【コミカライズ】恋<推し活
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その時、子爵令嬢のリリアンは非常に困っていた。
親友をどう慰めたらいいかまったくわからなかったからだ。
リリアンの親友は伯爵令嬢のガートルードという、姿勢も表情もピシッとした真面目な令嬢だ。
ともすれば堅苦しく感じる雰囲気だが、ブルネットと落ち着いたオリーブグリーンの瞳の、柔和な顔立ちの彼女は人当たりがよく、友人も多い。
そんないつもは朗らかなガートルードが今日はきのこでも生えそうなほどどんよりと落ち込んでいる。
それもこれも、リリアンの従兄のせいだ。
リリアンの従兄の伯爵令息、ライナスはガートルードの婚約者である。それなのに、今はひとりの男爵令嬢を他の男たちと囲んでちやほやし、婚約者の彼女をほったらかしにしているのだ。
ちなみにその中にはリリアンの婚約者のエドワードもいたが、リリアンはあまり気にしていない。
第二王子の護衛をやっている婚約者は十五歳の彼女より八歳も年上で、リリアンと同じ歳の男爵令嬢なんて恋愛対象外だ。
彼がこんなに年下のリリアンと婚約したのは訳がある。
エドワードは侯爵家の次男坊で家を継ぐ立場ではなく、ずっと婚約者も決めずに騎士として過ごして来た。
だが、彼の母親の実家の子爵家で後継者が相次いで亡くなり、急遽エドワードが爵位を継ぐことになったのだ。
騎士の道を突き進み、女っ気のなかったエドワードには恋人がいなかった。かと言って釣り合う年頃の令嬢たちはみな婚約しているか結婚しているかで、子供のリリアンくらいしか相手がいなかったのだ。
しかし、エドワードは幼い婚約者に不満も零さず、むしろリリアンを可愛がってくれている。
それは兄が妹に向けるような愛情だが、リリアンはまだ子供なのでそれくらいがちょうどいいと思っていた。
そんな兄妹もどきのリリアンたちと違って、ガートルードとライナスは互いに想い合っていたはずだ。
なのに、最近のライナスは一方的に険悪である。申し訳なくなるほど感じが悪かった。
「ライナスが本当にごめんなさい、ガート」
「違うわ! わたくしが悪いの。ちゃんとライナス様の考えを理解できなくて醜く嫉妬してしまうから……」
そういう彼女の瞳はうるうる潤み、今にも泣き出しそうだ。
ガートルードは淑女だから絶対に彼女の前では泣かないだろう。でも、部屋でひとりになったら泣くのだ。
そのことに、リリアンはムッとした。
(あんな、くそ従兄のために……)
リリアンは内心毒吐いた。ライナスとは今まで親戚としてそれなりに仲良くして来た方だ。時々喧嘩もするが、従兄として好きだった。
しかし、今回の件でリリアンの中のライナスの好感度はがた落ちだ。
こんなライナスのためにガートルードが毎日落ち込んで過ごすのはとてつもなく嫌だった。そもそもライナスの言い訳が気に食わない。
(何が『学園に慣れてないからみんなで教えてるだけ』よ! もう一学期も終わろうとしているのにどれだけもの覚えが悪いの!)
