悪役はおしまい!
「こんなものお姉様に相応しくないわ!」
私はそう言って義姉の亡き母の形見をぶんどった。悲しむ義姉の姿に申し訳なくなるが、今はこうするしかない。
取り上げて満足そうにしながら自室に戻る。
誰も入らないように告げてから、自分専用の宝石箱とは別の本のように偽装した箱に形見の宝石を入れた。
部屋からでた私は家の使用人に馬鹿にされないように、私は父と母に愛されている愛娘だと大きくアピールするのも忘れない。別に本当に愛娘かどうかは重要ではない。否定されないのだからそう言っておけばいいのだ。
「まぁ、マリア様はなんて覚えが早いのでしょう、それに比べてイザベラ様ときたら!姿勢が曲がっています!」
また別の日、私を褒め称えたあと、家庭教師が義姉を厳しく指導するのを笑って見つめる。
一見すると義姉への理不尽な扱いのように思えるかもしれないが、これは家庭教師が厳しく指導することで義姉を立派な淑女にしようと熱が入っているだけだ。家庭教師なりに義姉のためにやってくれていた。
厳しくすることで立派な淑女となった義姉がいつかこの環境から抜け出せるように。
「わたくしはいつも叱られてばかりだもの。マリアは凄いわ」
「なにを言ってるのよお姉様。期待されていないから私は褒められているのよ」
家庭教師が去ったあと、涙を拭って私を褒める義姉の姿に呆れる。
義姉が家庭教師のことを誤解しないように耳元で少しだけわかりやすく教えれば、次の授業から義姉は鬼気迫る表情で彼女の教えを全て吸収しようとしていた。
私はそれを恋物語を読んでいるフリをしながら見守る日々が長く続いた。
「あらお姉様、食事もしてないの?ガリガリなのに胸は大きくて気持ち悪いわ。ちょっと、あの苦いお茶を準備して。わたし、優しいから飲ませてあげるわ」
「お嬢様、あれは病人に処方する薬の一つです、健康な人が飲むものでは」
「それが何だって言うの、私がガリガリで気持ち悪いお姉様のために用意してあげるっていう優しさを踏みにじる気?」
またある日、お古をあげる名目で義姉の部屋を訪ねると、充血した目をした義姉が出迎えた。
それを見てとっさに指示をする。反抗的な態度だと私が睨むと、メイドは慌てて部屋から逃げ出した。
誰もいなくなったため、私は義姉に椅子に座るように促し、おでこに手を当てる。やはり、熱があるようだった。
「マリア」
「薬を持ってくるだろうから。でも、嫌そうに飲むことを忘れないで」
「ごめんなさいね、マリア」
ツンとした私の態度に義姉が謝るので、私も素直に口を開く。誰もいないのだからたまにはいいだろう。
「別に、私こそ。お母様が怖いからお姉様にこんなことしているわ」
「あなたは優しい子よ。お姉様がいつかあなたを誤解しない素敵な人を見つけてあげる」
「なにを言ってるんですか。飴なら食べられるはずですよね、お茶のあとに舐めてください」
熱に浮かされて私を褒める義姉に、人にバレないように小瓶に飴を三つ入れて押し付ける。感謝されることなんて何もしていない。お古の中に一着だけ義姉に合わせて用意したドレスがあるので活用してと伝えると、義姉はとろけるように優しい笑みを浮かべた。
「あ、あの。お茶をおもちしました」
ようやく薬草茶を持ってきたメイドに、どこを聞かれたか分からないので、わがままで理不尽で馬鹿だと印象づけるために私は「遅い!」と理不尽に叱責した。
・
ステンドグラスから鮮やかな光の降り注ぐ美しい教会。
愛の女神像が見守るなか、結婚式が始まる。
花嫁はレースの美しい白いウェディングドレスを身にまとい、世界一の幸せ者のような笑顔を浮かべている。
花婿もそんな花嫁を優しい笑顔で見つめていて、乙女が理想とするような美しい結婚式だった。
新婦の親族として参列していた私は、式が終わったことに一息つき、小さな、一見すると本に見える宝石箱を抱えなおす。
「あの娘、悪女マリアではなくて?」
「イザベラ様をいじめていた義妹でしょう?よくこの結婚式に顔が出せたわね」
周囲の囁き声を聞き流しながら、義姉の控室を目指す。結婚式前に二度追い払われたので、このタイミングを逃すと義姉は辺境に旅立ってしまう。姉の嫁ぎ先である辺境伯家のメイドが私を汚いものを見るような目で見てくる。それに構わず制止される前に義姉がいる控室に向けて大きめの声をだした。
「イザベラお姉様、マリアが参りましたわ」
お色直しを終えて休憩していたらしい義姉が、私の声掛けに慌てたように出てくる。その頬はピンクに染まっていて、とても嬉しそうなことが誰にだって分かっただろう。
「まぁ、マリア!来てくれて嬉しいわ!」
義姉をいじめていたことで有名な私をイザベラはためらわずに抱きしめる。その豊かな胸の感触にささやかな自分の胸を思い出して少し悲しくなる。
姉の喜びように辺境伯家の使用人は戸惑っているが、彼らがどう思おうが私には関係のないことだ。
「家を出るお姉様にこれを。本当は結婚式前に渡したかったのですが」
私は手に抱えていた青い小さな宝石箱を義姉に渡した。
不思議そうにしながらも受け取って、その中身を確認した義姉は目に涙をためた。
「これは、お母様の」
「全部とまではいきませんけど、売り払われないように少しは残せましたわ」
義姉の生みの母親を恨んでいる母は、その持ち物を全て処分していた。義姉が引き継いでいた宝石も奪って売り払っていたので、当時の私は義姉にとって大切なものを守ろうと強引に自分のおもちゃとして義姉から取り上げたのだ。
