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蟻地獄  作者: 長芋
3/3

準備

  今日も目覚まし時計が鳴る前に起きた。

 もう何日もあの頭が痛くなるようなけたたましいベルの音は聞いていない。枕元にある時計を見ると、短針と長針が五の数字を隠すように重なっている。いつもより二時間は早い。今日は早く起きなくてはならない理由があった。時計のアラーム設定を解除して、ほとんどはだけていた布団から出る。起き上がって、わずかに開いていた部屋にたった一つの窓を全開にする。さわやかさのかけらも感じられない生温い風が顔にまとわりついて、嫌な朝だと思った。

 布団をたたんで押し入れにしまってから、部屋を出て斜め前にある洗面所に入って顔を洗う。洗面台に溜めた水に顔をつけて、十秒数えて顔をあげる。鏡には、モヒカンを作っていない時のパイナップル頭と、十六年間見続けて、いい加減見飽きた、目つきの悪い顔が映っていた。額から垂れて来た雫越しに鏡の中の自分を睨みつける。

「今日も調子がいいな。水も滴るいい男ってか」

 自分で言っておかしくなって一人で笑ってしまった。今日は一世一代の大勝負の日だから、いつもより顔が引き締まっているなんてこともなく、ただただ、いつも通りの三嶋英二の顔だった。あんまりいつも通りなので、顔を触ってみるとうっすらと髭が生えていた。誰のものかも、いつからあるかもわからないシェービングクリームの缶を振って直接顔に吹き付け、口周りと顎全体を覆うように塗り広げる。クリームが全体に行き渡ったら、鏡の横の棚から新品のアイ字剃刀を出して、肌を傷つけないように丁寧に沿った。

 すっかり髭を剃って、水で洗って再び鏡を見ると、心なしかさっきよりもかっこよくなっているような気がした。

「うむ。我ながらナイスガイ」

 洗面所の下にある棚からタオルを取り出して顔を拭きながら一階へと降りる。階段を下りて正面にある洗濯機を右にして曲がると、皺だらけの深い緑色のソファーに、薄っすらと湿ったタオルを投げた。タオルが滑り落ちるのを見て、いつもなら気にしないが、今日だけはなぜかちゃんとしようと思って、拾いあげて、丁寧に畳んでソファーに置きなおした。それから、少しの炭酸水の缶とお茶のボトルしか入っていない冷蔵庫を開けて、コップ一杯にお茶を注ぐと、一口だけ飲んでコップをテーブルに置いて家を出た。

 家を出て、真っすぐ行ってすぐの角を左に曲がった先にある一軒家の間の細い道を抜けると、大通りに出た。信号の光が眩しい大通りを道路沿いに走る。毎朝のランニングはいつの間にか日課になっていた。道路を右手に見ながら走り続けると、五キロくらいでスタート地点の細道の所に戻ってくる。体を起こすには丁度いい距離だ。走りながら色々なことを考える。今日の告白は上手くいくだろうか。サーモンはどんなパフォーマンスを考えてくれただろうか。足を踏み出すたびに頭に軽い振動が走る。もしかしてモヒカンのキレが悪いのではないか。昨日床屋に行けばよかった。頭にかかった霧を振り払おうと、青臭さのあるぬるい風に向かって全力で走った。硬いアスファルトの上を跳ねるように走ると、自分の汗が飛ぶのが見える。勢いよく飛んでいく汗の粒一つ一つに、頭の中の不安が乗り移ってくれたらいいのに、なんて思いながら無我夢中で走り続けていると、あっという間に一周してしまった。走っている時は風邪で揺られていたシャツもぐっしょりと濡れて体に張り付いている。少しでも体を涼ませようと思って、シャツの襟もとを掴んでパタパタと前後しつつ、つい癖で自分の体をチェックしてしまう。服の間から見えたのは、筋肉の山脈だった。

「ほう……」

思わず声が漏れてしまった。

なんて素晴らしい筋肉なんだ。

服の内側から手を入れて、自分の筋肉を撫でまわす。左手で服の襟を引っ張り、覗き込みながら、右手で胸から腹部にかけて汗を拭うようにゆっくりと撫でた。汗が付いた手でズボンを二度掴んでから、肩と背中に手を伸ばす。どこを触っても素晴らしい筋肉だ。

周りの目がないのをいいことに、しばらく自分の筋肉の素晴らしさにうっとりしていると、段々と空が明るくなってきた。いくら自分の筋肉が素晴らしいとはいえ、こうしてはいられない。いつの間にか脱いでいた服を着なおして、家へと向かった。

家に帰ると、真っ先にシャワーを浴びた。耳の穴から玉の裏まで丁寧に洗う。体中を泡まみれにして、頭から勢いよく熱いシャワーを開いた。顔の洗剤が流れていくのを感じてうっすらと目を開けると、浴室の光が体の水滴に反射して、自分が輝いて見えた。

「ナイスマッスル」

 自分で確かめるように、ポーズをとってそう呟いた。

 浴室を出て、ドライヤーをコンセントに繋いで髪を乾かす。勝負は既に始まっているのだ。髪を立たせるために前髪を引っ張って、毛根から逆向きに風を当てる。髪が乾いてきたら、両手に饅頭ぐらいの量のジェルを出して良く練りこむ。両手がガムテープみたいにべたべたになったらモヒカンの形を一気に作る。出来上がったモヒカンを鏡で確認すると、世界最高のフットボーラーであるアグエロを真似しただけあって完璧な仕上がりだった。朝の懸念はなんだったんだ。これでもかとモヒカンの出来具合をチェックしてから、制服に着替えて、昨日のうちに清書しておいた果し状をブレザーの内ポケットに入れた。鞄の中を確認して、登校の準備を済ませると家を出て学校へ向かった。


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