第一話 逃走
焼け落ちた王城の裏門を抜け、レイ・アルクシアは深い霧の中へと姿を消した。
あのまま剣を抜いて戦うこともできた。命を投げ捨てて反撃することも――だが、彼の心にはそれを許さない理性が残っていた。
(今はまだ……死ねない。)
王都エルミリアの外れに広がる「黒の森」。その名の通り、常に霧が立ち込め、昼でも夜のように薄暗いこの森は、昔から「死者の眠る場所」と呼ばれていた。人の気配がほとんどなく、魔獣や亡者の噂も絶えない。だが、だからこそ追手もそう簡単には踏み込めない。
木の根をかき分け、枝を払い、レイはひたすら進む。
血の気が引くほど冷たい風が頬を撫でるたび、背中に走る痛みが増していく。
先ほど、追手の一人が放った雷撃が、背をかすめていた。皮膚が焼け、鎧は一部が焦げ、左腕には力が入らない。
(カイン……お前、あれほど躊躇いなく……)
思考が勝手にあの顔を思い出す。いつも陽気で、人一倍仲間思いだった男の姿。
あの剣が、今や自分を貫こうとしている。
背中から、冷たい感情が這い上がる。信じていたものが、嘘だった。守っていた王国が、実は最もレイを搾取し、裏切った存在だった。
「……チッ」
痛みに耐えきれず、舌打ちが漏れる。
それでも足を止めるわけにはいかない。
追撃はすぐそこまで迫っている。背後では、魔法の光が木々を照らし、兵士たちの掛け声が不気味な反響を生んでいた。
「奴はまだ森の中にいるぞ!逃がすな!」
レイは体を伏せ、這うようにして茂みに身を隠す。息を殺し、音一つ立てず、兵士たちの通過を待つ。
(……なぜ、俺だけがこうなった?)
思えば、王国のために戦い続けたこの五年間。魔族との戦争、北の侵略者との交戦、民の救出――すべてをこなし、仲間の盾となり、先陣を切った。
だが、いつからか周囲の視線は変わっていた。
王からの密命を受け、王族の不正を調べたあの日。
あれがすべての始まりだった。
気づけば仲間は離れ、偽りの罪を着せられ、立場は「裏切り者」に変わっていた。
「……ふざけやがって……!」
押し殺した声で、レイは地面を殴る。
腕の痛みが再び走るが、今はそれがむしろ意志を繋ぎ止める支えのように感じた。
(いいさ……全部、暴いてやる。俺を捨てた王国も、あの腐った連中も……)
その時、突然近くの草むらが揺れた。
思わず身構えるレイの目の前に現れたのは――一人の少女だった。
年の頃は十五、六か。ボロ布のような服をまとい、肌は土と血にまみれ、目元に深い影がある。
レイを見ても怯えることなく、ただじっと見つめていた。
「……誰だ?」
問いかけに答えず、少女はレイの怪我した腕に目をやると、無言で腰から布をほどき、差し出した。
「……助ける気か?」
「……血の匂いが強い。すぐ追いつかれる」
その一言に、レイは黙って布を受け取り、傷に巻きつけた。
少女の手際は慣れていて、どうやらただの通りすがりではない。
「お前……この森の住人か?」
少女は小さくうなずき、短く答えた。
「名前はルゥ。ここでしか生きられない。だから、あんたも静かにして」
ルゥ。
彼女の目は、レイとは違う種類の絶望と、同じような諦めを宿していた。
この森は、ただの逃げ場ではない――追放された者、行き場を失った者たちが集まる、もう一つの「現実」だったのだ。
「……ここにいれば、奴らも手出しできないのか?」
「しばらくは。でもいずれ、森ごと焼かれる」
「……上等だ。」
レイは立ち上がり、痛みを押し殺しながら言った。
「ここで死ぬ気はない。俺はまだ、やることがある。」
ルゥはレイをじっと見つめると、小さく口の端を上げた。それが微笑みだったのか、ただの皮肉だったのか、レイにはわからなかった。
だが、確かに彼女の中にあった光が――少しだけ、揺れたように見えた。