その結果がこの、指輪やイヤリング、ネックレスといったものだ。
「ありがとう。そう、そうね、あなたはそういう子だものね」
控えていた使用人に宝石箱を預けた義姉は、再び私を抱きしめた。
その、穏やかで優しい抱擁に私は小さな笑顔を返した。
「嫁ぎ先では絶対に幸せになってね、イザベラお姉様」
一番伝えたかったことを伝えて、私は披露宴には参加せずに帰宅した。
・
「イザベラ、なにかいいことがあったのか?」
マクシミリアンはお色直しの前と後で、わたくしの様子が違うことに気が付いて声をかける。その言葉を受けてわたくしは寄り添ってから頷く。
いつか、この形見の宝石とともに結婚式に出たいとマリアにわたくしは話したことがあった。そのあと容赦なく奪われて悲しく思っていたけれど、マリアがそのことを忘れているはずがないと今になれば簡単に分かる。
「ええ、マリアがわたくしの夢を覚えていてくれたのよ。お母様の形見を身につけて結婚式に出たいっていう」
「あの、本を抱えて式に出ていた妹君か。君はなぜか妹君が大好きだよな」
その本のように見える宝石箱こそが母の形見だった。手渡すことは間に合わなくてもマリアが母を参列させてくれた気がして、とても嬉しかった。
「そうね。あの子は恋物語で人を例える事がよくあるの。だからあの子自身も自分は悪役とか悪役令嬢だって思っている節はあるみたいだけれど、わたくしに言わせれば、あの子は優しくて臆病で一生懸命なだけなの」
「そういう噂は聞かないが?」
「臆病なんだから自分を強くみせるのに必死なの。でも普段の当たりがどんなに強くても、とっても優しい子よ。あの子なりの処世術だわ。だから、あの家から出られたらあの子も自分らしく生きられるでしょうに」
わたくしが嘆くと、マクシミリアンは面白いことを思いついたような表情でわたくしを見つめてきた。
「妹君によい男を探すと言っていたが候補は見つかったのか?」
「ええ、グレン伯爵とかどうかしら」
「グレンときたか、なるほど。あいつは、そうだなぁ……いや、悪くない気もするな」
「でしょう?」
さて、それよりもわたくしは後でマクシミリアンとよく話さなければならない。
わたくしとマリアの会話で仲が悪いものと思い込んでいた使用人たちが、わたくしに謝罪したことで、結婚式前に何度か訪ねて来てくれたマリアを追い払っていたことを知ったからだ。
主人の、義理とはいえ妹を勝手に追い払う行為には物申したい。
あの子は噂のような子ではないから素直に引き下がってしまうのだ。そのことに一回目で違和感を覚えなかったのも考えが足りない。せめて二回目はわたくしに話を通すべきだった。先程だってそんな使用人の態度が、マリアに大声を出させる状況に追い込んでしまっていたのだ。
悪だくみを考えているマクシミリアンの横でわたくしもどう話をするかを真剣に考えていた。新婚初夜はなかなか長い夜になりそうだ。
・
義姉が結婚して数カ月後、私に結婚の話が舞い込んだ。相手はピーター・グレン伯爵。義姉に片思いしていたことで有名な男である。
かなりのお金を貰ったのか、私は伯爵と結婚させて、従兄弟を家の後継者にすると父が宣言した。母は義姉が嫁いで以降、不気味なほど大人しく、私が売られるというのに特に反対意見もないようだった。
下町で暮らしていたときも「もし薬物に手を出したら私の手でお前を殺す」と宣言されていた。なので実のところ母の私への愛情は私自身もよくわかっていない。
「わかりましたわ」
まぁ、義姉のように愛のある結婚ができると夢を見ていた訳では無い。わたしは諦めて結婚の準備を始めた。婚約期間も最短の一ヶ月、その間の顔合わせはなし。さらには結婚式も行わないというのだから、これからの私の扱いが分かるというものだ。
最短の婚約期間なんて普通は子どもができてしまったとかいう事情がない限り常識的にありえない。そんな短さだ。
恋物語で例えるなら、義姉をいじめていた悪役の末路としてはそこまで残酷なものではない。
ピーター・グレン伯爵は義姉に片思いしていたということ以外の情報は、大層な美男子で、とても女性に優しいというものくらいしかなくてあまり参考にならない。
自室には恋物語の本で溢れているが、乙女趣味のこれを婚家に持っていくこともできないだろう。物語では私のような人間は悪役なのだと知っていたから、熱中はできなくても、読むのはとても好きだった。
「マリア、話があるわ」
私の部屋に入ってきた母が人払いをして母娘二人きりになる。もとから優しく愛情深い母とは言えなかったけれど、一体何をいう気だろうか。
「この結婚が、あなたにとって良いものでなかったとしても、この家に戻ってこられるとは思わないことです。あなたに母も父もいないという覚悟でいなさい」
「……わかりましたわ」
母の私と同じ紫の瞳を見つめて、その冷え冷えとした視線に少し怯んだものの、私は素直に頷いた。この宣言通り母は決して私を助けてはくれないだろう。
・
「お前に妻の待遇が与えられることはない。身の程を知るがいい」
「はい」
一ヶ月後、書類上で結婚した男性と顔合わせをしてすぐに言われた言葉がこれだった。
対面に座る男の青い目が綺麗だなと思いながら私は気の抜けた返事をする。
彼は私の義姉に恋をしていたことで有名な伯爵だ。噂に違わぬ美男子ではある。
