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第九八話 「母が得た覚悟/後編」

『それはですね、朝日(あさひ)さん。近年の米国海軍による太平洋方面への展開と、時代に沿って変化する帝国海軍の戦策を調査する為なんです。今年の5月には日本とハワイの間にある米国領のミッドウェー諸島に、防御部隊として海兵隊が配置されたらしいって話も有るんです。どうやらアメリカさんも太平洋方面の軍備に本腰を入れ始めたみたいで、燃料貯蔵施設や艦艇の停泊施設を作ろうとしてるってのは9月には新聞にまで載ったんですよ。』


 長門(ながと)はそう言うと咳払いを一度行って朝日から一瞬だけ視線を逸らすが、決して彼女はお師匠様の鋭く瞬きの回数も数えるほどでしかない視線をずっと向けられている事に臆した訳ではない。帝国海軍の歴史の中でも陸奥(むつ)と供に最も長く旗艦という重い役を頂いてきた長門は近代帝国海軍の情勢だけなら朝日よりもずっと身近にしてきた身なのであり、なまじ人事異動という形式で励む先を変える事が無い艦魂独自のお仕事事情は、彼女に自身の艦内にある長官室等で豊富な帝国海軍の知識に触れる機会を非常に多く設けてくれたのである。

 やがて濃紺の第一種軍装の中でも目立つ朝日の青い眼差しに同じ雰囲気の瞳を幾分凛々しく尖らせて向けるや、同じく第一種軍装を身に纏う長門は再び堂々と張った胸の下にて腕を組みながら朝日へと返した言葉の詳細を述べ始めた。


『それにそもそもがアタシら帝国海軍は、仮に米国と戦争になったとしても米本土西海岸まで攻めていけるだけの戦力はありません。それどころか、来寇した米海軍の艦隊とそのまま正面からの殴り合いをする事すらも出来ないんです。』


 単刀直入に自分達の居場所である帝国海軍を米国海軍に及ばないと断じる長門だが、朝日はその言葉を受けても眉一つ動かさずに瞬きを忘れた青い眼差しで次の言葉を待っている。40余年も帝国海軍の名の下に奉公して来た彼女の経歴なれば幾分の抗う心が湧いても良さそうな物だが、朝日が全く驚かずに吐息の音色すらも変わらないその理由は、単にこの朝日もまた帝国海軍という存在は米国の海軍に対してまず勝ち目を見出せない存在である事を知っているからに他ならない。


 日露戦役も終わって少し時間を経た明治40年4月4日。

 この日に裁可を得た「帝国軍ノ用兵綱領」にて既に対米作戦の骨子として「海上兵力ヲ撃滅スルヲ主眼トス。」と記されていた時、朝日は現代の長門と同じく現役の戦艦として帝国海軍と歩みを供にしていたのであり、翌年の11月初旬から早速、九州東方の太平洋上で始められた米国を想定しての2日間に及ぶ大演習には仮想アメリカ海軍を勤める第一艦隊所属艦として参加した事もある。

 同時にこの演習のちょうど一ヶ月前に旗艦コネチカット艦に率いられた戦艦16隻を主軸とするアメリカ海軍の世界周航艦隊、通称「大白色艦隊」が横浜港へと寄港しており、この際に出迎えとして参列した帝国海軍の艦隊の中にも朝日はいた。当時、旗艦のコネチカット艦を含めてアメリカ海軍の主力戦艦部隊は朝日の世代よりも数年ほど若い艦で構成されていた為、横浜周辺の国民やその場に居合わせる事になった海軍軍人のような人間達と同じく、朝日を含めた帝国海軍の艦魂達もまたその武功を奉ってくれるアメリカ海軍の若い艦魂達とは笑顔で友好の輪を深める事ができたのだが、その裏で朝日はこの時、遥かに続く太平洋の向こうにとんでもない海軍力を持つ国がある事を身を持って思い知る。

 現実に目の前へと最新鋭故の若々しい顔を寄港先の国よりも多く連ねてみせた星条旗を頂く海軍艦艇の群れに、朝日は同じ海軍艦艇として、そして実際に戦の場へと赴いた一人の艦魂として、この頃からまともに自分達が彼女達に対して勝負できるかどうか甚だ疑問を持っていたのだった。


 もちろん教え子たる長門もその認識は同じで、なにもこれはとある艦魂師弟の間で流布される悲観論ではなく、帝国海軍を支える人間達においても大半の認識は同じであった。

 日露戦役で日本に与えた外債の回収も待たずに、僅か3年で11隻の戦艦の建造計画に認可のサインを綴れるほどの米国の経済力。全ての国家の基本であるこの経済力に裏打ちされたのが彼女達が見た強大なアメリカ海軍の姿に表れているのであり、それだけの経済力どころか、産業革命以降の近代国家の経済においては根本となる国家としての工業力、科学力、技術力がまだまだ整っていなかった一方の大日本帝国には、アメリカ海軍に追随できる程の軍備増強はどだい無理な話であった。

 日本初の国防方針である「日本帝国ノ国防方針」と供に明治天皇へと上奏された「国防ニ要スル兵力」にて、帝国海軍は艦齢8年以内の戦艦と装甲巡洋艦で一線部隊を形成するという大目標を掲げていたが、陛下の裁可を受けて国政の場まで進めてみると貧乏島国の懐事情では一向に実現の目処が立たず、案の定同じく「常設25個師団」と銘打った軍備増強に励む帝国陸軍との間で国家の財源を賭けた喧嘩になってしまい、結局アメリカ海軍との間には年を追う毎に軍備の差が生まれていく事になる。帝国海軍はその中で戦力比としては対米7割という数字を堅持し、8隻の戦艦と8隻の装甲巡洋艦という7割の中身の構成は多少修正しながら現代へと至っているのである。

 そしてこの修正案が大正の時代にようやく議会を通過して建造と相成った8隻の戦艦の栄えある一番艦こそ、朝日が長女として得て育て上げた長門の分身なのであり、曲がりなりにも帝国海軍一の博識さを持つお師匠様を得ている事もあって長門はそんな自分と帝国海軍の生い立ちをよく理解している。

