第九四話 「45年の月日/其の三」
砲艦、赤城艦。
時代はようやく呉鎮守府が開庁となった翌年にして、世界にその名を轟かす帝国海軍の浮べる城の群れがまだ「常備小艦隊」と呼ばれていた明治21年。
神戸の小野浜造船所にて摩耶型砲艦の末の妹として、そして帝国海軍初の鋼で出来た軍艦として彼女は生まれた。有名な三景艦等とはほぼ同年代にして、その常備排水量は1000トンを下回るというまことに小さな艦体ながら、舳先で掻き分けてきた白波は常にこの日本の針路を決める重要な海原にあり、誕生から数年後には帝国として初の対外戦争となった「明治27、8年の役」、次いで西洋列強の国旗が連なる中での任務となった「北清事変」、さらには当時世界最強とも呼び声の高かった軍事力を持つロシアと衝突した「明治37、8年の役」と、まさに明治の日本が直面した修羅場に海軍艦艇として真正面から挑んできた経歴の持ち主である。
その戦ぶりもまた海軍艦艇としては壮烈無比にして勇名を馳せ、日清戦争では大破しつつも優勢な清国艦隊と渡り合って僚艦を守りきり、その活躍は軍歌「赤城の奮戦」として海軍軍人どころか国民からも大変な賞賛を得ている。
ただ、続く日露戦争時は既に小型旧式な身の上によって第二艦隊付属の特務艦として参加したのだが、開戦から三ヶ月ほども経った頃に同じ第二艦隊付属を構成し、尚且つ同じ小野浜造船所で生まれた海軍艦艇としての先輩である大島艦と衝突事故を起して、不運にも大島艦は沈没。その数日後の南山攻略戦にてロシア軍が退却するきっかけとなる艦砲射撃を担当して武功を立てたが、先の戦争の様に輝かしい武勲と多くの犠牲の両方をその経歴の上でさらに増やす事になる。
だから戦後の彼女は自身の武功を誇る真似は一切する事は無かったが、既に日露戦役の始まる前から旧式艦とされていた手前もあって、戦における得る物と失う物の両方を知る艦魂として戦後は帝国海軍艦魂社会での良き教育者として余生を過ごし、意図せずその点でもまた後輩達にその名を轟かすのだった。
もっとも戦後しばらくすると帝国海軍は戦力の更新を推し進める為に旧式艦の処分を相当の数で行い、この際に赤城艦は『解体してクズ鉄の再利用にでも。』という形で民間に売却される事になった。なまじその艦体は鉄ではなく鋼であるが故に良質な資源に転化するのだろうと当の赤城自身も思っていたりしていたのだが、そんな赤城艦に値と売却済みの札を付けた人間はそのさらに先へと考えを進めていた。なんとなんと鋼製の丈夫な身体が功を奏し、赤城艦はとある汽船会社へと買い取られて民間の貨物船として生きる道を与えられたのである。「武人の蛮用」も甚だしい海軍艦艇として過ごした末に民間へと転籍するのは非常に珍しく、赤城艦は転職の為に人生初のお船としての大改装も経験。貨物を扱う為のデリックポストを新設し、永く甲板に備えられていた大砲に始まる物騒な代物を全て撤去し、見違える程に変わった艦影の中で昔日と共通しているのは艦首の衝角のみであった。
また、お船としての名前も旧来の名に日本の船らしさを滲ませる一字を付け加えただけで、その新たな名前はそれから約30年も経った現代においても尚、川原石港にて岸壁に接岸する彼女の分身の舳先の辺りに白い塗料で大きく記されているのだった。
『あ、あ、赤城丸・・・!?』
『んふふぅ。そうよぉ。もうとっくに海軍からは引退してる身だから、赤城じゃなくて赤城丸だねぇ。赤城って呼ぶのは、その二代目さんだけにした方が良いんじゃないかねぇ。』
寒空の下の神通艦。
