30 初恋【ヴィルハインside】
ひとしきり泣いたあと、ヴィルハインとイースはバルコニーのベンチに腰掛けた。
彼女のドレスが汚れないように座面にハンカチを敷き、夜風で冷えないようジャケットを肩にかける。申し訳なさそうな顔をするイースが、たまらなくかわいい。
(遠慮しているのか照れているのか……ふ。どっちもか)
彼女が初心な反応を見せる度につい意地悪をしたくなってしまうが、これからは尽くされることに慣れてもらわなくては、竜族の番は務まらない。竜族の多くは生涯番を溺愛するから。
「顔、赤い」
「これは……その……」
ごにょごにょとまごつく様子がいじらしくて、ヴィルハインは思わず小さく笑った。
こんなにも誰かを愛しく思うのは、きっと後にも先にもイースだけだ。ただ彼女が番だから、こんなに強く惹かれるのではない。彼女が誰より優しくて、弟思いで、責任感が強くて一生懸命だから、目が離せなくなるのだ。
番でなくても出会えば好きになっていたと思うし、誰にも渡したくない。
風が吹いてイースの顔にかかった長い髪を、指先で退けてやると、潤んだ水晶眼と目が合う。
「昔の話をしてもいい?」
「もちろん」
「ありがとう」
「俺も子どものころ、竜病だったんだ」
ヴィルハインが過去に竜病を患っていた件は、イースも知っている。けれど、ヴィルという近衛騎士を演じていたこともあってその詳細はまだ話していない。
彼女はどこか同情した様子で、こちらに尋ねた。
「ひどかったんですか?」
「うん。ルビくらい……いや、もっと重症だった」
ただ、ルビの状況と違って、ザナルティア竜王国では竜病への理解があり、発症後速やかに伝統的な治療法が実践された。
しかし、竜族の血が濃いヴィルハインに目覚めた異能は――『指令』と呼ばれる危険なものだった。目覚めた直後に暴走を起こし、ひとりの使用人が精神的なショックを受けて施設に入った。
彼女は数年後、ヴィルハインの指令を再び受けたことで回復し、社会に復帰している。
指令は、相手の肉体ではなく心に干渉する性質がある。
暴走の被害に遭うのを恐れた人々は、ヴィルハインに近づきたがらなかった。使用人だけでなく、家族でさえも。
「で、俺は竜病を克服して異能を完全にコントロールできるようになるまで、離宮に隔離されたんだ。ルビには背中をさすってくれる人がいて、羨ましいよ」
「ヴィル様……」
ヴィルハインはベンチに両手をつき、ゆっくりと夜空を見上げた。
◇◇◇
離宮を訪れるのは、竜の力の鍛錬を指導する教師と、食事を運びに来るメイドだけ。
身体を洗うのも、着替えるのも、誰も手伝ってくれず、ヴィルハインは体調が悪ければ汚れたまま過ごし、服も替えられなかった。
自分の力の危険性を理解しているから、使用人の怠慢を咎められなかった。
だから、周囲の人たちに腫れ物扱いされながら、ひたすら病と異能の鍛錬に向き合う日々を送っていた。
(……かゆい、かゆい……掻いても、掻いても、かゆい)
鱗のように凹凸ができた肌は、強烈な痒みがあった。痒くてろくに眠れずに朝日が昇ることもしょっちゅう。掻きむしりすぎて爪の間には血が滲み、肌は体液が滲んで異臭を放って辛かった。
「……ぅ、……ふっ、ぅ……」
皮膚が剥がれても、ヴィルハインは取り憑かれたように掻き続けた。
竜族の運命だと言われても、幼いヴィルハインは到底受け入れられなかった。
ただ普通に、友達と外で走り回って遊びたかった。
誰かと楽しく食事をとり、お喋りをしたかった。けれど、恐ろしい異能を持つ自分に誰も関わろうとしない。
(誰か……誰でもいいから、俺を見つけて。俺に優しくして)
ヴィルハインは一人ぼっちの離宮で孤独を抱き締めていた。
◇◇◇
そんなある日、イースに出会った。庭園で教師に遠くから見守ってもらいながら瞑想をしていたら、芝生を踏む音がして、ヴィルハインははっと顔を上げた。
長い藍色の髪に、海を吸い込んだような青い瞳の少女と、目が合う。その瞳は、精霊族を象徴する――水晶眼。
「こんにちは。お昼寝の邪魔でしたか?」
彼女と視線が交錯し、その声を聞いた瞬間、どくんっと心臓が跳ねたのが分かった。まるで、全身に雷電が駆け巡るようなびりびりとした衝撃を受ける。
竜族の血を引くヴィルハインは、本能で理解した。目の前にいる少女が――自分の番であると。
(精霊族は、番を認知する直感力が弱い。きっと俺が番ってことに気づいてない)
たった今、心臓が忙しなくなり、身体が熱くなって、本能が運命を訴えているのは、自分だけということだ。
教師がこちらに近づいて来ようとするが、目で『来なくていい』と合図する。
そのとき、葉揺れの音とともに風が少女の長髪を揺らした。彼女が髪を抑える仕草が幼いながらとても可憐で、思わず魅入ってしまう。
綺麗だと思うのと同時に、醜い自分を見せるのが恥ずかしくて情けなくて、フードを被って顔を隠す。
「いや……今は、修行してたんだ」
「修行って、お昼寝の?」
「まぁ、そういうことにしておくよ。君は?」
「今日は兄様についてきたの。大事なパーティーがあるんですって」
「バラの祝祭だね。毎年異国の王侯貴族を大勢招いているから」
「部屋で大人しくしているように言われてたんだけど、迷っちゃって」
へへ、と困ったように笑う彼女が愛おしくて、必死に堪えなければ心臓が口から飛び出してしまいそうだった。
