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第九六話 「縁に集った艦魂達」

 昭和15年12月5日。

 9月の日本による北部仏印進駐も記憶に新しい南方にて、日本とは比較的友好関係を築いているタイ王国と仏印の間に武力衝突したとの報が国内に波及するも、帝国政府は進駐した北部仏印の目と鼻の先にあるこの紛争に対して静観を決め、極東アジアでの新たな火種にも国内が騒然となるような事は無かった。




 その証拠に呉海軍工廠では相も変わらずの多様な重機の音色が響き、工員や海軍軍人達の前期艦隊訓練に備える姿が冬空の下に繰り広げられ、佐世保や横須賀、舞鶴といった各鎮守府においてもその例外ではない。12月に入ってすぐに帝国海軍は新編成での艦隊訓練を企図し、今期より第二艦隊旗艦とされた横鎮に籍を置く高雄(たかお)艦の長官室では第二艦隊司令長官の古賀(こが)長官が柱島泊地を目標地とする集結命令を発令。今期も明石(あかし)が従う事になっている第二艦隊がようやく勢揃いするのであり、明石艦を含めた呉鎮籍である第二艦隊の各艦は来る出動に万全の備えを実施するのであった。




 その一方、明石艦の命である明石。

 入渠整備を終えた直後より悩まされた猛烈な腹痛と倦怠感も最近はすっかり消え失せ、ようやく彼女にも普段通りの笑みとお勉強に集中できる時間が取り戻される。つい昨夜は久しぶりに大の仲良しである神通(じんつう)と一緒にお酒も添えられた夕飯を食べ、柱島泊地にて集結する第二艦隊の事や軍歌でも有名な「赤城(あかぎ)」という旧名を持つ大先輩が来訪した事などを話のタネにして笑顔のみでの楽しい食事を過ごす。明石や神通が在泊する呉軍港から程近い柱島泊地での集結であるから自分達の移動の予定は少し先であるらしく、お互いに残り少ない呉での休日を有意義にしようと友人との談笑を交えた明石は早速その翌日である今日、勉学の場である師匠の下に赴いて自身の仕事始めも近い事を伝えた。




『まあ、そうなの。私の方はしばらくは各工廠の支援になると思うから、艦隊訓練が始まったらもしかしたら会うかもしれないわね。』

『はい。沖縄の中城(なかぐすく)湾とか南支方面に行動するみたいだって聞いてます。佐世保に行けたら良いなあなんて思ってるんですけど・・・、そのぉ・・・。』

『ふふふふ。佐世保にいる敷島(しきしま)姉さんの事を気にしてるのね? 大丈夫よ、敷島姉さんはとても優しくて品のある艦魂(ひと)よ。ふふふ、・・・ちょ〜っとだけ怖いけど。』


 可愛い教え子である明石の胸の内を察する朝日(あさひ)は少し意地悪っぽく教え子の憂いを逆撫でする言葉を漏らし、『ええぇ〜〜・・・。』と静かな悲鳴を上げて縮み上がる明石の様子を見て口元を緩める。朝日艦艦尾の長官室を間借りしている部屋の中、琥珀色の湾曲が目立つ髪をティーカップを持った方とは逆の手で撫でつつ、褪せる事の無い蒼色に映す教え子の姿は怖さに震えていながらも出会った頃よりかなり凛々しさが増しているのもまた朝日には嬉しい。

 18歳か19歳くらいのあどけなさがギリギリ残っていた明石の顔はそれぞれのパーツこそ変わっていないが、目鼻筋もしっかりとして今やもう20代にも入ったような雰囲気を持ち、猫背が幾分矯正されて胸を張るような上半身の見栄えはそれとなくだが力強さも滲んできた。軍医さんとしての腕前も先月始めの頃に一緒に(かすみ)という駆逐艦の艦魂を診療した事でよく確認できたし、薬学関連のお勉強は朝日に学ぶというよりも既に一緒にその造詣を深めようとする状態である。最近学び始めた英語に関しては残念ながら不得意街道まっしぐらの酷い成績であるが、それでも毎日一生懸命に朝日先生の授業に参加しようとする意欲は明石から消える事も無い。朝日としてはその成長ぶりは中々の物で、一流の淑女(レディ)としてはまだまだ及ばずとも工作艦の艦魂としては今にも自分に追いつかんとする勢いであり、偶にこうして意地悪をして胸にポツリと灯るささやかな嫉妬を晴らしているのである。

