第九五話 「45年の月日/其の四」
赤城丸の突然の涙によって彼女の周りに集まった二水戦の者達が心配の表情を集める中、初対面から怪しみながらもその朗らかさに親しみを込めて「ばっちゃん」の呼称を用いた雪風は上司を含めて最も赤城丸と一緒の時間を過ごしている為に、赤城丸の元に駆け寄ると遠慮や失礼等を気にせずにその袖を握って涙の訳を問う。
『あ、赤城丸さん!? どうしたんスか!?』
赤城丸はまだ溢れ来る涙と規律を失った吐息が元に戻っておらず、握られた袖を通して伝わってくる雪風の心配の心にすぐに応じる事ができない。雪風や神通、他の仲間と同じく群がった二水戦の者達の中で最も気の利く霰がポッケからハンカチを出し、腰を更に折って項垂れる赤城丸に労わりの声を静かに掛けながらハンカチを差し出す。赤城丸はお礼の言葉もろくに返せずにハンカチを受け取り、両頬を伝う自らの体温を宿した雫をふき取っていった。
『ううぅ・・・、ごめんねぇ・・・。みんな、ごめんねぇ・・・。』
突然の涙に続いて放たれる謝罪の言葉は二水戦の艦魂達をより困惑の渦中に投げ込み、二水戦の艦魂達を統率する神通は両手を宙に掲げたままで視線を泳がせてしまう。だがそれほど時間が立たない内に赤城丸は決して眼前の若者達に悪い感情を得たりして涙した訳ではない事を、思わずその朗らかな笑みを崩してしまう程になった理由を、涙を拭った事でようやく規律の戻り始めた声にて教え始めた。
『あの頃はさっきも言った通り、連合艦隊なんて名前だけでねぇ・・・。フランスから来た松島さんは、清国との戦から5年も前の平時編成の時に浪速から旗艦を引き継いでおられて、ろくに近代海軍の戦策もまだ手探りの帝国海軍に、西洋で考えられてる海軍の知識を色々と教えてくださったのぉ・・・。』
神通や雪風を始めとする二水戦の艦魂達がようやく元の位置へと戻って腰を下ろして視線を集める先で、赤城丸は霰より借りたハンカチを右手に握り締めながら語り始める。毛編みの被り物より垂れた白く褪せた髪を潮風に揺らしつつ、しわだらけの小さい顔の中で唇より紡ぎ出されるのは、雪風や神通が聞きたがった日清戦争の頃のお話。戦勝の誉れも名高い45年前の奇跡の裏にあった、艦魂達の知られざる物語であった。
赤城丸が言うように、当時、つまり明治20年の後半頃の帝国海軍は赤城丸自身を含めた帝国海軍の艦艇がようやく数を揃え始めた頃で、それに伴って海軍艦艇の艦魂社会もまた組織の体裁をようやく成し始めた時代であった。フランスより隣国の甲鉄艦に備える為に渡ってきた松島とその姉妹が率先して近代海軍のなんたるかを教え、赤城丸の姉妹等は当時は日本生まれの同期生としてその教えを最初に受けた者達となる。慣れないフランス語から日本語へと翻訳する所から始まる授業の日々はとても大変で、その上で赤城丸達は同じ日本生まれの先輩方や後輩達に学んだ多様な知識を横展開する重要な役目を負っており、そもまだ外国人の存在が組織の中に同居する事自体が珍しかった当時は苦労の連続なのであったらしい。
『何事も始めという物はあるのだけど、あの頃もやっぱり〝今回が初めて〟っていう事が多くてねぇ・・・。なかなか要領が得られなくて上手く行かなった事も多くて、たくさんの問題や仲間内での軋轢なんかにばっちゃんらはとっても悩まされたのよぉ・・・。』
老いに染まった瞳をぼんやりと手元に向けて静かに赤城丸は語り、今では既に当たり前である事も多い普段の艦魂達の生活が如何にして成り立って行ったのかを二水戦の若者達に教える。
何事も最初は上手く行かないというのは神通は勿論、その部下である少女達にも良く理解できる物で、全員の記憶に新しい天津風のお叱りなんかも二水戦の日々における彼女の経験としての最初の一幕だ。アレをしてはいけない、こういう時はあんな風にする、といった要領を身に付けていくのに際し、そこにいる誰もが長い時間と失敗を繰り返して身に付けてきたのである。そして赤城丸が声に変えている物事は、自分達の居場所である帝国海軍その物の最初。どれだけの懸案と課題がどんな規模でそこに転がっていたのか、神通を始めとする二水戦の艦魂達には推して計りきれない代物だった。
それに加えて帝国海軍の近代化が目覚しい当時は、教えを与える側だった松島達もまた日本の海の事情に精通していた訳でもないらしく、師弟揃ってのお勉強が日夜繰り広げられていたのが実情。故に開戦を控えて民間より徴傭した貨客船に対して海軍艦艇としてのイロハを教える教官の存在も満足に用意できなかった当時、そもそもが世界の海を股に掛けて日々を過ごす民間船舶の艦魂達が持つ優れた教養によって、帝国海軍艦艇の艦魂達が議論等で打ち負かされてしまう事も何度もあったのだという。
現代では考えられない帝国海軍の黎明期の記憶に触れた二水戦の艦魂達が大変に驚く中、赤城丸は懐かしむとも寂しげに眺めているともとれる細めた瞳を僅かに潤ませ、そんな中で自身もまた勉学に励みながらの教官として立ち振る舞った過去を語った。
『ばっちゃんはその頃、ようやくそこそこの数を揃えたばかりの水雷艇の子達の面倒を見る事になったのぉ・・・。その子達の分身はとても小さかったけどその分だけ一気に何隻も生まれてて、ほっぺも赤い顔に大きな目を並べてばっちゃんの事をよく慕ってくれてねぇ・・・。みんな名前も番号でしか貰えてなくて、あの子達が武器として持つ魚雷の使い方もまだ良く解ってなかった上に、ばっちゃんも生まれて数年くらいしか経ってない身だったから、何を教えるかをばっちゃんが最初に学ばなければならなくてとても大変だったわぁ・・・。』
教育者としても未熟者ばかりだった当時において、その一人を担っていたかつての自分の事を話す赤城丸。実際に毎日夜遅くまで人間達が自身の分身に持ち込んだ多くの教本や参考書等を読み漁り、時には姉妹が持つ教本を貸してもらったりして彼女は知識を蓄え、若さ故の底抜けな好奇心と冒険心も色濃い水雷艇の艦魂達に物事を教えた。その事は同じ教育を与える側の者として日々励む神通には良く理解でき、彼女は眼前にて静かに語り部となっている老婆、赤城丸の往時の苦労を小さな溜め息を放ちながら偲ぶ。その間にも口を開く赤城丸より出た言葉は、神通がお師匠様より教えられた上司たる者、指揮官たる者としての在り方と偶然にも一致する物であった。
『あの子達にしたらばっちゃんは艦種も艦齢も違う上司でしょぉ・・・。だからばっちゃんはあの子達が無邪気に聞いてくる色んな質問に、〝知らない〟とか〝解らない〟なんて答えを返したくはなくてねぇ・・・。一日が終わって寝る前は必ずお勉強をして、覚えた事は次の日にあの子達にそのまま教えてあげるような毎日だったのよぉ・・・。その時のあの子達の目、今のみんなと良く似てるわねぇ・・・。』
そう言うなり持ち上げられた赤城丸の顔は、辺りに座る雪風を始めとした二水戦の艦魂達を左から右へと流れつつその一つ一つを捉えていく。約一名のやんちゃ娘を除けばそこにあるのは全て黒髪と黒い第一種軍装を身に纏った水兵の格好をした少女達の姿で、霰と霞を除いた陽炎型姉妹がその大半を占めているにも関わらずその顔は多少の程度で似ていてもそれぞれに違う。身体つきも140センチ台の小柄な身長で文字通りのどんぐりの背比べ状態とし、顔に比してもやや大きな目等といったまだまだ幼さが目立つその有様は、赤城丸が今静かに話した水雷艇の艦魂達とまさに瓜二つであった。
