14 熱を出した王子
翌日以降も、イースはルイのもとに行った。毎日ルイはイースを邪険に扱い、冷たい言葉を投げつけた。イースは静かにそれを受け止めて、彼の命令に従って邪魔をしないよう過ごした。
ルイに仕え始めてから十日。朝、イースの顔を見たルイは一瞬、驚いた表情をする。
「あんた、また来たのか。あんなに冷たくしたのに……」
「なら今日はもう少しお手柔らかにお願いしますね、ルイ様」
「うるさい」
そう言って、ふいと顔を背けた彼。やっぱりまだまだ、心の壁は分厚いなと感じた。
その日も、午前中は家庭教師が代わる代わる部屋を訪れては、ルイに高度な教育を施した。先生が帰っていったあとも、ルイは黙々と自習を続ける。
「あの……ルイ様、午前中からまだお休みを取られていません。少し、休憩なさってはいかがでしょうか」
「俺に指図するな」
「……申し訳ございません」
感心する気持ちと無理をしすぎていないかという心配が入り交じった複雑な思いを抱きながら、しばらく後ろ姿を見つめていたら、ルイはくしゃみをした。
「くしゅっ」
その拍子に手の甲がインク瓶に当たって倒れ、インクが溢れる。イースはすぐさま駆け寄り、瓶を起こしてインクで汚れた机を拭き始めた。
「失礼いたします」
(また、余計なことをするなって怒られちゃうかな)
そう覚悟したが、叱責の言葉は返ってこない。気になってルイの顔に目を向けると、顔が真っ赤になっていた。息も荒くて、瞳は潤んでいる。
「…………ぁ、はぁ……」
「ひょっとしてご気分が悪いのでは」
「平気、だ……っ」
「すみません、少し触れさせていただきますね」
「や、やめ――」
ルイは両手でイースを押し離そうとするが、イースは彼の前髪の下に手を忍ばせて、額に触れた。
(すごい熱)
今日一日、ルイが体調不良を我慢していたと思うと胸が痛くなった。ずっと近くで見守っていたのに、気づけなかった自分が情けない。もっとも、気づいて『休んでほしい』と訴えたところで、撥ね除けられてしまっただろうけれども。
そう思った直後、ルイがふらりとこちらに倒れてきた。イースが彼の体重を受け止めたのと、彼が気を失ったのはほぼ同時だった。
「大変、ルイ様、ルイ様しっかりしてください……! 誰か、お医者様を――」
◇◇◇
ルイが倒れたあと、すぐに宮廷医が診察しに来た。医師から薬を受け取り、今後の指示を受けたイースは、ずっとルイに付きっきりだった。
診断結果は、疲労。九歳の子どもを疲労で倒れさせてしまったのは、世話役であるイースの責任だ。
寝台で横になり、真っ赤な顔で苦しそうに息をするルイを心配そうに見守るイース。
(お辛そう)
汗をかいたら拭い、額の上の濡れたタオルが温くなったら、もう一度冷やして額に乗せ直す。その繰り返しで、数時間を過ごした。
それから、ルイが目覚めたのは夕方のことだった。
「あんた……なんでまだ、いる」
瞼を持ち上げた彼は、イースの顔を見て不服そうに言う。
「お仕事なので。それに、ルイ様のことが心配で。ご気分はどうですか?」
「少し、マシになった。あんたがタオル、替えてくれたのか?」
「はい。どうして……ご無理をなさるんですか」
「役に立つ存在だと証明しなければ、ここを追い出される」
「ルイ様がお身体を壊しては、みんな心配してしまいますよ」
「…………俺には、誰かに心配してもらえる価値なんてない」
熱で弱っているせいか、いつもつっけんどんなルイが珍しく弱音を零す。
ヴィルから、ルイが王宮内で微妙な立場にあり苦労をしてきたことを聞いていたため、ルイの自己肯定感の低さにも納得できた。だが、九歳の子どもにこんなことを言わせてしまったことが切ない。
「そんなことありません。ルイ様は、たくさんの不安の中、何度も踏ん張ってきたんですよね。そんな方が誰にも気にかけてもらえないなんてこと、絶対ないです」
「……!」
するとルイは、もともと大きな目をさらに大きくして、こちらをじっと見つめた。
「優しくするな……っ。そんな優しい言葉をかけられても、俺は騙されないぞ」
胸がつきりと痛む。きっとこれまで、出自のことで、信じた誰かに背を向けられたり、傷つけられたりしてきたのだろう。だから、自分を守るために期待するのをやめたのだ。
けれど本当は、『それでも私は見捨てない』という返事をルイが待っているように見えた。
「私のこと、信じてくださらなくていいですよ」