それまで神通を始めとする二水戦の少女達が教練に励んでいた艦尾甲板は、四方八方より流れてくる冷たい風が目立つ為に立ち話には向かない。おまけにその話し相手が帝国海軍艦艇の先輩にして、大変に有名な砲艦、赤城艦の艦魂とくれば尚更である。故に神通はすぐさま教練を中止して武技用具納めを指示し、もう一つの椅子を自身の分身の中から引っ張り出して煙が靡く4番煙突の根元へと移動。霰に命じて淹れ直したお茶が入った薬缶を準備しつつ、煙突より放たれる熱気にて暖を得ながらの会話の場を設ける。
『中尉さん、よくばっちゃんの名前が解ったねぇ。見たとこ、ばっちゃんが引退してから生まれたみたいだけどぉ・・・。』
『はっ。赤城丸様の事は敷島の大親方から何度か聞いた事がありまして、私はずっと呉鎮に籍を置いていたので、実はこれまでも何度か瀬戸内の中ですれ違った事もありました。しかし、こうして話すのは恐縮です。』
煙突をすぐ傍にしてお互いに向かい合う形で椅子に腰掛けた神通と赤城丸。滲んだような色合いの茶色の外套に身を包んだ地味な服装の老婆である赤城丸は、もう垂直に起こす事も出来ない腰が椅子に腰掛けても変わる事が無く、咄嗟に神通が差し出した竹刀を杖代わりにしてやや前傾した姿勢で座っている。対して尊敬するお師匠様がこの世に誕生する以前より帝国海軍にて励んできたという大先輩を前にした神通にあっても、いつもの様にふてぶてしく脚を組んでふんぞり返るような座り方は出来ない。くっつけた両膝の上に両手を乗せるという慣れない姿勢で椅子にちょこんと座り、意図せず老婆と同じ様にやや前に腰を折って緊張感の篭る声を上げる。その姿は部下の少女達にとしては初めて目にした上司のビビる様であり、神通と赤城丸を中心に扇状になって甲板上に座り込んだ少女達は、赤城丸より差し入れてもらった饅頭を頬張りながら神通の様子を物珍しげに眺めていた。
その一方、かつての職場である呉軍港の波間へ客人として来訪するも密偵の疑いをかけられた赤城丸は、知らない者ばかりだから仕方ないといった感じで至って気にもしていない様子。それどころかかつては自分も袖を通していた軍装が形を変えずに後輩達にも身に付けられ、しかも既に引退して30年近く経た現代においても自分の来歴を知っていた者がいた事が嬉しくてならないらしく、細くした瞳と深さを増す口元のしわは彼女の顔にご機嫌の笑みを浮かび上がらせる。
『んふふぅ。ああ、そおぅ。中尉さんは敷島に教えを請いだのねぇ。まあ、民間船になってからの航路は瀬戸内が多かったらねぇ。ばっちゃんもたまに海軍の艦艇は見てたのよぉ。』
老いが陰ろうとも曇りの無い笑みで深く頷きながら老婆は声を返すが、神通は緊張と間延びするその独特の語りに対して応じるタイミングが中々掴めず、些か困ったような表情で首筋の辺りを指先で掻いている。大先輩を前にして沈黙の間を持たせるのは申し訳ないと頭では解っているのに、生来が口下手な神通は上手く言葉を紡ぎ出せない。唯一の救いはその間に霰が気を利かせ、赤城丸の手にした碗に煙突の熱で程よく温まったお茶を注いで沈黙を制してくれた事だった。
『有難うねぇ。』
『あ、はい。少し熱いどすさかい、気を付けてお飲みください。』
裏声の様な高さでゆっくりな口調の霰の声は赤城丸のそれと似たような雰囲気を持ち、中々ぶっきらぼうな物言いを修正できない神通よりはずっと会話が自然である。赤城丸としても話しやすい印象で気分が楽だったのか、無理の無い動きでお茶の入った碗を唇に添えてゆっくりと傾け始めた。
『んん。若いのに美味しいお茶を淹れるねぇ。』
