第三話 再起の牙
夜の森は、生きている。
それは静寂ではない。獣の遠吠え、木々の軋み、草を踏み分ける小動物の音が、絶えずどこかから響いている。
黒の森は“死者の森”とも“呪われた地”とも呼ばれていたが、それは間違いだった。
ここは、王国の外で“生きる”しかない者たちの、唯一の拠り所なのだ。
「まずは、火起こし。次は食糧調達。あと、森での歩き方、隠れ方、音の消し方――」
ルゥの声が淡々と続く。
レイは焚き火の前でしゃがみ込み、湿った枝に火をつけようと悪戦苦闘していた。
「……くそ、火種がすぐ消える。お前、どうやってこれを一発で……」
「手が震えてるから。あんた、我慢強いけど、根本的に森の生き方ができてない。剣振るのは得意そうだけど、それだけじゃね」
ルゥはそう言って肩をすくめ、手際よく小枝を並べ替える。
あっという間に火はつき、暖かい光が二人を照らした。
「……やれやれ、まるで訓練兵の初日だな」
「まあ、“お坊ちゃま”にはキツいでしょ」
「おい、誰が坊ちゃまだ」
「知らないの? あんたの喋り方、ちょっと貴族っぽい」
「……昔、教育はそれなりに受けてたからな」
思い出すのは、剣の稽古と礼儀作法ばかり詰め込まれた少年時代。
貴族の端くれとして育てられ、だが名家とは言えず、才能だけを頼りに騎士団へ志願したあの頃。
「……あの頃の自分が、今の俺を見たらどう思うだろうな」
「うーん、泣くんじゃない? でも、今のあんたの方が、ちょっとだけ“人間”に見えるけど」
その言葉に、レイは目を細めた。
「……皮肉か?」
「ちょっとだけ、本気」
ルゥはそう言って火のそばに置いた獣の肉を返す。焚き火の上でじゅう、と音が鳴った。
狩ったのは小型の牙猪、森の定番の獲物だという。
今までの王都の暮らしでは想像もつかない食事だったが、空腹の身体には十分だった。
レイは黙って肉を受け取ると、ひとくち齧った。固いが、しっかりとした旨味があった。
「……悪くないな」
「でしょ。森の食材、なめちゃダメ」
二人の会話は、わずかに和らいだ空気を生む。
けれどその束の間の平穏の背後には、確かに“外”の影が忍び寄っていた。
数日が過ぎた。
レイは日々、森での生き方を学び続けた。
罠の仕掛け方。毒草の見分け方。夜の風向きと、獣の足跡の読み方。
それらはすべて、“剣”ではなく“生”に直結する術だった。
筋肉の痛みは次第に和らぎ、左腕の傷も癒え始めていた。
動ける。戦える。――だが、まだ足りない。
(……王都へ戻るには、情報が要る。仲間も、武器も)
だがそれ以前に、まず必要なのは“影に潜む力”だ。
王国に正面から挑めば、今度こそ命はない。
だからこそ、牙を研ぎ、爪を隠し、影から切り裂く力を手にしなければならなかった。
「……なあ、ルゥ」
「ん?」
「“この森の主”って、なんだ?」
ふと思い出したのは、集落の住人が口にしていた言葉だ。
――『あんたも、あの“主”には近づかない方がいい』
それは警告とも、恐怖とも、敬意ともつかぬ口調だった。
「森の主……か。あー……あれはね、いるよ。人じゃないけど、人だった何か。もともとはこの森に捨てられた“元英雄”って噂」
「……英雄?」
レイの眉がわずかに動く。自分と似た境遇――そう思わせる言葉だった。
「王国の外に逃げ延びた元騎士、魔族と共にいた裏切り者、王家の血を引く隠者――噂はいろいろ。でも、はっきりしてるのは、“今の森の最奥に近づいた者は、誰も戻ってこない”ってこと」
「……その“主”は、生きてるのか?」
「うん。たぶんね。私は会ったことないけど。でも、誰かが見たって言ってた。ボロボロの鎧をまとって、森を歩いてたって」
ルゥの瞳に、かすかな興味が宿っていた。
「まさか、行くつもり?」
「……もし、そいつが本当に王国に捨てられた元騎士なら、話ができるかもしれない。生き延びるための術も、王国の弱点も知ってるかもな」
レイの声は静かだが、揺るぎがなかった。
「それに……俺は知りたいんだ。俺と同じように“捨てられた者”が、どうやって生きたのか」
ルゥはしばらく黙っていたが、やがてため息をつき、苦笑を漏らした。
「……ほんと、面倒なやつ。死なないでよ。あんた、たぶん今のままだと“主”に喰われるよ?」
「その時は、そいつの力でも何でも奪って、生き延びてやるさ」
冗談めいた口調でそう言い放つレイに、ルゥは小さく笑った。
「……やっぱり、ちょっとだけ“勇者”っぽいかもね、あんた」
その夜。
森の外――王都エルミリアの一室では、異なる火が灯っていた。
「逃がした、だと?」
冷たい声が響く。玉座の脇に立つその男は、王の補佐官にして影の実行者、《審問官》ヴェリウス。
「申し訳ありません……黒の森の霧に紛れ、追跡は……」
「いい。奴はもう“死人”だ。だが、万が一があってはならん」
ヴェリウスは窓の外を見つめる。その目は、まるで氷のように冷たく澄んでいた。
「影狩り部隊を送れ。次は……森ごと燃やしても構わん」