表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
97/171

第九七話 「母が得た覚悟/前編」

 昭和15年12月8日。


 ようやく明石(あかし)艦も含めた呉鎮守府籍の第二艦隊所属艦には泊地移動の命令が出され、呉軍港のあちこちにて長い休日に浸っていた対象の艦は続々と抜錨。海軍兵学校もある江田島を左舷に眺めつつ瀬戸内を僅かに南下し、柱島南西沖へと移動した。

 帝国海軍ご用達の泊地であるここは四方の海面に大小の島々が浮かぶちょっと閉塞感のある波間であるが、潮の流れは比較的穏やかで辺りに散在する多くの島々は何も無い海原では視覚的な意味での障害物ともなってくれる故に防諜の面でも良好であり、明石艦や八戦隊の利根(とね)型二等巡洋艦、二航戦の蒼龍(そうりゅう)艦や飛龍(ひりゅう)艦といった最新鋭艦艇の多い第二艦隊には大変に好都合な場所であった。


 そして艦の命である明石にとっては、この泊地移動の為の抜錨こそがまさに昭和16年度の海への出発でもある。自分と入れ替わりに桟橋や岸壁をこれから使うのであろう長門(ながと)艦率いる一戦隊、まだまだ主砲も煙突も搭載されていない艤装中の大和(やまと)艦、そして自身の分身にあるスタンウォークで手を振ってくれる尊敬するお師匠様に見送られる中、明石は大きく帽子を握った右手を宙に掲げ、遥かに空を舞うカモメ達の航跡を辿るようにグルグルと旋回させて別れの帽振れで応える。


『行ってきま〜す!』


 寒がりな事から二枚も外套を重ね着した明石だが、艦尾の向こうに自分の出立を見送ってくれる面々を瞳に映すと白い息が恒常化する師走の寒さなぞ忘れてすぐに元気一杯の声を放つ。尊敬するお師匠様の分身である朝日艦の今ではもう珍しいスタンウォークには、師匠にして母とも慕う朝日と供に明石と違ってもう少しだけ呉軍港に滞在するという長門の姿もあり、肩の高さで上品に手を振る朝日の隣にて彼女は対となるように高々と頭上に掲げた片手を大きく左右に振っている。肩幅の広い体格以外は中々その二人の姿格好に共通点を見つける事ができないのだが、先日のお茶会にて一緒の時間を過ごせた明石はここに至って長門と朝日を他人同士などと思う事もない。姉に負けじ、母にも負けじと、お仕事へと赴く為に我が家を出発するかの如き気分が明石の中ではとても強いのであり、先程放った意気揚々とした別れの声はまさにそんな彼女の心境を代弁した物であった。




 こうして明石は家族たる者達に見送られて薄っすらと雪化粧もした呉軍港を後にし、新たなお仕事の場へとその軍艦旗を進めていくのだった。




『明石〜! じゃあね〜!』


 一方、陽気な長門もまたほんの少しだけ逞しくなった雰囲気を持つ明石に声を上げ、妹分と可愛がる者が昭和16年の海へと旅立つのを晴れやかな気分で見送る。隣では大人しい朝日が終始微笑んで小さく手を振るだけではあったが、その胸の中で発している言葉は長門と全く同じであり、やがて二人は笑み一瞬だけ合わせると再び遠ざかる明石の分身へとその瞳を向ける。艦尾旗竿に翻る軍艦旗も勇ましい中で無邪気に手を振る明石の姿は、朝日にとっても長門にとっても「成長」の二文字を強く意識させる光景であった。特に長門は今現在の自身の教え子である大和とこの明石を意識の中で比べてしまい易く、ついこの間までテーブルマナーが解らずに泣いていた明石の顔を思い出しながらも、既に彼女が教え子より艦魂としても船の命としても数歩くらいは前を歩いているという事をその艦影からひしひしと感じ取っていた。


『明石は大丈夫ですね、朝日さん。第二艦隊のみんなとも上手くやれてるみたいですし、愛宕(あたご)高雄(たかお)も明石の事は褒めてましたから。』


 ついつい漏らした長門のそんな言葉も、妹分である明石の成長ぶりに胸を明るくした印。もちろんまだまだ未熟者である所は沢山あるのだが、その声を耳にした朝日も長門が放ったその言葉を別段疑ったりするような事は無く、やがて肩の高さで左右に揺らしていた手をスタンウォークの手摺の上に乗せつつ小さく頷き、おもむろに長門を少し責める様な物言いで賛同の意を示すのだった。