 朝日の問いに返って来る回答としての言葉が、そんな長門が普段から異様に目立つお気楽さに伴って知識もちゃんと得ている事を示していた。


『朝日さんもご存知でしょう? 帝国海軍の対米作戦は、朝日さんが仮想アメリカ艦隊の役で演習やってた明治41年から基本的には防御と迎撃を骨子にしてて、それは航空機や潜水艦が発達した今では漸減(ぜんげん)要撃という独自の進化で飾られて随分と形態は変わりましたけど、根本は一緒です。』


『それが南洋にまで及んでるの?』


『そうです。一昔前はこの漸減要撃を行う為の決戦海域は小笠原諸島の辺りでしたけど、現代の艦艇や航空機の航続力なんかを勘定して人間達はそれよりも南のマリアナ諸島の近辺を決戦海域に考えてるんです。日本本土やフィリピンを軸にすればあそこは西海岸やハワイなんかからは最短の航路になりますし、南洋の航空兵力や哨戒能力、艦隊保全能力が高まれば豪州方面からの迂回を強要する事もできるんじゃないかと考えてるみたいです。朝日さんが心配してる南洋の軍備はその調査や実地研究の為に増勢されているだけで、まだまだ満足に活用できるまでには時間が必要ですよ。常盤(ときわ)さんみたいな特務艦が何隻もあの方面に配置されてるのは、その支援と維持の為に回されてるに過ぎません。去年からアタシの艦に乗ってる山本(やまもと)長官なんかも、米国とのドンパチは避けるべきだと幕僚の人達にはよく言ってましたよ。』


 現在の帝国海軍の一線部隊たる連合艦隊を纏める人間の名も出して長門は朝日の憂いを心配の域でしかないと主張し、ふと胸の辺りで組んでいた腕を解すと片方の手を首に添えて響きの良い音を鳴らす。無意識の内に姿勢を崩して再び正面から来る朝日の視線より目を逸らす長門だが、決して彼女は明確な嘘をついたが故にそんな行動をとった訳ではない。


 米国への駐在も経験した山本長官は多くの帝国海軍軍人の中でも米国への知識はとりわけ深い男であり、忙しさから解放される暇が少しでもあれば英文で書かれた「ナショナルジオグラフィック」という米国発の雑誌を面白がって読んでいたりする為に米国の地理や動物にもそれなりに教養を得ている等、菊の御紋を艦首に奉って20年近く生きてきた長門にとってはとても興味を引く人間であった。それ故に長門は昨年に和歌ノ浦(わかのうら)でこの山本長官を示す中将旗を翻した時より、艦魂である自分を見る事ができないのを良い事に会議中の長官室に忍び込んだりしながら山本長官の言動をつぶさに観察していたのだが、アメリカを知るが為にその倒し方を明示してくれるのだろうかという彼女の期待はこの男にとっては言語道断の考えであった。


『いや、そりゃ是非やれと言われたら半年から1年くらいは随分暴れてご覧にいれます。しかしながら2年、3年となるようでしたら全く自信は有りません。』


 前海軍大臣を務めていた吉田(よしだ)中将が倒れた事で国政の場も少し騒がしくなった今年の9月。首相である近衛文麿(このえ ふみまろ)より対米戦の憂慮として質問を受けた際、山本は帝国海軍実戦部隊の長という立場にも関わらずそんな言葉を放ってみせた。仕事場たる長門艦艦内にいる時も同じ様な声を心に秘めているのは明白で、その認識は彼と供にお仕事に励む参謀達といった幕僚の面々、そして彼らと同じ年代の海軍軍人達にあっては立場の上で声には出し辛い本音でもあった。小難しい専門用語が中年の海軍軍人達が持つ渋い声によって放たれるという長官公室での会議等にこっそり潜入したりしていた長門はその事を知っており、『対米戦なんて無理なんじゃねえの?』という彼等の心の中に木霊する言葉をやがて察するようになる。 決して日本と帝国海軍が弱いという事ではなく、それ以上に米国とアメリカ海軍が途方も無く強過ぎるのだ、と。




 その上で長門は欧州戦線に端を発する現在の情勢を立て続けに述べ、師匠が向けてくる鋭さの際立つ瞳に再びいつもの柔らかさを取り戻させようとする。


『今は欧州戦線の影響もあって、アメリカ海軍も去年には大西洋戦隊を常設部隊として太平洋方面から戦力を引き抜いてます。まあ、おかげで日本も不完全な南洋の軍備を整える時間が得られたんですから、それを破って不利な状態でドンパチをしかけるなんて事はありませんよ。』


 あくまで備えながらも米国と戦おう等とは考えていない長門が述べた意思。その備えの中核にして中枢を担う人間達や長門がこんな弱腰ともとれる言動をするのに対しも、やはり朝日は動じる事が無い。交差した腕の両肘を下から抱えるようにして腕を組んだまま、眼前の長門が相も変わらず首を鳴らす様子をまじまじと青い瞳に映すだけだ。


 その理由は、長門や彼女の口から語られた現連合艦隊司令長官の山本中将を始めとする人間達の認識が、そも朝日がまだ連合艦隊に戦艦籍で在籍していた際と全く同じ物だったからである。特に山本長官のように、現役で海軍を統べる役職を頂く者が首相や陸軍といったいわゆる第三者に『仮想敵たる国家とは満足に戦えない。』という意志を公然と示す人間に関し、実は何度かそれ以前にも前例があったのである。

 中でもワシントン海軍軍縮条約締結の功で名を馳せる加藤友三郎(かとう ともさぶろう)海軍元帥がその好例であり、彼は海軍大臣を務めていた大正8年2月5日、衆議院予算委員会第四分科会の席上にて質問に対する答弁として次の様に答えている。


『殊に彼の強大国大金持ちがその無限の資力をもって拡張していこうという事に、大体において競争致そうという意思は持っていない。また、仮に持った所が及ばないという事は解りきった話である。』


 もちろんだからといって国威の維持を投げ出そうという事ではない。当時の加藤大臣は同じ場にて『日本の力が及ぶ範囲において自衛上相当と思う程度の軍備を整える事が肝要。』と述べているのだが、ようやく長門が生を受けた頃でもある現代より20年程も前から既に帝国海軍を主導する錨のマークを身に付けた者達の殆どは、米国海軍に対してまず勢力の規模においてすら対等に振舞う事も出来ないという認識を持っていたのであった。




