29 その仮面を置いて
バルコニーに移動する途中、ヴィルハインは案の定指摘してきた。
「さっき、番契約で死ぬって言ってたの、どういう意味?」
「それは……」
(どう言い訳したら……)
ヴィルハインに、余計な心配をかけたくない。迷惑をかけたくないという思いでいっぱいになり、思案を巡らせる。
「せ、精霊族にとって、番契約で支配されることは死んだも同然……という意味だと思います。元夫との番契約は残っていますが、イゾルテ王国では戸籍が重視されるのでもう彼とは他人です」
「そっか。……調べによると、番契約の影響で体調を崩す精霊族もいると聞いたけど」
ごく稀に、契約相手から離れることで命を失う例もある。
イースの場合、精霊の血が強く契約に反応しており、そのわずかな確率に引っかかる可能性が高い。
「でも私はこの通り元気です」
だが、イースは偽りを口にしてお手本のような笑顔を返した。彼はじっとイースを見つめたあとで言う。
「……もし何か些細な変化があればすぐに相談して。いずれ、和平を結べば番契約も解除できるようになるから」
「はい。ありがとうございます」
どうにか誤魔化せて、ほっと安心するイース。
そのとき、胸の契約印がじんじんと疼くのを感じた。
◇◇◇
それから、人気のないバルコニーに移動すると、ヴィルハインは真っ先に頭を下げた。
「身分を隠していたこと、すまなかった」
大国ザナルティア竜王国の王子である彼は、他人に簡単に頭を下げてはならないはず。イースが「顔をお上げになってください」と恐縮しながら言うと、彼は身体を起こして続けた。
「王子だと言えば、君はきっとそうして恐縮すると思っていたから、ただの男として関係を始めたかったんだ。これからも、今までみたいに気楽に接してほしい」
「あなたが望むなら」
「ありがとう。それじゃあ……」
ヴィルハインは自然な仕草でイースの片手を取り、上目がちにこちらを見つめる。
「騙していたこと、許してくれる?」
「!」
それはまるで、子どもがあれを買ってとおねだりするような甘えた声だった。イースは、めっぽう押しに弱い。特に、ルビにかわいくおねだりされれば、どんな願いでも叶えてあげたくなる。
だが、ヴィルハインが相手だと調子が狂ってしまうのだ。
胸の奥を甘やかに締め付けられて、思考がおぼつかなくなる。
「許すも何も、最初から責めるつもりなんて……ないですから」
「感謝するよ」
ヴィルハインはそう殊勝に囁くと、イースの手の甲にちゅ、と口付けを落とした。びっくりして固まっていると、先ほどのあどけなさが嘘のような大人びた表情でこちらを見つめ、口の端を持ち上げた。
慌てて手を引き抜き、胸元に寄せて目を泳がせながらも、あくまで平静を装って言う。
「ヴィル様の気持ちが分かるんです。私も何のしがらみもなく過ごしたかったから。こちらこそ身分を隠していてごめんなさい」
「……知ってた」
「え?」
「君が失踪したディアン公爵の元妻だってこと」
戸惑って言葉を失うイースに、ヴィルハインは続ける。
「調べさせてもらったんだ、ごめん」
「謝らないでください」
「……どうして屋敷を出たか聞いても?」
こくんと頷き、唇を動かす。
「……サリアス様が、『ルビを処分する』と話しているのを聞いてしまって。なんとしてでもあの子を守らなくちゃって思って、逃げてきたんです。あの子に万が一、何かあったらって……」
最後の方は、声が震えていた。サリアスの会話を聞いた瞬間の衝撃や背筋の粟立ちが蘇る。
「辛かったな」
たった一言、短いけれど、優しい声がイースの胸の奥にすっと染み込む。
ヴィルハインの前だと、甘えて、寄り掛かってしまいたくなる。いつも貼り付けていた強くてしっかりした姉の仮面が剥がれて、ただの十七歳の少女になってしまうのだ。
イースは口をついたように続けた。
「実家にいたとき……」
「うん」
「母や兄、妹が、ルビを傷つけるようなことをいつも言ってたんです。頑張ってるあんなに小さい子に、どうしてそんなひどいことを言うの? って必死に言い返しても、やめてくれなくて……。家の外に出かけても、ルビは冷たい目で見られました。それが本当に可哀想で、可哀想で……。たった一日だけでも、私が代わってあげられたらどんなによかったか」