するとイースは、ヴィルハインの隣にちょこんと膝を折って座って、こちらの顔を覗き込んだ。
「あなたはどうしてここにいるの?」
「住んでるから」
「へぇ、すごい。こんなに大きな屋敷見たことがないわ。ここには竜の王様たちも住んでいると聞いたけど、そうなの?」
「うん、住んでるよ」
「……いつか、竜の背中に乗って空を飛んでみたいなぁ」
そう無邪気に笑うイースがなんだかおかしくて、ふっと笑ってしまう。
竜族の先祖は竜だったと言われているが、現在は皆人と同じ姿をしていて、竜に変身できる者も、空を飛べる者もいない。
「ふ、ふふ……」
「何がおかしいの?」
「ううん、飛べるといいね」
「うん」
彼女の夢を壊してしまうのは可哀想なので、本当のことは黙っておく。
精霊族にとって竜病は馴染みのない病気のはずで、ヴィルハインの見た目は気味が悪いはずだが、イースから悪意のようなものを一切感じなかった。
「君が望むなら、俺も空を飛べるように練習しておくよ。できるか分からないけど」
「ありがとう」
花が咲いたような笑顔に見つめられ、なんだかいたたまれなくなってしまい顔を背ける。
(本当は、無理して笑ってるんじゃ)
そんな恐怖心が湧いてきて、ヴィルハインは肌の凹凸を隠すように腕を抱いた。
腫れ物に触るような使用人たちや両親の態度、好奇心の目を向けてくる通行人、異能に恐れる人々。過去の傷が、じくじくと痛んで、背中をイースに向ける。
「どうしたの?」
「俺、こんな気持ち悪い見た目だから、あまり見ないほうがいい」
「そんなこと……ないよ」
背中の向こうからイースが言う。
「確かにちょっとびっくりしたけど、私のために空を飛ぶ練習をするって言ってくれて嬉しかったよ。気持ち悪くないし、優しい人だと思う。でも、見られたくないならそのままそっちを向いてていいから」
鈴を転がすような彼女の声が、ヴィルハインの鼓膜に心地よく響いた。
(優しい……なんて初めて言われた)
ちゃんと目を見て話してくれる人も、久しぶりだった。普通の人と違う見た目をしていることに負い目はあったが、イースの顔が見たくて背けていた顔をそっと戻す。
「本当に、気持ち悪くない?」
「うん」
ふたりは竜木の根元で、しばらくとりとめのない話をした。イースは果物の中ならぶどうが一番好きで、ドレスや宝石などきらきらしたものに惹かれると教えてくれた。
楽しくてあっという間に時間が過ぎていく。教師はふたりの時間を邪魔せずに気配を消して立っていた。
「実はもうすぐね、弟が家に来るの。まだ会っていないけれど、病気らしくて。私……仲良くなれるかな」
「俺なら、君が姉上だったら幸せだろうなって思うよ。君みたいな家族がほしかった。頑張っているのに、誰も俺を顧みてくれないから」
ヴィルハインが寂しげにそう呟いたとき――ぽんぽん、と頭を撫でられる。小さな手の、けれど確かな重みに、鼻の奥が痛くなる。
「偉いね」
ずっと、誰かひとりにでもいいから、頑張っていると褒めてほしかった。
彼女の言葉を聞き、泣きそうになるのを下唇を噛んで堪えたあと、ふいに手が伸ばしてイースの手を握る。
「やっぱり、君と俺の血が繋がってなくてよかった」
「それってどういう……?」
「――兄妹は結婚できないから」
「!?」
ヴィルハインが優雅に唇の端を釣り上げると、イースは目を見開いた。竜族は空を飛ぶと思っているらしい彼女だが、結婚がどういうものかはちゃんと理解しているようだ。
「病気を治して、いつか必ず迎えに行く。だから、俺のことを待ってて」
「へ……」
自分より少し背の低いイースの額にそっと口付ける。真っ赤になって固まる彼女の耳元で、そっと続けた。
「でもごめん、今は全部――『忘れて』」
そう命じれば、イースの瞳が虚ろになった。彼女の意識がぼんやりしている隙に、ヴィルハインは立ち上がり、教師に命じる。
「あの少女を大広間にお連れしろ」
「かしこまりました。……お家柄などお調べしましょうか」
「必要ない」
荒れた手のひらを見下ろし、小さく息を吐く。
そして、国王の言葉を思い出した。
『そなたの病と異能のこと、今は王宮の者以外に知られてはならんぞ』
まだ異能を完全にコントロールできていない状態で噂を立てられれば、ヴィルハインを危険視する声が多く上がり面倒な騒ぎになるかもしれない。そう懸念した国王は、異能について知った者を裏で処断してきた。
だからイースに、まだ不完全な指令の異能で、ヴィルハインのことを忘れるように命じたのだ。
「私、ここで一体、何を……」
「道に迷われたようです。私がご家族のもとへお連れいたします」
「は、はい」
彼女の名前も身分も何も聞かなかった。いや……怖くて聞けなかった。
知ってしまえば辛いときに、あの安らぎを求めて手を伸ばしてしまいそうで。今のままの自分では、番にふさわしくない。
(この竜病を克服して、君が辛いときに寄り添える男になってから君のもとに行こう。運命の番は――必ず結ばれると言われているんだ。たとえどんなに離れていても、再び巡り会えると信じているよ)
イースと教師の後ろ姿を目に焼き付けながら、臆病なヴィルハインはそっと彼女との再会を祈る。
そして、次会ったときは二度と手放さなくて済むように強くなろうと決意した。




