第九三話 「45年の月日/其の二」
呉軍港北側の桟橋に連なる駆逐艦の群れと、それを右舷に眺める形で一隻の小さな民間の貨物船がノロノロと川原石港へと舳先を進めて行く中、軍港南西側の砲塔組立工場や水雷発射場に程近い海上には、めでたく来年度も二水戦の旗艦を務める事になった神通艦が静かに浮かんでいる。
4本煙突に代表される大正生まれの古い艦影は相次ぐ近代化改装を経ていても中々真新しさを目立たせる事はできないが、帝国海軍最精鋭部隊の旗艦らしく威厳と気品を備えた独特の雰囲気を辺りの海面に映す。二等巡洋艦らしい流麗でスマートな艦体も艦橋や構造物が設置された前檣の周りはとても重厚で、線の細さを補うだけの力強さを兼ね備えたその風貌は海軍艦艇の象徴である戦艦にだって負けていない。そしてその力強い風貌を見事に引き継いでいるのは、この神通艦の命である神通にも当て嵌まる事だった。
『どらぁあッ!!』
今にも雪を放たんとするかのような分厚い銀色の雲も多い空を、力任せに一気に切り裂く怒号。その音量と迫力によって水面が潮風に催促される事無くざわざわと揺れる中、神通艦の艦尾甲板からは間髪入れずに甲高く震える竹刀の音が発せられる。もちろんその音色を奏でた竹刀が握られた手の先には、鬼の戦隊長である神通のご立腹のお顔。対して竹刀の剣先がビュンと空気を引き裂く音と残像を伴って叩き込まれた先には、神通の部下である柔道着を身に付けた少女の小さいお尻があった。
『ぐぁあっ・・・!!』
二水戦においてはいつもの光景であっても、この上司によるお仕置きの辛さは生半可な物ではない。衝撃と電流が走ると供に少女のお尻からは一瞬感覚が失せ、戻る頃には津波のようにヒリヒリとした鈍痛が打ち寄せてくる。余りの痛さに少女は思わずその場にしゃがみ込み、涙目になりながら背中に回した両手でお尻を擦り出す。だが即座にその少女はその場を同じくして同じ柔道着姿である他の少女により腕を掴まれ、否応無く強引に立たされて上司に向けて身体を正対させられた。
『ほら、ちゃんと立って、天津風。』
『う・・・ぎぃ・・・。』
痛みを堪える天津風と呼ばれた少女は強く噛んだ歯を唇の隙間から僅かに覗かせ、立ち上がらせてくれた少女へ満足に返事を返す事もできない。しかもやっとの事で相対した二人の上司は、例えその様子が姉妹による助け合いの場面であっても容赦の無いお叱りを飛ばしてくる。
『どかんか、初風! 妹だろうが新兵だろうが私の命令無く助ける事は許さん!!』
『は、はいぃっ・・・!』
鋭く吊り上がった神通の眼光とお怒りの声に慄いて即座に返事をし、未だに苦悶に歪んだ泣き顔の少女を気遣いながら腕から手を離したのは、二水戦所属の第16駆逐隊の一員である初風。今年の半ばぐらいから二水戦に配属なった駆逐艦の一隻、初風艦の艦魂である。姉の雪風よりもまだ持っている経験は浅く、16歳か17歳くらいの少女像という点では先程まで腕を抱えて立ち上がらせていた天津風と呼ばれた少女と何も変わらないのだが、天津風と違って曲がりなりにも二水戦に属する多くの艦魂の一員として頑張ってきた経歴を彼女は持つ。先月の観艦式にも二水戦の者として参加しているから怖い怖い神通という上司に対する免疫も多少は持てているのだが、如何せんこの神通の存在が恐怖の代名詞として大き過ぎる故にその指示には反論できない。今しがた放たれたそのお言葉にあった様に、例え目の前で涙目となっている天津風がつい1週間程前に同じ駆逐隊へと編入された実の妹であったとしてもだ。
やがて初風が切り揃えた前髪の奥で心配の眼差しを浮べながら数歩下がると、お尻の鈍痛に上半身が幾分傾いた天津風の前に上司がツカツカと歩み寄ってくる。次いで眼前の神通の顔をまともに見れない天津風に浴びせられた声は、彼女の生涯では初めてのお仕置きに続く初めてのお叱りの言葉であった。
『お前、新兵の分際で初風達の教練の最中によそ見してるとはどういう了見だ!!』
『ぅ、す、すみませぇんっ・・・。』
『同じ戦隊、それも同じ16駆なら目を向ける先も同じにせんか! お前一人が隊列を乱しでもしたら戦隊全員が戦死になるんだぞ!』