そして赤城丸がただ己の苦労話を後輩達に伝える程度で昔を語った訳ではない事は、二水戦の者達へと向けた顔に少し弱々しいながらも確かな笑みが湛えられていた事で示されている。ただその日を一緒に過ごすだけで苦労の連続という毎日はもちろん辛さの方が割合としては多かったのは赤城丸自身も承知しているが、思い出としてそれを振り返る時、彼女の胸には何もかもが笑みへと繋がっていく楽しさの雫が音も無く募って行き、まだ目尻に刻まれたしわに涙を浮べつつも赤城丸は柔らかに笑って言った。
『みんな姿格好も同じだけど、顔と同じで性格は千差万別。優しくて美味しいお茶を淹れてくれる貴女みたいな子もいたし・・・。』
言い終える前に赤城丸は徐に手を伸ばして間近で薬缶を手に持って控える霰の頭に手を乗せ、かつて自分が面倒を見たという少女の容姿を持つ艦魂達の中に霰ととても良く似た者がいた事を伝える。もちろんその多様な在り方は霰の様な大人しい性格の艦魂のみではなく、やがて赤城丸は霰の頭に乗せていた手をすぐ近くで胡坐を掻いている事からちょうど自分が座る椅子の肘掛けの辺りにあった雪風の頭に今度は乗せ、その間逆に当たる彼女のような者もいた事を声に変える。
『んふふぅ・・・。貴女みたいな元気の良い子もいたねぇ・・・。』
『ぬぉっ・・・、あ、アタイみたいなのッスか?』
いつも頭に触れる他人の手は怖い怖い上司のげんこつである雪風は赤城丸のしわだらけの手に少しビックリしつつも、じんわりと伝わってくるその温もりによって瞬間的に閉じていた両目を薄っすらと開けて行く。赤城丸はちょっと寂しそうに目を細めながらも口元を小さく吊り上げ、懐かしさで溢れる楽しき過去を再び語り始める。
『まだまだ人間の間でも水雷なんて珍しい時分だったから、艦魂である水雷艇の子達なんかにとっては解らない事だらけでねぇ。いつも〝なんだこれえ!〟なんて元気の良い声を上げては、みんな揃ってばっちゃんに訊きに来てたのよぉ。ばっちゃんはそんなあの子達の期待を裏切りたくない一心で、あの子達が抱いた疑問は何でも教えてあげるつもりで、寝ても覚めてももう毎日がお勉強ばかりだったねぇ。』
赤城丸の静かな声を受けて神通は人知れず何度も深く頷く。同じ上司の立場を頂いた者としての共感を得ているのであり、彼女が口にした「教えを授けるに当たって解らないとか知らない等という返答をしたくない」というその考えは神通もまた現代にて同じく抱いている上司としての心構えだ。赤城丸はそれを持ち前の優しい人柄と経験を通して抱き、神通の場合はおっかないお師匠様より木刀でもって尻から叩き込まれた訳であるが、部下に対する接し方にこれでも気を使っている神通にあっては赤城丸の胸の内がこの場にいる者の中で誰よりも理解できるのである。その上で赤城丸が続けて放つ言葉は、決して口には出さない神通の日々の感情を端的に言い当てていた。
『みんなみんな解らない事ばっかりでねぇ。松島さん達も忙しくて、ばっちゃんの相談なんか聞いてられなかったぐらいだったわぁ。でもあの頃は本当に毎日が楽しくてねぇ。んふふぅ・・・。』
まだ目尻のしわに薄っすらと溜まっているであろうついさっきの涙が乾かぬ内に赤城丸の表情はついに笑みへと変わり、二水戦の者達はその思い出が赤城丸にとって本当に楽しいの一言で尽きる日々であった事を察する。神通は辺りに座り込む部下達を横目でチラチラと見つつ、自分もまた雪風のお馬鹿さに毎度毎度血圧を上げ、未熟さから来る失敗に癇癪を起しながらの日々を過ごす中で同じ感情を抱いている事を改めて確認する。だが神通の頷きの動作が完全に終える前に赤城丸は意味深な声を放ち、それまで神通艦の甲板に纏われていた僅かに明るい雰囲気を薄めていった。
『おかげでねぇ・・・・ばっちゃんはあの頃は、あの子達が戦場に赴く時に想定されてる事なんてあんまり考えてなくてねぇ・・・。』
『想定されている事・・・? それは水雷艇隊の運用方法という事ですか・・・?』
再び声のトーンに曇りが滲む赤城丸と供に僅かに眉をひそめた神通は、椅子に腰掛けたままやや腰を折って赤城丸に顔を近づけながら眼前の大先輩が口にした言葉の意味を問う。赤城丸は黙ってゆっくりと首を縦に振る仕草をもって返答とし、現代にて同じ魚雷を主とした戦い方を大きな特徴とする駆逐艦の艦魂達の面倒を見ている立場の神通は赤城丸の言葉を理解した。
それは艦艇毎に決められた、もといそれを目的として生まれたといった方が正しい、艦の種類における運用形態。別段難しいお話ではなく、例えば戦艦であれば敵の艦艇を沈める為の最大の駒として真正面からの殴り合いを演じ、空母であれば搭載する飛行機を飛ばして敵の基地や艦船を攻撃する、等といった類の物である。もちろん神通とその部下に当たる駆逐艦の艦魂達の場合、それはこれまでの艦隊訓練で常に磨きを掛けてきた敵艦隊に対する強襲雷撃で、特に昭和9年の海戦要務令第4改正にて初めて帝国海軍の戦い方として企図された「大部隊による夜間戦闘」の先鋒としての役には並々ならぬ量の教練の時間を割いて来たのだが、奇しくも赤城丸が無言の頷きに込めていた水雷艇の運用法は二水戦の者達のそれと「夜」、「強襲」、そして「魚雷」という点で偶然にも一致しているのであった。
『・・・水雷艇であるあの子達の運用は、発見されにくい夜陰に紛れて敵勢力の物と想定される港や湾へ集団で侵入し、停泊中の艦や港湾設備を破壊する事だったわぁ・・・。人間達がやる教練もそれに即しててねぇ・・・。あの頃はまだ無線電信なんて物も海軍艦艇にはまだまだ無かった頃でしょう・・・? お互いの位置を確認するだけでも一苦労で、教練はいつも懸案が山積みで出る有様。あの子達もどうすれば上手く出来るのか頭を抱えたり、たまに喧嘩したりもしてねぇ・・・。ばっちゃんはその都度、仲裁に入ってあげたけど、まだまだ魚雷のお勉強が足りなかったばっちゃんには解決させてあげる事ができなくてねぇ・・・。結局そのまま、あの清国との戦になってしまったのよぉ・・・。』
段々と声に悲しみの音色が混じりながらも赤城丸は続け、息を飲みつつ黙って耳を傾ける海軍艦艇としての後輩達にその後に発生した戦、すなわち日清戦争のより詳細な話を声に変え始めた。
先程は雪風に黄海海戦での武勇伝を問われても詳細は覚えていないような口ぶりであった赤城丸だが、戦全般としての当時の記憶だけは、何もかもが初めてであった戦であった事からその脳裏に今でもハッキリと蘇らせる事ができる。
彼女が紡ぎ出す声によると、雪風や神通が話題として欲した黄海海戦は中小艦艇の多かった当時の帝国海軍としては極めて上出来の結果だったらしい。陸軍部隊への兵站路を築く為に黄海の制海権を賭けたこの海戦では連合艦隊旗艦であった松島艦を始めとして沈没に至らずとも軒並み大損害を被り、当の赤城丸もまたこの時に大怪我を負うなどして帝国海軍の艦隊戦力は即時に行動を起すことが難しい状態となる程であったが、対する清国の北洋艦隊でも損害は甚だ激しく、その上で海戦の最中に撃沈された巡洋艦が何隻か出ている。そもそもの帝国海軍の目的は遥かに優勢な戦力を抱えた北洋艦隊が持つ黄海の制海権を奪取する事が目的なのであるから、その制海権を構築する重要な要素の一つであった北洋艦隊の艦艇を相応の規模で修理を施しての再戦力化が不可能な撃沈という事態に誘引できた事は、そのまま北洋艦隊による黄海の制海権の一角が相応の規模で崩れた事を意味する。連合艦隊が海戦直後に再起するまでの時間を必要とした事態は事実ではあるがそれは北洋艦隊とて同じ事で、その上で修理補修が成った頃の両軍の戦力事情が優劣差の薄れたイーブンの状態へと近づいた事を鑑みれば、この黄海海戦は戦略的にも戦術的にも日本側がなんとか勝利を得たという事は疑い様の無い事であった。