 しかしながらそんな帝国海軍の実情を知る筈の朝日は、長門の明確な物言いに対して再び言葉を返してくる。それは米国へと仕掛けるつもりが無いという長門が語る連合艦隊司令部の人間達が抱く思惑を嘘だと断じる物ではなく、その上で彼等がその身に帯びた使命として遂行しなければならないお仕事に関しての状況の事。山本長官を始めとする彼等からその存在を意識されないながらも、普段から長門が注意深く見守ってきた長官室の中で交わされたであろう多くの考察に関して、もうずっと昔の事になるが同じく連合艦隊司令部をその身に宿した事もある朝日は一通りの事を教え子が敢えて言わずとも大体予想済みである。

 その証拠に朝日が張り詰めた声で放った言葉を受けると、長門はここに至ってついに応答の自由を失い始めていく。


『長門。連合艦隊司令部は帝国海軍の思惑を実施する現場その物よ。その中でなんとか米国と応戦できるだけの算を、現場側の立場としてより現実に近づいた物として見出すのがあの人達の役目でもある筈でしょう? 常に高く維持しようとした錬度に、大和(やまと)明石(あかし)みたいな最新鋭で有力な艦艇。支那で私も目にした、渡要爆撃で名を馳せた陸攻みたいな優秀な装備。漸減要撃に代表される周到な戦略計画なんかも含んで、その力量差を埋めようと常に頭を捻るのが連合艦隊司令部勤務の人間達。長官室で悲観論を漏らし、無理だ無理だと愚痴るだけの無能な人間達では無い筈よ。』

『・・・・・・。』


 鋭く細められた青い瞳に映される長門の顔は、朝日の声を受けるや眉をひそめて緩く唇を噛んだ表情へと変わっていく。朝日が開口一番で欧米との戦となる事への憂いを声に変えた当初より、長門の意識の中にはお師匠様に対してのとある含みがあった。


 長い横須賀での休暇を終えた長門艦が昭和16年度艦隊訓練の為に呉へとやってくる直前の、11月26日から28日に及ぶまでの3日間。山本中将率いる連合艦隊司令部の男達は横須賀からも近い東京の海軍大学校にて、従来の開催にあっては異例な程に参加者を制限した状態での図上演習を行っていた。艦魂である長門はもちろん横須賀の岸のずっと奥にある東京の海軍大学校へと足を運ぶ事は出来ないので、そこで行われた図上演習がどんな内容だったかは全く知らなかったものの、誰もいない事を良い事に豪華な内装を施す長官室にて悠悠自適な生活を楽しんでいる最中に顔を揃えて帰って来た山本長官以下の司令部の面々が、疲れきった顔でひそひそと静かに話す声によってその内容のおおよそを把握する事に成功していた。





 それは進展の見られない石油資源を主に据えた対蘭印外交の、武力による可能性を探る物である。

 昨年より受けてきた米国の経済制裁への対策として今年の8月から始まった蘭印総督と日本との間の買油交渉であるが、それまでの日本への輸出量の5倍近い量を確約したい日本側と、急激な輸出量の増減に対応が難しい上に米国寄りの外交姿勢を終始貫いている蘭印側とでは意見の隔たりが余りにも大きかった。大体が蘭印側にしたらテーブル越しに相対した日の丸を国旗とする国は自分の本国を蹂躙したドイツと同盟を結んでいる国であり、決して表ざたに敵対的な姿勢を出さずとも感情的な面でも好感を持ってくれる訳が無い。彼等にしたら祖国の復興はドイツと交戦しているイギリスや、その支援国であるアメリカ等に祖国の地からドイツ軍を退けて貰わねば絶対に実現できないのであり、間違ってもそのドイツとの友好国である日本に力を与えるような取引には進んで応じる気などあろう筈も無かった。

 しかも当地で産出する原油、及び石油製品はその90パーセントがオランダ本国も含めた外地輸出品であったのだから、日本だけに対してこれまでの実績とは大きく異なる量の割り当てを行う事は当然ながら他の地への割り当てを減らす事が必要となる。それは畑で採れた野菜が店先へと並ぶ量において店主に客が注文をつけるような物で、あくまでも民間折衝の形での交渉に拘る日本側はそのような国家としての非礼を犯す事は無かったが、そのおかげで蘭印との買油交渉は半年が過ぎても一向に日本側が必要としていた購買量にサインを貰えず、2ヶ月ほど前の10月22日には派遣してた現職の商工大臣である小林(こばやし)大臣を呼び戻す事態に陥っていた。

 もっとも交渉その物は早期決裂となれば日本側の武力権行使の可能性を憂慮する蘭印側の思惑もあって継続の形で維持されていたのだが、一刻も早くこの買油交渉を成立させてもらいたい海軍としてはその実現に対して実力をもって対応に当たる事も考えており、山本長官らが実施した海軍大学校での図上演習はその一端であった。

 なにしろ軍艦という物は四六時中ボイラーを焚いているのだから、ずっと港内に繋留されたままの状態であっても貴重な石油資源をどんどん消費するという側面がある。加えてただでさえ劣勢な米国海軍に対してはいわゆる錬度の面でもある程度の差を常に着けていたいというのが日露戦役以降の海軍としての本音でもあるのに、肝心の艦艇や航空機を動かす為の燃料が無くては満足な訓練も行えない。故に是が非でも石油資源の供給に目処をつけたい海軍は、海軍大学校における図上演習において対蘭印戦の検討を行ったのである。

 だがしかし、この図上演習の主眼は蘭印に対してどのような方策で事を構えるかよりも、蘭印に向けて刃を向けた際に帝国はどのような事態へと陥るかという展望とその対応策を研究する側面の方がより強かった。言うまでも無くそれは蘭印への実力行使に対して、帝国海軍が仮想敵の大本命としている米国が加勢するのではという可能性の事である。よってこの図上演習では構想として米国との戦闘状態になった事を念頭に置き、日本にもほど近いマリアナ諸島に存在するアメリカ権益の地であるウェークやグアムの攻略は勿論、米軍による反撃でトラックが陥落しつつもこれを帝国海軍で奪回するという推移で、マリアナ東方海域において艦隊決戦を強いる辺りまで話は及んでいたのであった。