小さな声で天津風が詫びの言葉を放つも見事に神通の大きな声に掻き消され、それと同時に天津風は華奢な肩をビクンと震わせてボロボロと涙を溢す。こうして彼女が怒られる事のそもそもの発端は、甲板にて繰り広げられる柔道の教練にておぼつかない自分の乱取りの番が終わった事に気を緩め、初風を始めとする先輩らが入れ替わりに乱取りを始める最中に波間の一角に短い休息として視線を投げていただけの事なのだが、先輩達を指導しながらも神通はそんな新兵の様子を見逃してくれなかった。即座に『この馬鹿がー!!』と叫ばれてハッとした天津風だが時は既に遅く、むんずと奥襟を鷲掴みにされてみんなの前に連行された末に今しがたのお仕置きへと繋がっているのだ。
しかもまた最近の上司は、天津風にとっては初風と同じ実の姉にして同じ16駆を組んでいる雪風の問題児っぷりに、その機嫌を大いに損ねてしまっているので具合が悪い。天津風はすぐさま手加減無しのお叱りの咆哮を頭から浴びせられ、げんこつに続いて上司よりお尻を竹刀で思いっきりぶっ叩かれてしまった。そして彼女の生涯における初めてのお仕置きは、激痛と恐怖の言葉以外を天津風の意識に現す事は無い。神通の唇から砲声のような声が漏れる度に彼女は肩をすくめ、完全に気圧されて謝罪の言葉を発するのも次第に出来なくなってくる。
初風を始めとする天津風の仲間達は天津風をとても可哀想に思って眺めていたが、その心配が上司である神通に抗える度胸へと昇華するまでには至らない。それぐらい二水戦の少女達が恐れているのが、二水戦旗艦の命たる者である神通なのだ。
ただこの場に居る10人近い少女達の中で、18駆所属にして未だ捻挫が完治していない故に松葉杖を伴う霞と神通の傍らに常に控える従兵の霰は、お互いに現在の二水戦における最古参の者として、本気で怒った神通がこんな物ではない事を肌身を通して知っている。
神通がその人柄を幾分変えた明石との出会いに次いで、ちょうどその時に今の天津風の様に新兵として二水戦へ配属されてきた霞と霰。思い出せば既に1年以上前の事であるが、その出来事よりも以前の神通は怒ったら最後、躊躇無しに顔を殴るわ鼻や歯が折れるまで踏みつけるわと、その凶暴さは尋常な程度ではなかった。もちろん今でも怒ると非常に怖い人柄だし、身体で教える事を自身の持てる一番の教育姿勢としている所はちっとも変わっていないのだが、初風に対しては終始げんこつと怒号とお尻への一撃以上の制裁を科そうとはしない。それは鬼の戦隊長っぷりを前面に押し出して部下への怒りを示していながらも、神通自身がそれでも尚自分の言動に理性という枠を当て嵌めて意識的に自分を抑制しているからに他ならず、霰と霞はそんな上司の胸の内をなんとなくだが察する事が出来ていた。
やがて神通はご立腹の色合いの濃い表情をそのままにしつつ竹刀を肩に乗せて腕を組み、先程よりは遥かに静けさの纏われた声で眼前にて泣きじゃくる天津風に語りかける。その姿には「これ以上もう部下に体罰を与えるつもりがない。」という神通の意志が示されているように、霞と霰には思えてならなかった。
『良いか、天津風。二水戦には仲間に合わせる事ができない奴も、合わせるつもりが無い奴もいらん。私達二水戦は所属する全員が意識を一致させた上で、私の思う通りの戦をする部隊だ。例えどんな事であっても反抗する事、怠ける事、甘く見る事は絶対に許さん。教練中であったなら、私が〝教練終わり〟と言うまでは休憩なぞ無いと思え。二水戦での信号ラッパは私の声、お前達が見るのは私の指が向く先、そして私が掟だ。解ったな?』
『ひぐっ・・・、ふ、ふぁぃ・・・。』
神通の声色から怖さをそのままに勢いだけが薄れて行くも、天津風は頬を伝う涙を止める事が出来ずに俯いて弱々しい返事を返すのみ。小さな手で抑えたお尻もまだ熱さと鈍痛に支配されて感覚は無く、やや曲がった背筋を直して上司から教えを請う事などは彼女には到底できない。その上で姉を始めとする仲間達による助けも得られないとなれば、まだまだ未熟な天津風には泣く以外の選択肢が無かった。