溜飲した後に入れ替わりで出てきた赤城丸の声に霰は軽く頭を下げてお礼を述べ、必死に脳裏の中で応じる為の言葉を選ぶ上司の繋ぎ役を意図せず担う。神通から見れば霰は艦齢の面でも、艦魂としての外見の面でも10歳以上は年下なのだが、普段の生活の中でそんな上司を始めとする目上の人物という者を見る事が多い霰にとって、現代に生きる偉大な先達である赤城松の話相手となるのはさほど苦でもない事だった。それに決して口には出せないが、些細な事で怒りの沸点がいとも簡単に限界を超え、自身の意志と教えの伝達に肉体言語を躊躇無く常套手段とするような神通に比べたら、まるで春先ののどかで柔和な潮風がそのまま人格となったような赤城丸は仕える側の者としては大変に接するのが楽な人物である。そもそもがこの霰は同じ二水戦の仲間でもある雪風などとは違って乱暴な物言いとは無縁な事もあり、彼女は声を発するのに際していつもの様に言葉を選ぶ必要がない赤城丸との会話を一切の力みを抱かずにこなしてみせるのだった。
赤城丸もまた、どこか間が抜けた声変わりも終わっていない霰の声とその10代後半の幼い容姿にも関わらず礼儀正しく失態も無い応接を終始行う事に大変感心し、その評価は本人だけでなくその上司にも波及して行く。傍らにてお地蔵様の様にニコニコと控える霰、そして自身と神通を中心にして半円状になって辺りの甲板の上に座っている少女達を一瞥し、そこに目立つ輝かんばかりの若さと、あどけなさが残る顔ばかりながらもしっかり駆逐隊毎に列を成して並んで座るという躾の良さを褒め称えた。
『みんな若いのに行儀も良くて立派ねぇ。中尉さんが教えてる子達なのぉ?』
『はっ。こいつらは全員、私が戦隊旗艦を務めている第二水雷戦隊の隷下の駆逐艦の者達です。この2年ほどの間に生まれた最新鋭の駆逐艦なのですが、ご覧の通りで青二才ばかりです。』
教育者として側面を尋ねてくる赤城丸よりの視線が、それまで考えが纏まらなかった神通の意識に芯を持たせる。神通は美保関事件を契機として積み重ねてきた経歴と独自の想いが良くも悪くも非常に強いが故に、多少荒っぽい姿勢であっても部下を鍛えるに際して注ぎ込む信念は傍目から見ても生半可な代物にはなっていない。赤城丸と雪風が現れる直前にまだまだ先輩方の名前も覚えて切れていない天津風という新人を手加減無しに叱っていたのもそうだし、その歓声と勝利が記憶に新しい柔道の大会にて霞の健気な心に涙し、大勢の視線が集中する中で恥も外聞も無く抱きしめてやったのもまた同じ事である。そんな事からちょっと辛辣な部下達の評価を伝えた彼女の声は先程まで思考の中で言葉を選んでいた時とは全然違い、どこか水を得た魚のようにハキハキとしたいつもの調子で赤城丸に応じてみせた。
『そうなのぉ。みんな顔つきも凛々しいし、こうやってばっちゃんと中尉さんとで話をしてる間もおしゃべりしない所なんて感心するわぁ。よく物事を教えてもらってるのねぇ。』
『はっ。恐縮です。』
帝国海軍の者としても艦魂としても大先輩である赤城丸より頂いたお褒めの言葉は、神通の鼻をみるみる高くさせていく。辺りでその会話の様子を見守る部下達もすぐに上司の顔色が明るくなっているのに気付き、とりあえずは自分達の未熟さを咎めて怒られる心配は無いのだろうと一安心。前列で饅頭を頬張る雪風もまたようやく先程上司から受けた折檻に纏わる怯えを取り除く事ができ、ホッと胸を撫で下ろして餡子の甘さが一際奥歯に染みらせる。
それに伴って雪風で無くともこの赤城丸の経歴を知る者なれば、やはり軍歌にも謳われた程の彼女の戦ぶりを直に聞いてみたいのが率直な所で、胸の奥から起こる高揚感に抗えず早速雪風はその事を尋ねてみる。
『あの、あ、赤城丸さん。アタイ、日清戦争の時の赤城丸さんの事を教えてもらいたッス。』
