第九九話 「期待と供に」
昭和15年12月11日。
冬真っ只中な師走の頃合にも関わらず、この季節には付き物の雪に変わって陽の光が晴天より降り注ぐ柱島泊地。浅い海底が作り出すその波穏やかな海面には中将旗を翻した高雄艦を始めとする第二艦隊所属の全艦艇が集結し、すぐそこの呉軍港よりやってきた明石艦の姿もその艦影の群れの中には混じっていた。
第二艦隊司令長官である古賀長官はすぐに各艦の艦長級の立場の部下達を一同に集めて昭和16年度の意気込みを皆で確認し合っていたが、その会場となっている高雄艦のすぐ隣の海面に錨を下ろした愛宕艦の長官公室ではこれと同じ様な顔合わせの場が第二艦隊の艦魂達によって作り出されている。
白いテーブルクロスで覆われた長机の両端に席を設け、列になった状態で腰掛けている明石や神通を含めた第二艦隊の面々。各々の帽子を自分の前に位置する机の上に置き、これまた白いシーツで覆われたふかふかの椅子に背筋を伸ばして座っている中、長机の上座に当たる部分で列の末端としてそれまで椅子に腰掛けていた摩耶が、持ち前の片方の肩口から胸の前へと流す黒髪を靡かせて立ち上がる。次いで長官公室と通路を繋ぐドアへと視線を向けつつ放った彼女の言葉は、その場に居る第二艦隊所属の各戦隊長級の艦魂達には久々に耳にした仕事場での声であった。
『艦隊旗艦に敬礼。』
静かながらも通りの良い喨々たる摩耶の声が室内に木霊するや全員が椅子から腰を上げ、時を置かずして重苦しい金属の軋む音を漏らしながら口を開け始める摩耶が注目するドアへと全員が瞳を投げる。絨毯のほのかな赤色が天井の照明によって空気と混ざり、一瞬にして押し黙った艦魂達が期待とやる気に満ちた視線を集中させる室内は緊張感も張り詰めて若干の息苦しさもたちこめるが、そんな室内にドアの隙間から流れ込むようにしてスッと入ってきたのは、摩耶の姉にして今期より第二艦隊旗艦を頂く事になった高雄だった。
『ご苦労様。』
身に纏った皆と同じ濃紺の第一種軍装はヤマがくっきりと目立ってしわは微塵も見当たらず、軍帽の両脇から頬を伝って流れ落ちるウェーブの掛かった肩を覆うくらいの高雄の黒髪は、まるで太平洋の波が持つ鮮やかなうねりの様。胸を張った姿勢と一本の線の上に置くかのような足の運びで作り出されるその歩く様は、帝国海軍一等巡洋艦の最新鋭型の一員にして、そのネームシップでもあるという分身を持つ高雄には良く似合う姿である。摩耶と感じの似た透き通る声で短い労いの言葉を放ちながら、彼女は長官公室の扉を閉めると室内にある長机の上座にポツンと一つだけ置かれた自分の椅子へと歩み始めた。
その様子を隣に立つ神通や那珂と同じように少しだけ腰を折ってお辞儀の姿勢とする明石も上目遣いのようになりながら瞳に映しているのだが、彼女は別段その美しい高雄の歩く姿に感動して魅入っている訳ではない。
絶対、なんかやるな。
抑止が効かない薄ら笑いの表情の奥でそう呟いた明石。瞳に映す高雄は至って真面目な麗しく精悍な顔立ちを維持したままで椅子へと歩いているだけなのだが、それでも明石はそんな普通という状況の中でこの上司に当たるお人が何事かをおっぱじめるとなんとなく予想する。
20代前半と若々しくも完全に大人の雰囲気を身に纏う高雄は見た目の上では明石とも歳が近いが、その実は今年で生誕から10年を数える分身の持ち主にして、お仕事に関しても誕生以来ずっと第二艦隊の司令中枢を時に愛宕らと交代しつつも担ってきた優秀な人物である。年下どころか年上の部下を何人も従えて、おまけにその中には神通という問題児まで含まれている始末だが、そんな第二艦隊の面々が声を揃えて高評するのが彼女を含める高雄型姉妹であった。
ただ、昨年よりこの第二艦隊に名を連ねている故にその事を良く解っているにも関わらず、それでも明石の顔からはワクワクとした期待感により生まれる笑みの予兆が消える事は無い。そしてその期待感と連動する彼女の先程の予想は見事に当たっているのだった。
明石を含めた長官公室に居る者達の目の焦点を幾重にも浴びながら椅子へと近寄る高雄は、椅子にもう少しで手が届きそうなまでに近づいた所で椅子の足に片足の爪先をぶつけ、その刹那になんともわざとらしい声で短い悲鳴を上げる。