『あの頃の連合艦隊は人間の海軍軍人達も生え抜きが多くてねぇ・・・。当時の艦隊司令部は日露戦役で軍令部長を務めた伊東中将、参謀には日露戦役で連合艦隊の参謀長を務めた島村大尉・・・。遊撃隊の面々はもっとすごくて、坪井少将の下、遊撃隊旗艦の吉野の艦長は川原大佐、浪速の艦長はあの東郷大佐。高千穂には野村大佐で、八重山には平山大佐。秋津洲なんかは当時まだ少佐だった上村さんが艦長心得で乗っておられてねぇ・・・。』
赤城丸の力ない声で語られる日清戦争時の話は明るい感情は全く込められていないのだが、当時の知識を殆ど持ち合わせていない雪風を始めとする少女達はどよめきを放つ。軍神の渾名で尊崇される東郷元帥、目立たない海軍軍人として過ごしながらも国民からの人気を絶大に集めた島村元帥など、そうそうたる名前の人物がまだ一介の艦長さんとして励んでいたという赤城丸が語った当時の話に驚きを隠せなかったのである。
『す、すげえぇ・・・。』
『東郷元帥って艦長さんなんかやってたんだぁ・・・。』
『ねえねえ・・・。上村少佐ってさ、もしかして日露戦役の時、出雲中将が率いてた第二艦隊の司令長官だった上村彦之丞大将の事じゃない・・・?』
手近にいる仲間や姉妹と顔を合わせ、少女達は素直な驚きを表情と声に示す。すると辺りの甲板からは極めて微小の喧騒が折り重なる事によって静けさが失せ、小さく笑って少女達に眼をやる赤城丸の前で思わず神通が釣り目を鋭い角度で吊り上げてドスの効いた声を放つ。
『こら、貴様ら! ちゃんと静かに赤城丸様のお話を聞かんか、馬鹿者が!』
若さ故の他愛ない事での賑わいは艦魂に限らず人間にもまた往々にしてある物だが、一つだけ彼女達が違っているのはその賑わいを恐怖の二文字で一瞬にして静めてしまう怖い怖い上司が身近な存在として常に生活の中に居る事である。神通は腕を組み脚を揃えて行儀良く椅子に座っており、いつも手にしている竹刀も今は腰が曲がった赤城丸に杖の代わりとして貸し出している状態だが、怒号と供に右足で強く甲板を踏み鳴らすと少女達はすぐに表情を律してひそひそ声を放つのを止める。神通はそんな部下達に鋭い眼光を一巡りさせて黙らせ、赤城丸が再び口を開いてくれる為の静寂を作り出した。
ただ、おっかなさで部下を黙らせるという強引な手段にも関わらず、赤城丸はその光景を瞳に入れると軽く頷きながら口元を緩め、眼前の神通に視線のみでお礼を示すと何事も無かったかのようにして話を続ける。
話の続きは黄海海戦でのギリギリの勝利の事。その場にいた人間達も艦魂達も己が使命を果たさんと懸命に波を駆け、鮮血に塗れながらそれでも尚、砲火を敵艦に目掛けて灯して何とか勝利をもぎ取ったというお話である。
だがしかし、この黄海海戦の結果こそ、重傷を負って床に伏した当時の赤城丸にとって一大事へと繋がってしまう。
黄海のど真ん中で戦った海戦後、清国北洋艦隊は旅順に、次いで旅順が帝国陸軍によって攻め立てられると威海衛へと場所を移して立て篭もり、当時の帝国陸海軍は敵艦ひしめくこの威海衛を攻略する山東作戦を企図する事態へと進展したのである。これは先の黄海海戦で崩した清国が持つ制海権が完全に崩せた訳ではなかった為であり、帝国海軍が最も恐れた北洋艦隊の定遠艦、鎮遠艦が損傷を被りながらも未だに健在である事、さらには黄海海戦での被撃沈艦があったとしても北洋艦隊は未だに巡洋艦戦力は完全喪失していない事などに実施の理由があった。
もちろん黄海海戦の趨勢と結果は定遠艦に匹敵する艦艇をまだまだ揃えるだけの国力が無かった日本としては上出来の部類であったが、赤城丸は自身もいた黄海海戦にて圧倒的な決着をつける事が出来なかったが為にこんな事になってしまったのだと大いに悔やむ。なぜならこの山東作戦にて海軍側で企図された作戦とは、威海衛にて陸軍と共同しての陸戦隊の展開と同時に、海上からも威海衛へと攻撃するべく赤城丸が面倒を見てきた水雷艇の者達が投入される事になったからである。
『ばっちゃん達がしっかりしてればねぇ・・・。体当たりでもしてもっと清国の船をやっつけてればねぇ・・・。ううぅ・・・、あ、あんな幼い子達に出番なんか、なかったのに・・・、う、うう・・・。』
再び涙を流し始めた赤城丸だが自身の声の音色が震え出しても尚、赤城丸は声を放ってその後に起こった事を話し続ける。あんなに穏やかで朗らかだった赤城丸が口にする激しい後悔の念に雪風や神通が声を掛けようとするも、赤城丸はそれを涙ながらに遮るようにして45年前の過去を声に変えた。
黄海海戦で重傷を負った当時、彼女は病床に伏しながら教え子達の出番が訪れてしまった事を悔やみ、足取りも覚束ない状態である事から仲間の艦魂達に制止されたりしながらも、自身が教えを授けた水雷艇の艦魂達の下に向かった。だが向かった先のとある水雷艇の甲板にて、赤城丸は意外な光景と声を耳にしてしまう。
『突撃の時は大声を出そう。混乱すればする程、わたしらにしたら好都合だ。』
『みんな一緒で行くんだ。怖い事なんか叫んで忘れられるよ。』
『あ、赤城さんだ! 赤城さん、木銃と銃剣って手に入らないですか? 敵の本拠地だし、至近距離での戦闘だから、武技教練で習った銃剣術で接舷戦闘に備えたいんです。』
『ばか! 先に言う事があるだろ! 赤城さん、お怪我は大丈夫ですか? 次の作戦ではわたしたちが赤城さんに代わって戦ってきます! 定遠艦と鎮遠艦には必ずやわたしたちの魚雷を突き刺してやります!』
円陣を組んで小さく狭い甲板に集まった10代後半の少女像の容姿を持つ水雷艇の艦魂達は、赤城丸の後悔や心配の心とは裏腹にいよいよ迫った自分達の出番に闘志を燃やしていた。
黄海海戦という実際の戦を味わい、今も脇腹に残った裂傷と包帯にまで染み出した血によって跳び来る敵弾の恐ろしさを知り、傷口が出来ると同時に自身の甲板に飛び散った血飛沫、持ち主を失った手足や臓物で戦場の実情を目にした赤城丸。その恐ろしさを彼女は海戦が終わってからじわじわと感じ始め、救いの無い惨劇に後追いの形で戦慄しながら病床についていたというのに、水雷艇の艦魂達はまるで晴れ舞台が待ち遠しいかのように意気揚々と来る威海衛攻略戦の教練に励んでいた。声変わりもしない幼い声で『みんな一緒で行くんだ。』を合言葉の様に振りかざし、赤城丸が渡すのを断った銃剣の代わりにどこからか手に入れた先端を斜めに切った竹の棒を教練用の藁人形へと突き刺し、示し合わせた大声、否、もはや既に奇声に近い咆哮を放って彼女達は備えとしていた。
当然、当時の赤城丸は未だ傷口が塞がらぬ脇腹を押さえ、ふくらはぎの一部を削がれて力の入らない膝下を支えるべく隔壁に寄りかかりながら、教え子達に自分がついこのあいだ実際に目にした戦はそんな物ではないと訴えるが、少女達の若さを糧にして激しく燃やす純粋な闘志を消す事はできず、その内に仲間の艦魂に見つかって重傷の身を理由に強引に床に伏せられてしまう日々が続く。
誕生して間もない水雷艇の艦魂である少女達は、若い故に一点のみをただひたすら目指して容易く燃える使命感だけで戦に目を向けていた。まだまだ姉妹を除いた他の艦魂達との面識を十分に持っていなかった故に、自分と同じ船を分身とする者を翻す軍艦旗が違うというだけでいとも簡単に敵と割り切って憎み、銃剣術の教練で用いる藁人形と同じだと思う事が出来た。実際の戦を知らなかったが故に、戦を教練の延長であるとしか認識できなかった。それぐらい彼女達は幼く、またそれ故に自分達に教えを授けようとする赤城丸の声に耳を傾ける事が出来なかった。