所謂、恋物語での当て馬というべきか。選ばれない方の男。
その冷たい視線で私を射抜く姿はなかなかに恐ろしいものがあるのかもしれない。でも私は恋物語にでてくる冷たい夫の定番セリフにちょっとした感動をしていた。
それに、どんなに印象が最悪でも殺されはしないだろうと思っている私は平然としている。
別に私は彼が好きでもないし、結婚に夢を見ていた訳でもないので、負けヒロインならぬ負けヒーローの八つ当たりなど正直、鼻で笑いたいところだ。
けれどこういう姿を見れば辺境伯を選んだ義姉はやはり見る目があると頷く。
化け物辺境伯と囁かれる男と結婚したために、姉が売られたと笑う友人らしき人もいたが、私もバッチリ売られているので、姉妹間格差は実のところそこまでない。そこはまぁ、仕方がないだろう。両親が、特に父が愛しているのはお金なので。母は最近考えていることがよく分からないのでなんとも言えないが「母も父もいないものと思え」と言われたからには縁は切れたのだろう。
第一声以降、くどくどとここでの生活について言う男を可哀想に思って見つめる。
この人、こんなんだから義姉に選ばれなかったんだろうなぁ。
「聞いているのか、マリア!」
「使用人として働けってことですか?多分一番得意なのは掃除ですよ」
「き、君は令嬢としての自覚はないのか!」
「私、下町育ちですし。それで話って三年後に不妊を理由に離婚して放逐、ってことですよね?」
「そうだ。変な顔をしていたが聞いてはいたのか」
ああ、それはあなたが負けヒーローになった理由を察して、可哀想に思っていたからである。
私の適当な言葉遣いに、彼が綺麗な銀髪に印象的な青い瞳の美麗な顔をしかめ「その言葉遣いはなんだ」と突っかかってくるので、私はため息をつく。
「妻扱いされないんなら、適当でいいじゃないですか。お嬢様すんの面倒くさいし」
「面倒くさい!?伯爵夫人がそんな態度でいいと思っているのか!」
「妻扱いしないんじゃないんですかぁ?」
目の前の男は世間の噂を信じて私が義姉を好んでいじめていた報いとして、私への嫌がらせのために結婚するのだから、払う敬意などない。そう考えた私はやりたい放題だった。多分、おそらく、常識的に殺されないというのは分かっているので。
もしこの挑発で暴力を振るわれたら女性救済の修道院に逃げ込めばいいし、そうでなくとも義姉に修道院を紹介してくれるように手紙を出せばいい。
「今、なんか知らないですけど妻扱いしてますぅ、やめてくださーい」
「君が妻扱いされる方が嫌なら俺も一考するが」
「ああ、なんと悲しいことでしょう。わたくし、辛くて仕方ありませんわ!」
私はハンカチで涙を拭った。悲しい。こんな男の妻役など面倒くさい。そう思えば自然と涙が出た。
「君は気が強くて、とにかくわがままな癇癪持ちだと聞いたぞ!話が違うんじゃないか!?」
「あらまぁ。まぁ、三年のことです。自分で始めたことなのですから、頑張って下さいませ」
私が励ませば、彼は悔しそうに歯噛みした。どうやら乙女憧れのスーパーダーリンには程遠い男のようだ。
あれだ、嫌がらせに慣れていない姿を見るに、流行の恋物語で例えるなら「いい人なんだけど」で振られる枠だろうか。
・
私はとりあえず奥様業はしないことにした。結婚から三ヶ月程度経つが、書類上の旦那様ともほとんど顔を合わせない。
グレン伯爵は王城に出仕しているため、昼間はほとんど伯爵邸にいない。
使用人たちも、奥様のような同僚のようなお客様のように接してくれるため、快適な日々を過ごしていた。苛烈ないじめが待っているのではと警戒していた結婚前よりよほど胃に優しい。
「奥様、二階の清掃終わりましたぁ」
「あら、仕事が早いわね」
幼い掃除メイドが嬉しそうに報告するので、座って花瓶を磨いていた私は褒める言葉を返す。
彼女はまだ十代前半の幼い少女だが、彼女の両親もこの伯爵邸で働いているため見習いの仕事をさせているらしい。真面目で働き者の子は可愛いので私は彼女を可愛がっている。
ところで、親切な人の多いこの伯爵邸で働く人々は、女主人として迎えたはずの私の扱いに困っていた。詳しく指示をしない私の書類上の夫は考えが足りないらしい。
彼の駄目なところを指摘すると、私に嫌がらせをしたいはずなのに屋敷に住む人間に私に冷たい態度を取るように言っていないのがまずよくないし、夫婦の寝室ではないがきちんと私専用の部屋を用意しているのもよくない。
あの伯爵はいじめとは何たるか、それから性格が悪い女が何かをおそらくまったく理解していない。
「旦那様、騙されそうで心配ね」
私に対してどうやらかなり無理をして悪ぶってはいるが、そもそも結婚して「妻扱いしない」が一番の嫌がらせだと思っている男を思い、私はピカピカに磨いた花瓶を置いてため息をつく。
三年後、私と離婚していざ新しく結婚となったら、見た目は清純で人当たりのいい金目当ての本物の悪女ってやつに食いつぶされるだろう。見える見える。女に食い物にされるあの書類上の旦那様の姿が目に浮かぶ。もしくは新しく嫁に迎えた相手ともども何かしらに騙される未来がやはり見えた。
もしかしたら私は千里眼なるものの持ち主かもしれない。
そんなしょうもないことを考えていたら、夕食後に旦那様の書斎に来るようにと手紙で指示をされた。
「今日は屋敷にある花瓶を全て磨いた?そこまでしろとは言っていない。一日三つくらいにしておけばいいものを」
