03 選ばれてしまった番の不運
ルビのために与えられたのは、屋敷の中で最も日当たりの悪い一階の部屋だった。
一日に三回運ばれてくる食事は、使用人に与えられるものより質素なものだった。加えて、『屋敷の者が怖がるから』という理由で、ルビが出歩くことを許されたのは、他の人たちが寝静まった夜だけ……。
しかし、ルビはいつでも外を歩けるわけではない。
「ぅ……っ、かゆい、かゆいよ……」
「辛いね、ルビ……」
時には、朝まで寝台で小さな背中を掻き続けることもあった。
イースは、すぐに体調を崩すルビの世話をしながら、サリアスに押し付けられた執務をこなしていた。
「今月の税収と作物の収穫量をまとめておいてくれ。明日までに頼むぞ」
「こ、この量を明日まではさすがにできません」
執務机に積み重なった膨大な資料を見て反論するが、彼はその訴えをぴしゃりと跳ね除けた。
「無理ではなく、やるんだ。番を支えるのがお前の役目だろう。むしろ、名誉なことと思え」
「それは……」
「いいのか? 最近、弟が新しい薬を試していると聞いた。仕事をしないなら、その薬代を払ってやらないぞ」
「…………」
ルビを交渉に持ち出されたら、イースに選択の余地はなくなる。
「分かりました」
イースは、あくまで番として選ばれた立場だ。サリアスから逃げることができない。それが、この国の番制度だから。
イースはその日、徹夜で資料を確認した。
婚約してから三年間、イースはサリアス仕事を押し付けられ続けた。サリアスは公爵家当主になってから、ほとんど領地運営に参加していない。
『領民から減税を求める嘆願書が届いた。彼らと面会して、不満を聞いてこい。税率を下げる気はないとはっきり伝えておけ』
『貴族から書簡が届いている。俺の代わりに返事を書いておけ』
『今度、屋敷に来客がある。歓迎する準備をしておくように』
それらの一方的な要求に、イースは大人しく「はい」と答えるしかなかった。彼は度々、ルビの薬代や治療費を交渉に持ち出し、脅してきた。
ルビがいなかったら、とっくに逃げ出していたかもしれない。けれど、サリアスに従うことが弟を守るための唯一の方法だと信じ、耐えていた。
◇◇◇
イースが公爵領の執務に忙殺される傍で、サリアスはしょっちゅう社交界を渡り歩いたり、観劇や旅行に行ったりした。
公爵家当主として無責任すぎる行動の数々に目をつぶり、与えられた仕事を淡々とこなしていた。初めは領地運営のことなんて分からなかったイースだが、だんだんと慣れていった。
実家を頼ることはできない。母や妹、兄もルビを厄介者扱いしており、昔からずっとイースが世話をしていたのだ。『イースが嫁ぎ先に連れて行かなければ、ルビは修道院に入れる』と言われたときは、本当に冷酷な人たちだと思って、縁を切った。
実家の使用人もディアン公爵邸の使用人たちも、ルビの病気が移ると心配し、近づかなかった。
ある日、イースは王宮の建国式典に出席した。国中の上位貴族の家長と妻子が招待され、ディアン公爵家にも、夫婦宛に招待状が届いていた。
なのに、サリアスはイースはひとりで参加しろと言った。王宮の式典に参加するのは貴族の義務であり、欠席するわけにもいかなかった。
「見て? 仮面姫だわ。本当に笑わないのね」
「今日も番に放置されて、情けない」
「番の心を引き止めるだけの魅力がないんだろう」
式典後の夜会は、貴族たちの情報交換や親睦を深めるための場となる。そこでイースは、人々の噂のネタにされた。
(仮面姫、ね)
ディアン公爵家に嫁いでから、イースは笑わなくなった。理不尽な仕打ちを受け、軽く扱われていくうちにそうなったのだ。
それから社交界では、『仮面を貼り付けたように表情の変化がない』という意味で、仮面姫という蔑称を付けられた。
誰とも話さずに壁の花となっていたイースの耳を、人々の噂話が進めていく。頭上のシャンデリアの輝きが、うっとうしく感じられる。
そのとき、バルコニーから広間の中へ、サリアスがひとりの美しい令嬢に寄り添いながら入ってきた。