『こら、犬・・・。』
以前に朝日とその場を供にした際も神通は部下の不用意な発言を戒めていたが、今日は声こそ放ったもののそれ以上のお叱りの言葉がすぐに出てくる事は無い。なぜなら当のこの神通もまた、やはり赤城丸の経歴を知っているが故にその事を聞いてみたいと願う者の一人なのである。彼女自身は実際に銃弾が飛び交う支那戦線に派遣された過去もあるのだが、如何せん支那戦線での海軍艦艇の任務は陸戦隊や陸軍部隊を運んでの上陸の支援、港湾や航路を封鎖する等といった海上警備が殆どで、艦艇同士が決戦に等しい戦闘を行うような事態は皆無であった。
だがしかし、神通としてはそもそもが二水戦という海上戦闘部隊を率いる手前もあり、出来るならば参考の意味でも実際に軍艦同士でのドンパチの事情をその耳に入れておきたい。その気持ちが少なからずあるが為に、神通はやんわりと雪風の発言を制しつつも、いつもの様に短い導火線に任せてお叱りの形で戒めるような対処ができなかったのだ。
すると柔和な老婆、赤城丸は眼前の釣り目を共通点とする師弟の様子に幾度も頷き、彼女達が欲する話題を快く語ってくれる事を示した。
『あぁ、清国との戦の話ねぇ。構わないよぉ、何でもばっちゃんに聞きなさいぃ。』
その言葉にちょっと驚きの表情を浮かべてみせる神通だがそれは偽りで、内心は赤城丸のこの返事を待っていた。なにせ神通の師匠筋を辿った先にいるのは佐世保にて存命の敷島までであり、日本海海戦に代表される日露戦役のお話は何度か聞いた事はあっても日清戦争までに遡るお話は初めて耳にする機会なのであるから無理も無い。ちょうど部下の申し出と赤城丸の快諾も重なったのなら、この際に当時の事を己が知識としても取り込みたいというのが神通としても率直な所だった。
また、尊敬の念を示す目上の人物には結構礼儀を守り、謙虚な姿勢を貫く彼女であるから、話題をスラスラと投げて赤城丸からの答えを導き出す役も今日は部下の雪風をもってして事に当たれる。そういう意味では本日のこの赤城丸の来訪は神通を含めた全ての二水戦の艦魂達にとってとても都合が良く、唯一絶対の鬼教官である神通も含めたお勉強会がその場に展開されるのにさして時間は掛からなかった。さしずめ「私立神通学校」ならぬ、「初代赤城塾」の始まりである。
煙突のほのかな温もりに暖を取り、寒空の潮風と曇天の昼下がりの下での青空教室。少し天気には恵まれていない所がちょっと残念ながらも、雪や雨の降る気配はまだ無い上に風もまた荒れ狂う程の流れは得られていないから甲板の居心地はそれほど悪くは無い。霰の用意してくれたお茶で赤城丸は喉の渇きを満たし、一息ついている間に雪風や霞といった割と積極的に声を上げれる少女達が質問を投げ、崩れぬしわだらけの笑みをその都度向けながら赤城丸は自身の記憶を惜しげもなく語っていく。
まず最初に出されたのは声を放つに当たって他人に遠慮しない性分の雪風からの質問で、当然の様に初代赤城艦の名を日本中に轟かせた際のお話。すなわち日清戦争時の海の天王山である、黄海海戦の際のお話であった。
『赤城丸さんが海戦中に付属の特務船を守ったって話はよく聞くんスけど、赤城丸さんはなんで単艦で護衛任務をしてたんスか?』
『んふふぅ。あの頃はまだ連合艦隊なんて勇ましい名前もお飾りが本当の所でねぇ。大きな艦隊は松島さんが率いてた常備艦隊と、スループっていう艦種の葛城が率いていた西海艦隊の2個艦隊しか無かったのよぉ。満足な戦隊も吉野が率いてた戦隊くらいで、水雷艇隊もまだ艦隊の付属程度でしか無くてねぇ。その時のばっちゃんは西海艦隊に所属してて、民間から徴傭された西京丸に海軍の偉い人間さん達が乗って現地指導するっていう話があったから、その護衛の役にたまたまばっちゃんが選ばれたのよぉ。』