『ふふふ、あの子は先代に本当にそっくりだわ。例え一歩でも日進月歩。亀みたいな足取りでも前に進む事への貪欲さを常に失わない所は私も見習うべきね。それにあの子の、面倒臭がる様な所が無い事もね。ふふふ、誰かさんとは違うわね。』

『あははは・・・。き、気をつけますぅ・・・。』


 さしもの長門も朝日のお言葉には一挙にそのひょうきんさを失わせてしまう。

 自身の為に血を流してその誕生を手助けしてくれた唯一人の者としても、教えを授けてくれたお師匠様としても、朝日なりに持つ怖さを帝国海軍艦魂社会で一番知っているのが他ならぬ長門自身だからである。絵に描いたような西洋の貴婦人らしいカールの掛かった琥珀色の髪と、どこまでも透き通るような濁りの無い碧眼に代表される朝日のお顔はいつも穏やかで美しさを失わず、目にした者に怖いという感情を抱かせる事は殆ど無いのだが、これでも朝日は長門ですら経験した事の無い大口径の砲弾が飛び交う戦の海原をその身一つで駆け、武技教練の柔道の腕前だけなら過去に喧嘩沙汰を何度も起した事で有名な敷島(しきしま)金剛(こんごう)ですらもついには勝てなかったという一流の猛者でもあった艦魂。その上で大変に博識で頭も良く、他人への気配りは彼女の専売特許である美味しい紅茶がそのまま体現しており、体格以外のあらゆる面で長門はまだまだ朝日の足元にも及ばない者なのであった。

 そして当の長門自身がその事を直接の教えを受けた者として肌身を通してよく知っていたが為、このように朝日の口から漏れてきた苦言を耳にして彼女は後頭部を荒く掻きながら冷や汗も浮かんだ苦笑いを浮べているのだが、本日のお師匠様は例え機嫌が良さそうであってもこんな程度で教え子の未熟さを許してあげる気は残念ながら毛頭無かった。

 朝日は相変わらず微笑んだままでふと隣に立つ長門へと視線を流し、ちょっと引きつった教え子の苦笑いに青い瞳をより細めて口を開く。


『ふふふ。長門。今日は大和は?』

『あ、大和は今日は陸奥(むつ)と砲術のお勉強です・・・。あはは・・・、砲術は陸奥の方が詳しいので・・・、でへへ・・・。』


 先日初めて顔を合わせた新たな仲間が教えを授ける者たる長門がいるにも関わらず、先日のお茶会の時とは違って今日は不在であるという事の理由を尋ねた朝日であるが、返って来たのはより専門性に長けた者に教育者の役を譲ったのだという長門の言葉。朝日を師と仰いだ頃の長門や現代の明石のように、艦魂社会での師弟の日々という物は常に一緒に過ごす時間をもって教育の時とする場合が多く、その教え自体もほとんどは師と仰いだ者が全て与えるのが慣例である。だが別に長門としても面倒だからという意味で、大和の教育を新たな一戦隊構成艦として先日一緒に呉へと来た陸奥に預けた訳ではない。

 長門の実の妹である陸奥は姉とは大違いで品行方正。朝日と同じ時代に同じ戦艦として役目を全うし、同時にこれまた教養豊かでもあった富士(ふじ)という大先輩より教えを授けられた者であり、たまたま長門よりも砲術の項目に関しては造詣が深かった故に、以前に伊勢(いせ)山城(やましろ)も在籍していた頃の一戦隊の中の話し合いで大和に対する砲術教育役として就任したというのが真実なのである。元来、何にでも詳しいという人物は艦魂でなくとも人間の世界でも希な存在であり、より専門性に特化して普段のお仕事に励むという事は別に珍しい物ではなく、艦魂である彼女達にとって最も近しいその実例は、彼女達の分身に乗組む多くの乗組員達が砲術科や航海科などに分かれて編成されている事であった。

 もちろん朝日もその事は知っており、別に教え子が砲術に誰よりも精通していない事に眉を吊り上げるような気は起きないのだが、この場に大和という新米艦魂が居ない今という瞬間の真相を得た朝日の考えは、不幸にもその教え子である長門にとっては久方ぶりにして最も恐れている「お師匠様とのマンツーマンでの教育のお時間」という事態へと発展してしまうのだった。