「嫌がらせする気あります?」
嫌がらせをされる方の私がツッコミを入れてしまった。おっと、これではいじめてもらいたい人のようではないか。私は慌てて両手で口をふさいだ。
書斎にある小さなテーブルとソファに並んで座って、お茶をしながら私の報告を受けていた旦那様はため息をついた。
「それはまあいい。それより結婚してこの三ヶ月で君への費用がひとつも減っていない。どういう生活をしているんだ」
「そりゃあお給金貰ってますからそれで生活してますよ」
「給金?」
「妻扱いしないってことだったので。まぁこの邸で働く人には奥様のような同僚のようなお客様として良くしてもらってますし。さらには働きに応じて給金貰ってますよ。ちょっと相場より高めの給料ですね」
私の答えを聞いて遠い彼方に視線を投げた彼は今、一体何を見つめているのだろう。ようやく自分が悪役に向いていないことを自覚したのだろうか。
さらりとした銀髪が流れるのを横目でなんとなく見ながら、私は用意されたお茶に口をつけた。美味しい。これは客用の上等な茶葉だろう。
「マリア、ひとつ聞いていいだろうか」
「なんですか?」
「君はキャンベル夫人に嫌がらせをしていたのか?」
「ああ、まぁ。していないとは言えませんね。母に従わねば私が怒られるのが分かっていたので。そのうえで義姉を守れるほど私は上等な人間ではないですもの」
「それは、そうか」
「したくてした訳じゃないけど、イザベラ姉様が私にいじめられたのは事実ですからね。八つ当たりを続けても別に構いやしませんよ」
ふうと一息ついてからカップを置き、言葉の刃を磨く。
「姉様にフラれた男ってだけの旦那様が、一体どんな理屈で私に八つ当たりする権利があると思っているのかは甚だ疑問ですが」
私の言葉に書類上の夫がうなだれた。
現実で綺麗な対立構造などそうそう出来上がりはしない。私は確かに義姉をいじめたが、いじめたかったわけでも、それが楽しかったわけでもない。
そもそも母が義姉を目の敵にしたのだって結婚目前の父と母の間に割り込んだ義姉の母のせいだ。当時の私の母はどうしても父と結婚したくて用意された縁談を断り、家を勘当された。そのせいで苦労をしたのだ。義姉の母の家が割り込まなければこうはならなかったはずだ。
実のところ今の母は父をそんなに愛していないので、私はそれに深い闇を感じている。母は怖い。
「義姉に片思いしていたことで有名な、我が家に良い感情のないあなたにあっさり売られた時点で、私の立場なんて分かることでしょう」
「……俺のしていることは八つ当たりか」
「まぁ、八つ当たりですねぇ」
そういう捨てられた犬のような瞳で見つめないで欲しい。いじめられてなお美しく心優しい完璧な淑女を貫いた義姉と違って、私は幼少期を下町で育ったから貴族にもなりきれないし、自分が怒られたくないからという理由で人をいじめるような、できていない人間なのだ。
「すまない」
書類上では私の旦那様である男は肩を落として、心底申し訳無さそうに謝罪した。
たしか、以前の会話で私について誰かから聞いていた発言があった。
この人に私をお金で買うって発想ができそうにないので、そもそもこの結婚、旦那様の発案ではない気がする。
「まぁ、旦那様のしたことって何一つ嫌がらせになっていなかったので。元気出してくださいね。人には向き不向きってやっぱりあるんだと思います」
もしかして、この旦那様にろくな嫌がらせができないことを知っていて誰かが私を保護させたのだろうか。そんなことを考えて「まさかねぇ」と心のなかでぼやいた。
「明日から、夕食を共にしよう。これから、一からお互いを知っていかないか」
「旦那様、今ので私を信じたんですか?嘘じゃないけどもっと疑わないと!」
旦那様の善人ぶりに私が驚いて突っ込めば、旦那様は苦笑を浮かべた。
呆れているような、なんだか私を仕方ない人間だと思っているような、そんな表情だった。
「この邸の使用人は噂を簡単に信じた俺を悪人のように言い始めているんだ」
「ええっとそれは、実家のときのように過ごす必要がなくなったからで」
「だから、この邸の人間にとって君は悪人ではないことを自覚すればいい」
旦那様に言われた言葉を受け止めるが、嫌われていない自分というものがよく分からなかった。
だって私は恋物語でいうところの意地悪な義妹で、悪役なのだ。こんなに善人な旦那様が私を悪人扱いする悪人のように言われているということがさっぱり分からない。
「善人な旦那様が、悪人の私を悪人扱いする悪人のように言われている?訳がわからないんですが?」
「そもそもグレン伯爵夫人のマリアは悪人ではないと自覚しろ」
目を回す私を見て、旦那様は苦笑した。触れる直前で手をとめて、私の頬を優しく撫でるような仕草をしながら「伯爵夫人のマリアはどちらかと言えば、いい子だ」と教えるように言葉を重ねた。
許可なく触れるのを躊躇う優しさが「旦那様らしいな」と私はそんなことばかりが印象に残った。
・
「奥様は、綺麗なクリーム色の金髪ですよね」
「そうね、父や義姉とお揃いなの。瞳の色は違うけれどね」
「紫色はとても珍しいので美しいですわ」
私の容姿を褒める使用人に対して曖昧な笑みを浮かべる。相手はよかれと思って言っているのが分かるが、私はキツく見えるこの色はあまり好きではなかった。いや、色ではなく私の目つきが悪いのだろうか。
