ヴィクトリア・エメロード公爵令嬢は次期皇后である
私が仕えるヴィクトリア・エメロード公爵令嬢は、わが帝国で唯一の次期皇后である。生まれたときから皇后となることが決まっていたお嬢様は、一流の家庭教師と一流の使用人に囲まれ、次期皇后としてふさわしい令嬢へと成長した。
今日は、私たちの自慢のお嬢様の誕生パーティーであり、お嬢様が嫁ぐ予定の第一皇子で次代の皇太子候補のクリス・アルシュベルド殿下との婚約が発表される予定であった。
「俺は、婚約者として、アイリーン・シュトルツ伯爵令嬢を指名する」
お嬢様に向かって声高に宣言したアルシュベルド第一皇子は、得意げな顔をして周囲を見回す。全員が驚きあきれたような目線を送っていることにも気付かない。アイリーン・シュトルツというお嬢様の足元にも及ばないどこかの令嬢は、アルシュベルド第一皇子に腰を抱かれまんざらでもなさそうだ。
お嬢様は二人を見て、いつものように完璧な内心を悟らせないほほ笑みを浮かべる。私たちの自慢のお嬢様は、どんなときでも美しく気高い。
「アルシュベルド第一皇子殿下は、シュトルツ伯爵令嬢とご婚約なさるということですね?」
あえて主語と述語を明確にして、お嬢様が尋ねる。
――ああ、これで、第一皇子は逃げられない。
「そうだ!」
「よろしいのですか?今なら発言を撤回しても――」
「王族としていちど発した言葉は撤回しない!」
「かしこまりました。殿下のお言葉、ここにいる貴族全員がしかと拝聴しましたわ」
「残念だったな、ヴィクトリア。次期皇后はお前ではなく、ここにいるアイリーンとなる」
第一皇子の言葉に、会場は水を打ったように静まり返る。ヴァイオリンとピアノの音だけが、やけに響いていた。私たち使用人が目配せすると、何人かが足音を立てずに会場をあとにする。別室で歓談中の旦那様たちを呼びに行ったのだろう。
「まあ殿下、なぜシュトルツ伯爵令嬢が次期皇后となりますの?」
「お前こそ何を言っている。次期皇帝の妻となるのだから、アイリーンが次期皇后だろう」
なるほど、そういうことか。私たち使用人含め、会場の貴族のみなさまも、なぜ第一皇子がこのような愚行にでたのかようやく理解した。両陛下から説明もあったはずなのに、このような残念な頭では理解ができなかったらしい。
このような愚鈍な者に、私たちのお嬢様はふさわしくない。
さて、このままお嬢様がこの愚物と言葉を交わすのは、お嬢様の時間の無駄だ。他の使用人たちも同じ気持ちだったらしく、私たちは静かにアイコンタクトをとる。第一皇子をさっさと取り押さえようとしたが、お嬢様がすっと片手を上げて私たちを制した。
「殿下、残念ですわ」
お嬢様が優雅にため息をつくと、その美しさに自然と目が奪われる。第一皇子も目を奪われていた。それはそうだ、お嬢様以上の美しさと賢さを持つご令嬢は帝国を探してもいないのだから。にもかかわらず、どこの馬の骨ともわからない伯爵令嬢を選ぶというのだから、愚物以外の何者でもない。もはや、正気の沙汰ではないだろう。
「な、何を言っている」
なんとか持ち直した第一皇子が、震える声で言い返す。今さらながら、お嬢様を手放すことがおしいと思ってきたに違いない。
「ふ、ふん。それでも、もしお前が俺に従うというなら、側妃にしてやらんことも……」
「嫌ですわ」
愚物の提案をお嬢様は気持ちいいまでに切り捨てた。私も当然だとばかりに頷く。このような男の側妃など、お嬢様には役不足というものだ。
「な、な……」
「わたくし、見目が少しいいだけの男に興味はございませんの」
お嬢様が鼻で笑うと、どこからともなくくすくすと笑い声が響く。それはまたたく間に会場を包み込み、寄り添う二人の愚かな男女に向けられた。
「今!笑ったのは誰だ!不敬罪で全員処刑してやるぞ!」
顔を真っ赤にした第一皇子が叫ぶが、敬うはずの人間ではない者が何を言ってもあわれなピエロにしか見えない。私も思わずため息がもれた。
「あなたに、そのような権利はないわ」
不敬だ処刑だと騒いでいた第一皇子が、そのお方の顔を見てさっと青ざめる。くすくす笑っていた貴族も笑いをやめ、そのお方に膝をついた。お嬢様も膝を折り、私たち使用人も最上の礼を示す。
「場を騒がせて申し訳ないわ。ヴィクトリア、せっかくのあなたの誕生パーティーを台無しにして」
「とんでもございませんわ、皇后陛下」
現皇后陛下はお嬢様以上の完璧なほほ笑みを浮かべ、お嬢様の手を取って立たせた。それをちらりと見た貴族たちは、やはり次期皇后はヴィクトリアお嬢様で間違いないと確信する。皇后陛下は、息子である第一皇子を切り捨てたのだと。
「みなさまもお顔を上げて?せっかくの楽しいパーティーなのだから」
皇后陛下のお言葉に貴族のみなさまと使用人たちも頭を上げる。皇后陛下とお嬢様が手を取り合う様子に、どこからともなく拍手がわき、「皇后陛下万歳、帝国万歳」というかけ声まで聞こえてきた。それほど、お二人の高貴さは筆舌に尽くしがたく、目も心も奪われてしまう。私も目頭の奥が熱くなった。