 まさにそれは長門の眼前にて厳しい顔を向けてくる朝日が最も憂う、米国との戦争状態その物。そして長門が言葉に詰まって次第に強く唇を噛んでいく中、朝日が漏らした言葉は先程告げたばかりの長門の見解を真っ向から否定し、じわじわと胸の奥に渦巻いていくその現実味は長門の顔から血の気を引かせ始めて行く。


『・・・戦力の面で優勢である米国の艦隊を決戦海域へとやって来るまでに消耗させ、海上戦力としての差をなんとか互角に近づけた状態でようやくこちらの全力をもって迎え撃つのが、私が現役で一線に立ってた頃から人間達が見出してみせたこれまでのやり方ね。でももう一つの算だって有るわ。・・・これ以上の差が着かない内に、こちらから勝負に打って出るというやり方よ・・・。日露戦役がそうであったように・・・。』

『う・・・。』

『・・・それをやろうとしているんじゃないの、・・・長門?』


 短い長門の呻き声に覆い被さる朝日の問いが、現役の連合艦隊旗艦である長門の胸の内を容赦なく揺さぶっていく。決して朝日が抱く憂いとその心当たりは長門個人には責任は無く、そも長門は山本長官を始めとした連合艦隊司令部の海軍軍人達を悪い人間であると考えている訳ではない。連合艦隊旗艦に相応しい艦として何の必然も無く分身を持っただけなのが長門であり、山本長官らとて世界情勢が乱れるこのご時世に海軍軍人として備えの算を見出す役職を頂いたという事に必然性がある訳ではない。ただひたすらに運が悪かっただけのお話なのかもしれず、段々と長門にはそんな自分の今の境遇に憤りすら覚えてきてしまう。例え師匠と同じ年代の者達が持つ戦艦という艦種が光り輝いた日本海海戦での武勇伝に憧れを抱いた事があろうとも、例えこれまで朝日に語ってみせたように帝国海軍の情勢に詳しくとも、長門は決して対米戦を代表とする戦の危機を望んだりした事なぞただの一度も無い。むしろアメリカとの戦という物がどんな様相となるかの認識は、少し前に彼女自身が言葉で示した通りである。長門は万に一つも、米国と日本が戦となれば勝てる等とは考えてはいなかった。

 そして教え子がそんな考えを持つ故に声を失って眉をしかめたのを知る朝日は決して長門を責めるつもりはないものの、それまでと変わらず深い青で輝く瞳を細めてそこに長門を映し、やがて緊張が続いた事によって得た疲労感を滲ませる溜め息に続けて、これまで余り後輩達に語る事の無かった国同士の戦に対しての独自の考えを述べ始める。 だが定まらぬ視点の長門の耳へと木霊するのは一介の老いた艦魂の自論ではなく、まさにいま長門自身が憂いとして持った自分達よりも遥かに強い国と戦った際の経験談であり、朝日の教え子としては余り耳にした事が無い内容であってもその声に籠められる迫力、現実感、説得力は生半可な代物とはなっていなかった。なぜなら朝日が持ち前の弦楽器の様な優雅な声を引き締めて述べ始めた物は、朝日自身がその身に傷を負ったり、逆に傷を負わせようとしたという日露戦役に纏わる記憶だからである。




『・・・身の程を忘れた戦ほど危険な物は無く、戦ほど身の程を忘れさせる物もまた他に無いわ。かつて私が戦艦として戦った日露戦役は、日本にも近い支那や朝鮮への進出が激しかったロシアの脅威を、この日本に及ぶ前の段階でなんとか防ごうとした防衛戦争。決して領土が欲しい訳でも、それ以前の三国干渉で失った権益を取り戻そうなどとも思っていなかったわ。・・・でもその実はどうだった、長門?』


 今日既に何度目となるかの問いかけを放つと朝日は音も無くゆっくりと深い真紅のソファから腰を上げ、その位置から最も近い所にて銀色の空から薄っすらと漏れる師走の陽光を室内へと導いている舷窓へと歩みを進めて行く。ゆっくりとした足取りと供に朝日の足元からは革靴が赤い絨毯に沈む音が小波の音色に混じって放たれる。対して師匠の問いかけに対する答えが割と早く浮かんだにも関わらず、その内容が余り良い感情を与えてくれない代物であった事から眉をしかめたままの長門は顔をそっと上げ、小さなテーブルを挟んだだけのそれまでの隔たりをドンドン引き離し始める朝日の背を追った。すると長門の細くなった瞳に飛び込んできたのは西洋人独特の鼻の高さや奥まった目の度合いが一段と増す朝日の横顔で、舷窓に近い事から陽の光を受けて宝石のように輝くその碧眼に長門は目が合う。だがその朝日の青い瞳の輝きの綺麗さこそが、長門に自身がまだ声には出していない胸の中の答えを看破されているのだろうと思い知らせてしまう。

 朝日の第一の教え子としてこれまで過ごしてきた長門の生涯にて日露戦役の実情は、その日露戦役を最初から最後まで戦い抜いた朝日によって教えられているのだから当然長門にあっては周知の事で、その上でこのお師匠様は日露戦役を勧善懲悪の如きお粗末な物語として伝えてはいない。そのおさらいをするかのような言葉が朝日から発せられ、長門はすがりたい気持ちで朝日の瞳へと向けていた視線をまた自分の膝の辺りに落とし、黙って耳を澄ました。


『黄海や蔚山(ウルサン)、対馬沖での海軍の戦勝、旅順や奉天での陸軍による奇跡に浮かれて、戦争が終わるや軍人や国民の枠に留まらずに多くの人間達、そして私達艦魂ですらもその多くが開戦となった時の初志を忘れ、欧米列強にも自分達は勝てるなんていう根拠の無い(おご)りに酔った。そして戦争が終わって講和の会議が開かれると、あれほど念願にしていた国威の安泰に満足せず、さも当然の様に海外領土と権益を要求したわ。・・・その姿は、私の生まれた英国も含めた一昔前の欧米列強と何の違いがあるというの・・・?』