「え……」
「でも、ルイ様のどんな小さな思いでも、私は受け止めますから。少しでも気持ちが楽になるなら、怒りでもなんでも私にぶつけてください。ルイ様が頑張っていること、私はちゃんと見ています」
小さくて、尊い命が、傷つき迷いながら一生懸命生きている。
ルイもルビも、みんなが頑張っていて、愛おしさが込み上げてくる。優しく丁寧に触れて、守りたい、力になりたいという感情が、自然と湧いてきた。
「……おかしな奴」
ルイはそう言うと、寝返りを打ってこちらに背を向けた。その背中がわずかに震えていて、泣いているのだと分かった。
その背中は悲しくて、寂しそうで、九歳の子どもの泣き方とは思えなかった。彼は今までもこうして感情を他人に見せず、隠れて泣いてきたのだろう。
イースは手を伸ばして、いつもルビにしているように小さな背中をそっと擦る。ルイは拒まなかった。
しばらくしたあとで、ルイは半身を起こして言った。
「明日も、来るのか?」
その問いに、不器用なルイなりの『来てほしい』という願望がこもっている気がして、思わず頬を緩めた。
「ルイ様がお嫌でなければ」
「……そ、それは」
一瞬言い淀んだあと、ルイは今にも消え入りそうな声で、「嫌じゃない」 と答えた。
「水をかけて、ひどいことを言って……悪かった」
熱を出して少しだけ素直になったルイ。
今日は、ルイとイースの距離がわずかに縮まったような気がした。
◇◇◇
仕事が終わったあと、イースは橙色に染まった街を歩いていた。
夕暮れの雰囲気が漂う街に、人のざわめく声が響く。
今日もあの小さなボロ屋で、ルビが自分の帰りを待っている。早く帰らなければという焦りがイースの足取りを加速させた。
紙袋から、焼きたてのパンの匂いが漂ってきて、食欲をそそる。そのとき、目の前にルイと同じくらいの年齢の少女二人が、手を繋ぎ通り過ぎた。
「今日も楽しかったね!」
「うん。明日も絶対遊ぼう」
「いいよ、また明日ね」
「バイバイ!」
仲が良さそうな二人の様子を見て、微笑ましさと同時に、羨ましさを感じた。
(いいなぁ。ルビもあんな風に友達ができたらいいのに)
辺りを見渡すと、今度はベンチで寄り添い合うカップルが目に留まった。
イースも友達はいないし、恋愛経験もない。家族とも絶縁し、夫から逃れてきた。この広場に広がるきらきらした日常のひとコマは、ルビにもイースにも――縁のない世界に思えた。
イースとルビはずっと、社会から隔絶された場所で過酷な試練と戦うばかりの人生だったから。
「ごほっこほ……、ケホッ……」
咳き込んだのと同時に、喉の奥に鉄の味と何かが出てくる感覚がした。咄嗟に手のひらで口元を抑え、しばらく咳き込んだあと、手のひらには血がついていた。
(血……)
それを見て、イースは青ざめる。
番契約を結べば、契約者から離れると影響が出る。そしてその影響力は、精霊の血が濃いかどうかに左右されると言われている。
自分の命が削られていっているのを実感し、背筋が冷たくなるのを感じた。
自分がいつまで生きて、ルビの成長を見守ってあげられるか分からない。だが、怖くても今を精一杯生きていくことしかできないと、自分に言い聞かせた。
血のついた手のひらをハンカチで拭いていると、主婦二人の噂話が耳を掠めた。
「ねぇ、聞いた?」
「ええ、イゾルデ王国とザナルティアの和平交渉が進んでいるそうね」
「戦争なんて早く終わってほしいわ。ヴィルハイン殿下の戦好きには困ったものね。番制度保護なんてただの口実で、実際は戦争したいだけでしょ」
「しっ、不敬よ。誰かに聞かれたらどうするの。イゾルテ王国の番制のせいで竜族の伝統が貶められてるのよ? 黙ってられないわ」
その話を聞いたイースが二人の眺めていた掲示板を見ると、ザナルティア竜王国がイゾルテ王国に提示した和平の条件が書かれていた。
そこには賠償金や利権の他に――
第××条、イゾルテ王国は、番制度を完全に撤廃することを約す。
という文言が書かれていた。
そこには第二王子ヴィルハインの署名があり、竜族の番制度を守るために交渉を進めていく意志も綴られていた。
(番制度に苦しむ私たちのために、今も戦ってくれている人がいるのがありがたいわ)
そして、掲示板を眺めているイースの姿を――ディアン公爵家の騎士たちが、建物の影から見つめていた。
「――いたぞ。イース様だ」
「ああ、すぐに拘束して、旦那様の元へ連れて帰ろう」