その前面にて仁王立ちする神通は慰めの言葉の一つもかけてやらず、鋭角のみで構成されたひし形の瞳が流線へと変化する事も無い。そんな上司の姿は怒られた当事者の天津風で無くとも部下に当たる少女達には渾名に違わぬ鬼の様に思えてしまが、それと同時に、ついさっきまでの激しい剣幕、振り下ろされる竹刀に始まるお仕置きの時間が突然として収束した事の裏側を悟る者は、霞や霰を始めとしてそこそこにその場にはいたりもする。叱る側の神通の胸の中はあたら新兵を虐めようという気だけで染まっている訳ではないのであり、むしろこの天津風という若者に相応の期待を掛けているが故により厳しく当たっているに過ぎない。
まだまだ生まれたばかりの泣きじゃくる天津風だが、彼女の分身である天津風艦には試作型の高温高圧ボイラーが艦の心臓として搭載されており、帝国海軍の全艦艇における将来に大いに貢献できる可能性が秘められているのである。そんな天津風艦が仮に戦に赴いたとして簡単に水漬く屍になってしまう様ではいけないのであり、その為に神通は心を鬼にして些細な失態にも関わらず彼女を叱り飛ばしたのだ。決して態度が気に入らないとか、新兵のくせに生意気だ、等と自分の基準でその場限りの憎悪を抱いた訳ではない。11月15日の艦隊編成で二水戦所属とされた時より、この天津風は神通にとって可愛い可愛い部下に他ならないのだ。
故に神通は例え最近の雪風の髪の色にご機嫌が斜めであっても、湧き上がる怒りとほんの少しの八つ当たりの感情をグッと堪えて竹刀とげんこつを控える。同時に天津風が恐怖と激痛によって自分に顔を向けてこれない状態にも関わらず、縮み上がったその小さな心で返事をした事をもってお叱りの時間を正式に終える。その終了の合図は先程の神通の言葉にもあった通り、彼女自身の指示の声であったのは言わずもがなだ。
『・・・よし。もう戻って良い。それと初風。お前もちゃんと妹を気遣ってやれ。犬が居ないなら16駆の最先任はお前なんだからな。』
そう言うと神通は肩に竹刀を乗せたままで踵を返し、背後より初風のちょっと怯えた音色の返事を受けながら甲板の端っこにポツンと置かれた椅子へと歩みを進めていく。怒る時にはしっかり怒るが、それが教育であればメリハリを設けるのが神通という艦魂で、10代後半の容姿を持つ周りの少女達よりも10歳以上歳を重ねた彼女はピタリとお叱りを終えてしまう。神通は怒るととても怖いがその教育の実情とは大概いつもこんな感じであり、厳しさが随分と目立ちはするもののあくまでもダメな事をダメだと伝えるだけで終わりなのである。
しばらくするとまだお尻を擦りながら涙で頬を濡らす天津風を励ましつつ少女達は再び柔道の教練に励み始め、それを細くした瞳に映しながら神通は静かに椅子へと腰掛ける。怒るのも疲れるのか、それとも叱責で忘れていた寒さを再確認したのか、神通は短く疲労感の滲んだ溜め息を放って椅子の背もたれに背を大きく預けた。するとすかさずどこからか薬缶を手にしてきた霰が神通の傍へと歩み寄り、乗組員が食事に使う金物の碗をポッケから取り出して上司へと差し出す。
『戦隊長。お茶、飲みはるどすか?』
『む? おお、すまんな。』
すっかり12月も目前となった最近の呉は海辺の地であってもやはり空気が乾燥しており、そんな中で大声で怒鳴っていた神通は喉の渇きを声に出さずに覚えていたが、もう従兵として傍らに置いて1年以上の時を得た霰はそんな上司の事などお見通し。霞や雪風に比べれば何事にもトロい性格であるが故に運動もお勉強もそれほど優秀な成績は納めていない霰なのだが、その市松人形のような黒いおかっぱ頭の中には大変に他人への気遣いを意識できる優しさを備えているのが彼女の良い所である。最近はこの霰による身の回りのお世話によって神通もだいぶ癒しを得ていて、差し出された碗を早速手にしながら霰が手にする薬缶の事を何気なく尋ねてみる。すると返って来た霰の声は、どこまでも上司への気遣いを忘れない彼女の真心が良く示されている内容であった。
『霰、その薬缶はどこから出した? この寒い甲板になぜこんなにも湯気が出るぐらいに暖められた薬缶がある?』