目の前にある障害を避けるだけの器用さも持てずに当たって砕き、道が無い海原はみんな一緒に進んで道を作れば良いくらいにしか考える事が出来ない。
それらは全て若さ故の純粋にして真っ直ぐな狂気であり、一点の淀みや曇りも無い暴走。
当時、病床に伏していた赤城丸はそれを止める事が出来なかった。
そして運命の明治28年2月4日の夜。
正確には日付も変わった午前3時30分頃に、雪降る威海衛の波間へと赴いていた水雷艇の少女達はついに行動を起す。
既に威海衛の陸戦状況では湾内に潜む北洋艦隊艦艇と付近の砲台が数える程残るのみで、陸側の付近の要衝は殆ど日章旗が翻っている状態。しかし孤立していても北洋艦隊、特に定遠艦と鎮遠艦は黄海海戦やその後に負った損傷などで傷ついていようとも未だ健在で、前進しようとする陸軍部隊等をその主砲で激しく牽制した。つい一週間前には占領した砲台から望遠鏡で偵察していた帝国陸軍歩兵第11旅団の旅団長、大寺少将がその砲撃によって戦死するなど、依然としてその精強さを日の丸を掲げる者達に見せ付けている有様だった。
この情勢の中で陸軍より協力要請があった事も影響し、いよいよ帝国海軍水雷艇隊による威海衛湾への強襲突撃が発令。黄海海戦の傷が癒えた鳥海艦、愛宕艦による支援の下、閉塞用の防材で固められた湾口に先日見つけて突入路としていた隙間を見失う等の障害を得つつもやがて入り口を見つけて湾内へと進み入り、精一杯の白波をそびえさせた頼りない小さな舳先の上にてそれぞれの水雷艇の命達は咆哮した。
『よし、蹂躙! 蹂躙だ! 突っ込めー!』
『みんな一緒だ! 叫べー!』
『『『 ワァアアア!!! 』』』
兼ねてより示し合わせていた奇声を上げ、乗組員達の決死の覚悟と供に水雷艇隊は湾内を駆ける。未熟な声帯で奏でられる水雷艇の艦魂達の怪鳥音を思わせる声が凍える暗闇を切り裂き、彼女達の唯一の師匠であった赤城丸の声をも耳に入れなかった程の狂気と暴走は少女達の目を瞳が失われる程に、そしてまるでその若さ来る汚濁のない狂気を示すかのように真っ白に輝かせた。
しかし北洋艦隊が本拠地としていた威海衛が易々と水雷艇を自由にさせる筈もない。曇天に星の輝きも月光も遮られた冷たい闇の中、全身の毛が奮い立たつような叫び声を上げて飛び込んだ水雷艇の艦魂達を出迎えたのは、彼女達の咆哮をかき消すほどの砲声と、四方八方から幾重にも連なってくる大小の弾丸と探照灯の帯、予定していた進入路からの突入が出来ない中で強引に飛び込んだ為に解りづらくなっていた僚艦や自分の位置、そして複雑な威海衛の湾の海底だった。
ある者は防材に乗り上げ、ある者は魚雷を放つ暇もなく座礁し、迫り来る弾丸の螺旋に驚いた拍子に仲間内で衝突事故を起し、隊の先頭を駆けていた者は猛烈な敵艦の集中砲火によって乗組員の人間達に混じって血飛沫を吹き上げながら薙ぎ倒されていく。若さゆえの勢いのみでここまで来た少女達の努力も救いのない戦場には効力は無く、そこには統率も纏まりも維持できずに水雷艇から無残な姿の漂流物へと成り果てていく光景があるだけだった。
『ひゃぁ・・・は、ははは・・・! あっははははっ・・・!』
暗闇にやっと北洋艦隊の艦艇らしき艦影を前にしつつ、機関部を打ち抜かれて蜂の巣状態になった一隻の水雷艇の舳先。既に船体が前のめりに傾いて艦中央部から乗組員達の真っ赤な血と不気味な黄色い肉の欠片が流れてくる甲板にて、機関銃の斜線によってへその辺りから脇腹を食い破られた少女が一人、仰向けに倒れて星明りも月明かりも無い空を仰ぎながら自分の血がその半分に吹き付けられた顔で全く場違いな大きな笑い声を放つ。大きな丸い目は瞳孔も開き、声の大きさに反して流れ来る血と臓物が纏わりついた彼女の腕は持ち上がる事は無く、ただその場で小刻みに痙攣するのみ。激しい砲声が辺りの空気を切り裂いていく最中、笑い声に誘われるように彼女の赤く染まって傾きかけた分身には再び弾丸の群れが集まる。まるで数え切れない程の鳥の群れが路上にポツンと転がっている弱った小動物をくちばしで突くかの如く、その水雷艇には大小の傷が数秒の内に増えて行き、弾丸の群れが去った後には舳先の辺りを切断された船のカタチを成していたモノが沈んでいく光景が残る。そして傾きを増した甲板の上を、幼さで溢れた顔の半分を失った少女の亡骸が、飛び出した虚ろな彼女の眼球と供に血と肉の流れに誘われて滑り落ちていった。
そこにあるのは死。
救いも勘弁も無い命の剥奪劇。
若さに任せた狂気を奮い立たせ、歯止めを失った勢いに乗じてやってきた果てに、水雷艇の乗組員と艦魂達に用意されていた戦の現実だった。
だがその中でも幸運を得た者が、文字通り死中に活を見出した者が確かに存在し、彼女達は敵艦に肉薄して必殺の魚雷を打ち込む前後に、手を切ったりしながらも自前で作った竹槍を片手に目標の艦へと襲い掛かっていった。
赤城丸がその事を知ったのは日清戦争が終わってからの事で、戦後に日本へと戦利艦として渡ってきた鎮遠艦や、日露戦役では一緒に南山攻略戦にて艦砲射撃を行う事になる平遠艦の艦魂より話してもらったのである。両者はこの威海衛にて水雷艇が襲ってくるのをその目で見ており、二度に及んだあの威海衛の水雷戦の最初の攻撃で被雷して海岸に擱坐させられた北洋艦隊旗艦の定遠は鎮遠の実の姉であった。
二人によれば2月5日の第一回夜襲の際、無数の砲弾の斜線と探照灯から発せられる灯りの帯が何度も交差する波間を猛然と潜り抜け、夜陰の中に軍艦旗の色合いもハッキリと見えるくらいの距離にまで近づいてきた小さな水雷艇を定遠が確認した刹那、定遠の目の前には瞳を失った水兵の格好をする少女が竹槍を持って転移してきたらしく、少女が放つ奇怪な咆哮と不意の出来事に驚く定遠は肩の辺りを抉られながらも、咄嗟に腰に挿していたサーベルを出会い頭に少女の顔へと伸ばしたとの事であった。少女は真一文字に横一線で切り裂かれた首から鮮血を吹き上げ、手の跡が残るほどに強く握った竹槍を持ったまま後ろに仰け反って仰向けに倒れた。鎮遠が轟音を耳にして駆けつけた時、定遠が肩を抑えて激痛に悶える前で、その少女はバックリと裂傷が開いた首から止め処なく血を流し、白目を剥いたままで中々事切れずに四肢を細かく震わせていたという。
その凄まじい戦闘の様子を耳にして神通以下の二水戦の面々が口を抑えて押し黙る中、赤城丸はこれまでになく嗚咽の声を漏らし、堰を切ったようにしわで囲まれたその両目からは幾筋もの流れが湧き出る。
『ううぅ、ううう・・・! ま、まだほっぺも赤かったあの子達を・・・、ば、ばっちゃんは殺してのうのうと生き残った・・・。 うううっ・・・。 そ、それでも生きて返って来た、あ、あの子達の何人かは、赤城さん、赤城さんって、ば、ばっちゃんを慕ってくれてねぇ・・・。戦争が終わって、あの子達は台湾とかに、は、配属されたのだけど・・・、うぅ、ばっちゃんは、もうそれから、あ、あの子達の顔を見れなくてねぇ・・・。ううぅ・・・!』