名前も知らないが、いつもプディングよりぷるぷるしているピンクブロンドの男爵令嬢は、男爵の庶子で市井育ちだそうだ。学園どころか貴族社会自体に慣れておらず、礼儀作法はさっぱりできていない。
リリアンも完璧とは言いがたいが、それよりさらに悪い彼女は学園に入学する以前の問題なので、男爵は家庭教師でも雇って教えるべきだ。
(それはどうでもいいわ。ガートルードを慰めなくちゃ)
せめて気晴らしになることでも提案しよう、と考えた時に、ふと、昨日の兄のことを思い出した。
「ねぇ、ガート。一緒に観劇へ行かない?」
「えっ……。わたくしたちだけで?」
「そう! わたしよくひとりでも行くのよ!」
昨日、兄は妻を明日誘ってみると言って、最近公演が始まったばかりの演劇のチケットを見せてくれた。
リリアンは演劇が好きである。本を読むのも好きなのだが、目の前で人間が演じてくれている方が物語に没入できる。だから色々な劇場に頻繁に通っていた。
「はしたないと思われるんじゃないかしら……」
「大丈夫よ。ひとりで行ってるわたしにライナスはそんなこと言わなかったもの」
ガートルードはリリアンとひとつしか変わらない。学園を卒業するまで彼女たちはまだ子供である。正式に社交デビューもしてないふたりで観劇に抵抗があるようだ。
でも、護衛をちゃんと連れて行くのだから何も問題はない。
ライナスは見た劇について熱心に語るリリアンのことを「本当にリリアンは演劇が好きだな」といつも微笑ましそうにしている。だから、ガートルードを怒ったりはしないはずだ。
基本的にライナスと喧嘩になるのはガートルード絡みだけ。その他のことには大らかである。本来は穏やかな性格なのだ。
「なんと今はジェイデン様が主演の新作が公演中なの!」
「ジェイデン様?」
「そう! とっても素敵な方なの!」
ジェイデン様ことジェイデン・ウォードはリリアンいち推しの俳優である。
既に四十才を越えているが、二十代と見まごうばかりの若々しさと大人の男の色気が同居するとんでもない美男だ。
勿論容姿だけではなく、演技力は磨き抜かれており、どんな役でも演じてみせる。
何よりもリリアンがジェイデンに首ったけな理由は、そのストイックさだ。
色男であるため数多の浮名を流しているが、彼は役が決まるとすべての女性との関係を清算し、公演に集中する。
役作りのために容姿が崩れることも厭わず太ったりも当然するし、臨場感ある決闘のシーンを演じたいと剣を習うこともあった。
彼はバリトンの美しい声をしているが、その音域は広く、テノール歌手より高い声も出せる。すべては毎日の練習と喉に気を遣った生活の賜物だ。
リリアンは彼を一方的に知っているだけだが、これからも末永く一方的に応援して行きたいと思っている。彼こそ国一番の男優で、国の宝だ。
リリアンはそんな話をガートルードに語って聞かせた。
「すごい人なのね……」
「そうなの! ジェイデン様が出ている劇にハズレなしよ。絶対面白いから行きましょう!」
「そうね……。リリアンがそんなに言うなら行ってみたいわ」
「やった!」
リリアンは跳び上がりそうになって自重した。そんな彼女を見て、ガートルードはほんの少しだけ口元を緩ませたので、リリアンは嬉しくなった。
窘めるガートルードに言い返し、やり込めるたびに勝ち誇ったような顔をするライナスに勝った気がした。
それに友達と演劇に行くのは初めてである。純粋に楽しみだった。
「公演は明日なの! お兄様からチケットを強奪しなきゃ!」
「ちょっ、お兄様のチケットなの!? そんなことしちゃ駄目よ!」
「いいのいいの。お兄様はどうせお義姉様といい雰囲気になりたくって観劇に行くだけだから」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫!」
心配そうなガートルードに彼女は力強く請け負った。
兄は特に演劇に興味はないし、義姉もそこまで好きではない。
嫁いで来たばかりで覚えることが多い義姉にほったらかしにされて寂しい兄が、二人っきりでいちゃつきたいがために出掛ける口実を作っただけだ。
そういう時は観劇に行くのもいいが、一緒に茶でも飲んでゆっくり話を聞いてあげる方が絶対にいい。
その日、帰宅してすぐに兄に駄々をこね、チケットを強奪した。
我儘を言うのは子供の頃からの得意分野だ。歳が離れていることもあり、リリアンに甘い兄は根負けした。