 まるで蔑むように自身の艦首にも翻る日章旗を国旗とする国の当時を断じる朝日の声は、紛れも無い日本の船としてこの世に生を得た長門には少しだけ嫌悪感と悔しさを滲ませていく。そもそもがその完全な西洋人の顔つきと体格から連想される通り、朝日の分身はこの国で作られた物ではなく、彼女は日本から見れば地球の反対側にある遠い異国よりこの国の海軍へと渡ってきた経歴の持ち主。故に自分と師匠では日本という国に対する想いに温度差があるのかと長門は一瞬だけ考えるも、20年来も一緒に過ごしてきた記憶が長門の思考からそんな朝日と自分に差異が無い事をすぐに実感させていく。

 実際に日本海で多くの傷を負いながら戦い続け、自分を含めた後輩達に常に慈愛の心と供に叡智を授け、生誕から40余年が過ぎた現代でも尚、艦種を変えながらも帝国海軍艦艇として励んでいるという朝日の背中を、長門は物心ついた時からずっと見てきたのだ。記憶にあるそんな朝日の後姿に、彼女がこの国をどれほど大切に思っているのかなどと疑う余地はどこにも見出せなかった。

 やがて長門が朝日の胸の内を何とか掴み取ろうと思考を巡らせる中、ほんの少しの沈黙が支配していた室内に朝日の声が再び響きだす。その言葉は物事に対する評価を嫌う性分の朝日にしては全く正反対な言葉であり、それ故に朝日の人柄と性格をよく知る長門にとってはこれ以上無く重苦しい一言であった。


『・・・結局はこの国は、良くも悪くも黄色いヨーロッパになっただけよ・・・。』


 朝日は舷窓の向こうに広がる呉軍港の景色を見たままで、教え子が自身の放った一言で僅かに奥歯を噛みながら我慢するように歪めた表情を俯かせている事に気付いていない。寂しさも纏う細くした碧眼には呉軍港のどまんなかの海上で起重機を備えたポンツーンに挟まれて艤装作業中の大和艦の巨大な艦体、長門を始めとする第一艦隊所属の戦艦が連ねる山の様な艦影、そしてそんな波間を忙しなく駆けずり回る曳船らの雑役船舶が映りこむのみで、意識の中でも教え子の様子を窺おうという選択肢は朝日の脳裏には浮かんでいない。かつて黄海や日本海で死に物狂いで戦い、実の妹を戦火に蝕まれて奪われた末に在った物に朝日は激しさを伴わない、だがそれでいて非常に強力な火勢の憤りを覚えているのであり、教え子への気配りを彼女から失わせる程の憤りの度合いはさらに続けて発せられるその声色にも示されていた。


『でも産業革命以来、経済力となって現れる近代国家としての国力を支えるのは工業力に技術力、科学力。それに大きく立ち遅れ、そもそもが近代工業における資源が確保できない立場も忘れ、自分達も栄えある帝国主義、近代国家の仲間だと背伸びして走ってみたらこの有様。その上で〝大家〟と勝算の少ない戦をするの、長門?』


 朝日はそう言うとようやく顔を長門へとゆっくり向け、細めた瞳や息遣いもそのままで教え子より返答がくるのを待つ。

 一方の長門は先程から続く師匠の問いかけに自分でも納得できるだけの回答をする事が出来ず、加えて朝日も何やら自分のそんな言葉に詰まっている状況を見透かして質問を投げ掛けて来ているような感じも覚え、先程から悶々と脳裏で渦を巻く不安と苛立ちをつい伴わせた声で朝日に応える。だが勢いと感情に幾分任せて放った長門の言葉は、実際にこれまでの生涯で体験した事実でもって語っている朝日に対してはやはり満足な度合いの回答とはならなかった。


『で、でも、日露戦役だってその大家との戦だったじゃないですか・・・! 確かに後味が悪かったかも知れないですけど、少ない戦力で頭を使いながら奇跡の勝利を残せたじゃないですか・・・!』

『あの戦争は最初から相手と同じ大家である英国や米国との友好を武器とし、幾重もの背景を張り巡らせた故の賜物よ。戦争に必要な外債も米英に引き受けてもらったし、当時の海洋交通の便宜も図ってもらったし、あの戦争を終わらせる為の講和の仲介にすらも入ってもらったわ。でも今はそんな張り巡らせるだけの背景が有るの? 有るのは我らが日の丸と、大洋を3つも隔ててる上に、欧州の殆どを敵に回して戦っている戦争中の国だけじゃない。』


 どうしても崩す事の出来ない朝日の言わんとする物。米国との戦の憂い。

 それを長門も解っているだけに、そして朝日と同じ様に嫌だと思っているが為になんとか応じようと試みているのだが、長門にはまたしてもも師匠の言を伏せるだけの言い分を用意する事が出来なかった。


『ぐ・・・!』


 膝の上に置いていた両手を握る手に無意識の内に力が入り、行き場の無い鬱憤が昂ぶって思わず噛んだ歯の隙間より短い呻き声が漏れる。

 いかに艦魂としてのお師匠様とは言え、連合艦隊司令部の人間達の思惑に触れる事の出来る連合艦隊旗艦の役職から朝日が退いたのはもう30年近く前のお話である。その事から決して口には出さなかったものの、本人が既に自分の事を年寄りだと公言している事もあって、長門はこれまで朝日をどこか浮世離れという言葉も当て嵌まるかのように現代の帝国海軍の中枢から距離を置き、その分知識も興味も薄らいだ感覚を持っているのだろうと思ってきたのだが現実は違う。実際にその役目を経験し、実際に戦場で傷つくと同時に傷つけ、実際にこれまでの帝国海軍の歩みを自分以上にその目に映し続けた人物が、他ならぬ長門が唯一人だけ師匠を仰いだ艦魂、朝日なのであった。

