第二話 影に棲む者たち
森は静かだった。あまりにも静かで、風が揺らす木の葉の音すら不気味に感じられる。
ルゥの案内で、レイは黒の森の奥へと進んでいた。
枝葉に隠された小道を縫うように進むその足取りは、森の地形を熟知している者のそれだ。
レイは何も言わず、ただ彼女の背を追う。逃げる道すがら、痛む腕と脚をかばいながら。
「……あんた、ほんとに王国から来たの?」
ふと、ルゥが小さく問いかけた。
夜のように暗い森の中、その声は妙に澄んで聞こえた。
「あぁ。元は、な。」
レイの返事は短く、冷たかった。だがそれ以上に冷たいのは、その言葉の裏にある感情だった。
かつて王国を信じ、守るべきものと信じて剣を振るった日々――それが、すべて裏切られた。
「王国に何されたの?」
レイはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと答えた。
「全部、だよ。信頼も、名誉も、仲間も……」
その言葉に、ルゥは何も返さなかった。ただ黙って歩き続ける。
彼女の横顔には、どこか自分と同じ傷を抱えた者の気配があった。
しばらくして、木々の間からほのかな光が漏れ始めた。
ルゥが茂みをかき分けると、そこには小さな集落のような場所が広がっていた。
粗末な木造の小屋がいくつか点在し、焚き火の周囲には数人の男女が肩を寄せ合っていた。
「……ここが、あんたの居場所か?」
「“影の村”って呼んでる。王国に捨てられた人間の、残りカスみたいな集まり」
そう語るルゥの目は、どこか遠くを見ていた。
集落の住人たちは皆、レイの姿に一瞬だけ緊張の色を見せたが、ルゥが「大丈夫」とだけ言うと、再び焚き火に意識を戻した。
レイは一歩、二歩と村へ足を踏み入れる。
地面には乾いた泥。木壁には剥がれた薬草の跡。
目に映るのは、決して“生活”とは言えない光景だった。
――それでも。
「……生きてるんだな、お前ら」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「生きてるっていうか……死ねないだけ。死ぬ場所も、ないし」
ルゥは肩をすくめ、崩れた小屋の影に身を寄せた。
レイもその隣に腰を下ろす。骨の奥に染み込むような疲労が全身を包んでいたが、ようやく少しだけ安堵の息が吐けた。
「なぁ、ルゥ。お前……どうして、こんなところにいる?」
「……昔ね、王都で奴隷みたいに働かされてたの。貴族の屋敷で、親を騙されて売られて」
言葉は淡々としていたが、その奥に沈む感情は痛いほどに伝わってきた。
ルゥは膝を抱え、低く囁くように続ける。
「反抗したら、罰。泣いたら、罰。黙っていても、罰。ある日、火事があって、私は逃げた。でも……逃げた先にあったのは、ただの『生き延びる』だけの場所だった」
レイは目を伏せた。
この国は、表向きは整っている。秩序も、法律も、正義もある。
だが、その裏ではこうして搾取され、捨てられ、忘れられていく命があふれていた。
そして自分もまた、その正義を信じ、振るっていた。
(俺は……こんな現実を知らずに、誰を守ってきたんだ?)
その思考を断ち切るように、ルゥが立ち上がった。
「……あんた、これからどうするの?」
レイは、迷いなく答えた。
「俺は戻る。王都に。――全部、暴くために」
ルゥの目がわずかに見開かれた。その言葉はあまりに無謀で、愚かにさえ思えるだろう。
だがレイの声は、揺るぎなかった。
「裏切られて、捨てられて、それでもまだ……俺には、終わらせなきゃならないことがある。俺を“処分”した奴らを、そのままにしておくつもりはない」
ルゥはしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。
「なら……少しは力、貸してあげる」
「……何?」
「どうせ、あんたみたいな馬鹿はほっとけない。死んだらつまらないし。森で生きるためのやり方、少しは教えてあげる。下手すれば、すぐ餓死で終わるしね」
肩をすくめるその姿は、どこか無垢で、それでいて頼もしかった。
レイは苦笑を浮かべ、深く息を吐いた。
(……これが、俺の“再起”の始まりか)
かつての栄光も、誇りも、すでに灰となった。
今の自分には、傷と憎しみ、そして――この命しか残されていない。
だが、それで十分だった。
それがあれば、やり返せる。立ち上がれる。
再び、正義を名乗る偽善者どもに鉄槌を下す、その日まで。