01 初夜に夫は愛人を連れ帰った
かつて、精霊の末裔――精霊族が治めていたイゾルテ王国。
イゾルデ王国には、ふたつの種族が暮らしている。
人族と精霊族だ。
現在、精霊族の数は少なくなり、圧倒的多数を占める人族がこの国を支配している。
この国において、人族が精霊族の番を持つことは――権威の証。
運命と言えば聞こえはいいが、人族が希少な精霊族を支配するための制度のようなものであり、婚約と同時に番同士が契約を結ぶことで、主従契約が成立する。
番に選ばれても、愛され大事にされるならまだいい。だが――イースはそうではなかった。
夫婦の初夜、イースの番であるサリアスは寝室に来なかった。寝台に腰掛けて、壁に飾られた時計を眺めていると、とうとう日付が変わった。
そのとき、扉がノックされ、侍女が入ってきた。
「奥様にご報告があります」
「何かあったの?」
「は、はい。実はその……大変申し上げにくいのですが、旦那様は……」
彼女は申し訳なさそうに目を泳がせたあと、ゆっくりと口を開いた。
「今夜はお越しにならないかと」
精霊族のイースは、この国の若い公爵サリアス・ディアンの番に選ばれた。
彼の番になったのは、イースが十四歳のときだった。彼を愛すことのないまま三年が経ち、婚約期間を経たふたりは夫婦となった。
曖昧に濁された侍女の言葉に、イースは首を傾げる。
「どういうこと?」
「そ、それは……」
「教えてください」
静かに目で威圧すると、侍女はか細い声で打ち明けた。
「今夜、女性を屋敷にお連れになったようで……」
イースは、無言で寝台から立ち上がる。
「お待ちください、どこに行かれるのですか?」
「自分の部屋に戻るだけ。もう、サリアス様がいらっしゃらないなら、ここにいる意味はないでしょう」
好きでもない人と夜を共にしなくて済んだので、かえって安心している。
そう答え、部屋を出た。
回廊を歩くと、靴音が静かに辺りに響く。
イースの長い藍色の髪を、窓から差し込む月明かりが照らし、艶やかな光を放った。
「きゃっ、サリアス様ったら……」
すると、扉が少し開いた客室から、室内の光と女性の甘い声が漏れ出ていた。
足が、止まる。
(まさか)
そっと中を覗き見ると、夫のサリアスが寝台で若い女性――リアンヌに覆い被さり、首筋に口づけていた。彼女はサリアスの頭を撫でて、甘えるように言う。
「もう……イース様との初夜はよろしいのですか?」
「いいさ、あの女は権威を示すために利用しているだけ。可愛げもなく全く惹かれない。俺が愛しているのはお前だ、リアンヌ」
「確かに、イース様は弟のことばかりで、つまらないですわよね」
「ああ。あの弟は穀潰しにすぎない。いずれ――処分するつもりだ。イースにはよそ見せず、我が家のためだけに働いてもらわなくてはならないからな」
「まぁ、ひどいお方」
リアンヌは意地悪にくすっと微笑み、サリアスの口づけを受け入れた。
(処分……ですって?)
その言葉を聞いて、イースの中で何かがばらばらと音を立てて崩れ落ちていく。
病を患っている弟のルビは、イースが何よりも愛しく思い、慈しみ、守ってきた存在だ。
初夜をほったらかしにされたことなんてどうでもいい。
彼が誰を愛そうと、構わない。
何より許せないのは――ルビを傷つけようとしていることだ。
イースは部屋の扉を開け放ち、中に入った。こちらの姿を見たサリアスは、はだけたシャツ姿のまま、半身を起こす。リアンヌはシーツで身体を隠し、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「何をしに来た」
まずはサリアスがひと言問い、そのあとにリアンヌが続けた。
「あら、覗き見だなんて高貴な趣味ですこと」
ふたりの開き直った態度に、呆れ果てて言葉も出ない。すると、サリアスはその調子で続けた。
「何、心配するな。書類上の妻はお前ひとり。だが、婚約時に約束したように、愛人を作ってもいいルールだっただろう? 俺にも安らぎが欲しい。そこで、リアンヌを愛人として迎え入れるつもりだ」
リアンヌは下級貴族の令嬢で人族だ。可愛らしい顔立ちで、ウェーブのかかった金髪が印象的。
イースも社交の場で何度か顔を合わせたことがあった。よくサリアスに話しかけていたし、サリアスはいつもイースよりリアンヌを優先して、特別な関係だということは知っていた。
そして、サリアスは念押しするように付け加えた。
「いいな、お前は命令にだけ従え。俺に選ばれた番なんだからな」
鼻で笑いながらそう言われたイースは、きゅっと拳を握り締める。
番としてサリアスを支え、誠意を尽くしてきたイースの献身を、彼はゴミでも踏むかのように踏みにじった。
「ええ。もちろん――」
イースはいつも、サリアスの言う通りにしてきた。政務を押し付けられても、約束を破られても、何でも「はい」と言って受け入れ、拒んだことはなかった。
(ここにいるのは、ルビにとって危険だわ。それなら……)
サリアスと婚約を結んでから、笑わなくなったイース。そのおかげで社交界では『仮面姫』というあだ名を付けられたほど。
そんなイースが、ふっくらとした唇で、優雅な笑みを浮かべて告げる。
「お断りいたします」
それは、失望と軽蔑が入り交じった笑顔だった。
イースは心の中で、この家を出ることを決心した。
完結保証です。
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