 まさにその存在は戦を知る者としての雰囲気を備え、逆に現代の連合艦隊旗艦たる長門には絶対的に足りない物。その事を深く思い知れば知る程に、長門はどうしても心の中で自分と朝日の距離が離れていくような感覚を覚える。年齢を重ねたと同時に積んだ経歴だって相手が多いと思えばそれまでかも知れないが、今すぐには埋まらない自力の差のような物がそこに存在しているかのように長門には思え、連合艦隊旗艦という大役を頂く自分が未だに師匠から見ればこんな程度の身の程であるのを大いに悔しく思えてくる。もちろんそんな胸の内であっても長門の朝日に対して人一倍抱いている尊敬の念が失せる事は無いのだが、再びこちらへと近づいてくる足音にすがる想いで上げた長門の視界には、まるでその分身の喫水線の下に隠れている衝角をも彷彿とさせる程に鋭利な形を研ぎ澄ませた瞳でもって突き刺そうとする朝日の表情が映った。

 次いで弦楽器を思わせる朝日の声が絨毯に沈むその革靴の音を伴奏にして木霊し始め、まだ彼女としても教え子への問いかけを消費し尽くしていない事を、そして長門がより一層の苦悩に陥るのも覚悟の上で言おうとしている言葉がある事をゆっくりと示していく。


『・・・戦という物は最も凄惨で、最も単純で、最も浪費の大きい国家事業であり、国家運営の手段の一つでしかないのよ。そしてその手段は勝敗の結果のみならず、その末にどんな国を築いて、どんな未来をもたらすかという、最終的な理想の絵を目的にしなければならない。ただ単に勝たねばと念仏のように唱えて挑むのは、敵と呼ばれる変わらぬ命に一方的に殺戮劇を押し付ける事を望む、血に飢えた狼の言い分よ。』


 朝日はそう言いながらゆっくりと長門へと歩みを進めて行き、僅かずつながらも圧し掛かってくるようなその雰囲気はソファに腰掛けて汗も浮かんだ厳しい表情で動揺する長門に恐怖すらも募らせていった。そして今しがた放った朝日の声が向けられた先が自分であるのと同時に、長門はその内容にて血に飢えた狼という示し方を用いた存在が他ならぬ自分の事だろうと規律が乱れ始めた息遣いの中で察する。なぜなら先程から朝日の対米戦の憂いに対し、長門が応じる為に返答とした言葉は全て『米国に勝てるかどうか?』のただ一点のみにしか無かったからであり、今日の朝日はそんな教え子の姿勢を今こうして容赦なく指摘してきたからでもある。

 いつも優しく微笑んで希にその説教癖によって困らされるくらいの老いた艦魂の姿はその指摘に際して微塵も現さず、きっと数十年前の日本海で見せたであろう戦に望まんとする者の言葉の無い迫力と気迫に剥き出しにして静かに迫ってくる朝日。長門はそんな朝日が足を一歩ずつ自分の座るソファへと踏み出してくる度に、もはや動悸にも等しい弱々しくなった呼吸を荒げ、最も親しんだ者である朝日の顔にだけは向くことが出来ない視線を自分の足元で右往左往させるが、やがて足元にて泳ぐ長門の視界に師匠の二本の足が映るや、その頭上からはこれまでに無く瞳の形を刃の切っ先の様に尖らせて独特の声にも重みを聞かせた朝日の言葉が容赦なく襲い掛かってきた。


『そんな戦をこの状況で仮にするなら、日の丸とその下に暮らす全ての命が失われる憂いを賭けて抱く、貴女の理想はなに・・・?』

『り、りそうって・・・─。』

『大和を犠牲に、日の丸だけを唯一の国旗とする世界・・・?』


 なんとか朝日の声に応じようと腹の底に力を入れてみた刹那、長門の応答を待たずに朝日の口から出てきたのは、大事な大事な教え子を生贄とするなどという長門としては一瞬たりとも考た事もない言葉だった。ついこの間、この朝日や明石に初めて顔を会わせ、当の朝日も大変に可愛がってあげる素振りを見せていた筈なのに、朝日はいとも簡単にまだまだ頬も赤く身体つきも華奢という生まれたばかり故の特徴を持つあの大和の命から灯火が失せる事態を口にしたのである。

 だがそんな大和に師匠として接し、その身に流した血筋に心底感謝して誰よりも自分に懐いてくれるというその人柄をこの世で最もよく知る者がこの長門。故に彼女は瞬時にして胸に湧き出た想いと勢いに任せ、一瞬だけ意識から失せた朝日より受ける戦慄と苦悩の間隙を縫って口を開く。


『や、やめてください、朝日さん・・・! 大和は・・・─!』

『明石の亡骸(なきがら)を海に投げ入れて、天皇陛下を地球の王にでもする・・・?』


 即座に長門の放つ声に被せて、朝日は普段とはまるで違う温もりのない声色で今度はその冷徹な物言いの槍玉に明石の名を挙げる。長門にとっての明石は気心の知れた妹分で、不思議と血筋に繋がりは無くとも朝日一家の渦中において一緒に騒ぐ事ができる唯一の存在。そして今やかつての長門に代わってこの朝日に直に教えを請う者である筈だが、この時の朝日はそんな自分の教え子の命がまたしても失せる可能性をその言葉に纏わせていた。

 すると次第に長門も朝日の幾分度が過ぎた物言いに怒り覚えてくるも、同時にいつも優しく微笑を湛えて自分達へ道を示してくれた師匠がこんな物言いを放った事がこれまでに無いくらいの悲しみをも長門の心に渦巻いていく。故に長門はほとんど朝日の声へと反射的に拒否の意を示そうとするが、再びそんな長門の言動を朝日の冷徹な問いかけが覆う。


『やめて・・・! やめてよ、朝日さん・・・!』

『私を殺して、日本人だけが繁栄を約束された地を創る・・・?』

『嫌だ・・・! 朝日さんからそんなの聞きたくない・・・!』


 ついに叫ぶようにして声を放った長門はソファから前のめりに崩れるようにして腰を浮かせ、すぐ眼前にて立ち尽くす朝日の胴回りの辺りを掴んでそれ以上は声で示せない拒否の心を朝日とぶつける。朝日が続けて放った問い掛けは明らかに長門の周りに存在する最も親しい者達が死ぬ事を滲ませており、黒一色の瞳の端に光る雫を浮べながら長門はそれ以上の発言をなんとか止めようとしていた。