 すると朝日は些か長めの溜め息を放つや何の前触れもなく長門の黒く長い髪に隠れた耳へと手を伸ばし、笑みに包まれながらも長門にとってはやたらと怖く感じる音色が混じった声を放つ。


『そう、それならゆっくりと話す時間はあるわねぇ。』

『えっ、えっ、え・・・?』


 久方ぶりに耳にした怖さ満点の声に続いて次に長門の耳へと伝わってくるのは、少しだけひび割れたような肌に包まれた朝日の指先が伝える感触。綺麗に切り揃えられた爪によって耳を這うだけならば苦痛はない筈なのだが、すぐさま長門の耳に触れた朝日の二本の指はそこにあった長門の肌を摘み上げると同時に、冬の潮風によって冷たくなった彼女の耳たぶに熱と鈍痛を与え始める。そして長門がその感触に悲鳴をあげる前に、朝日は教え子の耳を摘んだままクルっと踵を返して自身の艦内へと歩みを進めていった。その流れるような身のこなしに始まる朝日の歩く姿はまさに貴婦人の姿その物であるが、それに続いて耳を掴まれた長門の大きな身体は斜めに傾き、ようやく上がった彼女の悲鳴を残して無様に引き摺られ始める。


『ふふふふ、明石はあんなに頑張り屋。大和だってこれからドンドン叡智を養うんだから、年長の貴女ももう少し品と知識を身に付けなければならないわ。さあ、こっちにいらっしゃい。』

『わ・・・、わあ・・・! イタイ・・・! ま、待ってぇ、朝日さは〜ん・・・!』


 至って笑顔の朝日は白い息を残しながら暖かい部屋へと戻ろうとするも、その笑顔こそが今や最も恐れ慄く対象である長門はグイグイと身体を引っ張られながら必死に解放を懇願する。ただ脳裏の中で既にそんな抵抗の策が時期を逸していると長門自身が察する通り、朝日は教え子の耳に伸ばした指先から力を抜いてやろう等とは微塵も思っていない。その笑みの下にて静かに燃え上がっているのは、明石や大和といった現代生まれの教え子達を目にした事で芽生えた、20年近く前に得た自身の最初の教え子に対する再度の教育の情熱。むしろこの長門という教え子は艦魂達の中での事とは言え、現代の帝国海軍海上部隊のほぼ全力を指揮下に収める立場、すなわち連合艦隊旗艦という役職を頂いているのだから、朝日の教育の熱も明石に注いでいた物とは色合いがさらに一層濃くなるという物である。

 その内にスタンウォークから朝日の自室である朝日艦長官室へと続くドアより長門が半身だけ除かせて最後の悲鳴を放つが、彼女の耳を摘む手とは逆側のお師匠様の腕が首の辺りに絡みつくと同時に、長門の身体は吸い込まれるようにしてドアの向こうへと消えて行く。


『ああっ・・・! いやあ・・・! タ、タスケテ〜・・・!!!』


『別に取って食いやしないわよ。さあ、速く入りな・・・さい!』

『あ〜れ〜!』


 語尾に僅かに力が込められた朝日の優しげな声が木霊し終えると、朝日艦のスタンウォークにあるドアはバタンと大きな音を立てて閉ざされる。その付近の波間でお仕事に励む大小の曳船や給水船の艦魂達は奇妙な悲鳴に気付いて朝日艦のスタンウォークへ一瞬だけ視線を流すが、既に振り向いた視線の先には固く閉ざされたドアと潮風が通り抜けるだけのスタンウォークしか無く、そのドアの向こうで涙ながらに勘弁を願い出る連合艦隊旗艦の声には気付かずに今日もまたお仕事へと精を出す時間を続けるのだった。






 それから一時間程も経った朝日艦の朝日のお部屋では、ようやくお師匠様による再教育を終えたばかりの長門と朝日が優雅なお茶の一時を迎える。

 一日7回もティータイムを設ける朝日にとっては毎日の日課の中の一瞬であり、そもそもが教え子を虐める気なぞ彼女には毛頭ない事から今日もまた朗らかな笑みでカップより立ち昇る香りに夢うつつの状態となっているのだが、残念ながら朝日なりの情熱が強く篭った教育をさっきまで受けていた長門にあっては正反対である。