 もっともそんな朝日の意地悪に篭められているのは悪意などではない。可愛い可愛い教え子の困った顔が朝日は心底好きなだけであり、自身の姉の怖さに戦慄しっぱなしの明石をすぐさま解放してやった。


『大丈夫よ、明石。妹の私がこう言ってはなんだけど、正直な所は金剛(こんごう)なんかよりも余程お話ができる艦魂(ひと)よ。貴女の先代とも仲はそこそこ良かったし、きっと佐世保では歓迎してくれるわ。』

『うぅう・・・、はいぃ・・・。』


 お師匠様の言葉を受けた明石は未だ妄想の果てに見た敷島の姿に眉毛をハの字にしたままで、ちょっとだけ朝日も意地悪が過ぎた事を反省するがこれ以降は控えようなどと微塵も彼女は思っていない。まだまだ悩む表情を浮かべて己の憂いを自分にぶつけて欲しいという朝日の素朴な願いが、唇に添えられたカップの水面に映る朝日の碧眼に込められているのだった。




 しかしここでお師匠様の意地悪と気付かずに抱く明石の艦隊勤務への憂いは、朝日の部屋へと響いたノックに続くドアの向こうからの声で一挙に忘れさられる事になる。それは明石も朝日もお互いに最も親しい部類に位置づける者の声にして、久方ぶりに耳にした朝日に所縁を持つ人物の物であった。


『軍医中将〜! な〜がっと、で〜っす!』


 赤い絨毯にワイン色のカーテン、そして琥珀色である部屋の主の髪の色が溶け込んだかのような木目も美しい家具は朝日の部屋に常に小波の如き静けさを与えているのだが、底抜けに明るいその高らかな声はそんな朝日のお部屋の素晴らしさの一つをいつも台無しにしてしまう。ただそれでも朝日は自分の領域を乱されている事に眉を吊り上げる事は無く、むしろ明石と会話の中でも見せていた満面の笑みをドアの向こうに対して投げるのだった。


『まあ、長門(ながと)。入りなさい。』

『え!? 長門さん!?』


 観艦式以来しばらくぶりの長門の声、そして彼女がいつこの呉に来る等という予定を全く耳にしていなかった明石が嬉しさよりも驚きの色合いが濃い表情で声を上げ、朝日が細めた碧眼をドアに向けて今か今かと向ける先で、重みのある木の軋む音が漂うと同時にドアの向こうからは自慢の腰まである長い黒髪を靡かせて長門が登場した。


『じゃじゃ〜ん!』


 相も変わらぬ明るさを振りまく長門は自前で効果音を奏でて部屋へと一歩足を踏み入れると、もはやこういう格好が正式だとでも言わんばかりに羽織るように袖を通した第一種軍装の上着を靡かせて両腕を肩の高さで左右に伸ばす。朝日譲りの広い肩幅とうねりの大きい体のラインをあらわにし、明石と朝日の視線を釘付けにしながら面白がって腰を振るその姿はまさに、大人の姿を持った少女。もう既に幼さなど微塵も無い三十路を迎える直前の顔つきも大きな身体も、彼女にとっては心の赴くままに振舞う事への如何なる障害ともならない。生誕この方変わらない明石以上である長門の天真爛漫さは健在だった。