『ぅーぷす!』
『ぷぷっ・・・。』
『あは、やっぱりやったなぁ。』
『くくく・・・!』
それまでの麗しい歩く姿が嘘の様にガクンと姿勢を乱した高雄は、咄嗟に椅子に手を伸ばして転ぶのを耐えてみせる。だがそれを心配するような他の者達の素振りや声が室内に響く事は無く、むしろ明石を含めた室内の艦魂達はその姿に可笑しさを得て一様に手で抑えた口の隙間から笑い声を漏らす有様だった。
この高雄がこんな形で笑いを提供してくれるだろうという予想は、明石と同様にこれまで第二艦隊に属した事がある者にとっては常識。だからこそこうして一気に室内の空気を明るくし、大事な大事な昭和16年度の仕事始めの場であっても面白可笑しい感情を抱く事が出来るという物で、折り重なるヒソヒソとした笑い声の中で何事も無かったかのように答礼する当の高雄もまたそれを狙っていた。
第二艦隊旗艦の前任者で真面目な人柄の愛宕が溜め息混じりにすぐ傍の席にて呆れていても気にしないこの陽気さと冗談は、高雄自身が出雲というお師匠様より授かった大事な大事な教え。何事も柔軟性と余裕を重視した物の見方、接し方を意識する故の叡智であり、常に笑いを伴う事から人気者である彼女の人柄の源流でもある。
『ほい。みんなご苦労様。』
やがてしてやったりの薄ら笑いで小さなお辞儀を終えるや高雄はそんな言葉を放ち、笑みと明るさが十分に充満した室内の空気をそのままに早速お仕事の時間を続け始める。お師匠様と同じで冗談を常に口に出しつつもお仕事ぶりは至って真面目なのが彼女。年上の者も少なくない第二艦隊を愛宕と一緒に纏めてきたその実力は伊達ではなく、その場の雰囲気をふざけたりして僅かに逸らしてもすぐに元の軌道へと自ら戻してしまうのもまた彼女という人物の特徴であった。
もっともおかげさまで明石を含めた第二艦隊の艦魂達は良い意味で緊張を解す事ができ、その内に『なおれ。』の号令を放つ摩耶が会議を取り仕切り始めると、すんなりと頭をお仕事に切り替える事ができたのだった。
それに今日の戦隊長会議という第二艦隊所属の艦魂達の集いは、先月の11月15日に発布された昭和16年度艦隊編成によって第二艦隊へと加わった新たな仲間達との顔合わせの意味が強く、重苦しい艦隊訓練の結果と懸案に頭を悩めて厳しい表情を浮かべる必要もないのだから高雄が起したちょっとした笑いは具合が良かった。
そんな良い空気の中でまず新たに第二艦隊に加わった顔として紹介されたのは、高雄と愛宕、摩耶の実の妹である鳥海艦の艦魂、鳥海であった。
その分身である鳥海艦は摩耶と同じく高雄と愛宕が受けた近代化改装こそ受けてはいないものの、乗組員も含めて長く支那方面艦隊の一個艦隊の旗艦として励んできた精強な艦で、所属先の艦隊が主に南支方面を担当していた事から記憶に新しい北部仏印進駐にも彼女の率いた艦隊は海軍部隊の主力として参加している。艦の命である鳥海もまた高雄らと同じ20代前半の容姿を持つ女性ながら、実弾飛び交う支那戦線で艦隊旗艦としての経験を数多く積んだベテラン。もちろん第二艦隊にての所属先は同じ姉妹の高雄らが所属する四戦隊であり、良い補佐役が増えたと高雄らも大きな喜びを言葉に滲ませる。
次いで紹介されたのは170センチ半ばもあろうかという大柄の体格の女性で、後頭部で縛ったその黒髪の先は腰まで届くかとも思えるほどに長い。鋭さが目立つその眼光は神通とも良い勝負な程にギラリとした輝きを宿し、この場で初めてその顔を拝む事になった明石はちょっと声を失って生唾を飲み込むほどだった。この女性が決して悪人な訳ではないような人柄であるのは、新たな仲間に期待と親しみで染まった微笑みを送っている神通らの横顔を見てなんとなく明石にも解るのだが、如何せん強面というのは最初の見てくれで相手方に衝撃を色濃く残してしまう。顔つきも明石に比べたらすっかり大人びた20代後半の物で、明石とは艦の命として同期の様な間柄である利根や飛龍らも少し面食らって肩に力を込めながら伏せ目がちに視線を送っていた。
『・・・一航戦旗艦、加賀です。・・・願います。』