「ネックレスをつけて、完成です!」
「ええ、とてもいいわ。ありがとう」
旦那様と劇を見る約束をしていた私は、少しだけ大人っぽい服装に満足して頷く。旦那様とは4つ離れているので、少し背伸びをしなければならなかった。よく考えれば旦那様はかなりの若さで伯爵の地位を継承している。いつかそのあたりの事情を聞けるのだろうか。
三年後に、いや、二年と半年後に離婚する私が興味を持っていいことかはよく分からないけれど。
「おまたせいたしました」
瞳に合わせた薄い紫色のイブニングドレス姿で先に待っていた旦那様に挨拶をすると、旦那様は驚いたように目を丸くした。
「その、今日は一段と美しいな」
「それだけですか?」
女性に優しいと噂される男性から「美しい」しかもらえない仕上がりに少しだけ拗ねた気持ちになる。今日は「初デート」だと皆が言うからいつになく念入りに着飾ったのに。お互いを知っていこうと言っていたが、この反応は別にデートではなく同居している客人に気を遣っただけではないだろうか。
「違う。すまない時間をくれ。すぐには美しいとか綺麗だとか単純な感想しかでてこないんだ」
「もういいです、早く行きましょう」
むくれた私と視線を逸らす旦那様とは対照的に使用人たちは満面の笑みでお見送りの挨拶をしてきた。
劇場は、あまり人目を気にしないでいい席が用意されていた。
その席に行くまでも他の人と会わないでいいように案内された。旦那様のやることは気遣いなのかいずれ別れるからなのかいまいち分からない。劇の内容は私が「恋物語が好きだ」と知っているからか最近の女性人気が一番高い演目だった。
だから旦那様はつまらないのか劇の最中もずっと私を見ていて、それに気が付いてからはかなり居心地が悪かった。
「旦那様、私が好きそうだからという選び方はしないでください。一緒に楽しめないなら意味ないですわ」
「劇より君が見たかっただけで、つまらない訳では無い。そう怒らないでくれ、マリア」
「私なんていつでも見られるのに、変な人ね」
「俺のために着飾ったマリアを見られるのは貴重だろう?」
まるで口説かれているような気分になって言葉に詰まる。
間違えてはいけない。この人は義姉のような女の人が好きなのだ。優しくて女性的な体つきで、理想の淑女の義姉のような女性が。
間違ってもストンとしたメリハリのない体つきで、可愛げのない性格で、意地悪な顔つきな私ではないのだ。勘違いしてはいけない。わたしは今日の劇でいうところの悪役のあの女なのだから。
「旦那様。劇を見て思ったんですが、悪役の演技なら私のほうが上手な気がします」
「そうだな。社交界で君に騙されていない人間の方が少ないだろう」
「旦那様は、私の演技だって信じてくれるんですね」
私が親しくなった友人に義姉への態度は実は演技だと教えても誰一人として信じてはくれなかったのに、旦那様は私の言葉をすんなりと信じてしまう。
「俺の見てきたマリアは、悪人ではないからな」
そう笑う旦那様を見て「旦那様が本当に悪い人に騙されないように私がしっかりしないと!」と、私は決意をした。
・
誰かが旦那様に私を保護させたのではという妙な妄想は、どうやら事実だったらしい。
「……父が逮捕。手を出したのは薬物ですか」
寝耳に水だった。まったくもって寝耳に水だった。しかも告発者が母だという。とても闇を感じる。いや、母の薬物嫌いを考えればない話ではない。
それよりも義姉と私を嫁がせてから告発に至ったことを考えると、母が一番愛していたのはもしかしたらお金ではなかったのかもしれない。
「離婚します?」
いつかの旦那様の宣言通り、毎日のように顔を合わせて行われるようになっていた晩餐で父が逮捕された報告を旦那様から受けた私は、とりあえず条件反射のような判断でそう提案した。
そのあまりに軽すぎる発言に使用人が飛び上がって驚いているが、この家の評判のためにも結婚して半年程度の私はすぐに離婚したほうがいいだろう。
嫌がらせの結婚だと周知の事実だろうし。いや、一度も妻として目立つ場に参加していないので実際はどういう扱いなのか分からないが。
「そんなことをしたら君はどんな仕打ちを世間から受けるか分かっているのか」
「まぁ、辺境伯に嫁いだ義姉をいじめた悪女で、父親は薬物で逮捕。ふむ、なかなか厳しいですね」
「ここに残ったとしても辛い思いをするだろうことは分かるが、離婚したらその比ではないんだぞ」
「そうですけど。私を庇って離婚しないで、本当に無関係な旦那様が変なことを囁かれたらもっと嫌ですし」
「別に、俺の評判なんて君を妻に迎えた時点で社交界のおもちゃだ」
彼の真剣な表情につられて、私も少し真剣になる。これはいつものようにふざけたりおちゃらけてはいけないだろう。
「旦那様、義理で苦労を背負う必要はないと思います。義姉に手紙を出します。きっとよい修道院を見繕ってくれるはずです」
「キャンベル夫人を頼る気か?」
「まぁ、義姉ですから。それにたぶん、旦那様が思うより私と義姉は仲が悪くないと思います」
「君が、いじめていたのにか?」
「そうですね」
私の言葉に旦那様は不思議そうに目を瞬かせた。この人は時折表情が幼い。素を見せてくれているような、そんな旦那様の表情を私はとても気に入っているけれど。
「いや、だが、離婚はしない」
しばらく悩ましそうにしていた旦那様はそう言い切った。