 常に明るくひょうきんに振舞い、その顔は既に三十路も目前とした大人の女性の容姿を持ちながらも、歳相応の落ち着きという物にはてんで無関心な長門。今から20年ほど前に誕生してこの朝日より教えを受けた最初の頃から彼女はお勉強も運動も出来る秀才であったが、努力という物を煩わしく捉える辺りはその少女時代とちっとも変わっていない。『メンドイ』という言葉を何かにつけては連発し、実際にお仕事として自分の目の前に障害が現れるとすぐに逃げ回るという、彼女の普段の生き方の根本である。その面白可笑しい人柄は大多数の艦魂達からは好意的な目で見られ、おかげで彼女自身も割りと仲間内からの人望は厚いのだが、如何せんそんな長門に血と叡智の流れを導いた朝日は教え子の怠慢をとっくに見抜いており、真面目にしてひたむきにこれまで生きて来た自分の経歴に誇りを持っているが故に、眉を吊り上げた憤怒の感情を表す事は無くとも簡単には許してくれなかった。

 おかげさまで長門は息継ぎも確認できないほどの独特のお説教を浴びる事になってしまい、しかもまた怒鳴る訳でも無くとくとくと道理を結びつけて語る師匠の声には反論も出来ない有様。冷や汗を浮べた苦笑のままで後頭部を掻きながら省みの態度を表す以外に選択肢は無く、時折放たれる『解ってる?』の一言に空返事と悟られないような応答もこなし、散々に至らぬ点を指摘されて精根尽き果てた長門。僅かに青白くなった顔を疲労感に歪め、朝日と向かい合う形で置かれたソファの上にまるで横になるようにして身体を傾けている。肘掛けに置いた片腕に首をもたげながら僅かに引きつった口元を動かし、恐れ多いとは思いながらも対面するご機嫌なお師匠様に自身の受けた精神的な負荷が生半可な度合いではなかった事を無言で伝えているのだが、実弾も飛び交う戦闘海域を潜り抜けた末にこうして生きている朝日は、とても上品な人柄ながらも根性の据わり方においては長門が足元にも及ばない人物。口元に近づけたカップより漂う薄い湯気の壁越しに教え子と視線を合わせても、朝日は至って平然としながらいつもの暖かさが篭る微笑みでもって次の一杯へと洒落込む。


『ぐっへぇ〜・・・。』

『ふふふ。だらしないわよ、長門。しゃきっとなさい。』


 長門が完璧に自分のお説教に参っているのを承知で意地悪っぽくそう言った朝日は、残り少なくなったカップの中身を一思いに溜飲して溜め息を吐く。その息遣いには至福の一時を満喫できた喜びとそれが終わってしまう一瞬の寂しさが混ざり、明るい長門が自慢の物言いで辺りの空気を賑やかにしてくれる事も今だけは無い為に、朝日の部屋には彼女の分身にぶつかるゆったりとした小波の音色も聞き取れるほどの静寂が立ち込める。そしてそんな中、全ての役目を終えた白いカップが朝日の手によってテーブルに置かれ、柔らかな衝撃に弄ばれてスプーンと供に踊る音がひっそりと部屋に響くや、ふと朝日はそれまで湛えていた笑みと比べると少し重みが濃くなった声を放った。


『長門・・・。今日は貴女と折り入ってお話があるわ・・・。』

『むえぇ〜〜・・・。まだあるんですかぁ〜・・・?』

『・・・・・・。』


 相も変わらずやる気が微塵も纏われていない顔で、大きく口を開かずに長門は声を返す。今日は朝からお師匠様のお説教を受けて大らかな性格の彼女は既に心の余裕も無くなってしまっており、声を返した相手がその優しさと怖さの両方を知っている朝日である事も忘れて些か礼を失したような態度であったが、それ以降に続いていつもの柔らかい物言いによる苦言やお叱りの言葉が一向に木霊せず、ただただ波の音がほのかに支配するだけの室内の静寂にしばらくすると長門はほんの少しだけ不審を抱き、ふと顔を上げて半開きの視界を正面へと流す。するとそこにはさっきまでの笑みが嘘の様に眉間にしわを寄せ、透き通るような青い瞳の色をより濃くしたお師匠様のお顔があった。