 もっともそんな長門を実の姉の様に慕う明石は大はしゃぎで、飛び跳ねるように椅子から腰を上げると歩み寄ってくる長門の下へと駆け寄っていく。


『長門さん、いつこっちに!?』

『や〜、ついさっきだよお。第一艦隊もしばらくはこっちで艦隊訓練らしくてさあ。朝日さん、ご無沙汰で〜す。』

『いらっしゃい、長門。元気そうね。』


 可愛い可愛い妹分である明石と手を取り合いながら長門は朝日へも笑みを向けて挨拶し、ただ一人だけティーカップを片手に部屋の静けさを維持している朝日もまた満面の笑みを両脇を伝う琥珀色の輝きの中に浮べる。明石としても心許せて尚且つ一緒に騒げる長門との再会を心から喜び、お互いの体へと伸ばす手を宙で払ったりなどして無邪気にふざけ合う。二人とも朝日の教えを受けて育った愛弟子であるから、まさにその光景は仲の良い姉妹の姿であった。


 しかしこの時、この朝日の部屋には明石と朝日には初対面となる、もう一人の朝日の所縁を得た人物が居た。


『・・・・・・。』

『うわあっ・・・!』

『あら・・・?』


 明石よりも少しだけ大きく背と朝日譲りの広い肩幅に手伝われて力強さを持つ長門の背後に、明石と朝日はそれまで気配すらも感じていなかった幼い顔つきの少女が居るのをみて驚きの声を上げる。細身で長門との比較が華奢な様がよく目立ってしまうその身体には、濃紺の第一種軍装が間違いなく今この部屋の中にに居る者の中でも最も似合わないという雰囲気で身に付けられ、横に切れ長で長いまつ毛に挟まれた顔に比しても大きい両目は僅かに怯えも混じった心根を遮られる事無く明石と朝日に伝える。だがまるでガラス細工の様に繊細な綺麗さを持つそのいでたちは、長門と良く似たその艶も輝く長い黒髪にも引き立てられて神々しいほどの存在感を少女の体全体に纏わせ、明石と朝日は少女の正体を探る思考も停止させて口を半開きにしたまましばしの沈黙に陥っていた。

 対して長門はそんな二人を嘲笑うかのように口元を緩めるや、自分の体の背後から顔を半分くらい覗かせたままで同じく声を失っている少女の肩に手を置いて前へと押し出す。


『さあ、挨拶。アタシの顔に泥を塗んないでよぉ。』


 そう長門に声を掛けられると少女はどうして良いか解らずに少々視線を泳がせるが、その内にその場で程良く脱力できた直立不動の姿勢を取ると、頭に乗せていたブカブカの軍帽を手にとって深々とお辞儀する。容姿は16歳か17歳くらいで明石よりも確実に年齢は下であったが、お辞儀に次いで彼女から放たれる鈴を転がしたような声とその言葉遣いはとても大人びた物であった。


『お初にお目にかかります。帝国海軍、大和(やまと)型戦艦一番艦、大和で御座います。この度はお二人のご尊顔を拝する事ができ、恐悦至極です。』


 なにやら小難しい言葉を並べて声を放った少女は、その名を大和と名乗る。明石も朝日も全くの初対面である艦魂だが二人ともこれまでにその名前は何度か耳にしている上に、お互いが親しみを抱く長門が連れて来たという今の状況を考慮するとその正体を勘繰るような事は無かった。すぐさま二人は同じ艦魂としての新たな仲間への好奇心と歓迎の心を笑みと細くしたそれぞれの瞳に浮かべ、お師匠様とは大違いで礼節をよく身に付けた少女に優しく声を掛ける。