女性の割りに随分と野太く、些かかすれたような声色で名乗るその女性は、どうやら新たに第二艦隊に加わった第一航空戦隊旗艦とされる空母、加賀艦の艦魂らしい。まるで今にも沈んでしまいそうなその重い声には感情も希薄で、サラサラと流れるとても綺麗なその長い黒髪に反してどこか話しかけ難い雰囲気を漂わせる。神通のように中々にクセを持つ人物なのだろうと明石は思うも、実のところ彼女はこのお人の名前と噂をこれまでにも何度か耳にした事があり、そのおっかなそうな風貌に完全に震え上がっている利根や飛龍らに先んじて第一印象を早くも払拭する事が出来ていた。
なにせこの加賀という艦魂。何を隠そう明石が実の姉と慕う長門の分身から連なった系譜の果てに誕生し、実際に長門からは明石と同じ様に大変に仲の良い妹分として可愛がられた者なのである。加賀が艶も輝くサラサラと流れる真っ直ぐな黒髪を腰まで届くぐらいに伸ばしているのはその為で、根が暗いような性格は相反するような感じもあるものの彼女は長門の事を大変に尊敬してやまない艦魂の一人であり、髪型まで真似ている程にその慕う心は強いのであった。
また、その分身の上でも加賀は長門のれっきとした妹分で、長門型戦艦を改良した「加賀型戦艦の一番艦」というのが帝国海軍艦艇の命としての彼女の正式な出自である。もっともその通りに完成していれば長門型を攻走守の全ての面で上回るというとんでもない戦艦となる予定であったのだが、ちょうど加賀の分身たる加賀艦が建艦された頃はワシントン海軍軍縮条約にて大規模な軍縮が叫ばれた時期。残念ながら貧乏島国の薄いお財布では彼女の様な一級の戦艦を作っても予想される維持費を賄う事が出来ず、同時にそれを国家の財源を管理する大蔵省より指摘された経緯も手伝って、多くの海軍軍人や建造に携わった工員達が泣く中、進水から僅か3ヶ月しか経っていなかった加賀艦はその将来に対してなんと廃艦を予定されてしまった事がある。
だが「捨てる神在れば拾う神在り」というこの世の因果が、長門の様に師匠となるべき先輩艦魂に取り上げられる事も無く実体を得ていた加賀に、実に2年以上も閉ざされていた生きる道という物を与える事になる。加賀艦が乗組員も殆ど居ないまま桟橋に繋留されて2年も過ぎた頃、帝都近郊を襲った関東大震災にて空母へと改装する予定であった艦艇に欠が生じる事態となり、加賀艦はなんとその代艦に抜擢されたのである。残念ながら加賀艦の姉妹艦に当たる土佐艦にあっては廃艦予定が覆る事が無く、顔も会わせぬままに土佐艦は加賀艦が改装工事を受ける横須賀鎮守府にもほど近い館山沖で標的艦として没してしまったが、一方の加賀艦は5年に及ぶ大改装によって帝国海軍最大の航空母艦として大変身。
そしてその最中、空母への改装を受ける為に生まれ故郷の神戸川崎造船所から横須賀まで彼女の分身を曳航してくれた富士艦の艦魂に、加賀はその間ずっと面倒を見てもらう事になった。しかも富士は加賀の妹である土佐の艦体を死の海へと曳航した数隻に及ぶ特務艦の内の一隻であり、その点でもお師匠様は生まれながらに妹を失う運命を科せられてしまった加賀の心をとても労り、同時に深く通い合わせる事が出来たのだった。
その結果、3つの甲板を持つ大型空母としてその艦首に輝かす菊花紋章を波間へと映した頃には、加賀は一級の知識と品格を身に付けた立派な艦魂へと成長。多少口数が少なくてやや暗さも目立つ人柄ながらも、空母という艦種の運用方法が色々と手探りであった帝国海軍の中にあって彼女はその実力を磨いて良く励み、昭和7年の第一次上海事変にて帝国海軍はおろかその艦魂社会であっても足りない、人類史上初めて実戦に投入された航空母艦となって、その名を世界の海軍筋の間に轟かせたのだった。
まさにこの場に居る飛龍や蒼龍なんかも含めた帝国海軍空母部隊の輝ける金字塔を建てた者が、この加賀なのである。
