27 たった一日、お姫様になれる日
いよいよ、バラの祝日を迎えた。イースはその日の朝、ひどく血を吐いた。ルビには見られなかったが、ここ最近はかなり体調が悪く、気づかれるのも時間の問題だろう。
今朝、ヴィルから届いた手紙が血で汚れてしまった。洗面所から部屋に戻ったイースは改めてそれを読む。
『今夜、パーティー会場で待ってる。ヴィル』
書かれていたのは、たった一文。
けれど、その言葉にふたりにとって深い意味があることは分かっている。彼は今夜、イースに求婚するつもりなのだろう。そして恐らく、彼の本当の身分は……。
ヴィルはイースの番だ。
けれど、一緒にいたいという願いは叶わない。サリアスとの番契約が残っているからだ。これがある限りイースの命は蝕まれ続けるし、サリアスの了承なしで、契約を解除することはできない。
ずっと、サリアスに首を繋がれたような状態で、自由などなかった。ようやくサリアスがいない新しい土地に逃げ延び、弟の病も回復した。けれどまだ、本当の自由とは言えない。
寝台で眠っているルビを見つめる。昔から変わらないあどけない寝顔が愛しくて、胸がいっぱいになる。
(ごめんね、姉様……ルビとずっと一緒にいられないみたい)
自分の身体のことだから、誰よりもよく分かる。きっとイースは、そう長くない。けれど、ディアン公爵家を飛び出してきた日から覚悟はしていたことだ。
これまでルビのために、イースは自分の多くの時間を捧げてきた。
行けなかった場所、やれなかったこと、叶えられなかった夢が、イースの手の中にはたくさんある。だが、そんな未練の数々を天秤にかけても、ルビと過ごせた時間の方が遥かに価値のあるものだった。――そう自分に言い聞かせて、強くて優しい姉の仮面を被り続けてきた。十七歳の少女である自分を心の奥に押し込めて……。
イースの涙が、ぽたりとルビの頬に落ちる。
「楽しんでくるね。大好き、ルビ」
眠っているルビにそう囁きかけて、腰掛けていた寝台から立ち上がると、軋む音が静かに響いた。
ヴィルからの手紙をテーブルに置いたままなのを忘れ、部屋を出た。
「……姉様」
夜遅く、ルビはひとり目覚め、寝台から起き上がる。きっと今頃イースは、パーティーを楽しんでいるころだろうか。
満足した気分でテーブルまで歩みより、一通の手紙を見つける。
「血……っ」
その手紙が血で汚れているのを見て、ルビははっと息を呑む。指をちょっと切った――程度の出血量ではない。
そしてふいに、イースがよく咳をしているのを思い出した。
何か、嫌な予感がした。ルビは思わず、手紙を持って部屋を飛び出していた。
◇◇◇
イースは王宮が用意してくれたドレスに着替え、身支度を整えた。
夜会の会場となる大広間には、すでに大勢の人は集まっていた。高い天井に、きらきら繊細な輝きを放つシャンデリアがぶら下がっていて、人々を暖かな光で包み込んでいる。
壁には美しい絵画や、花やリボンの装飾品が飾られていた。オーケストラの生演奏に合わせて、若い男女が優雅に踊っている。
注目すべきは彼らの衣装だ。ザナルティア竜王国では見られない多様なデザインから、異国から来た人なのだと理解した。
(パーティーは久しぶりで、緊張する)
イースはきょろきょろと辺りを見渡し、ヴィルの姿を探した。
彼の姓も、家族のことも、過去のこともほとんど知らない。けれど、今日ここで会えば、彼の素顔に触れられるような気がしていた。
すると、周囲から視線が集まってきていることに気づく。
「あそこに立っている令嬢は誰だ……?」
「なんて美しいの……」
イースが歩く度、一息吐く度に、どこかから感嘆の息が漏れる。