『おお〜、貴女が大和かぁ!』

『・・・そう。ふふふ。大和、初めまして。』


 それは今の呉軍港の波間を圧する巨大な艦の命との初めての出会い。観艦式の時より長門からその存在を教えられていた明石はようやく仲良くできる機会を得て大喜びで、興味津々の子犬の様な目を輝かせてゆっくりと折っていた腰を戻す大和へと駆け寄っていく。明石の分身はまだまだ生まれて2年そこそこで艦の命である彼女の容姿もまたようやく20代に手が届いたかどうかの若々しい物だが、師匠と仰いで尊敬する朝日は既に老いも見え始めてきた40代の顔つきで、姉と慕う長門もまたその分身は生誕から20年近くも経っており艦魂としての容姿も明石とは10歳近く歳の離れた人物。明らかに年上の者ばかりであったこれまで明石の仲良し事情だったが、大和は年齢の上でもこの部屋の中では明石が一番近い。不思議と彼女はその第一種軍装に襟章を着けていない事から立場の上でも遠慮する気持ちはだいぶ薄らぐし、かける声もまた先輩に対する丁寧な言葉遣いで濾過する必要も無い為、明石はさっそくその華奢な肩に手を伸ばして笑みを送る。


『えへへ、私は明石ぃ。長門さんから大和の事は聞いてるよぉ。』

『はい、明石さん。わたくしも明石さんの事は長門さんより伺っております。』


 敵意など微塵も無い幼い顔つきと失せる事の無い丁寧な感じの言葉遣いが特徴的であったが、どうやらそんな大和は明石の事を少し知っているらしい。先程よりも僅かに浅いお辞儀を明石に対してしつつ、長門を経て受け継いだ朝日譲りの静かで綺麗な笑みを浮べて大和は続けた。


陸奥(むつ)さんを除けばもう一人の妹であらせられると、長門さんより常々聞いておりました。軍医として大変に勉学にも打ち込んでおられるあの姿勢は是非とも見習うべきだ、と。不束者では御座いますが、これから宜しくお願い致します。』

『お、あはは。嬉しいなあ。』


 年下の容姿と艦歴を持つ艦魂は霞や(あられ)雪風(ゆきかぜ)などが周りに居る明石であるが、同じ朝日に所縁を持つ艦魂としてこの大和には少々特別な感情が無意識の内に湧いてくる。明るく楽しく頼れるお姉さんである長門の手によって誕生した子なら姪っ子に当たるのが筋であろうが、姉妹艦の存在が無い明石には大和がなんだかすぐ下の妹の様に思えた。以前に長門より聞いた所では、この大和という少女はいずれ自分に代わって帝国海軍の全艦艇を率いる身と成り、そうなると明石よりもこの大和は艦魂としても高い階級を頂くであろう事も容易に想像できるのだが、全く偉ぶるような態度を示さずただひたすらに目上の者に対する視線を傾けてくる大和はそれだけ明石には可愛く思えてならない。無意識に漏れる笑い声も高らかに弾ませながら、明石は大和へと伸ばした手で軍装の下に隠れる大和の腕や腰周りの細さを確かめ続ける。痩せ型の体型である明石だって他人の事をとやかく言えるような触れ幅の大きい流線を自分の身体には持っていないのだが、兎にも角にも大和の幼さがとても愛くるしくてベタベタと新たな仲間に触れる手を止める事が出来なかった。

 もちろんそんなご機嫌の明石に悪気などは一切無いのだが、大和は生来の丁寧な人当たりが災いしてか明石による阿修羅の如きボディタッチに少し困ったように少しだけ表情を歪めている。伏せ目がちにした黒い瞳を泳がせて新たに姉と仰ぐ事になる明石の笑みにチラチラと視線を送っているが、この大和の精一杯の抗いを彼女達に等しく所縁を与えた側の朝日は見逃していない。緩めた唇にカップを添えて本日も香りの芳しい紅茶を一口飲むと、柔らかで弦楽器のようなその声を放って明石の言動をやんわりと諌めた。


『明石、嬉しいのは解るけど大和が困ってるわよ。ふふふ、それに私にも挨拶をさせて欲しいわ。』

『あ、えへへ。すいません、朝日さん。』


 決して怒鳴り散らすような素振りも見せずに笑顔での注意を受けた明石は、怒られたと思う事無く朝日の注意に同じく笑みで頷いてみせる。自分の手で僅かに乱れた大和の服を少し罪滅ぼしも篭めて再び触り、小奇麗で汚れの無い濃紺の生地からしわの類を消してあげた。大和もようやく明石の親しみのみで構成された攻撃が終わり一呼吸を置いて休むや、そこからソファに腰掛ける朝日の前へと数歩ほど歩みを進めて再び畏まった挨拶を始めた。


