
「俺に……何をした……っ」
「君たちが呼ぶ――番契約をかけたんだ」
ゆっくりと顔を近づけると、ルビが叩いたサリアスの頬に、新しい契約印が刻まれていて。
それと対になる契約印が、ヴィルハインの左手のひらに刻まれている。
「君はイースに近づけば近づくほど、契約が反応してとても苦しみ、命を削られることになる」
サリアスはザナルティア竜王国で投獄されるのが決まっているため、簡単にイースから離れられない。番契約より純粋な『指令』の方が強力であるため、その間の苦しみは想像を絶するものだろう。
「どうして、そんなことが……っ」
「もともと、番契約自体が竜族の『指令』をベースに、人族が長年研究してきた術だからね」
ヴィルハインは底冷えしそうな声で言った。
「特別に教えてやる。俺の『指令』の異能は、時間も人数も規模も制約されていない。油断させるため、怖がらせないため、制約があるように見せかけているだけ。だからお前にかけた番契約は死ぬまで消えない。ああ、これは『内緒』――にして」
「んんぐ、……んぐ!?」
ヴィルハインがし、と唇の前に人差し指を立てると指令の異能が発動し、サリアスが言葉を上手く発せなくなる。そうして、ヴィルハインの異能の秘密について語ることはできなくなった。
「契約を解け……っ。解いてくれっ、ごほっ、ごほ……ぅ、苦しい……っ」
「はっ、もう降参か? 弱すぎるな。イースが味わった苦しみはまだそんなものじゃない」
これまでイースが苦しんできた分以上にのたうち回らせなければ気が済まない。後悔しても逃げられない苦痛を与え、ヴィルハインの手で、サリアスの心も身体も全て壊さなくては。
そんなことをしても、イースが苦しんできた過去は変わらないと分かってはいるけれど。
「不当に他人を支配した罪の重さを、人生をかけて味わえ」
「ひっ……」
「生憎俺は、イースと違って優しくないんだ」
あの姉弟を守るためなら迷いなく手を汚す。涼しい顔をして笑いながら、ヴィルハインは冷徹に吐き捨てた。
そうしてヴィルハインは、契約印が刻まれた手のひらを見下ろした。
ヴィルハインに契約印を刻まない形で支配することもできる。こんな男と契約を結ぶのは不本意だが、これはイースを一度手放し、彼女を守れなかった自分への戒めでもある。