『・・・朝日、さん?』


 一番弟子である長門ですらもその記憶の中で検索する事は至難の業である朝日の表情は、何か悩み事があるかのように唇を噛みつつも、膝の辺りに向けたその瞳に宿す黒さの目立つ濃い青には歪みやブレ等が一切無い芯の通りさえ感じられた。長く一緒に過ごしてきた中でもこのようなお師匠様の表情を見た事が無い長門は驚きの余り、それまでだらしなくソファの上に傾けていた身体を起して小さく目を見開くが、それに続いて師匠の変わり様を訊こうとした彼女の声は朝日が放った言葉によって掻き消される。


『あ、朝日さ・・・─。』

『私、上海でね・・・。出雲(いずも)と少しだけ話をしてきたんだけど、その事について貴女とお話がしたいのよ・・・。帝国海軍連合艦隊の現旗艦である、貴女とね・・・。今日は師匠筋に当たる者としてではなく、かつて現代(いま)の貴女と同じ役職を頂いた事もある者として、腹を割った所でお話したいわ・・・。』


 どこか含みを持った声色で朝日はそう言うと、長門も認めた深みの増した色合いの碧眼をようやく教え子へと向けてくる。いつも長いまつ毛に包まれて暖かさと慈愛を浴びせてくる朝日のその視線は、今日はまるで凍てつく厳冬の海を思わせるほどに冷たさを帯び、鋭利に尖り始める目尻は常に笑みを絶やさぬ彼女に実の姉である敷島という者と同じ顔つきを漂わせ始めていく。もう生誕から20年を数える長門をして初めて目にしたその顔は、朝日においても生涯でただ一度だけ成した事のある戦を知る者の顔。そしてその表情を成した時とは、彼女自身が多くの仲間と供に死だけが転がる日本海を必死に駆けた、現代から30数年前の事。世界最強の呼び声も高かったロシア海軍と真正面から対峙した、日本海海戦の時に浮べていた表情であった。


 一方、長門もまたようやくお師匠様がその表情の中に込める只ならぬ胸の内を察し、持ち前の「気の良いおフザケ」が今は必要ではないと自分の中で区切りをつける。もはや彼女のトレードマークになっている羽織ったような着方で身に付けた第一種軍装の上着を直し、無言のままでソファに深く腰を掛け直して朝日と同じく背筋を垂直にしてみせた。すると朝日より少しばかり背の高い長門の大きな身体つきはこれまでに無く部屋の中でも目立ち始め、いつも必ず左右のどちらかに傾けている首も真っ直ぐにするや体躯の比較では完全に長門が朝日へ威圧を与えるような格好となる。

 その内に胸の前のホックを全て駆け終えて長門はしばしの間下に向けていた顔をゆっくりと持ち上げ、琥珀色の朝日とは違う漆黒の前髪の奥に控えた顔を師匠へと向けた。その顔つきは今現在の朝日の血が彼女のにも確実に流れている事が如実に示される、落ち着きと威厳とを兼ね備えた表情で、いつもは丸い瞳を僅かに尖らせたその目つきもまた朝日とは瓜二つ。瞳に宿した色が闇を連想させる漆黒か、凍てつく夜の海を連想させる濃い青であるかぐらいにしか違いは無く、片や西洋人で片や日本人の顔立ちを特徴する二人の表情と、その身体全体に纏われる雰囲気はまごう事無き同じ代物であった。


『連合艦隊、旗艦として、ですか・・・。』

『ふふふ、ええ・・・。私はこうやって教え子と話せる時を、どれほどまでに待ち望んだ事か・・・。』


 少したどたどしい感じで言葉を紡いだ長門に、朝日は鋭くした目つきをそのままに笑い声を放って応じる。その声の内容も今や栄えある連合艦隊の旗艦を拝命しているという長門の成長を喜ぶかのような物であったが、長門はその応答の始めにあった短い笑い声に朗らかさが一切無く、むしろ不敵に嘲笑うような感じすら含まれていた事を敏感に察知していた。

 それと同時に、長門は今から始まるであろう師匠との会話が〝ただの師弟関係を築いた艦魂どうしの意見交換〟等では無く、〝時代は違えど帝国海軍の全てを統率した経験を持つ者同士で想いを衝突させる戦〟になるのだろうと声も無く悟り、大きくゆっくりとした吐息を一度だけ行って恐怖も高揚感も湧かない胸の内に彼女なりの堅固な覚悟を秘めるのだった。