『・・・大和です。お会いできて光栄です、朝日さん。』

『ふふふ。その様子だと、私の事も長門から聞いているみたいね。私が朝日よ、大和。』


 この部屋に居る者達の中で最も年齢を重ねた朝日の前で、最も若い大和が深々と腰を折ってお辞儀をする。しかしながらお互いにゆっくりと深みのある物言いをする所は長門や明石には無い二人だけの共通点であり、体格が朝日や長門に比べれば随分と日本人女性らしい華奢である他はその身体から放たれる人物としての雰囲気もこの二人は良く似ていた。朝日の高い鼻と奥まった目に始まる西洋人の顔の作りも大和にあっては鼻も低く目も頬の高さとそれほど段差を設けていないし、瞳の色も朝日は透き通る青で大和は白い輝きも目立つ黒い瞳。髪の毛もカールの掛かった琥珀色の朝日の髪に反し、大和の髪は一切の歪みもクセも無い少し青みがかった黒。容姿の上での彩りは歴然としているのだが、何気ない瞬きや声を放ち終えた後の小波のような息遣いが、この大和の小さく細い身体に朝日の血が間違いなく流れている事を良く物語っている。

 明石と長門はそんな大和の後姿と対面する朝日の表情を同時に目に入れ、邪魔をせぬように小さな声でその事を伝え合った。


『ねね、明石、どう? 大和は朝日さんソックリだと思わない?』

『うん。すっごく似てます。あははは、なんか首の辺りなんか朝日さんそのまんまぁ。』


 そんな教え子達の声を耳に流しつつ朝日もまた、眼前の少女のその雰囲気が他の誰でも無い自分にそのルーツを持っているのだと声も無く感じ取り始める。それは決して雰囲気だけではなく、ある種の縁としてもこの大和は自分との繋がりを持って生まれたのではないのかと朝日は考え、その発祥でもある人間が詠んだとある詩をついつい唇の隙間から漏らすのであった。




 〝敷島〟の〝大和〟心を人問はば 〝朝日〟に匂ふ 山桜花(やまざくらはな)




 その詩は朝日が日本へとやってくる100年ほど前に詠まれた物で、可憐な花と日本を掛け合わせた美しい言葉の並びは彼女の「朝日」という名前の原点でもあるとされている詩である。朝日の実の姉もまたここからその名を貰ったとも言われる中、朝日が日本へとやってきた当時は既に使われていた大和の名前が、今こうして自分の血をその身に流す眼前の少女に受け継がれたのかと思うと、なんだか花という言葉で飾られるこの詩が自分の一族の為だけに存在しているような錯覚を朝日に与えてくる。


 もしかしたら本当なら自分は大和という名を貰う筈だったのか?


 40余年の長い思い出の中でも一度たりとて考えた事も無かった自分の名前に今更ながらに考察を巡らす朝日だが、彼女は解決できない自分の名の謎に気落ちする事は無い。何かの繋がりが面白可笑しく巡るこの世の中で、もしかしたら自分が名乗っていたのかもしれない名を与えられたおなじ船の命が、よりにもよって自分の血を受け継ぐ者へと与えられた現実。それを思う時、朝日の胸には言葉にならぬ嬉しさがじわじわと込み上げて来るのだった。


『やまと・・・、なんて良い響きの名前なのかしら・・・。まさに次代を担う、いえ、この国の礎となる船に相応しい名前だわ。』


 静かにそう言うと朝日は珍しく飲みかけたままで、まだその髪の色とも似ている深いオレンジ色の湖面が残るカップをテーブルの上へと置き、ソファから立ち上がって大和のすぐ目の前へと近寄り始める。さすがに長門よりのその偉大さを事ある毎によく聞かされていた大和は少し驚いてそのか細い肩をすくめるも、朝日は碧眼を細めて綺麗な笑みをずっと向けたままで、そんな大和の力の入った両肩に左右の手をまるで羽衣を羽織らせるかのようにゆっくり、そして滑らかな動きで乗せた。