戦のお話一辺倒ではなく当時の仲間達のお話をする事ができた為か、赤城丸の笑みと声の明るさの度合いが少しその濃度を増す。友人のように話題に挙げた名前の数々は神通や雪風達にしたら古ぼけた写真でしか見た事が無い者達の名前ばかりで、聞けばこの当時に赤城丸と同じ西海艦隊に属していた者の中には、現代ではその大きな艦橋と流麗な艦体で浮かび上がらせる美しい艦影、そして進水の様子がラジオで実況中継された事によって最も国民からの人気を得る巡洋艦である高雄の先代、神通を始めとした偵察巡洋艦と呼ばれる二等巡洋艦の始祖である天龍の先代、そして雪風を始めとした少女達もよく知る怖い怖い上司のお師匠様である金剛の先代など、実にそうそうたる顔ぶれであったらしい。
またこの時、神通はちょうど名前が挙がった者達を耳にした中で現代においても継がれたもう一隻の名がある事に気付き、そこから見える呉の波間のど真ん中を指差して赤城丸にその事を伝える。もちろんそれは今から3ヶ月前に進水したばかりで、ただいま鋭意艤装中の帝国海軍最新鋭戦艦である大和艦の事だ。
『あらぁ、そうなのかいぃ。あのおっきな艦は大和っていうのねぇ。んふふふぅ。随分とまぁ、大きくなってしまったねぇ。』
さすがに神通はもう既に民間の船舶である赤城丸の事情を考慮して艦名以上の情報を口に出さなかったが、それでも赤城丸にとってはかつて生死を供にした仲間の名前がしっかり受け継がれた喜びが胸の中を満たすのに十分であった。それもこの場にいる者の中で最も長く生きて来た赤城丸とて見た事も無いような巨艦がそうなのだと言われると、彼女としてもなんだか時代の移り変わりを感じると供に、かつての仲間との差が余りにも開いている事に可笑しさを覚えてしまう。次いで感心も混じった音色で溜め息を放ちつつ口にした赤城丸の率直な感想は、辺りにいる少女達や滅多に笑わない神通にも笑みを与えてくれた。
その勢いに乗って雪風は単刀直入に、有名な初代赤城艦の活躍ぶりを直接本人に訊いてみる事にする。
『赤城丸さん! 清国の艦隊と戦った黄海海戦って、やっぱ激戦だったんスか? あの頃の海戦って砲戦距離も短くて至近距離の打ち合いだって聞いたんスけど、赤城丸さんはそんな中で特務艦を守りきったんスか?』
『さてねぇ。ばっちゃんはあの時は無我夢中だったからねぇ。』
中々にのほほんとした赤城丸は雪風の輝く大きな釣り目に対してもそう言うだけで、出会った時とちっとも変わらぬ朗らかな笑みを浮べている。しかしそのつぶらな瞳が眼前の雪風を始めとした武勇伝を待ち侘びる少女達の他に何かを眺めている素振りは無く、いわゆる遠い目という状態をせずに若者達の顔を端から順番に一瞥していくだけだった。
すると大先輩の武勇伝にあやかる機会を得て、170センチを超える体躯と10歳以上も歳を重ねているにも関わらず今や辺りの少女達と同じ童心になっている神通が、椅子に座ったままやや腰を折って赤城丸に少し顔を近づけるようにして口を開く。
『し、しかし、赤城丸様。私は敷島の大親方より、赤城丸様が黄海海戦の際に優勢な敵の艦隊に包囲を受けた中で、赤城丸様と西京丸様が思い切って最寄の敵艦の懐に飛び込み、渾身の一発を浴びせて敵が怯んだ隙に包囲から見事に脱出したのだと聞いた事があります。大変な傷を負われても尚、あのような判断をできたのは見事だと、敷島の大親方は赤城丸様のお話をする都度、大層感心しておられました。』