 その後しばらくして、絨毯やカーテンの持つ深い赤が舷窓から漏れてくる陽の光によって音も無く朝日の部屋を散歩する中、お互いに帝国海軍を率いる船としての使命をその分身に宿した経歴を持つ者達の声が室内の静寂を切り裂いていく。赤みを帯びた舷窓から差し込む光の帯が宙に舞い上がる埃や塵の粒子を粉雪の如く輝かせ、時折遠めに木霊する呉軍港内で活動する艦艇の警笛や重機の音が虚しさを漂わせるという朝日の部屋の空気は張り詰めた緊張感によって吐息の糧とするには余りにも硬い代物であるが、それでも尚、朝日と長門はそれぞれの瞳と同じように鋭く尖らせた感もある、戦を生業とする船の命として上げる声を静める事は無い。

 その声の交錯する様は、朝日の問い掛けに長門が答える体裁で進められていた。


『私と出雲が気にしたのは、連合艦隊の艦艇の数と一緒に増している、米英仏蘭との緊張。支那事変がもはや戦の形態になり始めているのは、昭和12年の勃発からずっと上海で見てきた私は良く解ってるつもりよ、長門。その上で今年、仏印への進駐に踏み切ったおかげで、米英仏蘭の4カ国とはこれまでに無く緊張が高まっている。そしてそんな中で増勢するのは、この4カ国とは戦争状態も辞さず、という意なのかしら?』


『欧州戦線ですよ、朝日さん。どこまで朝日さんがご存知かは解りませんけど、独国の躍進が欧州では凄まじいんです。そのせいでこれまで世界各国に植民地を持つ西洋列強の構図が崩れつつありまして、既に降伏したフランスやオランダは宗主国としての地位が揺らいで来てるんです。でもそうなると、実際に植民地としている地では治安が乱れたり、それまで平穏だった隣国との間に力の差が生じて摩擦を生む公算が大きいんですよ。現に今月の初め、泰と仏印では領土問題を巡って紛争が発生してます。それに欧州戦線での火がそのままアジアに飛び火してくる可能性もありますよ。アタシが生まれる前ですけど、前大戦の際にもドイツの巡洋艦が跳梁して南洋やインド洋の安全は乱れました。』


 師弟としての仲も良い朝日と長門であるが、お互いに鋭くして突きつけあったそれぞれの瞳に緩みを与える事は無く、決して相手に対しての親近感も信頼も薄れていないにも関わらず笑みを浮かべる事もまた無い。ただひたすらにどちらかが挙げる質問に答えるという構図を頑なに守り、ソファの背もたれからも離れて真っ直ぐ伸ばした背筋を維持しながら偶に折り重ねた脚を組み替えたり、胸の下の辺りで腕を組んだりする以上の動作をとろうとはしなかった。

 やがて長門は一息の間を置いてから、先程と同じ様に実例も兼ね合わせた上での朝日の質問に対する答えを述べていく。


『ましてこの日本は四方を海に囲まれた海洋国家。その海洋国家たる日本の通商路に飛び火でもしたら一大事です。去年の今頃ですけど、ロンドン航路に着いていた日本郵船の照国(てるくに)丸って民間船が、英国の沿岸で触雷して沈没する事件もありました。しかもその時、爆発した機雷は英国と独国のどちらが仕掛けたのか解らないもんで、結局損害の請求先が無くて日本だけが泣きを見る事態になっちゃったんです。でもそんなのが日常茶飯事じゃ、誰だって困りますよ。そんな中でも日本が欧州各国の海軍力によるとばっちりに自分の力で対応するんであれば、出雲さんの支那方面艦隊も含めて海軍力を相応に増勢するのは時流の上でも必至だと思います。』


 長門が語るのはここ最近の帝国海軍における増勢の状況。それを尋ねた朝日の質問は、ついこの間まで出向していた上海にてもう40年来の付き合いになる親友の出雲と会話した際に得た、朝日なりの現代の帝国海軍に対する理解が及ばない部分。旧式艦であるが為に現代の帝国海軍の中枢からはすっかり離れてしまった朝日には、例え帝国海軍の艦魂社会における生き字引のような存在であっても中々伝わってこない情報の事である。対して直の教え子の長門は帝国海軍実戦部隊の司令中枢をその分身に宿しており、朝日は自分が思った疑問に対して彼女なら答えられると思ってこの語り合いの場を企図したのであった。

