31 運命の番
ヴィルハインから過去の話を聞かされたイースは、何も思い出せずに首を捻る。
(私とヴィル様が過去に出会っている……? だめ、何も思い出せない)
すると、彼は静かに言った。
「忘れているのは俺が異能で記憶を奪ったからだ。この記憶を君に返しても?」
「ヴィル様がお嫌でないなら」
「まさか」
ふっと小さく笑ったヴィルハインは、手をそっと伸ばしてイースの瞼を覆った。温かな気配がしたあと、あたかも最初からそこにあったように、失った記憶が蘇る。
「思い出しました。確か、王宮の庭園で……」
「うん。あれからずっと君のことを考えていたよ」
記憶の中のヴィルハインは、今のルビより少し上くらいの年齢だった。ヴィルハインもルビと同じように、小さな身体で戦ってきたのだと思うと、愛おしさが込み上げてくる。
イースはおもむろに手を伸ばして、ヴィルハインの滑らかな頬を包み込んだ。
「私のことを覚えていてくれて嬉しいです。ヴィル様がこんなに元気になって本当によかった。第二王子殿下の病が治ったと聞いて、私とルビの希望にもなってたんです」
ずっと、ルビの病は治らないものだと思っていた。だからこうして、ヴィルハインが肌の跡がすっかり消え、元気に過ごしているというだけで励みになる。ヴィルハインはイースの手を上から包むように握り、手のひらに頬を擦り寄せた。
「妬けるな」
「……?」
「君の頭の中はいつも弟のことでいっぱいだからさ。俺も少しくらい住まわせて」
熱を孕んだ双眸に射抜かれ、鼓動が音を立てる。こんな風に心臓が忙しなくなるのはヴィルハインにだけだ。
「も、もうとっくに……居住申請なら通してます、が」
冗談を言い慣れていないのと、恥ずかしさが相まって、イースは頬を染めながら上目がちに言う。
ヴィルハインは目の奥をわずかに揺らしたあと目を細めた。それから、イースの細い手をぐいっと引き寄せて抱き締める。
彼の腕にしっかりと収まると、寄せた胸から早くなった彼の鼓動が聞こえてきた。
「何それ、本当にかわいい」
「ヴィル様、あ、あの……っ」
「じっとしてて。これでも堪えてる方だから」
「は、はい」
「竜病を発症し『指令』が目覚めてから、誰もが俺を腫れ物扱いして目を合わせようとしなかった。でも、イースだけは俺をまっすぐ見て笑いかけてくれた。それで俺がどれだけ救われたか」
イースを包み込む腕の力が強くなるが、静かにそれを受け入れた。彼の腕の中で大人しくしながら、言葉の続きを待つ。
「あの日のこと、いつかお礼が言いたかった。イースにまた会いたい気持ちが頑張る力になってたし、水晶眼を持つ精霊族がイゾルテ王国で不当な扱いを受けていると知ったから、精霊族を解放させるために奮闘してきたんだ」
「私は何もしてないです。頑張ったのはヴィル様ご自身ですよ」
それに、感謝しなければならないのはイースの方だ。花嫁の身代わりで男に追われていたときも、ルビとふたりでの生活に困っていたときも、ヴィルハインが手を差し伸べてくれた。
「君がそう思っていても、俺は一生忘れられないよ。……イースが今、ルビを最優先したい気持ちはよく理解しているし、尊重したいと思っている。でも、イースが誰かに寄りかかりたいときは迷わず俺を頼って」
「…………」
甘えるような声に、胸がきゅんと高鳴ったのと、ヴィルハインがイースを腕から解放したのはほぼ同時だった。彼は真剣な表情でこちらを見つめて言う。
「俺と結婚してほしい」
いずれ死んでしまう自分のために、ヴィルハインの時間を無駄にさせたくない。
イースが言葉に迷っていると、ヴィルハインは優しく付け足した。
「返事は今じゃなくていい。心に余裕ができてからゆっくり考えて」
(応えられないと、言わなくちゃいけないのに)
そう分かっているのに、イースには言えなかった。
その後、ふたりの間に沈黙が流れる。イースが気まずそうにしていると、ヴィルハインがテーブルの皿を指差した。
「何か食べる?」
盛り合わせの銀皿を、様々な種類の果物が色彩豊かに彩っている。メロン、オレンジ、りんごにいちご……それから中央に紫色の花が添えてある。
「じゃあ、ぶどうを………」
そう言って手を伸ばしかけたとき、イースより先にヴィルハインがをひと粒摘んで、イースの口元に運んだ。
「はい」
「!?」
誰かに食べさせてもらったことのないイースは、びっくりして固まってしまう。しかし、ヴィルハインの爽やかな笑顔から静かな圧を感じ取り、勇気を出して口を開けると、舌の上にぶどうが転がった。一生懸命咀嚼するが、どきどきしすぎて味がよくわからない。
「美味しい?」
「はい。ヴィル様も食べますか?」
「イースが食べさせてくれるなら」
頬杖をつき、楽しそうに口角を上げるヴィルハイン。