とりあえず私は、いい大人がふくれっ面をしてもたいして可愛くないなと思った。
「マリア、明日は気分転換に買い物にでも行くといい」
「父が捕まったのに買い物なんて、なにか言われないか心配です」
「君はもはやグレン伯爵夫人で、なにより君の婚姻とともに親子の縁は切られたのだろう?」
旦那様の言葉に、目に涙をためて私は小さく頷いた。
今になって思えばあれは。
「親子の縁を切ったのは、お母様の愛情だったのかも知れません」
冷たく突き放された日、悲しく感じない訳ではなかった。けれど、もしあれが母なりの愛なら、私はそれを無駄にしてはいけないと思う。
・
目の前で本を捲る男の横顔は美しい。残念ながら顔だけはいい。
「行って来い」と言われた買い物から帰ったら、寝室が客間から夫婦のものに変更されていた。
ついでに使用人と仕事することも禁じられた。かといって奥様業をしろとも言われない。
「旦那様、なんでこんなことになってるんですか?」
「離婚はしないんだ。なら君と俺は夫婦だ」
「えっ、三年後は?」
「あのとき離婚しないと宣言したのだから、三年後も離婚するはずないだろう」
「ええ〜」
私は驚きとか色んな感情とともにベッドに倒れ込んだ。まさかこの結婚が本物になるとは思っていなかったからである。
「それから、君は対外的には妊娠の兆候が見られるということになっている」
「旦那様、嘘つけたんですねぇ」
「君が俺をどう思っているかは分かった」
もの言いたげな視線で見られながら、私は枕に顔を埋めながら旦那様を見つめ返した。書類上ではなく実質的な夫婦になるつもりらしい。あまり実感がわかない。つまり、この顔のいい騙されやすそうな男が私の夫らしい。
「旦那様、変な詐欺には引っかからないでくださいね。あと清純そうな女の人と浮気とかしたら気づかないうちに貢がされますよ。作られた苦労話とかでも旦那様、信じちゃいそうですもん」
「君が俺をどう思っているのはよく分かった」
額に青筋を浮かべながらも怒らない理性の強さだけは評価してもいいかもしれない。女性に優しいという噂は嘘ではないのだろう。私には毎回「綺麗だ」「美しい」「可愛い」という語彙力のない褒め言葉しかくれないが。
「そんなに俺は騙されやすそうか?」
「私と結婚した時点で誰かに騙されていましたよね?」
私の指摘に旦那様は本を顔の上に載せて現実逃避を始めた。
私もなんだかんだお人好しの旦那様に絆されてしまったと思う。こうなったからには真剣に奥様業の勉強をしよう。これでも旦那様に保護されている自覚はあるのだ。感謝もしている。もしかしたら伝わっていないかもしれないけれど。
・
辺境から顔を出す義姉にパーティの招待状を貰った私は旦那様と顔を突き合わせていた。 「妊娠前期となっているのだから顔を出すな」という旦那様と「久々に会える義姉の様子をみたい」という私とで意見が衝突したからだ。
「どうせその架空の子どもは生まれないんですし」
「その後は、それを悲しんだ君がしばらく引きこもる予定なんだ」
「ずっと顔を出させないつもりですか?私、こうなったら旦那様の奥様を頑張ろうと思ったんですけど」
私の言葉を受けて顔を赤くして黙り込む姿はうぶである。私の旦那様、こんなんで大丈夫だろうか。
「キャンベル夫人からも話を聞きたい気持ちはある。だが、俺は君が強くないというなら傷つく姿は見たくない。俺は、君ののびのびとした姿がしなやかな猫のようで好きなんだ」
猫のようだなんて初めて言われた言葉に驚く。愛玩動物としてそこそこに人気のある動物である猫に例えるということは、私はいつの間にか旦那様に随分と好意的に思われていたらしい。
「それでも、旦那様と一緒に出る最初のパーティが義姉が主催するものって悪くはないと思います。旦那様も他の誰より義姉が主催するものがいいとは分かっていますよね」
「それはまぁ、そうだが。君たちは噂の的なんだ、どんな視線に晒されるか」
「心配ないですよ。そんなに仲が悪いわけではないので」
「お揃いの青を取り入れた服装にしましょうか」と提案すれば旦那様は参加することに納得いかないような表情ではあるものの、しぶしぶと頷いた。
・
「マリア!会えて嬉しいわ!」
「お久しぶりです、イザベラお姉様」
出会って一番、私を抱きしめる義姉に会場の空気は一変した。いじめた方といじめられた方の再会がこんなに穏やかなものになるなど誰も思わなかったのだろう。
それを受けて噂を疑う空気が流れ始めたので、義姉の素晴らしい手腕に頷く。だから招待しただろうことがよくわかった。義姉の夫からは厳しい視線が突き刺さるが、これはおそらく嫉妬とかそういった類のものだ。
父譲りの同じクリーム色の金髪を持つ私達が姉妹であることは、見ればすぐに分かる。義姉はその髪に加えてたわわな胸とコルセットいらずでくびれた腰と男の理想を体現したスタイルをもつ。ふわふわとした穏やかな微笑みをもつ義姉は、どこかビクビクとしていた以前よりぐっと美しい。
今の義姉は間違いなく幸せそうだ。
「幸せそうでよかったです」
「そうね、お姉様は幸せよ。マリアはどうかしら?」
「悪くはないです。旦那様のために頑張ろうと思います」
「あらあら。伯爵がマリアをいじめていると聞いて心配だったのですが、間違った噂だったのですね」
そこで視線を義姉から逸らすのが旦那様である。しれっと答えればいいものを。