 だが、教え子の回答は朝日が親友との会話で抱いた疑問を満足に解決してくれるまでの内容ではなく、朝日はおもむろに部屋にたちこめる柔らかな陽の光を受けて輝く琥珀色の髪を首の辺りで撫でながら、少しだけより鋭さが増した声を対面する教え子へと投げる。


『長門。それはこの二年くらいの間に、特務艦も含めた艦隊を南洋方面に展開させている事とも同義なの? 私の艦に乗組んでいた工作部長の人間が言っていたの聞いただけだけど、あの方面はもう20年近く帝国の委任統治領なのに、なぜここ数年であの方面への港湾や航空基地といった施設工事が増えているの? それに去年から編成された第四艦隊も、これまでの様な演習での対抗専門部隊じゃないわ。常盤(ときわ)のいる十八戦隊なんかは、あの方面に張り付いて何をしているの?』


 最近まで支那方面艦隊隷下であった朝日が口にした南洋と呼ばれる地域の事情に、その地域にこれまで朝日自身がその生涯において深く関係してこなかった事を知る長門は僅かに驚きを表情の中に見え隠れさせる。


 そもそも南洋とは日本から見ると太平洋側の遥かに南、小笠原諸島以南のマリアナ諸島やカロリン諸島、マーシャル諸島と3つの大規模な諸島から成る海域一帯を漠然と示した呼び名であり、大正3年の第一次大戦の際に敵対するドイツ領であったという事から帝国海軍によって占領された時より初めて日章旗と所縁を築いた地域である。広大な太平洋のど真ん中に珊瑚礁を伴って点在する陸地は雀の涙ほどで、そこに住む島民達もそれぞれの住む島によって大同小異の違いはあるが裸足に薄い衣を纏うのが基本的な服装。若干のボーキサイトや燐等の鉱物資源を含む地もあったりするが、ごく少量なので大企業による事業化へと結実する事は無く、周りを囲む太平洋の海原はこの地への先進性の流入を遮る役目を果たした故に、積み出しや多様な資材の搬入に対応できるだけの港湾施設もほとんど無いと、近代文明が幾分足踏みした格好のある辺境の地であった。

 しかし面積的に西太平洋の殆どを占め、西洋列強の一つであるアメリカ合衆国とその植民地であるフィリピンを地理的にも分断する格好というその在り方は、広大な海洋に国家としての荒廃の全てが掛かっている日本にとっては国防上、大変に重要な意味合いを持ってもいた。


 言わずもがな、その理由は帝国海軍、否、大日本帝国という国家その物が、このアメリカ合衆国を長く仮想敵国と捉えて現代にまで至っているからである。

 日本は日露戦役が終わった翌年には既に自国に対する脅威の査定、次いでそれに応じるだけの国防方針を模索し始め、明治40年2月1日に時の天皇陛下である明治天皇へと上奏された「日本帝国ノ国防方針」にて仮想敵国の第二位として、同じ太平洋という海を挟んで本国を構えているアメリカ合衆国を定めている。当時の第一位はようやく矛を収めつつも国力においては未だに圧倒的に優位であったロシアであったが、その後の情勢から当時可能性として最も危険視されていたロシアによる復仇戦の脅威が無くなった為、そう時をおかずに脅威度としては西欧諸国より本国間の距離も近く、フィリピンやグアム、ハワイといった権益の及んでいる地域も日本の近隣に抱えているというアメリカ合衆国の方を強く認識したのだった。