すっかりヴィルハインのペースに乗せられている。彼は時々、イースをからかって反応を見て楽しむきらいがある。けれど今夜くらい、羽目を外してもバチは当たらないだろう。イースは意を決し、盛り合わせ皿に手を伸ばし、彼の薄い唇にぶどうを運ぶのだった。
どきどきしてくすぐったい気持ちのまま、あっという間に時間が過ぎていく。
(もし、番契約が命に関わると話したら……心配させてしまう。負担をかけたくない)
胸の契約印が疼き、浮かれていた気分が現実に引き戻される。
今のイースに、婚約を受けることはできない。それは、ルビを優先したい気持ちが理由ではなかった。
番契約によって先が短い自分がヴィルハインとの未来を約束していいはずがないのだ。だが、どうしてだろう。
(こんな私でも、見捨てず傍にいてほしいと思ってしまうなんて)
イースはヴィルハインを見据えて、小さく言う。
「私……ヴィル様に隠していたことがあります」
そう言ってイースはおずおずとドレスの紐を緩める。その仕草に彼は困惑するが、胸の印を見て目を見開いた。
「番契約は、精霊族の血が濃いほど強く反応します。あまり例はないそうですが、死亡者もいるそうです。実はザナルティアに来てから……喀血症状が続いていて。私は、もう……」
番契約がイースの命を蝕んでいることを伝えると、ヴィルハインはわずかに眉を寄せ、拳を握り締めた。
「話してくれてありがとう。ごめん、そんなに重いことをひとりで抱えさせてしまって。気づいてあげられなくて」
「迷惑をかけたくなくて言えなかったんです。でも私……でも、ヴィル様といたいです」
その先の言葉を口にする勇気はなかなか出ず、静寂が続く。だがヴィルハインは急かしたりせずに待ち続けた。
「――私以外の人を、選ばないで」
イースがか細い声で懇願した刹那――
ヴィルがイースの震える唇に自身の唇を静かに押し当てて、力強く告げる。
日付が変わったことを告げる鐘が、王宮内に響き渡る。
「選ぶはずない」
もう一度抱き合い、バルコニーの壁にふたつの影が重なる。
イースの肩口で、ヴィルハインは「君を死なせはしない」と覚悟の宿る声で囁くのだった。
◇◇◇
ヴィルハインはイースを部屋まで送ったあと、挨拶をして去っていった。
バラの祝祭では、日付が変わっても多くの貴族たちが恋人と逢瀬を交したり、談笑したりボードゲームをしたりして翌朝をそのまま迎えるが、イースにはルビが待っているので、朝帰りするわけにはいかない。
ドアのレバーに手をかけると、閉めておいたはずの鍵が開いていた。
(あら、鍵が……)
不思議に思いつつ扉を開ければ、中からルビが飛びついてきた。
「姉様……っ」
「ふふ、どうしたのルビ。怖い夢でも見た?」
普段ならこの時間に眠っているはず。
よっぽどイースが恋しかったのだろうかといじらしく思いながら視線を落とすと、ルビの手に、血で汚れた手紙が握られていて。
「血、姉様のだよね」
彼はこちらを見上げ、眉をひそめた。
「姉様が何か隠してることくらい、分かってる。体調が悪いんでしょ? 今日もずっと心配で」
「鍵が開いてあったのも、もしかして私を探しに?」
そう尋ねると、ルビは頷いた。
番契約による不調は、いつかルビに知られてしまうと覚悟していた。しかし、ルビの病状が不安定なときに心配をかけまいと、悟られないよう努めてきた。ルビはようやく回復したが、完治したわけではない。
イースは作り笑いを浮かべ、宥めるように答える。
「大丈夫。最近仕事で疲れてるみたいで。平気だから――ゴホッ、ゴホ……」
そのとき、強い胸の痛みとともに何か込み上げてきて、顔をしかめる。
床に膝をつき咳き込むと、血を吐いてルビの服が汚れた。出血量の多さに、ルビは只事ではないと理解した。
「姉様っ、しっかり……!」
「ぅ……げほっ、こほっこほ……」
「どうしよう、誰か……っ。やだ……っ姉様……」
ルビはあちこちに視線を動かしたり、立ったり座ったりして狼狽えていた。
大丈夫だと言ってあげたいが、苦しくて声を出せなかった。ルビに背中を擦られながら、落ち着くまで待つ。
そっと顔上げ、血で汚れてしまった服を撫で、眉尻を下げる。
「汚しちゃった。お気に入りの服だったのに……ごめんね」
「そんなことどうだっていい。僕、姉様がいないと生きてけないよ。お願い、いなくならないで……」
イースに縋りつきながらルビがそう言った直後、扉がばんっと開け放たれて、背後から人の気配がした。
そして、聞き慣れた声が上から降ってくる。
「ようやく見つけたぞ、イース」
「……!」
背後に立つ人物を見たルビが、青ざめている。ルビの反応と、後ろから聞こえた声で、それが誰なのかすぐに分かった。
ルビを庇うように抱きながら振り返ると、その人と目が合う。彼はイースの顔を覗き込みながら囁いた。
「番契約の代償で苦しんでいるようだな」
どうして彼が、ここに?
唇から血を流しながら、イースはサリアスを睨みつけた。