 しかしその間際に遠慮も容赦もせずに朝日が放った言葉は、これまでずっと師匠と仰いできた者から責め立てられてもはや土台が揺らいでいる長門の心を完全に薙ぎ倒した。


『・・・それとも貴女に従う全ての艦魂を捧げて、〝光あれ〟とでも言える世界が欲しい・・・?』

『やめて・・・!! う、ううぅ・・・! もうやめてよお・・・!!』


 堰を切ったように頬に幾筋もの流れを作りながら長門は叫び、朝日の胴回りを掴んでいた手を離して長い黒髪の奥に隠れている両耳に押し当てる。次いで膝から朝日譲りの肩幅の広い大きなその身体が膝から崩れ、長門は朝日の革靴の前の赤い絨毯に額を擦りつける様にして、嗚咽に苦しむ声を溢れ出る涙の勢いに任せて張り上げる。


『ううぅあぁ・・・! アタシは・・・、アタシは・・・、い、今が続けばそれで良い・・・! いつも一緒に騒いでくれる明石がいればそれで良い・・・! あーだこーだ文句言いながらついて来てくれる陸奥がいればそれで良い・・・!』

『・・・・・・。』


 朝日は足元で突っ伏す長門を見下ろしたままであったが、先程の様にその声を自分の声で遮ろうとはしなかった。そして同時に長門の咽び泣く姿を映す彼女の瞳からは、それまで輝きとして纏われていた濃い青色と目尻の鋭さが少しずつ消え始めていく。


『理屈ばっかりのしゃべり方で困らせてくる大和がいればそれで良い・・・! いつも紅茶とお説教ばっかりくれる朝日さんがいればそれで良い・・・! ああぁ・・・! みんなで笑い合っていれるのなら、アタシは道化師で良いよぉ・・・! あぁあ・・・、ああ・・・!』


 言い終えるや長門はまるで子供のように大声を上げて泣き出し、おもむろに文字通り目と鼻の先にあった朝日の足へと震える両手の指先を伸ばしてくる。対して長門が気付かぬ内にその表情を普段通りの優しさと温もりに包まれた物へと戻した朝日は、長門が突っ伏して泣いたままで伸ばしてくる手に答えるようにその場にしゃがみ込んだ。その表情の変化はようやく教え子の心の中に自分が憂いだ物事への答えの一端を見出した為であったのだが、頬を伝う涙と押し寄せる悲しみに抗いきれない長門は朝日の足に抱きつくように腕を回しながら再び嗚咽に苦しむ声を上げる。


『ああぁ・・・! な、なんで・・・、なんでそんな事言うんですか・・・、朝日さん・・・!? いつもみたいにあれを直せって言ってよお・・・! いつもみたいにこれを正せって言ってよお・・・!』


 そんな咽び泣く中で叫んだ声と同時に朝日の足へとまとわりついた長門の腕にも思わず力が篭り、少しだけ体勢を揺さぶられながらも朝日は眼前の長門の背中にそっと右手を乗せる。いつも朝日が絶やさない温もりと労わりの心がその手を通じて長門の身体に伝わっていく中、朝日は教え子が泣きながら放った問い掛けに答えを返す。


『・・・かつて、今言ったように勝ちをひたすら唱えて戦に赴いた者が・・・、他ならぬ私の実の妹だったからよ・・・。長門・・・。』


 独特の重さと同時に柔らかさが戻った朝日の声を耳に入れ、長門は未だに涙と乱れた呼吸が元通りへとならない中でゆっくりと顔を上げる。だがそれは朝日の声色の変化を敏感に感じ取ったからではない。

 それは師匠が口にした実の妹という存在。40余年の生涯で散り散りとなり現代ではもう生きてはいない者もいるのだが、本来ならこの朝日には血を分けた姉妹が他に3人いた。その内の一人は現在でも佐世保にて存命である敷島(しきしま)であるが、彼女は朝日から見ると唯一人の姉。故に4人姉妹の次女である朝日の下には2人の妹がいる事になるのだが、その内のどちらなのかという事に長門は瞬時にして心当たりを見つけたのである。これまでこの朝日を師匠と仰いで20余年の歳月を数える中、思い出話として語る自分の姉妹の話の中でも一人だけ含みを色々と持たせた言葉で示した人物。決して朝日自身は彼女を嫌っていた訳では無く、むしろ何事にも身体一つでぶつかって行く勇ましさ、強引さは、姉妹最年少であるにも拘らず最も頼りと出来た人柄にして、多くの懸案を解決しながら激動の日露戦役の海を導くのには不可欠であったと何度も朝日は長門の前で絶賛した物であった。

 だがその絶賛に当初からなにやら含みを持たせていた事を長門はこの時初めて悟り、まだ涙も乾かず息も継接ぎな状態である内に思わずその名を声に漏らそうとする。しかしその声を朝日はまたも独白の形で遮り、一瞬だけ認めた寂しさと虚しさの青で染まった瞳を瞼の裏に隠して朝日は言った。


『み、みか─。』

『戦の時にしか役に立たない艦魂・・・。戦の時にしか鬼にも仏にもなれず・・・、戦の時にしか真価を発揮できない人柄・・・。そんなあの子に率いられて戦った末は、降り掛かる火の粉を払っただけで新たな家の土台どころか古い家の焼け跡が残る有様だったわ・・・。そしてその焼け跡を戦勝という垂れ幕で飾り付けて、両手放しに伝統だの誉れだのと有難がるおめでたい価値観が蔓延するだけ・・・。長門・・・、貴女にはそれを繰り返して欲しくないの・・・。』


 顎の先から頬を伝う雫が滴る長門が僅かに目を見開いき、半開きにしたままの口を閉じるのも忘れて呆然と見詰める先で、朝日は閉じていた両目をゆっくりと開けながら記憶の向こうに投げていた焦点を眼前の長門の顔へと流す。その吸い込まれそうな碧眼と背後より浴びる陽の光にて琥珀色の輝きを鮮やかにする長めの髪に彩られて長門の瞳に映りこむ師匠の顔には、長門もこれまでに何度も注いでもらった教えを授ける際に朝日が放つ独特の暖かい表情がある。長門の心の中では誰よりも博識で、誰よりも常識を持ち、誰よりも綺麗で誰よりも気高い人柄を持ったお師匠様は、この時も尚、教え子に対してまた一つ叡智を授けようとしていた。