しかもまた彼女の分身は本来が戦艦として建造された事から速力は若干遅い点があるものの航洋性は満点の出来で、幅広でズングリとした艦体は少々の荒波でも動揺が少なく、近代化改装にて手に入れた幅の広い全通型の飛行甲板や形状と構造を変更した煙突、元来が戦艦であった事からそもそもが広く大きく作られていた艦内容積など、いわゆる設備面では着艦する航空機の搭乗員や乗組員からも極めて高評を得る事ができており、一隻の海軍艦艇としてはかなり完成度の高い艦となっていたのであった。ついでにその艦載機搭乗員達も支那戦線で実戦を経験した猛者ばかり、というのだから非の打ちようが無い。
そしてこのような分身の評判と加賀の人柄はきっと同じなんだろうと、興味津々の瞳を加賀の大きな身体に向けたままで明石は考える。ちょっととっつき難いような雰囲気はあるが、仮にその人柄に問題ばかりなのであれば、わざわざ長門が明石にその名と話題を楽しそうにしながら語ってくれる訳が無いからだ。その証拠にこれまで加賀と顔を合わせた事がある艦魂達の中では口数も少なく寡黙な彼女の人物評は神通などと比べたら遥かに良く、中でも前連合艦隊旗艦にして愛想の良い陸奥とは同じ師匠に教えを請いだ同窓の仲である事から友人も比較的多い。笑顔は僅か数ミリほど口元を吊り上げるだけで、その笑い声も『ふ。』となんとも感情表現が貧相なお人であるが、無言のままで面倒を見てくれたりお仕事に勤しんだりするその背中は目標としている艦魂も少なくないという大人物であった。
『加賀さんにゃ、飛龍と蒼龍を含めた二航戦の面倒も見てもらいたいんですよ。見たとおり、まだまだこの二人は若いですからねぇ。海軍航空戦力のなんたるかを是非にも教えてやってくださいな。』
『・・・はっ。』
自分より10歳も年下の高雄にそう言われた加賀だが特にその表情には変化は無く、やがて目元の辺りがどんよりと暗い顔を音も無く流し、そこにある鷲の様に精悍で鋭い瞳を、明石とはちょうど長机を挟んで向かい合う形で椅子に座っていた飛龍と蒼龍に向ける。明石と同じ建艦計画にて生まれたこの二人は艦齢の面でも、20代になったかならないかという容姿の面でも近しい間柄で、特に飛龍は昨年より明石が第二艦隊所属となった時に一緒に配属されてきたという大の仲良しでもあるのだが、あいにく飛龍は明石と違って加賀の人物評をこれまで耳にしてきた事が無かったらしい。華奢な身体つきで物静かながらも肝が据わっている筈の飛龍だが、挨拶を終えて自分の隣の席へと腰掛ける事になった加賀の怖そうな雰囲気にすっかり気圧されてしまったようで、その顔色を悟られないようにチラチラと流し目で窺っている有様だった。しかもまた不幸にもその視線は何気なく後輩へと眼をやった加賀の瞳と交錯してしまい、その様子を面白がって眺める第二艦隊の艦魂達がクスクスと笑い声を静かに漏らす中で飛龍は咄嗟に挨拶をしてみる。
『に・・・、二航戦旗艦のひ、ひりう、です・・・。ね、願い、ます・・・。』
『・・・楽にして良い。・・・願います。』
『くくく・・・!』
『ひ、ひりうだって・・・。ぷくくく・・・!』
極度の緊張と戦慄の余り自分の名の発音まで狂った飛龍の言葉で、またまた笑いの渦がその暴風圏を拡大し始め、仲間達の笑いと供に全く笑みを浮べていない隣の席の先輩の様子に飛龍は困惑してしまう。室内の明るい雰囲気に乗っかって良い物かどうか迷いつつ、とりあえず彼女は加賀が自身の緊張をすぐに察してみせた言葉にお礼の弁を述べてみたが、返って来たのは全くもって短い加賀なりの笑い声。
『あ、は、はい・・・。あ、有難う御座います。あ、あはは・・・。』
『・・・ふ。』
『ぷぷぷ・・・!』
心許せる同期の星のそんな様子を真正面から見ていた明石も大笑いを必死に堪え、口元に手を添えた顔を膝の辺りに向けて些かお腹に抱える苦しみの度合いも混じる笑い声を漏らしていた。
だがしかしこの雰囲気の中でこうして顔合わせを送る事を企図していた高雄はすぐに次の話題へと進む事に決め、軽い咳払いの後に両肩を覆ったうねりの効く黒髪を交互に払うと口を開き始める。そしてなんとその澄み渡った清涼な声で紡がれたとある者の名は、未だに同期生への嘲笑に浸っている明石の名前であった。
『それと今期から明石は正式に第二艦隊付属を離れて、連合艦隊付属としてこの第二艦隊に随伴する事になったから。ま、仕事は去年と同じ様に、私達第二艦隊の奴らの健康管理が主になるだろねぇ。指揮権の上でも余程の事態じゃない限りは、あたしの所に乗ってる古賀長官が指揮を執る事になると思うよ。だから今年もよろしく頼むよ、明石。』