 もちろん国力の面でもアメリカはロシアと同じく日本を遥かに凌ぐ実力を持ち、それに比例して太平洋に持つ権益を実力で護る際にの剣先と化すアメリカ海軍もまた、まだまだ絹と缶詰ぐらいしか主要な輸出品とはできなかった日本のそれとは比べ物にならない物であった。その証拠に明治40年、アメリカは早速大西洋に展開していた戦艦16隻を筆頭とする大艦隊で、往年のバルチック艦隊を全ての面で上回る規模での世界周航を実施してみせ、加えて大正3年に開通したパナマ運河の権益を握った事もあって、大西洋と太平洋に分かれた戦力配置の転換に対して海軍としての実績と経験を得ていたという点では先の日露戦役で帝国海軍が打ち倒したロシア海軍とは正反対の事情である。倍以上の海軍を相手に善戦したとは言え、日露戦役での海の戦いは額面上は〝2対1〟であっても有名なバルチック艦隊や旅順艦隊の実情を鑑みれば〝1対1の戦を2回行った〟と言った方が正しく、むしろ帝国海軍と日本はそれを狙って政治を含めた全ての舵取りを行いながらあの戦役を戦い抜いたと言っても過言ではない。その点では仮にアメリカを相手にしたとなれば、今度こそ間違いなくその強大な海軍力の全力を一度に相手にして戦わねばならない事になる。

 その為に帝国海軍は常にそんな仮想敵国の海軍と肩を並べた戦ができるように使える手段はなんでも用い、他の国の海軍ではやらないような事も積極的に取り入れて独自の海軍力を養ってきたのだが、その対米国海軍力の重要な要素となったのが先に触れた南洋の島々なのである。


 南洋の一部の諸島は珊瑚礁や近くの島々と連なる故に波が静かで、潜水艦の跳梁を阻止できる浅い海底が伴われる事から艦隊を待機させる泊地としては最高の条件を備え、しかもまたアメリカ本土より見ると権益を握る外地を取り囲む形で点在しているのだから何もしない内から包囲を受けたような状態なのである。だからアメリカは日本が南洋諸島の受任国とされた第一次大戦直後、すぐに日米ヤップ条約を打診し、ウェーク島やグアム島等といった自分達の領土を防衛する為の権限すらも捧げてお互いの太平洋における領域には軍備の影をこれ以上落とさない事をお互いに確約。その状態は両者のみならず世界各国の海軍事情の骨子となったワシントン海軍軍縮条約にても堅持され、財政的にも苦しかった日本の「現状維持」という提言にアメリカも賛同して条約の中に双方合意の上で明文化する事ができたのだが、後に対中国政策における相違に端を発する日本の国際連盟脱退、次いでワシントン海軍軍縮条約の破棄を決定した日本の行動が、互いの海軍軍備に極めて重い一石を投じるだけの潜在能力を有するという南洋諸島の在り方の転機となった。

 昭和11年にワシントン海軍軍縮条約の効力が正式に日本から消え失せると同時に、日本は自らアメリカに提案した南洋軍備に関する相互現状維持の義務をも負わない事となり、国際政治の中で深まり始めた孤立からくる脅威に対処できるだけの軍備増強を開始。これまでずっと日本とは遥かに続く海原を隔てた南洋の施政を担当していた南洋庁は元々海軍とは縁の深い機関であるが、この南洋庁をもってしても対応が追いつかない程の膨大な工事が翌年の昭和12年から企画され、それと並行して南洋の各地域に軍事行動するに当たってどのような長短があるのかを調べる兵要地誌調査も行われる。起伏が少なく平坦な土地を相応の面積で持つ島には飛行場が置かれ、水深が十分で入り江状の波間がある島には大型の艦が接岸できるだけの港湾設備を建造し、入植者等の存在によって賑わいも認められる繁華があれば兵員が居住できる施設を建てるという類のお話で、青い海と緑色の珊瑚礁も美しい南洋はたちまちの内に軍事色の色合いによって染められていくのだった。



 だがしかし、それから朝日と長門が語り合っている今現在までの僅か2、3年の辺りにこの膨大な量の調査や各種設備の工事が実施されているという事に、帝国海軍の半生に伴ってきたとも言える経歴を持つ朝日は首を傾げているのであった。

 対してその正面にて真っ直ぐに伸ばした上半身の真ん中に腕を組んでいる長門は、朝日の気に掛ける南洋の事は長く連合艦隊旗艦として人間達による司令部の情報を最も耳に入れやすい立場であっただけによく知っている。同時に朝日が現代の南洋の推移の果てに米国との衝突を危惧している事もまた彼女はすぐさま察してみせ、笑みの無い表情の中で一度だけ目尻にキッと力を入れて鋭さを際立てせると、自身が知る南洋の実情を語り出す。その言葉は朝日が持つ憂いの滲んだ瞳の向く先が間違いとまで言わずとも、僅かに朝日の考えが飛躍しているとして正すような内容であった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