突如として自身に教えを与えてくれた恩師の源流である敷島の名を出して神通は赤城丸の記憶を聞き出そうとするが、赤城丸にあっては敷島という名の艦魂はよく知っている間柄である。敷島の分身は既にここ10年以上も佐世保軍港のとある桟橋で海兵団練習艦として余生を過ごしている身だが、日露戦役を控えてこの日本へとやって来た当時は世界最強の呼び声も高く、貧乏島国の海軍が装備できた事自体が奇跡とも受け取られるようなワールドクラスの戦艦で、ちょうど赤城丸はそんな現役バリバリの頃の敷島を帝国海軍艦艇の先輩格としてその目で見てきたのだ。
大正時代の末頃に生を受けた神通は大親方の尊称で奉る敷島の現役時代などは一度も見た事が無い為、それを知る上でもこの赤城丸には尊敬の念が募るという物。赤城丸の眼前には年甲斐も無く、まるでちょうど赤城丸の足元で胡坐をかく雪風と同じ様に吊り上がった目を輝かせる神通の姿があるのだった。
『んふふふぅ。そうかい、そうかい。敷島がそう言ってたのぉ。変わらないねぇ、あの子はぁ。』
鬼の渾名を頂く神通をして「帝国海軍艦魂社会の鬼の総大将」とまで言わしめる敷島を微塵の憂いも無く呼び捨てる赤城丸の言動は、その経歴の中で彼女が敷島に遠慮するような気遣いを用いなくても接する事の出来た者であったというその過去をよく物語っている。
部下の少女達にあってもその驚きはそれぞれに伝わっており、その理由は今は呉にはいない横鎮所属の二水戦隷下駆逐隊である8駆の面々が昨年まで佐鎮所属であった事である。嘘か本当か「目を合わせたら死ぬ」等という訳の解らない人物評と噂が実しやかに囁かれる程の恐怖は折り紙つきで、180センチを超える長身に西洋人独特の広い肩幅というなんとも立派な体躯のあの金剛を、時には倒れこんだままの状態で踏みつけるくらいに苛烈な教育でもって育てたのだという。おかげさまで大変に厄介な性格となった教え子の血が巡り巡って今や少女達が頂く上司に引き継がれているのは少々困り物だが、そんな怖い艦魂の源流もこの赤城丸にかかっては後輩の一人の思い出にしか過ぎないという事に、雪風を始めとする少女達はその凄さを良く知るのだった。
もっとも当の赤城丸はそんな艦魂社会の鬼の系譜も、そして神通が語ったかつての自身の戦ぶりも気を乱すような事は無い。特徴的な裏声の高笑いを漏らしつつ語るのは、またしても辺りの若者達を焦らすような口ぶりのお言葉であった。
『でもねぇ、ばっちゃんは無我夢中だっただけで、活躍なんて大層な物は何もしてないのよぉ。あの時は艦長さんも死んでしまって、代わりに指揮を取った乗組員の人が冷静な判断をしただけ。ばっちゃんは怪我したのも気付かなかったぐらいだったわぁ。』
なんだか拍子抜けした感もある少女達が緊張の糸を緩めて溜め息を漏らし、神通もまた師匠伝いに耳にしていた事の真相を聞けずに戸惑いの表情を薄く浮かべる。
するとそれまで聞かれてから答えるだけだった赤城丸が初めて自ら声を発し、神通とその部下達に質問を投げた。
『ねえねえ、まだ駆逐隊では艦種歌は歌っているの?』
赤城丸が口にした艦種歌とは、先日の柔道大会においても歌われた現代の駆逐艦達の持ち歌。いつの頃からか水雷を主武装とする艦艇の艦魂達によって歌い継がれて来た歌である。かつては砲艦という艦種であった赤城丸であるから彼女は水雷にて戦をする者等ではないのだが、どうやらその歌の事はご存知らしい。
神通は既に50年近い年月を生きている身なれば当然だろうと考え、大先輩の問いに答えた。
『はっ。軍歌演習にて必ず歌っております。』
『そうかいぃ。是非、聞かせてくれないかねぇ?』