いつの間にか現れた皇帝陛下に公爵夫妻も加わって、すっかり場はお祝いムードに戻ったというのに、やはりそれをぶち壊すのは愚物たちだった。
「お、お待ちください!母上、俺……いや、私は……」
「あら、まだいたの?」
皇后陛下の冷たい目が第一皇子に刺さる。隣の伯爵令嬢はあまりのことに気を失ってしまった。そんなに軟弱で、よくも次期皇后になれると思ったものだ。心底あきれてしまった。
第一皇子は膝を震わせながらも、ギリギリ意識は保っているようだった。
「母上、私は、アイリーンと婚約を……」
「そう。で?」
「いえ、ですから、次期皇后は、アイリーンを……」
「そこの無様に倒れている小娘が、次期皇后?」
皇后陛下が扇を開いて、「ほほほ」と笑うと、お嬢様や皇帝陛下、公爵夫妻、周囲の貴族も声を上げて笑う。その空気に、ようやく第一皇子は自分が何かを間違えたらしいことに気づき、膝をついた。
「何を言っているのかしら?次期皇后はヴィクトリア、これはわたくしが決めたことよ」
「でも……でも……次期皇帝は私の……」
「どうして、陛下とわたくしの子どもがここまで愚かなのかしら」
皇后陛下の瞳から、真珠のような涙が一粒流れる。シャンデリアの光を反射したその涙のあまりの美しさに人々は息をのんだ。
「皇后よ、すまない」
「いいえ、陛下。わたくしも悪かったのよ。……何より、ヴィクトリアに謝らなくては」
「そうだな。ヴィクトリア、愚息が申し訳ない」
「とんでもないことでございます!両陛下には本当の娘のように慈しんでいただき、わたくしは本当に感謝しております」
お嬢様が令嬢としてではなく、一人の娘としてのほほ笑みを見せると、会場から感嘆の声が上がった。さすが私たちのお嬢様、こういうときにあえて無邪気な娘のように振る舞って、両陛下のすばらしさを喧伝されていらっしゃるのだわ。
「なぜ、ですか……」
こんな感動的なシーンを、それでもまだ邪魔する第一皇子に、私はあきれを通り越して同情すら覚えていた。アホは罪だ。
「私は、次期皇帝となるべくこれまで研鑽を積んできました……!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を向ける第一皇子に、皇后陛下は心底あきれたようにため息をつく。
「研鑽を積んだ結果がこれですか?」
「へ……?」
「あなたには何度も言ったはずです。次期皇后はヴィクトリア。そのヴィクトリアにふさわしい皇帝となるようにと」
「おかしいではないですか!なぜそこまでヴィクトリアに……」
「陛下のお姉様は、それはそれはすばらしいお方でした」
皇后陛下が、うっとりとした瞳で天を見上げる。
「しかし、当時の皇帝は、お姉様が女というだけで皇帝にはしなかった。でも、おかしいでしょう?本当に優秀な者が、この帝国を導くべきだわ」
皇帝陛下が皇后陛下の肩を抱く。
「それはね、陛下も同じだった。だから、わたくしたちは誓ったの。お姉様の血を濃く引いたこのヴィクトリアを頂に据えると」
皇帝陛下のお姉様は、女傑として帝国中のすべてがその存在を知る才女である。皇帝となる資質を持ちながらもあとを継ぐことは許されず、公爵家に降嫁した。そうして生まれたのが今の旦那様で、その直系がヴィクトリアお嬢様である。
十も歳の離れた現皇帝は、そのお姉様を心から慕っていたことも有名だ。だからこそ、ヴィクトリアお嬢様が生まれたときから次期皇后になることは決定していた。そのヴィクトリアお嬢様にふさわしい相手が、皇帝となることも。
第一皇子は床に額をこすりつけ、「そんな……」とか「おかしい……」とかぶつぶつとつぶやいている。そもそも、この話は第一皇子なら当然知っているはずなのに、いつからか勘違いしてしまっていたのか。
「わたくしたちの息子でもあったけれど、やはり前皇帝の血を引いた子でもあったわ。あの子はヴィクトリアにふさわしくないわね」
皇后陛下が手を上げると、衛兵が第一皇子と伯爵令嬢を引きずって会場から退場する。第一皇子の心は完全に折れてしまっただろう。明日から正気を保って生きていくことは難しいかもしれない。……あら、もともと正気の沙汰ではなかったのだわ。
「みなさま、お騒がせして大変失礼いたしました。後日、皇室からお詫びの品をお届けいたします」
皇后陛下のお言葉に、再び拍手が湧き上がる。使用人たちにも特別手当が出そうだ。ああ、やはり、お嬢様にお仕えしていてよかった。
「それでは、次期皇后ヴィクトリアの誕生パーティーを始めましょう」
まるで先ほどまでのことなどなかったかのように、パーティーが再開される。貴族のみなさまは優雅なダンスを披露し、お嬢様は多くの方々に囲まれて祝いの言葉を受けている。
両陛下もそんなお嬢様の様子を嬉しそうに見守り、公爵夫妻もお嬢様のご成長に必死で我慢していた涙がうっかりこぼれていた。
そうしてすべての方から祝福を受け、お嬢様は輝くばかりに美しく、完璧なほほ笑みを浮かべている様子を見て、使用人一同そんなお嬢様にお仕えする喜びに胸を震わせているのである。