その代わりにこっそり兄夫婦へ毎日菓子を差し入れと決まった時間に茶会をするよう、手配した。
およそ一週間分、王都で話題の菓子店の茶菓子を用意するようにと、侍女長と打ち合わせをしてからその分の代金を渡しておいた。チケット代代わりだ。
翌日、これで兄の不満も解消されるだろうと憂いなく観劇に出かけた。
◇◇◇
ガートルードと観劇に出かけてから約一ヶ月。あの後兄夫婦は目論み通り新婚らしい甘やかさが復活していた。
義姉は完璧な女主人にならねばという焦りから無理をしていたのだ。その不安を茶会でゆっくり話して兄が解消し、二人の仲はさらに良くなっている。
妹のリリアンとしても大変喜ばしいこと、なのだが、今の彼女は断罪を待つ罪人のような気持ちでライナスの元へ向かっていた。
止まりそうになる足を、菓子の御礼にと義姉が選んで兄が贈ってくれた髪飾りを撫でて勇気付ける。普段使いに向いた派手すぎず可愛らしい髪飾りはここ最近のリリアンの悩みをほんの少し忘れさせてくれた。
まさか観劇に行って、ガートルードがあんなことになるなんて。言い訳にしかならないが、リリアンは欠片も思っていなかった。
しかし、すべては彼女が原因である。自分の口から従兄に説明すべきだ。どんな非難も甘んじて受け入れようと悲壮な覚悟を決めた。
ライナスは生徒会の役員で、放課後はほとんど生徒会室にいる。
仕事をしていると言うより、例の男爵令嬢を囲む会と化しているらしいとは聞いていた。生徒会室のドアをノックし、名前を言って入室を求めるとドアが開き、ライナスが立っていた。
亜麻色の髪に蜂蜜のような色の瞳の、優しげな顔立ちの従兄はとても不機嫌そうである。
前はガートルードの隣で蕩けるように笑っていたのに、最近はそんな表情しか見ていない。
「ああ、ライナス。話があって……」
「リリアン、ここは生徒会室だ。関係のない君が来るべき場所じゃない」
「ごめんなさい。話がしたいだけなの。ガートのとても大事な話が」
「ガートルードの?」
ライナスは嫌そうに眉を顰めた。リリアンは一抹の寂しさを覚える。
ライナスはガートルードのことを「トゥルーディ」と愛称で呼んでいた。「僕の特別な呼び方だから、リリアンは別の呼び方にして」と言われ、隣にいたガートルードが嬉しそうに笑った幼いあの日の記憶が過ぎる。
「君に何か言いつけたのか。まったくみっともない」
「違うわ。別の話よ」
どうやらこのままここで話すつもりらしい。
別にリリアンは中に入りたくはないし、ライナスに隠れて見えない他の面子にとっても他人事ではないので話し始めた。
「少し前にガートと一緒に観劇に行ったんだけど……」
「令嬢ふたりで行ったのか。はしたないんじゃないか」
「もう、そんなことはどうでもいいのよ。話の腰を折らないで。
……素晴らしい劇でわたしもガートも大満足だったんだけど、特にガートは、その、一目惚れを、しちゃって……」
「は?」
腕を組んで不機嫌な顔をしていたライナスは目を丸くして固まった。もしかしたら理解出来なかったのかもしれないともう一度同じことを言う。
「だから、ガートが一目惚れしちゃったの!」
「……嘘だろう?」
愕然とした表情になったライナスは顔色が悪くなりぶるぶる震えたあと、ガッと彼女の肩を掴んできた。
「誰だ、僕のトゥルーディが一目惚れした馬の骨は!」
「う、馬の骨じゃないよ! 主演女優のアリーチェ・バーネスだもん!」
「…………女優?」
「そう! 一目でファンになっちゃったの!」
アリーチェ・バーネスは今回の舞台のジェイデンの相手役の女性だ。
大変人気のある女優なのだが、彼女のプライベートは神秘のベールに包まれている。住む場所は勿論のこと年齢不詳、名前も本名ではなく芸名である。大変メーキャップ技術に優れているので、素顔すらわからない。
実は貴族ではないかと噂されている彼女は、女優になるために生まれて来たと言っても過言ではないほど優れた演技力を持っている。
今回の舞台はまさに圧巻のひと言で、初々しい娘時代から孤独な老女になるまで演じ分ける技術は、隣にジェイデンがいるのにリリアンの視線を捉えて離さなかった。
そのアリーチェの熱狂的なファンに、ガートルードはなってしまったのだ。
「なんだそんなことか。大袈裟な言い方をするな」
ライナスはまだことの重大性を理解していないようだ。
気は進まないが、この一ヶ月でガートルードの身に起きた変化を教えねばならない。
「ライナス、落ち着いて聞いてね。
あのね、ガートがあなたとの婚約を解消したいって言ってるの」