客人にして他ならぬ帝国海軍の艦魂としての先輩の所望とあれば二水戦の艦魂達を預かる身である神通に断る選択肢は湧かず、『はっ。』と神通は僅かに口元を緩ませて返事を返すと辺りにて扇状に座り込んでいる部下達にすぐさま号令を飛ばした。
『おい、軍歌演習だ。霰、お前が音頭番だ。』
『はい。・・・軍歌演習! 艦種歌、歌い方用意っ!』
それまで手にしていた薬缶を甲板に置くや霰が声を放ち、仲間の少女達は一斉にその場に立ち上がって気をつけ。次いで各々がポッケに常に忍ばせている歌詞が書かれた手の平に収まるくらいの厚紙を取り出して左手に持つと、その腕を肩の高さでピン前に伸ばした。その直線的な動作によって袖が空気を切る音、続いて起こる踵を揃える音が、静かだった神通艦の甲板上に短く木霊していく。赤城丸はそんな少女達の動きの一つ一つに「規律」や「統率」といった言葉を連想するが、それによって驚きの声を漏らす前に少女達はその場での足踏みと供に彼女の所望する歌を高らかに歌い始め、首尾良く軍歌演習を始めた部下にちょっと安堵する神通を横に赤城丸は瞳を線のように細くしてその光景を黙って眺めるのだった。
月は隠れて海暗き
二月四日の夜の空
闇をしるべに探り入る
我が軍九隻の水雷艇
目指す敵艦沈めずば
生きて帰らじ退かじ
手足は弾に砕くとも
指は氷に千切るとも
朧げながらも星影に
見ゆるは確かに定遠号
いざ一うちと勇み立つ
将士の心ぞ勇ましき
忽ち下る号令の
下に射出す水雷は
天地も震う心地して
目指す旗艦に当たりたり
走る稲妻打つ霰
襲わば襲え我が艦を
神はいかでか義に背く
敵の勝利を護るべき
見よ定遠は沈みたり
見よ来遠は沈みたり
音に響きし威海衛
早や我が物ぞ我が土地ぞ
ああ我が水雷艇隊よ
汝の誉は我が軍の
光と共に輝かん
かかる愉快は又やある
師走も目前の寒さも忘れ、歌声と供に視界へと舞い上がってくる白い息を意に返す事も無く歌う少女達の姿は、これまで朗らかな微笑み一辺倒であった赤城丸の表情に本日初めての変化を与える。歌い終えるや雪風を始めとする少女達は喉に障る冷たく乾燥した空気に少し表情を歪め、『ふう・・・。』と小さく溜め息を吐きつつ客人が座る椅子へとそれぞれが視界を移したのだが、その場にいた老婆は震えも混じる右手の甲でしわだらけの両頬を伝う涙を静かに拭っていたのである。弱く甲板上を流れていく瀬戸内の潮風には僅かに赤城丸の涙声が混じり、慌てた神通が思わず椅子を立つや赤城丸の傍らへと駆け寄って声を掛ける。
『あ、赤城丸様・・・! いかがなされました・・・!?』
『ううぅ・・・、うぅう・・・。』
ほろほろと滴る涙の理由が解らないのは上司だけではなく少女達にあっても同じで、何か自分達に粗相があったのだろうかと思って誰という事も無く『赤城丸さん!』と声を上げながら赤城丸の椅子の周りに群がった。
すると赤城丸は涙で震える声で、幾度にも及ぶ神通の心配の言動に応える。
『・・・み、みんな、本当にそっくりだねぇ・・・。う、ううぅ・・・、あの子らもみんな、こんな可愛い顔ばっかりでねぇ・・・。』
『あの子、ら・・・?』
神通が思わず聞き返すまでもなく、赤城丸の言葉に示された者達はまだ幼さが残る艦魂達の事ではあっても、今まさに彼女の眼前にて歌を歌った雪風らを指してはいない。涙で歪む赤城丸の視界の向こうに映るのは二水戦の幼い顔に重なる数十年前の記憶の住人達で、今しがた歌われた歌の原点ともなっている者達。それを難なく察する二水戦の者達に囲まれる中で、赤城丸はまだ乱れも目立つ息遣いのままながら、自身の涙の訳をゆっくりと語りだした。