赤城丸は言い終えるとさらに深く腰を折り曲げ、右手で口を覆いながら二水戦の者達の前で泣き崩れた。現代より45年前の寒空と夜陰に包まれ、威海衛の波の上で惨い亡骸とその身を化していった教え子達の顔が彼女の脳裏に次々と浮かんでいく。あんな顔だった、こんな声だったと一人一人を遠い昔の記憶より蘇らせると、その顔は現代において今、赤城丸のすぐ傍にて声を失ったままで見守る二水戦の駆逐艦の艦魂達と見事に重なり、赤城丸はそれ故に目を背けようと深く腰を折り曲げていた。すぐそこにいる雪風を始めとした少女達を瞳に映す度に、無意識の内に赤城丸に訴えられてくる若さ。そして45年前にその若さ故に生まれ、赤城丸自身が止める事が出来ず、ただ心意気と勢いに任せるしか手段を持たなかったという純粋で淀みも曇りも無い狂気が、赤城丸には余りにも残酷過ぎるように思えた。
やがて神通が『赤城丸様・・・。』と声を漏らして椅子から立ち上がり、赤城丸の下へと駆け寄ってその深く沈んだ肩に手を掛けようとするや、この場に来てまず始めに欲して見せた二水戦の駆逐艦の艦魂達による歌の事を話し始める。
『せ、戦争が終わって、しばらくしてから、あ、あの子達の戦ぶりが歌になってねぇ・・・。その歌詞が、本当に、本当に、あ、あの子達に重なる物だったわぁ・・・。ば、ばっちゃんはだから、わざと八番を削ったのぉ・・・。う、うう・・・、あの子達が、死に物狂いで成した、あの威海衛の戦いを伝える為に・・・。』
『な・・・! じゃ、じゃあ、艦魂である私達が歌う水雷艇の夜襲が七番までで終わっているのは・・・!?』
『ううう・・・。そ、そう・・・。ばっちゃんがその昔、あの子達の事である、す、〝水雷艇隊〟の歌詞がある所で、け、削ったからなのぉ・・・。』
これまで謎であった、現代の駆逐艦の艦魂達が自分達を示す艦首の歌として歌う「水雷艇の夜襲」。物心ついた時より周りの者達が歌い継いで来た事から雪風を始めとした二水戦の駆逐艦の艦魂達は覚え、それは彼女達やその先輩方をこれまで率いてきた神通にあっても同じである。いつの頃からか現代の駆逐艦の系譜の源流として赤城丸も語った日清戦争時の水雷艇を捉え、その勇ましい血統を身体に宿した者として当然のように、人間達が歌う物と比べて七番までしか歌詞がない事を疑う事も無く、その歌詞に篭められた物語を知る事もなく、45年前より代々受け継がれてきた十六条旭日旗を翻す駆逐艦の歌である。
だがその歌詞に秘められた当時の有様を、神通を含めた二水戦の艦魂達はこの時初めて知った。別にその歌の勇ましい歌詞が当時の海戦の有様を正確に表していないとか、必要以上に水雷艇隊の活躍を賛美しているなどという汚点がある訳ではない。むしろ歌詞の通り、当時の水雷艇の艦魂達はただひたすら敵を求めて白波を舳先に作り、その身が砕ける事も恐れずに威海衛の波間へと突入して行ったのである。全てを若さからくる剥き出しの狂気の風に任せ、『みんな一緒だ』と仲間内で催眠術をかけるかの如く恐れの感情を互いに誤魔化し合って成し遂げた結果。それが赤城丸の語った、そして雪風達が毎日の日課として歌っている、今から45年前の威海衛湾にて起きた水雷艇による夜襲作戦であった。
全てが未熟過ぎた故の惨劇と誉れであり、現代ではかつての赤城丸の様に魚雷を主として戦う部下達に師匠として接している神通はその恐ろしさを改めて確認する。〝青二才〟と赤城丸に紹介したように彼女の部下達はまだまだ生まれたばかりで、魚雷による戦を専行してこの道10年の経歴を持つ神通から見れば今の部下達はまだまだハナタレで尻も青い新米艦魂。とてもとても戦場に出せるような実力ではないと彼女はいつも考えているが、実際にこんな状態で戦場に赴く事になった際の実例が赤城丸の語ってくれたかつての奇跡にはあった。
しかしただ一つだけ、眉をひそめて若さ故の恐ろしさを思い知る神通には疑問が湧く。それはあの威海衛での闇に打ち立てられた戦果が、そんな少女達によってこそ成し遂げられたという現実である。水雷艇隊による夜襲は現実に当時の清国北洋艦隊には決定打となり、当時の連合艦隊のほぼ全力が束になっても沈める事が出来なかった定遠艦を航行不能にし、転覆した来遠を始めとする残余の巡洋艦もまた大損害を被り、ここに至って極東の海に精強を誇った北洋艦隊は戦力をほぼ喪失。黄海の制海権を固持する清国の力は水泡に帰したのである。
それは紛れも無い大戦果であり、戦に赴く船どころか、世間一般の客船や人間達ですらも最も尊ぶ「目的の達成」という物。あどけなさに塗れたままで死地へと赴いての惨たらしい死に様は神通としても大いに恐れ、そしてまた大いに嫌う所ではあるが、では果たしてこの動かしようの無い成し遂げた戦果は無い方が良かったのかと考えるとそうとも言えない。そもそもがやっと近代国家の体裁を整え始めたのは当時の日本も帝国海軍も、そして艦魂社会も同じであり、当時の清国に対して長期に渡る戦を行えるだけの国力がまだまだ無かった事は中学生でも分かる事である。できるだけ短期で戦という途方も無い浪費の競い合いが済むのであればそれに越した事は無いし、使える手段を全て使って勝ちをさらいに行くのは戦争に限らずとも当たり前の事で、神通自身もまたそういう風に部下達に教えてきた。
しかしまた可愛い部下として得た者達に赤城丸が語ったような未熟に任せた暴走を与える事は神通にはとてもとても考える事も出来ず、故に彼女は余りにも惨い過程で成し遂げた赤城丸のかつての部下達の結果を、良い事なのか悪い事なのか判断する事が出来ない。
同時にそれは当の赤城丸にあっても同じ事であった。
『ば、ばっちゃんには解らない・・・。あの子達には・・・、ばっちゃんが面倒を見た、あ、あの子達には、し、死んで欲しくなんかなかった・・・。で、でも、あの子達が作った結果を、否定する事なんて出来ない・・・。み、みんな・・・、みんな、ただ・・・、ただ必死だっただけ、なのにぃ・・・。ううぅ・・・。』
腰を折り曲げたままで涙ながらにそう言った赤城丸はついに椅子から腰を離し、杖代わりにしていた神通の竹刀と一緒になって甲板に突っ伏す。赤城丸の嗚咽に苦しむ声と瀬戸内の風の音色だけが響くという静寂の甲板に竹刀の発するけたたましい物音が木霊し、神通とその部下達は寒さを改めて肌に覚えると同時に眼前の赤城丸の様子に驚く。
『ば、ばっちゃん・・!』
『赤城丸様・・・!』
すると最も赤城丸と同じ場を過ごしている雪風が立ち上がって赤城丸へと駆け寄り、加えて最もこの場で赤城丸に畏敬の念を篭めている神通が椅子から立ち上がり、二人揃って四つん這いの格好で大粒の涙を流す赤城丸の震える背や肩に手を触れた。それに続いて霰や霞といった他の少女達も甲板から腰を上げ、赤城丸の周りへと心配の表情を浮かべながら走り寄ってくる。その輪の中で一番最初に掛けられた雪風の言葉を受けつつも、赤城丸は顔を上げぬままで記憶の中に埋もれ、45年前のわだつみの向こうへと消えていった教え子達の背中に声を掛けていた。
『みんな・・・、ああ・・・、みんな・・・。ば、ばっちゃんは、どうすれば良いのぉ・・・? こうして話すのも、く、供養になると思ってるけど・・・、ううぅ・・・、ば、ばっちゃんは、正しいのぉ・・・?』
この場では赤城丸に継ぐ年長者である神通は、赤城丸の放つ声に慰めや同情の言葉を掛ける事は出来ない。自分と同じく教える側の者として多くの若い部下達を抱え、最も嫌うような未熟な状態で戦場で送り出さねばならなかったという過去を吐露する赤城丸の気持ちが余りにも彼女には解る為、解り過ぎたが為に名を呼ぶ意外に赤城丸に対してかける言葉が脳裏には見つからなかった。もちろんそんな若さの渦中を謳歌する神通の部下にあってもそれは同じで、霰がオドオドしながらハンカチを再び差し出そうとするぐらいが関の山という状態。赤城丸が語り掛ける背中の持ち主達の血を受け継いだ者として、満足な答えを示してやる事も出来なかった。