『・・・私はもう戦艦という艦種から引退して長い身だけど、かつてその一人だった者として、貴女とこうして出会えた事がとても嬉しいわ。貴女の教育に当たる役目は長門が引き受けるし、貴女にとっては私はただの口うるさい年寄りの船かもしれないけど、これからよろしくね。大和。』


 色々と運命的な物を感じる朝日の優しい語りかけは些か自身の身を蔑むような語句が入ってはいたが、小さなしわを控えるその唇より奏でられた声にはなんとも言えない暖かさが溢れている。それは数多い帝国海軍の艦魂達が日々を生きる中で、長門や明石といった愛しさを抱いて接する直の教え子に対する朝日独自の愛情であり、だれが一番という事なく別け隔てなく注いでくれる母が与える物にも似た慈愛の心その物。明石も長門もそれを直の教え子としてこれまで肌身を通して浴びてきただけに、本日よりこの大和もまた自分達と同じ朝日一家の屋根の下に暮らす家族となれたのだと確信できた。

 艦魂なりに感じる事が出来る絆にして、それは人間達が抱く家族愛であった。




 人間でも艦魂でも初対面という物は中々どうして気を遣う機会は多い物だが、家族と成れば互いに抱くそれぞれの気持ちに遠慮が無くなる物である。おかげさまで大人しくて口数もあまり多い性格ではない大和は家長にも等しい朝日より歓迎を受け、ようやく緊張の面持ちが消え失せた本来の笑みを浮べてくれる。朝日はすぐさま全員にソファへと腰掛けるように促すと、自慢の紅茶を振舞うべく部屋に備え付けられた戸棚より4人分のティーセットを取り出し始めた。


『祝いと憩いにはティーが一番よ。みんな少しだけ待っててね。』


 そんな朝日の声によって始まるのは、新しい家族を歓迎する為のささやかなお茶会。

 よって大和と長門が現れるまで続いていた明石の教育のお時間は問答無用で中止と相成ってしまったが、明石はそんな事を気にも留めずにソファに腰掛け、紅茶の準備に勤しむ朝日の後姿、そして隣や向かいへと腰を下ろしてくつろぎ始める長門や大和へと瞳を流す。いつぞや観艦式の際に目にした金剛や神通、雪風らで作られた一系の家族の様な光景は当時から少し羨ましくも思った明石だったが、今やそんな光景を自分も含めて作り出せている事が彼女には無情の喜び以外の何物でもなかった。

 ようやく初めて目にした新たな家族の為にとジャム付きの乾パンまで用意してくれる師匠の朝日は、誰が何と言おうとお母さん。明石の隣でその大きな身体を斜めに流して肘掛けに上半身を預けるようにし、だらしの無い姿勢で座りながらも明るく冗談混じりの声を次から次へと発する長門は、明石とはちょっと歳が離れたお姉さん。そして明石とはテーブルを挟んで向かい合う形となり、4人分の紅茶やお菓子の類を乗せたトレイを運んできた朝日の隣にちょこんと座るあどけない大和は、頼れる姉が産んだ姪っ子にして自分とは年頃も近い妹のような存在である。


『えへへへ。朝日さんの紅茶は美味しいんだよ、大和。呉に居る艦魂(ひと)達がみんな欲しがるんだから。』


 何気なく放った明石の言葉には無意識に笑い声が滲み、その音色もまた長門に負けない明るさがふんだんに篭められる。明石が味わう初めての妹分との楽しい一時にして、初めての一家団欒でもあった。


