第四話 森の主
黒の森――その名のとおり、昼でも陽が差さぬ密林の奥。
空気は湿って重く、木々はねじれ、腐臭と鉄の匂いが混ざり合っていた。
レイは鼻をつまむこともせず、ただ無言で木々をかき分けていく。
数日かけて調べた地形とルゥの助言をもとに、彼は“主”が棲むとされる領域を目指していた。
「まるで、戦場跡みたいだな……」
足元に転がる、折れた剣。朽ちた鎧。裂けた布――どれも、相当に古いものだった。
だが、それらの間を歩くと、確かに感じる。生ぬるく、這い寄るような“何か”の気配を。
ふと、木の幹に何かが刻まれているのに気づいた。
それは古い言葉で綴られた碑文――いや、“祈り”だった。
『ここに捧ぐ。王に従いし忠誠の魂、咎を負わされし英雄の無念』
レイは黙ってそれをなぞる。
(……同じだ。裏切られ、捨てられた。なら、きっと話が通じる)
しかし、その希望は――甘かった。
「――なぜ、ここに来た」
声がした。
雷鳴のように低く、朽ちた甲冑が擦れる音と共に。
その男は、いや、“それ”は、木の根元に座していた。
ボロボロのマント。片方の腕を失った鎧。顔はフードの奥に隠れ、かすかに光る片目だけが見えた。
だが、ただの生き残りではない。
その身から放たれる威圧感は、レイが騎士団で感じたどんな上官よりも強く、深く――そして、狂っていた。
「……俺は、お前と話がしたい。かつて王に仕え、捨てられた者として」
レイは手を剣に添えることなく、言葉だけで伝えた。
「俺は――レイ・ヴィオル。王国に裏切られ、殺されかけた。だから今、力を求めている。お前が持つ“王国に抗う術”を」
「……ヴィオル……か」
その名に、微かに反応があった。
“主”は立ち上がり、重たい一歩を踏み出した。
「ならば、与えよう。“力”を。――ただし」
その声が冷たく沈む。
「お前が“俺と同じ”になれるなら、だ」
直後、レイの視界が歪んだ。
霧。血の臭い。焼け焦げた人肉の匂い――幻影。いや、“記憶”だ。
見知らぬ城砦。
兵士たちの断末魔。泣き叫ぶ女たち。焼ける書類。
すべてが混ざり合った地獄のような光景の中、“主”――かつての名は“ガイル・クレイン”は立っていた。
「撤退命令など、下していない。お前が勝手に城を明け渡したのだ!」
「違う……俺は、命令を受けた。王からの直命で、ここを――」
「ガイル卿、あなたが城を売ったという文が、すでに王都に届いています」
「待て、それは罠だ! 俺は、俺は忠義を尽くして……!」
だが、耳を貸す者はいなかった。
彼は“裏切り者”として処刑される直前、隙を突いて脱走し、黒の森へと逃れた――
その記憶の残滓が、レイの意識に流れ込んでくる。
「くっ……!」
膝をつき、息を荒げるレイに、“主”――ガイルが歩み寄る。
「これが、俺の“真実”だ。そして、王国に抗うというのはこういうことだ。孤独に、誤解され、呪われ、喰らい、喰らわれる」
彼の指先がレイの胸に触れた瞬間――黒い魔力が流れ込んできた。
苦痛。焼けるような痛み。だがそれは、拒絶ではなかった。
「お前の魂は、まだ人間だ。だが、その中にある“怒り”は……俺に似ている」
「……だから……俺は、お前と違って、“戻る”」
レイはゆっくりと立ち上がった。
「同じように裏切られたとしても、俺は諦めない。“正しいもの”を証明するために……戻って、叩き潰す。俺を捨てた王国も、裏切った仲間も、全部だ」
その言葉に、主は黙ったまま、わずかに顔を上げた。
そして――笑った。
歪んだ、ひび割れたような笑みだったが、そこにはほんの僅かに、かつての“騎士”の影があった。
「……そうか。ならば、最後の忠告をくれてやる」
彼は懐から何かを取り出し、レイに投げ渡した。
それは、王国軍の極秘印章が押された古びた文書だった。
「“黒槍”作戦――それがお前を嵌めた全ての始まりだ。真実を知りたければ、それを持って王都に潜れ」
「“黒槍”……?」
だが詳しく聞く間もなく、“主”の姿は霧の中に消えていた。
その夜、レイは森の縁に戻り、ルゥの小屋で火を焚いた。
彼の手には、重たい文書。そして胸には、うごめく黒い力。
「……ただの人間には、もう戻れないかもな」
「でも、前より顔がスッキリしてる。何か吹っ切れた?」
「ああ。“敵”がはっきりした。それだけで、随分と楽になるもんだな」
ルゥは眉をひそめた。
「じゃあ、次は……?」
「決まってる。王都に潜り込む。そして、“黒槍”の正体を暴く」
再起の牙は、確かに研がれつつある。
その裏で、王都では“影狩り部隊”が森へ向けて進軍を始めていた――