だがそんな中、赤城丸の傍らに身を寄せて背を擦る雪風が上手く定まらない口調で語りかけ始め、その声を耳に入れる赤城丸は次第に顔を上げてすぐ近くにあった大きな釣り目を特徴とする雪風の顔へとゆっくりと滲んだ視界を流していく。
『あ、あのさ、ばっちゃん・・・。な、生意気かもしんねーけどさ、そのおかげで勝ったんだろ? んなら悪い事じゃねーよ、たぶん・・・。』
『犬・・・。』
自分の言いたい事を割とそのまま口に出してしまう雪風の言葉はいつも神通のお仕置きのきっかけとなるが、神通もまた涙で顔を湿らす赤城丸と同じ事に迷いを抱いていた手前、さしもにこの時は拳を振り上げる事も無く部下の名を呼んだだけで次に発せられる言葉を待つ間隙を設ける。仲間の少女達や赤城丸の視線が集まる中、雪風は上手く言えないもどかしさによって口元を指先で掻きながら続ける。
『でもさ、そうしなきゃなんなかったアタイ達の先輩達とか、面倒見てたばっちゃんにしたら全然良くねー事だよな・・・。ばっちゃんも先輩達も、ずっとずっといつまでも、勉強が大変だけどのんびりしてたっていう毎日を過ごしたかったんじゃねーかと思うよ・・・。アタイだってそうだしさ。だから良くもあって悪くもあるんじゃねーのかな、先輩達の戦ぶりはさ。でもそれが戦だって、アタイ達は戦隊長から教わったんだ。良くも悪くもあるなんてフザケた、そんな在り方こそがスゲー理不尽なのが戦なんだってさ・・・。』
『お、おい、犬・・・!』
雪風が赤城丸の語る過去と混ぜて口にした見解は、事ある毎に神通が教えている戦という物のそもそもの在り方。記憶に新しい月初めの柔道の大会にて深く思い知ったその理不尽を、雪風は少し言葉を選んだような素振りをしながらも平然と赤城丸へと言い放ったのだ。それを教えた側の神通も決して自分が常々言っている事を間違いだとは思っていないが、実際に戦へと赴いた赤城丸の前で教え子の言として披露されるのは気が引ける。雪風を含めた部下達からみれば経験豊富な上司として奉られる彼女も、この赤城丸から見れば実戦経験も無い青二才に過ぎないと立場を弁えているからだ。
故にすぐさま教え子の頭にいつもの様にげんこつを落とし、ベラベラと容易く物事をしゃべる口を塞ごうと思った神通であるが、またしても彼女の声は雪風を呼びつけた段階で終わってしまう。それは単純に雪風の放った言葉に怒りを示す場所が無いからで、そもそもの在り方が理不尽であるという雪風の言葉はよくよく考えてみれば神通が常に向ける戦という物事への一貫した視線。間違い等は何一つ無いように思え、むしろ教え子の言いたかった事は怒りの水位が限界を突破しかけた中でも神通には妙に納得できてしまう。
『むぐ・・・。』
僅かに肩に力を入れた程度で腕の動きを中断させ、部下に対するお叱りの声を詰まらせてしまう神通。まさかこの期に及んで『私が教えたと言うな!』等と言って叱るのはいくらなんでも都合が良過ぎるし、自分の身を可愛がるような理由で戒めとしたなら、『部下に尊敬されくなったら終わり。』というお師匠様伝来の上司像を自ら放棄してしまう事になる。吊り上げた眉も角度を変えぬままヒクヒクと動かしつつ、神通は今をお叱りの機会ではないと悟って表情をそのままに飲み込んだ。
そして雪風の言葉に間違いを見つけれなかったのは、神通だけではなく赤城丸もまた同じであった。ただ惨状だけが転がる戦場に実際にいた為に、余りにも失った物が大き過ぎた故にしっかりと正対してみた事が無かった戦という概念に、赤城丸はこの時初めてどういう物なのかと考えを巡らせ、その思考の果てに自身の経験と供に見た真実が眼前の少女が放つ言葉と見事に一致する。清国との戦、露国との戦の果て、自分を慕った多くの部下を死地へと赴かせた上に自分だけが現代もこうして生き残り、せめてもの供養と今は知られる事の無いかつての自分と教え子達の物語を伝える自分が、正しいのか、それとも間違っているのか。その答えがどちらでもあってどちらでもないという雪風の声は、掴み所の無いような話であっても赤城丸にはなんとなく納得できる。
『それが・・・、戦なのかねぇ・・・。』
輪郭の定まらない少しぼんやりとした理解を脳裏に浮かべ、すぐそばにある雪風の顔に45年前の教え子の顔を重ねながら赤城丸は自身の答えを求める。次いで雪風は自分の言っている事に自信を持つのと同時に話題に上がっている物事に対しての強い怒りも手伝って、頷いた後に赤城丸へと返す言葉にこれまでに無い程の力を込めた。必死に水雷艇として生きようとした先輩達と犠牲の上に成った栄光、それによって苦しみと心の傷を45年もの間負わされてきた眼前の老婆、赤城丸。それは全て、これ以上無い理不尽の連鎖が生んだ産物であり、許すことの出来ない憎き理不尽の余波によった犠牲者なのであった。
『そうだよ、ばっちゃん・・・! 戦とはそもそもが理不尽なんだ・・・!』
まるでその言葉は45年前の威海衛の闇から木霊してきたかの如く赤城丸の耳へと響き、永く続いてきた彼女の苦しみを癒していく。若さに任せて狂わなければ赴けなかった事。どう戒めてもどう導いても救えやしなかった事。大声を上げて恐怖に抗いながら竹槍を突き出して行った事。そうでもしなければ当時は勝てなかった、もとい目的を達成できなかった事。それらは全て、戦が持つ理不尽その物であった。
『戦は・・・、嫌な物だねぇ・・・。』
何も考えぬ中でしわが刻まれた唇より漏れた赤城丸の声はか細い物であったが、顔をすぐ傍に近づけていた雪風の耳には途切れる事無く届く。朗らかさとのどかさを取り戻し始めたその声は雪風の戦に対する怒りを自然と宥め、雪風は表情から無意識に力を抜くと小さく溜め息を放って雪風にいち早く笑みを覗かせて言った。
『あ、いや、ばっちゃん。言ったそばからアレなんだけど、アタイはまだ全然戦に出た事なんてねーから、ばっちゃんから見れば調子の良い理想論かもしんねえよな。でも、アタイは間違った事は言ってないって思ってる。それとさ、アタイらは先輩達みたいに、言葉はわりーけど自分を誤魔化して戦になんか行かねーよ。アタイらにはべらぼうに魚雷に詳しくて、さっきのアタイみたいに理不尽な戦に怒ってくれて、同じ意識持ってついていける戦隊長が居んだ。ばっちゃんは心配するかもしんねーけど、アタイらは先輩達みたいな失敗はぜってー繰り返さねえよ。』
『こ、この馬鹿・・・! なに言ってんだ!!』
声を放つ際に他人に遠慮しない雪風の言葉を失礼だと捉えて罵声を投げる神通は、赤城丸に間近で笑みを送っている雪風の奥襟をむんずと掴むと早速その茶色い髪で埋まった頭にげんこつを振り下ろす。しかもまた雪風は最初に出会って親しみも人一倍に赤城丸へと抱いていた為に、赤城丸に対する呼び名と言葉遣いも無意識の内に丁寧さが欠けてしまっていたから具合が悪い。これはさすがに上司としてはお叱りの対象であり、神通は遠慮なしに鉄拳を垂直にお馬鹿な部下の頭へと叩き落す。
『なんだその口の利き方は!! 赤城丸様と呼ばんか、この馬鹿があ!』
『ギャ・・・! だ、だって・・・、あだっ・・・!!』