「…………は?」
「婚約を、解消するって」
「……何を言ってるんだ」
「ガートはアリーチェ様がこの世に生まれて同じ時代に生きている感謝を示すためにこれから一生彼女にお布施をして生きていきたいんですって」
「何を……。何を言ってるんだ……?」
ライナスは混乱しきった表情をしていた。
わかる。初めてガートルードの口からそれを聞いた時、彼女もまったく理解出来なかった。
でも改めてジェイデンのことを考えると気持ちがわかった。
リリアンもジェイデンがのびのびと演技を愛して一生を全うできるまでの資金援助をしたい。
そして最後の時まで見届けて、その後は一生懸命に生きたジェイデンの記憶に包まれながら喪に服し、同じ時代に生まれたことを神に感謝して一生を終えたい。
そして願わくば来世はその一生をつぶさに見守るためにジェイデンの家の庭木にでも生まれ変わりたかった。
「ようするにアリーチェの支援者になりたいってこと。でもこれはガートの趣味みたいなものだから……。
自分の家のお金は家と領民のものだし、ライナスと結婚してもそっちの家のお金だって同じでしょう? だから婚約は解消して、自分で支援金を稼げる職業婦人になりたいんですって」
「嘘だろう?」
「ほんと。とりあえず税理士の資格取るって今年の国家試験の準備してる」
「嘘だろう……?」
ライナスが愕然と呟く。その表情は虚ろだ。
決意表明をして試験勉強を始めたガートルードを見て、始めのうちはリリアンも似たような顔をしていた。
しかし、よく考えたらガートルードの学力なら勉強すれば合格も夢じゃないし、バリバリ税理士として働くガートルードはきっとかっこいいので今は応援している。
しかし、婚約者を失うことになってしまったライナスには申し訳ないと思っているのだ。
「ごめんねー、わたしがガートを観劇に連れて行ったばっかりに」
「待て、そんなことできる訳ないだろう! 僕らの婚約は口約束じゃないんだぞ!」
「でもさー、別に事業とか取り決めのある婚約でもないでしょ? 元々ライナスがガートを気に入ったから決まっただけだし」
「うっ……!」
ライナスは痛いところを突かれたとでもいいたげに顔を顰めた。
二人の婚約は子供の頃からのものだが、政略的な意味合いは薄い。両家ともに豊かで、それほど他家との繋がりを必要としていないのだ。
だから一粒種のライナスが好きなガートルードが選ばれた。
「お、親たちが反対するに決まってる!」
「ガートの両親は今のガートの様子に『嫁がせてもあちらの家にご迷惑を掛けてしまうかも』って割と解消には積極的だよ。あとわたしが最近のライナスの様子を伯母様にチクったから伯母様は賛成してる」
「リリアン、君はなんてことを!」
ライナスの母親は、リリアンの母の姉だ。
男ひとりしか子供を授からなかった伯母は、嫁いで来る予定のガートルードと姪のリリアンをそれはもう可愛がっている。本当は女の子も欲しかったそうだ。
その可愛いガートルードを蔑ろにしたライナスに伯母は大層おかんむりである。
ちなみに伯母は賛成しているが、二人の婚約はまだかろうじて解消されていない。ライナスの父親である伯父が止めてくれているからだ。
リリアンに最近の行状を密告されて怒るライナスはその前に伯父に感謝した方がいいし、怒るよりも大切なことがある。
「……ふぅん。そうやって怒るってことは最近の態度は褒められたことじゃないってわかってたんだ」
「いやっ、それは……」
本当は謝りに来たのだが、ライナスの態度に腹が立ってきた。思わず冷たい声が出る。
「わかってて、ガートが落ち込んでるのに続けてた訳だ。へぇー」
「り、リリアン……。それには色々理由が……」
顔色が悪くなったライナスが聞き苦しい言い訳を始めようとしたのでリリアンは遮った。
「理由とかどうでもいいわ、別に。今ガートはライナスと一緒にいる時より楽しそうだし、充実してるしね。早く婚約解消してあげるのよ」
リリアンの宣告に衝撃を受けたライナスは絶望したような顔で激しく首を振る。
「い、嫌だ! 絶対婚約は解消しない! 僕はトゥルーディと結婚するんだ!!」
「あっ! ちょっと!」
ライナスは猛烈な勢いで走り去った。ガートルードのところに行ったのだろう。
あの従兄は基本的に冷静なのだが、昔からガートルードのこととなると他のことが見えなくなる。
多分ガートルードを探して各所に迷惑をかけまくることは予想できたので、後を追うことにした。