サリアスがかつて見初めた精霊族のイースは、作り物のように美しい。まるで、雪原にひっそりと咲く一輪の花のように可憐だ。笑顔が消え、『仮面姫』とあだ名されるようになってからも、イースの美貌を否定する声は上がらなかったのがその確かな証拠である。
体調不調による今にも消えてしまいそうな儚さが、イースの魅力をいっそう引き立てていて。
(ヴィル様は、まだいらっしゃらないのかしら)
ヴィルを探すイースのもとに、複数の男性たちが歩み寄る。ザナルティア竜王国の貴族はもちろんのこと、異国風の出で立ちの者もいた。
「レディー、僕と踊っていただけませんか?」
「いえ、ここは私と!」
「お名前を教えてください」
「外で一緒に涼みませんか?」
彼らは皆、このパーティーに花嫁候補を探しに来ている貴公子たちだ。
複数人に同時に話しかけられて、イースは戸惑ってしまう。
「あ、あの……すみません。先約があって」
ヴィルを探しに行きたい気持ちを抑えて、彼らのひとりひとりに丁寧に対応をする。しかし、令息たちの意識は直後に、広間の入り口に向けられた。
ざわり。入り口付近が騒がしくなり、その声がイースの耳にも届く。
(誰か、来たみたい)
そう思って扉の方に視線を向けた瞬間、イースは目を見開く。
現れたのは、黒髪で長身の男性だった。藍色を基調とし、贅沢な刺繍が施された衣装は、その人の美貌を際立たせる。圧倒的な存在感を放つ彼は――ヴィルだった。
ヴィルは大勢いる参集者の中で、一番にイースを見つけた。目が合った瞬間、イースの心臓が跳ねる。
(……かっこいい)
彼が歩くと、人々は道を作って恭しく頭を下げる。令嬢たちはどこがうっとりとした表情で彼を見つめ、ひそひそと噂話をした。
「綺麗……あの方が婚約者だったら幸せでしょうね」
「でも、冷酷非道で、他人に関心がないお方だと聞いておりますわ」
ヴィルはイースの目の前に立った。そして、大切なものを見つめるように優しく目を細める。
「随分と人気者ですね」
「あなたは……」
「失礼、ご挨拶が遅れました」
ヴィルは胸に手を当てて優雅に一礼したあと、不敵な笑みを浮かべて言う。
「ザナルティア竜王国が第二王子、ヴィルハイン、セレスティアと申します。君の花婿候補に立候補しても?」
「……!」
彼の正体が第二王子ということは、うすうす気づいていた。出会ったときからそこはかとなく高貴な雰囲気があったし、服装も上等なものだった。
第三王子ルイの前でのやけに気安い態度や、第二王子と同じ異能を持つことなど、引っかかる点はいくつもあった。
そこで、これまでの行動を思い出し、王子に対し失礼はなかったかと回想する。一方、広場にいた令嬢たちは、ほとんど笑顔を見せなかったヴィルハインが「お笑いになった……!?」とざわついている。
ヴィルはイースの周りに集まっていた令息たちを、品定めでもするかのように視線でひと撫でした。
「ライバルが多そうだ」
「ま、まさか……っ。第二王子殿下の特別なお相手とは知らず」
「我々のことはどうかお気になさらず……!」
畏怖が入り混じったような声で、令息たちはそう言い、まるで潮が引いていくのようにその場から去っていった。
残されたヴィルは、イースに片手を差し伸べ、「俺と踊ってくれますか?」と誘いの言葉を口にした。
「……はい、私でよければ」
騎士だと思っていた相手が、実は大国の王子で、番だった……なんて、まるで物語のようだ。イースはおとぎ話のお姫様になったような気分で、どぎまぎしながら、彼の手に自分の手を重ねた。
けれどそのときめきは一瞬で消え、ルビのことが思い浮かび、イースの顔から笑顔が消える。
(ルビのこと、ヴィル様に頼んでおこう。私が死んだあとも困らないように……)
寂しげに揺れるイースの瞳を、ヴィルは静かに見つめていた。