 こうして一家水入らずの楽しいお茶会となった師走のとある日であったが、残念ながらこの4人の中で楽しい時間を過ごせるのが開始から半ばまでであった者が一人だけ現れてしまう。それは朝日一家随一のはねっ返り娘にして栄えある長女でもある長門であり、きっかけは本日の主役である彼女の教え子が朝日の用意してくれた極上の紅茶をご馳走になって思わず放ってしまった何気ない一言と、それに応じた朝日による会話の中にあった。


『おいしいぃ・・・。わたくし、こんなに香りと味が奥深い紅茶は初めてで御座います。』

『ふふふ、口に合って良かったわ、大和。きっと長門が淹れてくれる紅茶は口に合わないのね。ふふふ。』


 その40余年の生涯において常に絶賛されてきた紅茶の腕前を持つ朝日は、長いまつ毛を上下にパチクリと動かして感動している大和がその日常で得ているであろう飲み物の味を察してみせる。朝日が疑ったのは彼女がいつも教え子達にご馳走するが如く長門が大和へとご馳走しているであろう紅茶の味で、底抜けに明るくて他人に好かれる性分ながらもとび抜けた面倒臭がり屋である長門の紅茶の味はそれに見合う奇抜な代物なのではと微笑のままで考えを巡らせた。

 そしてそんな長門に対する朝日のこのお考えは大当たりである事を示したのは、その愛くるしく清楚ないでたちに反して結構毒舌な面を持つ大和の返した一声であった。


『はい、あれは残念過ぎで御座いました。長門さんには恐れ多いのですが、とても不味い紅茶で御座いました。』

『まあ。うふふ。』

『あははは! マズイだって!』


 なんとも率直な物言いにしてそれでいて丁寧な言葉遣いを崩さずに言ってみせた大和に、明石と朝日は思わず声を上げて笑い出してしまう。どうも大和にしたら冗談や悪戯のつもりでこんな言葉を放ったつもりはさらさら無いらしく、面白可笑しく笑い転げている二人をその長いまつげに挟まれた瞳に映しながらも何食わぬ澄ました顔でカップを唇に添えていた。やがて笑い声が中々治まらぬ明石と朝日を横目に映しながら僅かに首を捻り、そんな自分の放った言葉が笑いのツボを刺激したのかとちょっと困ったような表情を浮かべる大和。そのちょうどはす向かいの位置にて斜めにソファに腰掛けた長門は全く怒る訳でもなく、明石が大笑いしながら上げた言葉にも一緒になって笑い出すとその大きな身体をくねらせて教え子の発言に対する短い感想を述べる。


『あはは! 長門さんの紅茶はマズイ! あ〜はっはっは!』

『いや〜ん! あははは!』


 直のお師匠様である朝日とはうって変わって冗談好きでひょうきんな長門は満面の笑みでそう漏らし、すぐ隣に座っている明石に負けないくらいの高笑いを始めた。これでも長門は大和と師弟関係となってこの方、他の艦魂達が面会謝絶状態とされる丁重な養育の日々の中で最も一緒にいる時間の長い者であり、まさしく十人十色である艦魂個人の性格としてこの大和が時折こういう物言いをするのをよく知っているのである。もちろん可愛い教え子に他人を小馬鹿にしよう等という悪気に満ちた腹積もりがない事は百も承知。それにそもそも長門は朝日の様に紅茶に対して極端なこだわりを持っている訳でも無く、教育の合間にちょっと休憩を取ろうとして自身が幼い時より目にしてきたお師匠様の紅茶の入れ方を見よう見まねでやってみただけの事。その上で紅茶の味がすこぶる不評であっても、長門としては別に落ち込む事も無ければ、その腕に磨きを掛けようと一念発起する気も全く湧いてこない。むしろ『こうして笑いのタネになるならこのままでも良いや。』等と、そのなんともアバウトにして能天気な思考の中で呟いているくらいであった。