静かだった神通艦の甲板がいつもの喧騒を取り戻し、赤城丸という客人がいる前でのみっともない光景に霰が恐る恐る声を掛けて諌めようとするも、短気な神通のお仕置きがこんな程度で治まる筈も無い。先程の赤城丸と入れ替わりに今度は雪風が涙目となって詫びの言葉を放ち、中々許してくれない彼女の上司が自慢のげんこつを小脇に抱えた雪風の茶色い頭にこれでもかと叩き込んだ。
しかしこんな師弟による怒号と悲鳴が入り混じった光景をまだ涙も残る瞳で認めた赤城丸は、奇しくも雪風と泣くのが入れ替わった様に、今度は彼女に変わって久方ぶりの微笑を浮べる。45年前のかつての自分も立場としては眼前にて騒動を起している者達と同じであったのに、赤城丸はその当時においてこうして部下を叱った記憶が無い。あるのはいつも素朴な疑問を抱いてやってくる部下達に笑みと供に解答を与え、懸案を解決して喜ぶ部下達の様子をそっと眺めて笑う日々ばかりだった。そしてむしろこんな風に力ずくで理解をさせる強引さこそ、若さを起爆剤に狂い始めて暴走しかけていた部下達を止める時に必要だったのではと今更ながらに思えてくる。だが不思議と後悔の念は湧いてこず、彼女の笑みの根本として胸を染めていくのは、あれから何十年も経った現代においてそれがしっかり出来ている者達を確認できた事への安堵の念だった。併せて先程の雪風の声を放つ姿を再び思い起こし、戦という物事に対してこんなにも考えをまとめられている少女を自身が教え子として接していた水雷艇の艦魂達の中にはみつけられない事にも気付く。雪風はそれをいま過激なお仕置きを与えてくる怖い上司より授かった教えであると言ったが、赤城丸が持つ何もかもが過度期であったあの頃の継ぎ接ぎだらけの教育の日々で、彼女にはそれを悟るだけの余裕も無ければ、部下であった少女達に教えてやった事も無い。
だが時代はあの頃より既に45年の月日が流れ、あたかもその流れは海に潜む潮の流れのように留まる事が無い。大海原のど真ん中でスクリューを止めても潮の流れに乗って船が流されていくのと同じで、かつての自分と教え子達が出来なかった事が45年も経ったら今やそのどちらも出来るようになってしまっている。その瞬間、それまで赤城丸の意識の中で雪風を始めとする少女達を目にする度に重なっていたかつての部下達の顔が、木霊する笑い声と供に霧の様に四散して消えていった。やがて赤城丸は笑みを一層濃い物としながら、目に映す二水戦の艦魂達が自分の知る少女達とは全く違う者達であるのだと、そして自分もまた眼前でげんこつと怒号を上げている神通とは全く違う者なのだと改めて思い知る。
『も、申し訳ありません、赤城丸様・・・! こ、この馬鹿は生まれつき学も教養も無い奴でして・・・。 お前も謝らんか!!』
『ぐひん・・・。 す、すいやせぇん・・・。』
粗相を犯した部下を成敗し終え、やや慌てふためきながら頭を下げてくる神通の右手がタンコブを連ねた雪風の頭をグイっと下げる光景が、赤城丸の笑みの前にある。未だご立腹の胸中を手を介して部下へと伝える神通も、その恐怖と鈍痛によってその大きな釣り目に見合う大粒の涙を流して詫びてくる雪風も、明治の中頃に生まれて明治の海に海軍艦艇として生きた艦の命である赤城丸とその部下達とは違い、昭和の海に生まれて昭和の帝国海軍を成す艦艇の命。彼女達はまごう事なき現代の船にして、一方の赤城丸はまごう事なき過去の船であった。
赤城丸はその事を噛み締めるように胸に刻み、ふと湧き出た心の声を唇の隙間から漏らす。
『んふふぅ・・・。ばっちゃんは・・・、30年前に海軍を辞めれて本当に良かったぁ・・・。もう帝国海軍に、ばっちゃんみたいな古いお船はいらないねぇ・・・。』
寂しさなぞ微塵も篭めず、まるで小春日和の潮風を思わせる清々しさでそう言った赤城丸はすぐそこに転がっていた神通の竹刀を手にするやゆっくりと立ち上がり、眼前にて頭をペコペコと下げる雪風と神通の肩に左右の手を乗せて微笑んだ。45年前の自分達が出来なかった事を手の温もりに変え、かつて軍艦旗を翻した者としての精一杯の労いの心を、頼りがいのある後輩達の双肩に託すように。
すると神通による雪風の退治劇でいつもの二水戦の空気を吸えた少女達が、緊張で固まっていた唇を一斉に開く。放たれてくる言葉は今しがた赤城丸が放った言葉を否定するような内容ばかりであったが、彼女にとってはその一つ一つの言葉は全て無情の嬉しさと喜びを与えてくれる物であった。
『あ、赤城丸様! そんな事無いですよ!』
『赤城丸様がこうして話してくれたから、私達も考えと心構えを改める事が出来ました!』
『あ、あの! 私、つい先日二水戦に加わったばかりなんですけど、赤城丸様のおかげでみんなと同じ教訓を得れました!』
『どう生きてどう死んだか、それを私達は省みて生かす事が出来ます! だ、だから赤城丸様が教えていらした先輩達の死は、絶対に無駄にはなりませんよ!』
『赤城丸様! わたし達は赤城丸様と先輩達の残した教えを無駄にしない義務があるんです!』
『また来て下さい! もっと教えてください、赤城丸様!』
矢継ぎ早にあちこちから放たれてくる少女達の声は赤城丸が得たかつての現役の頃と同じような物であったが、赤城丸はそんな少女達の声を受けても過去を思い出して重ねる事はもう無かった。ただ持ち前の優しい笑みを一人一人の顔へと順番に向け、自分を囲むようにして寄ってくる後輩達の肩に手を触れてお礼の言葉を返す。
『こら、騒ぐんじゃない! 赤城丸様に迷惑がかかるだろうが!』
やがて神通が騒がしくなった甲板に声を放って静め、赤城丸に身体を向けると彼女もまた本日の赤城丸の語り部に対してお礼の言葉を述べる。
『赤城丸様。私も今日は随分と勉強をさせて頂きました。私は長く水雷戦隊の旗艦、もとい駆逐艦の艦魂達を教える立場を頂いてきまして、赤城丸様が当時抱いたお気持ちは良く解っておるつもりです。決して赤城丸様が教えてくださった事は粗末にしないと誓いますので、今日はこの馬鹿供の非礼を何卒許してやってください。』
古き良き海軍軍人を標榜する神通は顔は怖いが節度にはうるさく、客人としてやってきている赤城丸に対して深く頭を下げる。細身ながらも170センチを超える体躯の彼女のお辞儀は、小柄な体格で今や腰も曲がってしまっている赤城丸にはとても真似できない美しさが満ち満ちており、赤城丸はこれもまた当時の自分には無かった物だと愛でながら、同時に自分が持つ記憶の中でただ一人だけ同じ様なお辞儀をこなす事が出来た者の事を思い出しつつ、多くの部下に教えを与える現代の後輩を褒めた。
『んふふふぅ。中尉さんは良い教育者だねぇ。敷島譲りでお辞儀も綺麗だわぁ。』
それからしばらくの間、私立神通学校の特別講師である赤城丸と二水戦の艦魂達が授業を終えてのお茶会を過ごしていた際、神通はふとこの赤城丸がまだ現役であった際に供に励んでいた朝日や浅間がこの呉に居る事を思い出し、霰を伝令としてすぐさま二人をここへお連れするように命じようとしたのだが、赤城丸は甲板から波間の一角をつぶらな瞳で眺めたままでそれを取り止めさせる。彼女の視線に沿って神通や雪風達がその先に眼をやると、そこには川原石港よりノロノロとした船足で出てくる赤城丸の分身の姿があった。
『荷降ろしと荷揚げは終わったみたいねぇ。ばっちゃんは今日はもう帰らなくちゃダメねぇ。でもばっちゃんは瀬戸内航路でのお仕事がほとんどだから、きっとその内にまたこうして呉にお邪魔するわぁ。朝日や浅間にはその時に会おうかねぇ。今日はみんなと話せて本当に、本当に良かったねぇ。』