『あ、はい。みなさん、願います!』
高雄に名を呼ばれたのに気付くやすぐに明石は元気一杯の声をあげ、本年もまた艦魂社会での軍医さんとして励む先である第二艦隊の面々への挨拶とする。観艦式も終わって2ヶ月近く続いた休暇の日々で師匠である朝日にみっちりと教えを請いだ明石は、教育の日々の中で尊敬する師匠より褒められた事もあったりして自分の実力に確かな手応えを感じているのであり、怪我人が早く出ないか等とは微塵も思っていないが自分の出番が来たなら是非にも満点の出来となる成果を残そうと意気揚々としていた。残念ながら英語だけは中々その成績を伸ばせずに最後まで師匠との満足な英会話を行う事が出来なかったが、それでもお勉強への熱意だけは冷めていない。家族の様に思える朝日や長門に加えて、大和という新たな一員がその場に加わった事がその理由で、明石は言わば大和から見たら艦魂としての教養や品格においてはもう既に追われる立場でもある。家族4人揃ってのお茶会の席でも大和が大変に教養の吸収が速い若者である事は明石も耳に入れていて、「いつまでも自身は未熟者であってはならない。」と、焦りとは紙一重の使命感に燃えているのであった。
『ふん。なんだ、やけに気合が入ってるな、明石?』
そんな中でふと明石の隣の席で腕組みをしていた神通が声を上げ、日本刀の切っ先を模した目の中に点となった瞳を浮べて明石のやる気が漲る言動を尋ねてくる。対して明石は親友である神通に満面の笑みを向け、室内の仲間達が何事かと注意を向けてくる中でも構わず、両手に握った拳と腹に力を込めて今年の抱負を言い放ってみせる。
『私、今年は頑張る! 一流の〝れでい〟になってやるんだから!』
『あん? れでい? なんだそら?』
相変わらずの英語の発音で早速友人との意思疎通を失敗する明石だが、彼女はそれでも落ち込む様子も無く、昨年までの物とは違ったお仕事への意欲を激しく燃やす。その隣で良く解らない明石のそんな様子に首を捻る神通と那珂が左右の目を違う大きさにして顔を合わせるが、明石のこのやる気の源になっている最大の理由は二人とも知っている事でもある。
それはもう既に終わりかけている今年、すなわち昭和15年の4月に起こった明石の身の周りでの最大の変化。自分の未熟さと子供っぽさを痛いほどに思い知らされ、同時に有明湾で明石の両手から零れ落ちて行った相方の存在。大泣きして自己嫌悪の念を募らせた果て酷く落ち込みながらも、なんとかその未熟さを克服せねばと考えを至らせて懸命に己を磨いてきた明石だが、早い物で既にあの別れから半年以上の時間が経っている。
海軍軍人としての未熟さを払拭せんと、砲術学校という帝国海軍でも1、2位を争う厳しい場所へと自ら足を運んでいった相方のその背中を、明石は元気一杯の笑みを両隣の友人達を始めとした仲間達に振りまきつつ心の端っこでぼんやりと思い出していた。別れの前に意地を張って大喧嘩した挙句、手を振って見送ってやる事もできずに小さな舷窓越しでみたその背中。ほんの一瞬だけしか捉えていなかったのに、あの頃の明石はもうそれだけで溢れる悲しみと涙を止める事ができなかったのだが、あれほどに強烈な記憶が今となってはなんだか明石には恥ずかしくて笑えてしまう。たった一言だけでも自分の気持ちを声に放つだけで変えれた筈の出来事だと知っているからだ。
ほぼ一年越しの自分の馬鹿さ加減にこそばゆい様な照れを覚えつつ、明石は無意識に手を握ると同時にあの別れとそれに伴う孤独がいよいよあと半年も経たずに終わりを迎える筈だと脳裏の中で呟く。砲術学校や水雷学校が間近に在る横鎮籍にして、かつてはその砲術学校の練習艦としても勤めた艦を分身とする那珂から聞いた所に寄れば、相方のような新米士官対象のその勉学の期間は砲術学校、水雷学校供に半年づつ。つまり相方は砲術学校での日々を終えて既に後期の水雷学校にて頑張っている筈で、あと4ヶ月とちょっとの時間さえ過ぎれば晴れて戻ってくる事が出来る筈なのである。
どんな風になってるのかなぁ・・・?