その前にやっと全貌が見えた生徒会室で呆然としている面々に頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありません。そうそう、最近のガートルードが生き生きしているので、彼女の友人のご令嬢方もそれぞれ好きなことを始めたそうです」
「な、何?」
リリアンの言葉に反応したのは第二王子だ。
彼の婚約者の公爵令嬢メリッサはガートルードと親しくしている。その他の男性たちの婚約者も全員ガートルードの友人だ。
「演奏会や美術館や……。いつもは婚約者のみなさんを優先して我慢なさっていた場所へ、行ってご覧になったそうで。
その結果、みなさんそれぞれ憧れの方ができたらしく……。ガートと同じように婚約を解消し、自活の道を模索されてますわ。お布施をするために」
自分のための趣味の時間を持ったら、何故か令嬢たちはガートルードと同じような目覚め方をしてしまった。
その影響は全体に広がりを見せている。
おもに婚約者との仲がいまいちの令嬢たちが、今まで婚約者に遠慮して我慢していたことを始めて、そこで憧れの人――最近では推し、という風に呼ばれるようになった――を見つけた結果、結婚よりも支援するための自活を選ぶ。
最近の令嬢たちの話題はどこの給金が一番高いかということに始まり、事業の始め方、果ては投機のことなど、父親世代が話すようなことまで相談し合っている。
年頃の令嬢の話題ではないが、これは自分の推しに感謝の気持ちをわかりやすく金で表したいという純真な乙女の願いに基づいたものだ。きっと清らかだろう。
リリアンもジェイデンをこの世に誕生させてくれた神とジェイデンの両親に毎日感謝を捧げているので、令嬢たちの気持ちがよくわかる。同じ空気を吸って生きている今という瞬間すら尊い。
令嬢たちの幸せの代償にこれからこの部屋にいる男たちは全員婚約者を失うのだから、ちゃんと謝罪をしておかなければいけない。
「わたしがガートを観劇に連れて行ったばっかりに大変申し訳ありません」
「待ってくれ……。メリッサは……」
「メリッサ様は公爵閣下がお持ちの商会を譲り受けて経営すると仰ってましたね。公爵閣下も婚約解消に乗り気で、今日国王陛下とお話をするとか……」
第二王子はガタリと無言で立ち上がった。
顔には陰鬱な影が差し、色は真っ白だ。他の男たちも顔色が悪い。
エドワードは何故か困ったような顔でリリアンを見ていた。
「城に戻る」
「はっ!」
焦った様子で第二王子が動き出す。他の男たちも次々とそれに釣られた。男爵令嬢はただただオロオロしている。
「では、わたしも失礼いたします」
リリアンはこれ以上何も言うこともないからと一礼してその場を去った。
背後でバタバタ走る音と、「ちょっ、みんな待って! 待ちなさいよ!」と言う声が聞こえた気がしたが、ライナスの行方が気になっていたので、振り返ることはなかった。
◇◇◇
数日後、リリアンは図書室にいた。ガートルードとライナスも一緒である。
「……ねぇ、トゥルーディ。婚約は解消しないんだからもう税理士の試験は受けなくていいんじゃないかな」
じっとりとした眼差しで参考書を開き勉強するガートルードをライナスが見つめている。そっと手を握りにいくが、勉強に集中しているガートルードに素気無く払われた。
「資格が取れるかどうかはわかりませんが、せっかく始めたことですから。今後何かの役に立つかもしれませんし、続けます」
その言葉にギリギリと歯軋りをするライナスをリリアンは呆れた表情で眺めていた。
結局、男たちはライナスを含めた全員婚約解消されずに済んだ。多少ギスギスしていたものの、決定的に関係性を壊すような言動がなかったからだ。
そうは言ってもすべてが元に戻ることはない。令嬢たちは相変わらず自活の道を模索していた。
「ライナス様と結婚するなら税理士にはなれないけれど、アリーチェ様にお布施するお金を稼ぐためにお金の知識はきっと役に立ちますもの!」
「くぅぅ……!」
生き生きと勉強に励むガートルードにライナスは血の涙でも流しそうな表情だ。
例え婚約継続になっても、一度好きになったものを嫌いになることはない。ガートルードを含め、令嬢たちは未だに自分の推しへお布施をする気まんまんだ。
彼女たちの関心がすっかり移ってしまったことにライナスたちは焦っているが、自業自得である。