彼は今日、番であるイースをほったらかしにして、別の女性をエスコートしていた。彼女の肩には、外で冷えないようにサリアスが貸したと思われるジャケットがかかっていた。
「リアンヌ、そこに段差があるから足元に気をつけて」
「こんな小さな段差、ネズミさんでもつまずかないですわよ。サリアス様は心配性ですのね」
「お前が怪我をしたら大変だからな。そうだ、喉が乾かないか? 飲み物を取ってこよう」
「まぁ、ありがとうございます」
女性に向けたサリアスの柔らかな微笑みを見て、イースは目を見開く。彼のことを横暴で思いやりのない人だと思っていたので、信じられない一面を見た。
(サリアス様もあんな風に笑うのね。リアンヌ様に向ける優しさを、ほんの少しでもルビに向けてくださったなら、まだ許せたのに)
サリアスはイースを見かけると、冷たく言った。
「なんだ、まだいたのか」
「そちらの女性は? もしや、わたくし以外にも特別なお相手がいらっしゃるのですか?」
「ふ。妬いてるのか? かわいいな。心配するな、彼女は精霊族の番だ。形式上の妻で愛情はない」
「ああ、そうでしたか」
リアンヌがほっと安心したように息を吐く。番は、権威を知らしめるための道具に過ぎないから。そこで、人族と精霊族の明確な線引きを感じた。
「ごきげんよう、わたくしはリアンヌと申します。よろしくお願いしますね」
リアンヌは片足を引いて優雅に挨拶した。
「で、なぜお前はここにいる?」
「……まだ国王陛下にご挨拶できていないので」
「そんなものはいい。この式典に顔を出したんだ。最低限の義務は果たしたと言えるだろう」
「ですが……」
「いいから、帰れ」
国王はまだこの広間に来ていないが、参加者たちはひとりずつ挨拶をしていくことになっている。
国王に挨拶をするのは、義務以上に最低限の義理ではないか。イースも好きでここに来たのではなく、ディアン公爵家の体裁を守るためだというのに。
ためらっているイースを見て、サリアスは忌々しそうに舌打ちをして、こちらにずい、と顔を近づけた。
「せっかく楽しんでいるのにお前の顔見ていると、興が冷めるんだ」
「……っ」
「それともひょっとして、妬いているのか?」
サリアスの背後で、リアンヌがどこか意地悪に口角を持ち上げた。
心がざわめく。ひどいこと言われて、傷つかないわけではない。けれど、泣いたり怒ったり、傷ついた反応したら、この人思い上がらせる気がして、ぐっと堪えた。
感情を表に出さないことが、イースにできる唯一を守る方法だった。
(もう、公爵家の体裁なんてどうでもいい。早く、ルビの顔が見たい)
イースはぎゅっと握り締めて言った。
「分かりました。お先に失礼します」
彼らの前から去ろうとした直後、リアンヌがイースの袖を掴んで「お待ちになって」と言い、引き止める。
「ごめんなさい、サリアス様の寵愛を独り占めするつもりはなかったの……。これでは、番であるあなたの立場がありませんわよね」
「…………」
申し訳なさそうな顔をしているが、明らかに優越感が瞳に浮かんでいて、それから、すっと近づいてきて耳元に直接囁くように続けた。
「それから、これは内緒なんだけれど……サリアス様があなたを番に選んだのは、あなたをこき使うためなんですって。せっかくお美しくて魅力的なのに、愛されず、一生公爵家の奴隷だなんて、本当に……お気の毒に」
リリアナの口角が吊り上がったのを、イースは無表情で見つめた。そして、淡々とした声で答える。
「知っています」
人族が精霊族に番に選ばれたら、制度という盾によって支配が正当化され、どんな扱いをされても文句は言えない。
もちろん愛される人もいるが、基本的には、自分を犠牲にして相手に献身的に仕えるのが選ばれた番の美徳とされる。
(この人に愛されることなんて、最初から期待してなかった)
だからサリアスは、公爵家運営に関する面倒事は全てイースに押し付けて、自分は自由恋愛と享楽に耽っているのだろう。
イースがそう言って踵を返すと、リアンヌは颯爽と去っていくイースの背中を見据えながら、面白くなさそうな顔をした。