 だがしかし現状に甘んじる事を良しとする長門のそんな意識は、知り合ってもう既に20年来のお付き合いであるお師匠様が許してはくれない。『艦魂は一流の淑女(レディ)でなければならない。』という教えは明石に対する教育でもしばしば用いられる物であるのだが、朝日のその基準において紅茶の腕前が些か問題有りとされた長門は、今や自分より身体も大きく成長して栄えある帝国海軍艦艇の全てを率いる身であったとしても、この時をもってまだまだ未熟であると断定される。


 美味しい紅茶を淹れる事ができる。


 幸か不幸かそれが人並み以上に紅茶への執着を持って生きる朝日独自の、一流の艦魂たる者の第一条件であったのだ。


 その一方、最も朝日と付き合い長い長門はお師匠様の紅茶好きとその教え子である自信の腕前が悪いと断定されてしまった事に、隣の明石らと一緒に笑い出してしばらく経った頃に瞬間的に脳裏へと過ぎらせて悪寒を覚えるが、残念ながら彼女の危機を察知する機会は既に遅きに失していた。

 その内にふと正面から放たれてくるお師匠様の笑い声にただ一人だけ不気味さを胸に滲ませた刹那、長門がこの世で最も恐れるお師匠様の癖が彼女には襲い掛かってくるのだった。


『ふふふふ、長門〜。ティーの味が悪いのは真心が足りないからよ。〝米〟という字は八と十と八の漢数字が組み合わされているのと同じで、ティーの準備には多くの過程とその具合という物があるわ。それら一つ一つは技術なんかでは無く、誠実な真心からくる注意力によって成されている物なのよ。茶葉を湛えたスプーンの角度やお湯の温度、ジャンピングの様子、抽出される成分の増減。それらは飲んでくれる相手がどんな味わいや香りを望むのだろうと考えてあげれば、自ずと相手の口に合う物に仕上がってくるようになってるの。明石もこの間、私が浅間(あさま)にティーを淹れてあげた時の事は覚えてるでしょう? あの時の浅間も美味しいって言ってくれたけど、それは浅間が濃い目の味わいをいつもティーに求めているのを頭の中に入れて、注意深く過程を積んだティーを準備した結果なの。過程と結果が最も大事だといつも言ってるでしょう、長門? 美味しいとか不味いという評価は後から付いて来るおまけみたいな物よ。常にしっかり、過程と結果に注意しながらティー淹れなさい。解ってる、長門?』


『は、は〜い〜・・・。』


 明石と長門が思わず『出た〜。』と脳裏で口にしてしまう、常に教えの根本とその際のしゃべり方がブレる事の無い朝日のお説教。叫ぶ訳でも怒鳴る訳でも、嘲笑う訳でも睨みつける訳でも無い、ただただ持ち前の優しげな微笑と包み込んでくるが如き暖かい声色で奏でられる言葉の羅列は、長門も明石も抱く尊敬するお師匠様の唯一の困った所である。きっと大好きな紅茶と自分の教え子の事が混ざり合ったが故にこうして語る姿勢にお師匠様なりの情熱が篭っているのであろうと二人は良く解っているのだが、一切の反論も許さずに理詰めで攻め立ててくる朝日の声は二人の引きつった笑みの側面に冷や汗を浮べていく。特にその矛先とされた長門にあっては久しぶりの反省のお時間が至って優しげながらも強要されてしまい、大和がじっとその黒く大きい瞳を向ける中でコッテリ朝日に紅茶のなんたるかを聞かされる事になってしまった。

 明石にとってもこのお師匠様によるお説教は随分と久々に目にした代物であったが、隣にてその座る姿勢にまで飛び火したお説教を受けて項垂れる長門を心底可哀想に思いながらも、そんな長門を見つめて大和が小さく微笑んでいる事に敢えて助け舟をだそうかという選択肢を捨てた。

 姉と慕う明るい長門の笑みが完全に歪みを帯びた苦笑であった事は残念であったが、自分とお師匠様と新たな家族の一員が微笑みのみで過ごせるこの時間をいつまでも楽しみたいと願う。




 それはそれは楽しいの一言に尽きる、新たな家族を加えた朝日一家のとある昼下がりであった。

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