「最初は少し誤解がありましたけれど、今は仲良しですわ」
「そう、なら良かったわ。マリア、妊娠しているのでしょう?それなのにいじめているなんて噂が本当ならわたくし、何をしたか分からないもの。素敵な人だったからマリアのことも分かってくれると思って推薦したのに」
姉の視線には迫力があったらしい。
旦那様にちょっと縋るように見つめられた。
「まあ、グレンとマリアなら仲良くするだろうと思って詳しく説明しなかったのは俺だからな」
義姉の背後から出てきた男は悪びれずに胸を張る。姉の夫のキャンベル辺境伯だ。
おそらく義姉をいじめていた実家を叩こうとして調べたところ、暗躍している母とアホな父と、実は義姉と仲のいい私がいたのだ。
それで、義姉を悲しませないために私を保護させる目的でライバルだった男にいろいろと吹き込んで嫁がせたのだろう。どうやら義姉も推薦したようだし。流石は義姉の選んだ男である。抜け目がない。
それに比べて旦那様はどれだけ義姉の眼中になかったのかと思うと、哀れだ。
そういえば義姉は結婚前に色んな男性と噂が流れたが、義姉が好きだったのはお見合いをした辺境伯だけだったことを私は知っている。
まさか、いつか言っていたように私の相手の男を探していたのだろうか。義姉が旦那様を推薦したことを考えると有り得なくもない気がする。
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パーティが終わったあと、応接間で私と旦那様、義姉と辺境伯とそれぞれの夫婦で腰を落ち着ける。
「あなたとお義母様は実のところよく似ていたのね」
「え?」
「お義母様には譲れない一線というものがあったのかもしれないわ」
完全なる身内の空間になってから義姉はそう切り出した。
「わたくしをマクシミリアン様とお見合いさせたのは義母なの」
「嫌がらせではなく?」
化け物辺境伯の噂を知っていたため、母の嫌がらせかと思っていたが、どうやら違ったらしい。
「ええ、わたくしたちがその前から恋仲だったのは知っていたはずだもの」
大柄の黒い男に向けて微笑む義姉は美しいが、なんとなくその男を見ていると化け物というより野獣のようなイメージが浮かぶ。まあ、その野獣も精悍な顔つきで男らしいのでそれなりに絵になるが。
「おそらくわたくしを急いでお見合いさせた理由は、父が薬を買う費用のために私を売ろうとしたからよ。私への憎しみが違うものに変わった瞬間だったと義母は言ったわ」
まあ、母はもとから父への愛情は薄れていた。
さらに自分が別の女に産ませた娘を守るどころか売り払おうと考えていると知って、残り滓みたいな愛想が完全に消え失せたのだろう。
なにより母は薬物がこの世で一番嫌いなのだ。
浮気したとき女は同じ女を憎むこともあるが、浮気した男の方が憎らしくなることもある。義姉に向いていた憎しみも、薬物という要素が加わったことで父への怒りに変化したのだろう。
「母は薬物に嫌な思い出しかないんです。下町で暮らしていたとき「薬物は人を、国を滅ぼすものだ、薬物に絶対に手を出すな、もしマリアが薬物に手を出したら殺す」って常々言われていました」
「俺たちの両親や兄弟も薬物を巡る争いで命を落としてしまったからなぁ」
旦那様と辺境伯がうなずき合っているのを見て、この国の薬物問題は私が思うよりずっと深刻なのかもしれないと不安になった。
「現国王を暴君だと呼ぶ人もいるが、薬物に関係する者たちを粛清していったのは賢明な判断だったと思う。ここ数年この国で事故や病死が異常に多かったのは国王派と反国王派の薬物を巡る対立があったからというのが大きい」
「知りませんでした」
詳しく説明してくれる旦那様を見上げて私は驚きの声をあげる。
国内の混乱はあまり表沙汰にならないようになっていたから知らないことは仕方がないと慰められた。
「悪女と呼ばれていた君には、怪しい誘いも多かったと思うが」
「それはその、母に殺すって宣言されていたので。そういう危なそうな話からは逃げ回っていました」
正直に話した私を見て、旦那様は「マリアらしい」と楽しそうに笑った。
義姉が目の前にいるのに、今日の旦那様も私をずっと見ている。
「わたくし、お義母様のことは好きにはなれないけれど、マリアのために許すことはできるわ。王都ではいろいろと厳しいでしょうから、辺境でお義母様を預かるわ。だから、マリアは心配しないで」
結婚して幸せそうで強くなった義姉は、私に「任せて」と自信をにじませた。昔だって私を抱えて下町で暮らしたことのある母ならなんだかんだ慣れてしまうかもしれない。
「今までの母のこと、改めてお詫びいたしますわ、お姉様。そして、ありがとうございます」
「いいのよ、気に病まないで。なにより妊娠初期にこんな話が続いては、お腹の子に悪いわ」
励ます義姉のほうに急いで寄って、義姉の耳元で囁く。
「妊娠は旦那様が私を守るために作った嘘です。その、流産してしまう予定なのでお姉様も私のことを心配なさらないで」
「あらまぁ」
私の言葉を聞いた義姉は扇で隠しているものの、含み笑いで旦那様を見つめた。
見つめられた旦那様の方は、また私に助けを求めるような視線を送ってきた。その姿は私の知るいつもの旦那様である。なんだか安心してしまった。
「お姉様、もしかして私によい方を見つけるっていう約束を守ってくれたの?」
「ええ、わたくしの可愛いマリア」