あの男爵令嬢を囲む会を早めに解散しておけば良かったのだ。そうすれば令嬢たちは初めて見たものを親だと思い込む雛鳥のように真っ直ぐ慕い続けてくれたはずである。
婚約者の心を取り戻そうと、彼らは令嬢たちにべったりになっているが、そもそも婚約者に対してと推しへの気持ちはまったく別物だ。上書きも置き換えもできないし、そう簡単に飽きることもない。
やはり、推しを見つける隙を作ってしまった男たちが悪いとリリアンは思うのだった。
リリアンの斜め前に座るライナスの酷い顔を見ながらなんとか婚約継続が決まった後にした会話を思い出していた。
『ライナス、あの男爵令嬢の何がそんなによかったの』
『……いや、あの、あんまり詳しいことは言えないけど、事情があったんだ……』
『何か言えない事情があったにしても、あんなに冷たい態度をとる必要はないよね?』
『……だって、だって、トゥルーディが初めてやきもち焼いてくれて、嬉しくって……』
『くっだらない』
『酷いぞ!』
『それで結局自分が嫉妬する立場になった今どんな気持ち? ねぇ、どんな気持ち?』
『リリアンの性悪!』
久々に従兄と子供のような口喧嘩をしてしまった。しかし、想像を超えて子供っぽい理由だったからしょうがない。
どうもあの会は堂々とした浮気ではなく、よんどころのない事情があったようだ。
現に男爵令嬢はあれからすぐに学園を退学している。
実家の男爵家も何やら罪があったと爵位を剥奪されており、恐らくそこらへんがライナスの「言えない事情」に関係しているのだろう。
それならそうと言える範囲で言ってくれれば、令嬢たちは無駄に苦しまずに済んだし、気晴らしに出て推しを見つけることもなかったのに。
誰もそうしなかった辺り、四角四面過ぎるのか、みんなライナスと同類なのか。
いずれこの国の中枢を担う人物たちが、子供っぽいライナスと同類は嫌だなとリリアンは思った。
「……ライナス、ガートの勉強を邪魔するよりあなたも一緒に勉強すればいいじゃない。あなたはいずれ伯爵になるんだから、お金の勉強は将来役に立つと思うわ」
「……! そうだね! トゥルーディ、僕に勉強教えてくれる?」
「構いませんが……。わたくしも始めたばっかりだし、ライナス様ならすぐに追いつくんじゃないかしら」
それでも生まれた時からの付き合いの従兄である。リリアンは素っ気なくされるライナスに助け船を出してあげた。
何やら仄暗い光を帯び始めていたライナスの目が輝く。
一方、やっと参考書から顔を上げたガートルードは首を傾げている。
「人に教えると理解が深まるって言うから教えてあげれば?」
「うーん、そうね。わたくしが教えられることなら……」
「ありがとうトゥルーディ! 一緒に合格しようね!」
先程の翳りが完全に払拭されたライナスは上機嫌でガートルードの参考書を覗き込んだ。
早速教えて貰うらしい。異様に距離が近いが、指摘するのは止めておいた。
「じゃ、勉強の邪魔しちゃ悪いし、わたし先に帰るね」
「うん、また明日ね。リリアン」
「気をつけて帰るんだよ」
席を立ったリリアンに二人が手を振る。ライナスは口だけで「ありがとう」と伝えてきた。
彼女が助け船を出したのはライナスが不穏な雰囲気を漂わせていたからである。ガートルードの今後を思ってのことであって、決して従兄のためではない。
しかし、感謝されるのは悪い気がしないので礼は受け取っておいた。
二人に手を振り返して図書室を出る。昇降口へ向かって歩き出したリリアンの前に大きな人影が差した。
「あっ! エド様!」
「やあ、リリアン」
エドワードである。
咄嗟に大きな体に飛びつきそうになって堪えた。ここは学園である。いつもの調子で懐くのははしたない。
「帰るのかい?」
「うん! エド様はお仕事だよね?」
「訳あって仕事終わりが早くなってね。送って行こうか?」
「本当? やったぁ!」
リリアンは素直に喜んだ。
エドワードの終業時間が早くなったのは、学園が終わり次第、第二王子が王宮から来た物々しい集団に連行されるためである。しかし、リリアンにはまったく関係ない話だ。
普段近衛騎士という職業柄、なかなか会えないのだから、この幸運を存分に享受することにした。
リリアンはエドワードから差し出された手を繋ぎ、軽い足取りで歩き出した。
「ふふふ」
「……? どうしたの、エド様?」
「いや、なんでもないよ」
いつものように手を引かれて歩き出してから、首を傾げる。そういえば、いつもと手の差し出し方が少し違った気がしてはっとする。
(し、し、しまった!)