『良い、長門? 戦の時にしか役に立たない艦魂など、まるで兵器の心という安っぽい在り方そのままよ。でも私達艦魂は、間違っても兵器の心なんかじゃない。世界中の海や川で生きる船の命であり、人間も含めたこの世に生きる無数の命の一員なの。悲しいかな、戦をする為の姿格好をしてはいるけど、一介の命として生きる意志を放棄して勝ち負けだけに拘りながら戦に相対するような在り方は、全てを失うのと紙一重でありとても危険なの。・・・でも、貴女は貴女なりの理想を持てているのがいま解ったわ。』


 艦魂社会でも屈指の教育者として名を馳せる朝日が示す独自の教え。それは自分達艦魂とはどういう者であるか、否、自分達のような艦魂と呼ばれる命はどのようにして生きるべきかという物。20余年前に長門自身の分身の中にて血を伴いながら取り上げられ、初めて出会った時から一貫して教わったその信念は、今やすっかり一人立ちして帝国海軍艦艇の全てを統率する立場を頂き、同時に耐えぬ憂いに極限の恐れを抱きながらその日を生きる長門に教えるに当たっては少しも芯がブレてはいなかった。

 やがておもむろに長門の涙で濡れた頬に右手を伸ばして朝日は小じわとホクロが控える口元を小さくゆっくりと緩め、日々を気楽に過ごしながらもその実は自分の分身の中で目にする大きな憂いに苦しんでいるという教え子の境遇に自分はいつでも力を貸す事を伝える。


『生きるという戦の目的が、その理想にある事を忘れてはならないわ。その為に避けて通れないのがこの状況での米国との戦争なら、私は喜んで生贄になるわよ。・・・ふふ、きっと私の命はあと10年・・・、20年は絶対に無いわ・・・。でも、私もまた願う貴女の抱いた理想に役立てるのなら、私もそれで良いわ・・・。』


 まるでさっき長門が泣き叫びながら放った言葉を真似るかのような語尾で放った朝日の声に、長門の両目には再び輝きを増す波間が湧き始める。次いで続けざまにすぐそこにある朝日の微笑から漏れてきた一言が、長門の両目に設けられた堰を切るのだった。


『私はいつでも味方よ・・・、長門・・・。ふふふ・・・、師匠である前に、私は貴女の母なのだから・・・。』

『ああ・・・、あ、あぁあ・・・。』


 その刹那、長門の胸の中には言葉に変える事ができない激しい感謝の念と、これまで朝日という艦魂へ抱いた事の無い激しく強い親しみが渦巻き、濁流と化したその感情に抗えずに長門は眼前の朝日の胸へと顔を埋める。そしてこれまでの生涯で意識的にそう思った事はあっても一度たりとて声に変えた事の無い呼称で、彼女は再び子供の様に大きな声で涙を流しなら朝日を呼ぶのだった。


『おかあ、さん・・・! お、ぉかあさん・・・! あ、ああ・・・! お母さん・・・!』


 自分と全く違う完璧な西洋人の顔つきに、日本人ではまず有り得ないであろう琥珀色の髪。そのいでたちから示されるように出生の地は長門と同じ日本の土の上ではなく、遥かな大洋を幾つも隔てた遠き異国の地である朝日だが、長門はこの時そんな朝日をまさに自分の実の母なのだと脳裏の中で何度も叫んだ。きっとこの先に辛い事があろうとも、苦しい事があろうとも、いつも絶対に自分の傍らにいて応援と愛情を顧み無く与えてくれる唯一の存在であると、恥も外聞も無く泣き叫びながら長門は自分に言い聞かせていた。


 その一方、朝日もまた胸の中で自分より受け継いだ大きな身体を丸くして大泣きする長門を、自身が得た最も優秀にして最も自分という命の特徴を受け継いだ実の子供であると確かに認め、同時に生まれ出る実の娘への情に身を委ねて黒く長い髪で覆われたその頭のてっぺんの辺りに頬を添える。

 朝日は最初からこの長門の心の内は全て解っていた。

 全てを吐露して同じ懸案と憂いを共有するのを長門が選択しなかったのは、ただひたすらもう既に一線から身を引いている朝日に心配を掛けぬ為。現代の日本に対する憂いを話題に出す度に詳細な知識を疲労して心配は無いと反論したのは、全く偽りの無い中で師匠の憂いを除外しようとした為。当事者による些か厳しい物言いであっても日露戦役の事情と現代を重ねて声を荒げたのは、母と慕う朝日がかつて味わった地獄の可能性をなんとか排除して安心させてあげたいという一心なのであった。

 朝日にしたら20余年も面倒を見て可愛がってきた長門である。こうして溢れ出る涙を躊躇せず朝日の胸の中で流し続けるその姿が示す、長門の底知れぬ優しさと余りにも清廉な心。それはきっと自分に似たんだなあと朝日はしみじみと感じて笑みを深くし、長門の肩や頭を抱き寄せる手にそっと力を入れてやる。


 だがこの時、朝日はその細く弓なりの形にした碧眼の奥で、間違いなく自身より受け継いだであろう余りにも綺麗で優しすぎる性格を持つ故に、この実の娘である長門は自身が憂う対米戦の歯車を絶対に止める事は出来ないだろうと確信した。



 これは、死ぬわ・・・。

 確実に死ぬ・・・。



 決して声にも手から伝える長門への愛情にも現さないように心の奥で小さく灯った呟きは、後10年と先程口にしたばかりの朝日に自分の死期がそう遠い代物ではない事を如実に伝える。だが抗う気持ちは彼女には全く抱かれる事は無かった。

 舷窓から注がれる陽の光がいつの間にか朱色を帯びて室内の絨毯やカーテンの赤色を鮮やかにする中、朝日はただひたすら自分の屍の向こうに実の娘が抱く理想がある事を願い、笑みのままで愛娘を抱いてやるだけであった。

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