そう言って赤城丸はしばらくの間座っていた椅子から曲がった腰を持ち上げ、杖代わりに借りていた竹刀を神通へと返却する。次いで一斉に立ち上がって直立不動の姿勢をとる少女達の前で二水戦を率いる神通と赤城丸が最後の挨拶を交わすのだが、ペコペコと頭を下げる神通には大先輩からのささやかなお灸が据えられた。
『中尉さん。良い教育者だけど、あんまり部下の子達を叩いて怒るのはダメよぉ。短気は損気って言うでしょおぉ? イライラしやすいのはカルシウムっていう成分が不足してるからだって、ばっちゃんの分身の船医さんが言ってたわぁ。アジとか小魚を食べるようにしないとねぇ。』
『は、はあ・・・。き、気をつけます・・・。』
いつもだったら『黙れえ!!』と開口一番で叫んだ後に自身が率いる二水戦への干渉を拒否する神通も、さしもに赤城丸に対してはそんな口を利ける筈が無い。困ったような表情で緩く口をへの字に曲げ、短いお説教に後頭部を掻きながら善処する意を示す。だが普段からそんな神通の短気さにげんこつと竹刀の餌食とされている少女達にはおもしろ可笑しくて仕方なく、正面きって大笑いすると後が怖いのでぎゅっと噛んだ奥歯に力を込めながら込み上げてくる笑いに耐えていた。
もっともおかげで赤城丸が去る際の神通艦の甲板は容易く笑顔で溢れ、少女達がわーわーと声を上げて手を振る中で赤城丸は白い光を帯びて自分の分身へと戻っていった。
やがて白と黒に船体を塗り分け、二重線のファンネルマークを描いた赤城丸の小さな分身は、ついに師走も前にして凍える空気に触発されてしんしんと降り始めてきた雪の中、呉を後にして波間の向こうへと遠ざかっていく。小さな波飛沫を上げる「赤城丸」と書かれた舳先の甲板では船の命である老婆の風体の赤城丸が手を振り、彼女が笑みを向ける軍港の一角には登舷礼の形で二水戦の艦魂達が整列し、頭に乗せた軍帽を振って見送るという神通艦が浮かぶ。赤城丸は小さく手を振っていたがその内に両手を脇に揃えて深々と頭を下げ、目下に当たる者達へも礼を失しないというその礼儀正しい人柄を見る者に伝えてみせた。
『赤城丸様、礼儀正しい艦魂やんなぁ。ウチにはホンマに話し易いお艦魂やったわぁ。』
『本当だよな、霰。口の利き方で怒られてるどっかの馬鹿犬もあれは見習うべきだよ。』
『うるせー、猿!』
『二人とも喧嘩はあかんや。』
いつもの如く口論になりかける犬と猿に、一度も成功した例が無いのに毎度毎度それを止めようとする霰。しかしこの時は雪風が叫んだだけの為に霰に出番は無く、礼によって隣同士に整列していた霞と雪風の間に割って入るも拍子抜けしてしまう。雪風は舷側の手摺を握って何事かを考えていたようで、霞に叫んだ後も去り行く赤城丸の分身を黙って眺め続けるのみだった。
しかしすぐさま雪風は『おし!』と大きな声を上げると、すぐ近くに上司がいるにも関わらずそのかぶき者な人柄を存分に発揮するような行動をとり始めた。
『戦隊長、すんませんス! 後でげんこつでもケツバットでも食らいますから今は許して欲しいッス!』
『む?』
突如として帽子を振る神通にそう言った雪風に神通は要領をサッパリ得られず左右の釣り目を別々の大きさに歪めて首を捻るが、雪風はそんな上司のお許しの声を待たずに勝手に号令を飛ばし始めた。
『軍歌演習ー! 艦種歌、歌い方用意ー!』
突然の雪風の号令は奇行にも等しく、本来は神通の指示が無ければ号令は発せられないのが二水戦のしきたりであった。まして神通を長とする二水戦では彼女以外の独断専行は最も重罰を科せられる罪であり、その場にいる雪風を含む少女達はそれをこれでもかというくらいに身体で教え込まれている。その為に雪風の突飛な行動に仲間達は上司の顔色を伺ってチラチラと視線を送り、最初の内は雪風の号令に誰も従わなかった。
だが当の神通は一度眼前の雪風から波間の向こうに遠ざかっていく赤城丸の分身へと視線を送り、無言のままですぐさま雪風へと再び視線を戻す。そして雪風がこれまでにない程の強い決意を秘めている事をその気張った顔から察し、彼女は珍しく鋭く尖った目をそのままに口元を緩めて不敵に笑って言った。
『・・・ふん。よおし、犬。これまでで最も上手な歌い方でなければ、連帯責任で全員罰直にする。それでも良いなら続けろ。』
降りしきる雪にも負けぬ冷たい言い方で声を放つや、神通はそっぽを向くようにプイっと顔を赤城丸へと戻した。しかし雪風はそんな上司の冷淡な言動に臆する事は無く、むしろ任せろとでも言わんばかりに胸を張って再度の号令を発する。すると少女達は駆け足で雪風を先頭にしてその背後に各駆逐隊毎に整列し、いつもポッケに忍ばせている自分達を示す歌の歌詞が書かれたカードを左手に握った。その歌詞は今まで見てきた単なる字の羅列ではなく、自分達へと繋がる今は亡き先輩達の生き様を、そして同時にそこにあった理不尽に覆われる死に様を、彼女達一人一人の脳裏に蘇らせる。
当時もこんな雪が降っていたのだろうか?
誰という事も無くそんな言葉を胸の中で過ぎらせ、今まさに波の果てに去っていく赤城丸が語ってくれた事でありありと頭の中に描かれるその光景を現代に紡ぎ出すべく、彼女達は雪風の号令に併せて左手を前に突き出し、その場での足踏みの音を伴奏として雪降る呉の波間にその歌声を木霊させ始めた。
『艦種歌、歌い方ー! 始め!』
月は隠れて海暗き
二月四日の夜の空
闇をしるべに探り入る
我が軍九隻の水雷艇
目指す敵艦沈めずば
生きて帰らじ退かじ
手足は弾に砕くとも
指は氷に千切るとも
朧げながらも星影に
見ゆるは確かに定遠号
いざ一うちと勇み立つ
将士の心ぞ勇ましき
忽ち下る号令の
下に射出す水雷は
天地も震う心地して
目指す旗艦に当たりたり
走る稲妻打つ霰
襲わば襲え我が艦を
神はいかでか義に背く
敵の勝利を護るべき
見よ定遠は沈みたり
見よ来遠は沈みたり
音に響きし威海衛
早や我が物ぞ我が土地ぞ
ああ我が水雷艇隊よ
汝の誉は我が軍の
光と共に輝かん
かかる愉快は又やある
既に神通艦より相応の距離をとって呉軍港に背を向けていた赤城丸の分身の舳先。船の命である赤城丸はふらふらとゆっくり舞い落ちる雪を追うように空を眺め、舳先が立てる波の音を聞きながら物思いにふけっていたが、その甲板には微かに45年前の彼女の記憶を呼び覚まそうとする歌声が潮風に乗って流れてきた。思わず赤城丸は舳先の向く方向から振り向き、歌声が木霊してくる艦尾の波間の向こうへと視界を投げる。雪による途切れ途切れの幕のずっと向こう、ほんの僅かに特徴的な4本煙突の艦影がぼんやりと浮かぶ波間から、かつて赤城丸が教え子とした者達の意志を継いだ事を確信させる決意の色も濃い少女達の歌声が赤城丸を追いかけてきていた。
『ああ、みんな・・・。んふふぅ、みんなの想い、ばっちゃんは上手く伝えれたみたいだねぇ・・・。これでばっちゃん、みんなにやっと、顔を向けられるねぇ・・・。』
ただただ笑って一人囁くようにそう言った赤城丸の耳には歌声と供に、歌声を奏でる者達とは別な少女達の元気な笑い声が幾重にも重なって聞えてくる。その声に応じるように赤城丸は曲がった腰を少し起して気をつけの姿勢をとると、指先まで伸ばした右手をゆっくりと自身の額の辺りに添えるのだった。
そこにみすぼらしい茶色の外套とほつれも目立つ毛編みの被り物を召した老婆の姿は無く、神通が着ているのと全く同じ濃紺の第一種軍装を身に付けた一人の帝国海軍艦艇の命の姿が在った事を、空高くから放たれて海面へと宙を舞いながら小旅行していく雪だけが見守っていた。