バルコニーの手すりに置いた手を、ぎゅっと握り締める。するとそこに、ヴィルハインが自身の手を重ねた。
「苦しみを代われなくても、一緒に背負うことはできる。君はそうしてずっとルビと歩んできたんだろう? 充分よくやったよ。ルビを見ていて思うんだ。この子はたくさんの愛情を注がれてきたんだなって。ルビが擦れずにまっすぐ育ったのは、君の努力の賜物だよ」
けれど、イースには『ありがとう』と素直に受け取ることができなかった。
「私なんて何も……。一番頑張ったのは……ルビで」
「ふたりとも頑張ったんだ。比べなくていい、イースは頑張ったよ」
「でも本当に、家族として当たり前のことをしただけなんです」
するとヴィルハインは、困ったように眉尻を下げ、「――あのさ」と続ける。
「本当は、一番よく頑張ってるって褒めてほしいんでしょ」
「……っ!」
図星を突かれてしまったイースは、言葉に詰まる。知られたくない、暴かれたくない、踏み込まれたくない心の奥に、ヴィルは手を伸ばして続ける。
「イースがずっと誰かに甘えたがってるの、俺が気づいてないと思った?」
お姉ちゃんだから、誰かに弱みを見せてはならないと言い聞かせてきた。一度でも誰かに甘えてしまったら、ひとりで強く立っていられなくなる気がして。
それからヴィルハインは、とびきり甘やかな声で言う。
「今夜くらい、素直になりなよ。お姉ちゃんはやめてさ」
次の瞬間、イースは吸い寄せられるようにヴィルハインに抱きついていた。
彼は何もかも見透かしたように小さく笑い、腕を背中に回す。いつもルビの小さな身体を抱き締めてきたけれど、誰かの腕の中に包まれることがこんなに心地のいいものだとは知らなかった。
そして、誰にも打ち明けたことのない心の内を、声に出してしまう。
「私……は、全然いい姉様じゃないんです。ルビが大好きなのに、今日は姉様をやめたいな、ひとりでいたいなって……何回も何回も思ったこともあるんです。そんなこと、思いたくないのに……」
「それでも守ってきたじゃないか。それに、君には君の人生がある。負い目を感じることなんてひとつもない」
ずっとずっと、ルビが苦しんでいるから、自分は幸せにはなっていけないと言い聞かせていた。
ルビが今日も痛がって泣いているなら、楽しいことをしたら申し訳ない。ルビが何も食べられないのに、自分だけ美味しいものを食べては気が引ける。
そうやってイースは自分を後回しにし、ルビを優先することで、自分の罪悪感を拭ってきた。サリアスに仕事を押しつけられぞんざいに扱われているときも、心のどこかで安心している自分がいた。
「君は幸せになっていいんだよ。一緒に苦しむだけが愛じゃない。好きなことをして笑ってる姿が、ルビの元気に繋がるってことを知るべきだ」
「……ぅ……っ、ふ……っ」
イースは逃げ場のない場所で、責任と罪悪感に押し潰されそうになってきた。ひとりで背負うのが当たり前になっていて、誰かに頼るのは申し訳ないと思っていた。
でも本当は、本当は――安心できる誰かに甘え、守られたかった。
ルビに注いだ温かい言葉の欠片のひとつでも、誰かに与えられたかった。
弱さを見せたくないくせして、何もかも見透かして抱き締めてくれる存在が、喉から手が出るほど欲しかった。
彼の言葉で、ぐちゃぐちゃに絡まっていた糸が解けるように身体の力が抜けていく。イースの頑張りを認め、褒めてくれる人がいる。それだけで何年もの苦悩の日々が報われたような気がした。
イースはヴィルハインの大きな胸に頬を擦り寄せ、縋るように掠れた声を絞り出す。
「ずっと誰かに、お前はよく頑張ってるって……頭を、撫でてほしかった」
肩を震わせて泣くイースに、ヴィルハインは何度も優しい言葉の雨を降らせ、頭を撫でた。背中をとんとん、と子どもをあやすように軽く叩かれてひどく心地がいい。
「何回でも言うよ。君は本当に頑張ってるって。俺はちゃんと、見てるから」




