17 バラ園と膝枕
イースはヴィルに抱き抱えられたまま、近くのバラ園に移動した。
バラでできたアーチを潜り、白亜のガゼボに入る。彼はジャケットを折りたたんで枕にし、石でできたベンチに置いた。
「ここに頭を乗せて横になって」
「せっかくのお洋服が汚れてしまいます」
「そんなこと気にしないで」
「ありがとう……ございます」
「城の者に飲み物を持って来させる」
「あの……でも、そこまでしていただくわけには……」
けれどヴィルは、イースの制止を聞かずにガゼボを出て、使用人に指示を出す。
そっと横になると、ヴィルが貸してくれたジャケットからほのかに香料の香りがしてやけにどきどきした。
(ヴィル様はどうして、私にこんなに親切にしてくれるのかしら)
彼からしたら、素性も知らない相手のはずだ。このままヴィルの優しさを受け取ってしまってもいいのだろうか。
弟以外の誰かに優しくされたことのないイースは、こういうときどうしたらいいのか分からなかった。甘やかすのは慣れているけれど、甘やかされることにはめっぽう弱いのだ。
「お待たせ。水、ここに置いておくから」
ヴィルがテーブルにコップを置く。
ベンチに横になり、バラの葉が風に揺れる音に耳を傾けていたら、いつの間にか微睡みに沈んでいた。
どれぐらい、時間が経ったのだろうか。
ヴィルがイースの頬を撫でる。その指の感触に気づき、イースは目覚めた。その指で彼は、風でイースの顔にかかった髪をひと束そっと退ける。
すっかり目を開けるタイミングを見失ってしまい、しばらく寝たふりを続ける。
「……かわいい」
そんな甘やかな囁きが上から降り注がれ、心臓がどきんと音を立てた。
(今、かわいいって……)
戸惑いながらそっと瞼を持ち上げると、深い海を吸い込んだようなヴィルの青い双眸と視線が交錯する。
彼は、先程の囁きと同じくらい、甘い眼差しでこちらを見つめていた。
「起きた?」
イースは少しだけ重い瞼を擦りながら、半身を起こす。
「どれくらい眠ってたんでしょうか」
「んー、二時間くらい」
「そんなに!? すみません、付き合わせてしまったようで」
「全然。気にしないで。いつも頑張ってるし、疲れてたんでしょ。ほら、水」
ヴィルはコップをこちらに差し出し、イースは遠慮がちに受け取って飲む。
彼はイースの顔を覗き込みながら問いかけてくる。
「顔色は良いみたいだけど、気分はどう?」
「まだ痛みますが、大丈夫です」
「よかった」
ヴィルはごく自然に空になったコップをイースから取り上げ、テーブルに戻す。
「ヴィル様、剣の訓練の途中だったのでは……?」
「少しくらい抜けたって平気。それより、君の身体が大事だから」
爽やかに微笑むヴィルに、胸の鼓動が忙しなくなる。
「騎士の皆さん、熱心に訓練なさってますよね。イゾルテへの侵攻のためですか?」
「うん」
もともと竜族だけに存在していた――番制度。
竜族は番をとても慈しみ、制度を継承してきた。だが、イゾルテ王国は、番制度を都合よく解釈し、人族が精霊族を支配することを正当化するために利用し始めたのだ。
自分たちの信奉してきた制度を捻じ曲げられたザナルティア竜王国は激昂し、長年イゾルテに番制度の見直しを要求した。だが、イゾルテはその要求を拒絶し続けた。
話し合いによって平和的な解決を試みてきたザナルティア竜王国だったが、とうとう番制の保護名目に軍事侵攻を開始したのだった。
「戦争はまだ続くんでしょうか」
「長引かないと思うよ。イゾルテは、上層部は腐敗によって政治基盤が脆弱になっているし、番制度に反対してきた者たちを中心に内部崩壊が起きていて、こちらに協力する貴族も現れている」
「そうなんですね。ザナルティアはイゾルテで国を併合するつもりなんですか?」
「いや、統治権を取り上げる気はない。ただ竜族が望むのは、偽りの番制度を撤廃し、支配された人々を解放すること。それだけだよ」
ヴィルは、竜族にとって番制度が、命と同じくらい大切なものなのだと説明した。
だから、それを汚すことは絶対に許せないのだと。
イースは呟く。
「……番制度の撤廃は、竜族だけじゃなく精霊族の願いでもあると思います」
早く戦争が終わっては和平が成立し、イースと同じような思いをしている精霊族が自由になることを願った。
すると、ヴィルは険しい表情を浮かべ、少し悩んだように言った。
「イースは、第二王子殿下をどう思う?」
「え、ヴィルハイン様のことですか?」
ヴィルハインは、今回の侵攻の主導している人物だ。社交界にほとんど顔を出さず、他人に興味がなく、愛想がないと言われている。
「冷酷で手段を選ばない男で、みんなから恐れられている。実際そうだ。君も怖い?」
「……少し。でも、番制度で苦しんでいる人たちを助けようとしてくださっていますよね」
イースはヴィルをまっすぐに見据えて続けた。
「ヴィルハイン様が一部の人の恩人であるのは事実ですし、実際に会ってみないと、どんな方かは分かりません。だからただ、評判を鵜呑みにするつもりはないです」
「……そっか」
それを聞いたヴィルは、どこか安心したように肩の力を抜いた。
「それに、ルイ様があんなに慕っている方が、悪い人だとは思えません」
「慕っている?」
「はい、とても」
「そんな風に、思われてたのか。……ヴィルハイン殿下は、自分のことを不甲斐ない兄だといつも言っていた。長らく病気がちで人付き合いをしてこなかったから、年の離れた弟にどう接していいか分からなかったんだ」
「私なんかが申し上げるのは恐れ多いかもしれませんが、きっと不器用なりの愛情が、ルイ様の心に届いていたんじゃないでしょうか」
「……ありがとう、イース」
「……?」
そうして彼はなぜか、自分事のようにイースに感謝を述べた。
「ヴィルハイン殿下に、お伝えしておく」
ヴィルはふいに、視線を風の外に移す。気づくと、夕日が傾いていた。
「体調がよくなったなら、家まで送って行くよ。遅くなるとルビも心配するだろうし」
「いいんですか?」
「まぁ――」
ヴィルはずいと顔を近づけて、口の端を持ち上げる。
「俺がちょっとでも君と一緒にいたいっていうのが本音」
「!」
予想外の言葉に、また心臓の鼓動が加速する。彼の掴みどころのない笑顔に、何度も翻弄されるイースだった。