義姉に頬を撫でられた私は、恥ずかしいけれど嬉しかった。
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義姉が取り調べの終わった母を辺境に連れていき、父が逮捕された諸々も義姉夫婦と旦那様が解決してくれて、邸に隔離されていた私は結局何もすることがなかった。現実感のないまま事件がおきて解決していた。
目下私が気にしているのは、旦那様と同じ寝室を使うようになって名実ともに夫婦になるのだと宣言されたというのに、恋物語であるような夫婦の夜を過ごしたことがないことだ。
庭を見ながらお茶をしているのだが、爽やかな気分には遠い。
「私から何か起こさないとだめなのかしら」
呟いて、もし拒絶されたらと考えて震えた。
だって私は女性的な魅力に乏しいのだ。でも、私と夫婦になると言った旦那様だから拒絶はしない?でも、同じ寝室を使ってまったく何もされないのだから、やっぱり私に魅力がないのでは?と思考が巡る。
「私、すっかり旦那様のこと大好きなのね」
自分の気持ちを自覚して、どうすればいいのか頭を悩ませた。恋物語ではどうしていただろうか。そうだ、女性から告白をしていたような気がする。現実にするとなるとなかなか難しいが、私に思い浮かぶ解決策など所詮この程度である。
「大丈夫、大丈夫よ。結婚を続けるんだから、結婚初日より悪くなることはそうそうないわ!」
自分を励まして、立ち上がる。
「頑張ってください、奥様!」
使用人たちに励まされながら、旦那様の帰りを私はそわそわと待った。
その日は旦那様が帰ってくるまでが気が遠くなるほど長く感じた。帰ってきた旦那様を出迎える。
「ただいま、マリア」
「おかえりなさいませ、旦那様」
ハグのために両手を広げると、旦那様も当たり前みたいに抱きしめてくれた。そのあたたかさにホッと息をつく。よし、大丈夫だ。私は告白できる。
恋物語では下手にいろいろしようとしてすれ違っていたので、私はまっすぐに挑むことにした。
食事を終え、寝室で二人きりになった私は、いつものように本を読む旦那様からその本をとりあげた。
「旦那様、私の話を聞いてくれますか」
「どうした」
「私と夫婦になると言った割に旦那様は何もしてきませんが、私に胸がないからですか?」
本を取り上げたまま、背後から問いかければ旦那様はポカンとした表情を浮かべた。
「いや、今妊娠したら困るからだが」
「……えっ、え?」
「流産の予定なのに、妊娠出産の時期がおかしくなるだろう」
「そ、そう言われると」
顔を真っ赤にして自分の悩みが間抜けなことに気が付いた私はいつかの旦那様のように本で顔を隠した。
「そもそもマリアはいいのか。俺は君の義姉が好きだった男で、君を金で買った男だ」
旦那様の言葉に私はそう言えばそうだったけど、旦那様との思い出で不快なものなんてなくて、それをどう伝えようかと悩む。
「あの、私は旦那様をお慕いしています。お姉様が好きだったと言いますけど、お姉様といても旦那様がまったくお姉様のことを見ないので、それは気にならなくなりました。それに旦那様が私をお金で買ってくれたおかげで守られた訳ですし。なによりキャンベル辺境伯が私を娶るよう圧力をかけてきたのでしょう?」
旦那様は饒舌になっている私の手を引いて、旦那様の太ももの上に座らせた。
密着したことに心臓が激しい音をたてたが、私は気持ちを伝え続けようと、旦那様の右手を両手で握りしめた。
「旦那様は、私のことを見てくれました。信じてくれました。姉以外で私を理解してくれたのは、信じようとしてくれたのは旦那様だけです」
私の告白を受けて、旦那様は左手で私の頬を撫でる。
「キャンベル夫人に君が実家でやっていたことを詳しく聞いて、君が悪役になった理由も納得した」
あの日、私が先に休んだあと、もっといいやり方を考えつかなかった馬鹿な私の話を聞いたのか。それは少し恥ずかしい。
「俺も、前に言ったように君を好ましく思っている。だが、君は頑なに俺の名前を呼ばないからもう少し時間がかかるかと思っていた」
「名前」
「流石に覚えているよな?」
「ええ、ピーター・グレン様。ピーター様。ピート様?」
旦那様は、連呼する私の唇を親指一本で塞いだ。
「マリア、俺の理性を試さないでくれ」
懇願されるような言葉にコクリと頷く。その声は少し焦っているようだった。
ともかく、私の悩みは簡単に理由を知れるもので、それに安心して旦那様に身を寄せる。首筋に顔を埋めて、力を抜いた。
「……そのうち、結婚式を挙げようか。マリアに似合うウェディングドレスで。参加できそうな君の親族は義姉だけで、俺の親族もほぼいないから、小さな式になるだろうが」
「夫婦としての仕切り直しには悪くないですね。私、実は愛の女神様に祈ってみたかったんです」
旦那様の優しい提案に頷いた。
愛の女神様に誓いたい。私は悪役をやめて、優しい旦那様の素敵な奥様になってみせると。
でも、もし悪役をやめて本物の悪人に狙われたら嫌だなぁ。ここはひとつ提案してみよう。
「旦那様、私は旦那様を食い物にしている悪女ってことにしときます?」
「マリア、君がヒロインの物語が始まったんだから、悪役だっておしまいだ」
悪くない提案だと思ったけれど、旦那様にそう言われてしまえば従うしかない。
私は旦那様のヒロインになったらしい。
つまりこれからの人生の私はもう、悪役ではないのだ。