エドワードはエスコートをしようとしてくれていたようだ。まだ勉強中とはいえ淑女としても失格である。
「エ、エド様……。ごめんなさい……」
「なんのことかな? リリアンは謝罪するようなことは何もしていないよ」
「でもぉ……」
「いいんだよ。まだ」
ふんわりと笑うエドワードにリリアンは少し膨れる。
まだ子供扱いでもいいと思っているが、人目のある場所ではもうそろそろ淑女らしくありたい。複雑な気持ちである。
「そんなことよりこれからの話をしよう。実はね、そろそろ近衛騎士を辞められそうなんだ」
「えええっ!! 本当!?」
「うん。これでやっと自分で家のことをできそうだ。
それで、リリアンも勉強のためにうちに来てもらうことが増えると思う。ごめんね」
「そんな! 当たり前のことだよ」
リリアンは俄に緊張した。
現在エドワードは子爵位を継承しているが、邸や領地の管理はほとんど彼の母親がしている。第二王子付きになってしまったエドワードは簡単に近衛騎士を辞められない上、忙しいのだ。
だから、リリアンの女主人としての教育もまだ始まっていなかった。エドワードが近衛騎士として働く間は免除されていたのだ。
でも、エドワードが騎士を辞すると決まった以上、リリアンも子供ではいられない。ますますきちんとした貴婦人にならねばと気合いを入れる。
そんなリリアンに、エドワードは笑いかけた。
「そんなに気負わなくていいんだよ」
「だって、わたしもっと頑張らないと」
「騎士を辞めるのはまだまだ先だ。だから、ゆっくりでいいよ。
とりあえず今は少し時間ができたから、私と遊んでほしいな。久しぶりに一緒に出かけない?」
「えっ、いいの?」
「勿論だよ。一緒に君の大好きなジェイデンを見に行こう。実は休暇が貰えるとわかってすぐにチケットを買ったんだ。リリアンはもう観たかもしれないけど……」
「何度でも観たいから大丈夫!」
その言葉にリリアンの心は沸き立った。
大好きなエドワードと大好きなジェイデンを見に行くなんてとんでもないご褒美だ。もうすぐ死ぬのだろうか。いや、一目ジェイデンを見るまで死ねない。
「それから……。レストランに行こうか。二人っきりで」
さらにこの提案である。家族ぐるみの食事会は何度もあったが、二人だけは初めてだ。まるで大人のようで、リリアンはドキドキした。
エドワードはリリアンを抱き上げて馬車に乗りこむ。婚約して、仲良くなってからずっと変わらない妹扱いだ。
でも、何かがこれから変わるような、そんな予感がした。
いつかふたりにもライナスとガートルードのようなすれ違いを起こす日が来るかもしれない。
しかし、エドワードとの関係がどんなに変わろうとも、リリアンの心の中にはジェイデンが燦然と輝き続けている。
まだ碌に人生の悲哀など味わったことのないリリアンだが、今回の件を通じてはっきりと確信した。
推しさえいれば、人はどんな困難に直面しても乗り越えられる。恋より推し活なのだ。
改めて、推しは最高である。
最後まで読んで下さりありがとうございました。