艦魂の仲間内では最もその人柄を知る筈の明石だが、そう思って記憶を辿ると不思議とあの朗らかで波風を立てる事を嫌うような温和な相方の言動が浮かんでこない。思い出せるのは自分と同じぐらいだった背丈に怒ってもちっとも怖くない優しい顔、煙草を唇の左端に咥えて吸う癖、綺麗好きな割りにしょっちゅう灰皿を引っ繰り返す困った所、何か言おうとしても先に誰かが声を放つと自らの声を静めて話を聞いてくれる小さな思いやりと、なんとも断片的な物ばかりであった。
『ちょっと、・・・ふふふ。どうしたの、明石?』
『気持ち悪い奴だな。なにを一人でニヤニヤしとるんだ?』
ちょっと相方の特徴が薄れてしまった記憶は明石にとっては少し物寂しかったが、どうにも今しがた脳裏を過ぎった思い出は明石の顔に変化を与えていたらしい。神通のなんともぶっきらぼうな物言いでの指摘を受けるや、明石も自分で口元が妙に力が篭っていて、唇の隙間から覗いた前歯がちょっと乾燥している事に気付く。
『んひっ。ふふん、ナンでも無い。』
なんとも気味の悪い笑い声の断片に続けて明石は声を返し、軽く平手打ちをするように自身の両頬や唇を叩いて真顔に戻ろうとする。次いで底知れぬ期待感がじわじわと湧き上がる胸の奥にそっと彼女は蓋を閉め、待ち遠しい反面、残りも少ない一人っきりでの修行の時間を有効に使おうと決意を改める。相方と別れた頃は何も知らない身の程知らずでも、今の彼女は後輩もいて師匠にもお褒めの言葉を貰って、テーブルマナーも身に付けたし軍医の腕もうんと向上し、勢いに乗じて今や英会話にも挑戦しようとしているという、まさに多くの修行を経て結果も残してきた立派な帝国海軍の艦魂。まだまだ師匠の授けてくれた教えにある一流では無いかもしれないが、それでもやっとこ1.5流くらいにはなれたのかなと明石自身は思っている。
昔の私じゃないんだからね・・・。
なにか久しぶりに相対した仇敵にも投げるかのような言葉を心の中で一度だけ呟き、明石は再びその意識を今だ和気藹藹とした雰囲気に包まれて続けられている会議へと戻していくのだった。
そんな明石の背後にてちょうど変わり始めた銀色の空を映す舷窓の向こうでは、師走も半ばに入らんとするにつれて増して来た冷たい瀬戸内の潮風が雪を運んできていた。ちょっと黒めに染まった波間が第二艦隊の各艦の乾舷を洗い、通り過ぎる風の音によって拉致されていく波音が木霊する柱島泊地に、その存在を音では主張しない大粒の冬の申し子達が白い輝きを伴って天空から海面までの舞踏会を静かに催す。だがこの舞踏会の舞台が静寂に尽きるモノトーンから鳥達の鳴き声も響く桜色へと変わるのは、季節の上では時間も余裕も無い次の幕。
明石はそんな有明湾の海岸を埋めた散り際の桜の色を思い出しつつ、それが別れから再開へと転化するであろう事を信じてこの日一日を過ごすのだった。