『はい。教練の準備の時から用意しとったんどす。戦隊長の4番煙突の根元に置いて暖めておいたどす。』
独特の京訛りにして鼻から息を抜きながら放ったような高めの声で言い終えるや、霰は艦首方向やや上方へと顔を向け、神通も碗に注がれたお茶の温もりで手を温めつつ顔を霰と同じ方向へと向けてみる。見れば神通や霰を始めとした艦魂達がいる艦尾甲板より最も近い煙突からは薄っすらと黒煙が一条だけ靡いており、その煙突の下に位置するボイラーが運転中である事を二人に伝える。同時にボイラーの中より発せられる熱気がその煤煙に伴われている為に4番煙突の周りは相応の熱を発しており、霰は保温を目的に煙突の熱遮蔽板の無い部分に上手く薬缶を置いていたのである。夏の酷暑の際は汗を掻きながら眠る程に蒸し暑い環境に陥らせる大きな原因でもあったりするが、寒い冬においてはこうして暖を取らせてくれるお役目も兼ねているのが神通艦における煙突の在り方だった。
無論、この艦の命である神通はそんな自分の分身における煙突の事情は百も承知であり、霰が用意してくれたお茶の温もりの真相を難なく理解してみせる。天津風へのお叱りと同じキッと力の篭った瞳を柔らかくする事は無かったが、それでも神通はお茶の入った碗を唇に添えて喉を静かに鳴らしながら部下の心遣いに深く感謝した。まして織田信長公を深く尊敬する神通には霰のお茶の用意が、なんだか主君の草履を懐に秘めて温めていたという逸話で有名な信長公に仕えていた頃の豊臣秀吉公と重なって見えてしまう。言うまでも無く温もりの根本は霰の身体による物ではないから完全に一致するとまでは行かないが、寒いこの季節に妥協して冷えたお茶を自分に出そうとはしない霰の姿勢は神通を喜ばせるのに十分である。ちょっとお茶の熱さを我慢しつつ神通は唇に添えた碗を大きく傾け、すぐ傍で薬缶を手に視線を向けてくる霰から口元が隠れたのを一瞬の流し目で確認した後、胸の中から込み上げてくる感情を開放してほんの小さく微笑むのだった。
だがその微笑は一瞬にして終わりとなってしまう。
神通としては元より長く微笑を浮べるつもりは無かったのだが、ここ最近の所業から意識せずともそのお顔に怒りの色を与えてしまう声が彼女の耳へと流れてきたのである。
もちろんその声は二水戦の大問題児の物だ。
『あ、戦隊長〜。』
刹那、神通はまたまた鋭角のみで構成されたその吊り上がった目に鈍い輝きを宿し、声に対してその方角を見ようともせずに空の一角を睨みつけて舌打ちをする。同時に些か乱暴な感じで空になった碗を持つ手を傍らに控える霰の前に伸ばし、霰は間近で感じとれる上司のご機嫌にすぐに反応して恐る恐る薬缶を添えた。やがて薬缶の口から漏れる小さな滝の音が響き、自身への気遣いが篭ったお茶の温もりが神通の手を温めていくが、それに反して神通の表情はちっとも柔らかくはならない。小走りで近寄ってきた雪風もそのご機嫌の斜めっぷりがすぐ解ったらしく、かなり気まずそうに唇を歪ませながら上司の真正面へとやって来て気をつけする。
『・・・なんの用だ。犬。』
不機嫌な事この上ないといった表情で声を発する神通の前で、雪風は直立不動の姿勢を取りながら敏感に伝わってくる恐怖によって生唾を飲み込んだ。やはり相当に雪風の髪の色がご立腹なようで、潮風によって僅かに舞い上がる雪風の髪を一瞬だけ見ると神通は眉間に小さくしわを寄せる。だが雪風としてもお仕事としてこの場に来た訳であり、上司の下へと連れてきて甲板の端っこの辺りに待たせている老婆はひょっとすると帝国海軍の敵の疑いもある者。いくら神通が怖くてもそれに乗じて放っておける懸案では無いと考え、少しオドオドしながらも雪風は神通の元へと来た理由を話し始めた。
『せ、戦隊長。じ、実は川原石港に来た奴で、なんかおかしなばっちゃんが来たんスよ。』
『ふん。お前の髪の方がおかしいわ。馬鹿者が。』
『ぐひ・・・。』
取り付く島も無い上司の返答に雪風は思わず小さな悲鳴を漏らす。まだげんこつが飛んでこないだけマシではあったが、何も失態を晒していないにも関わらずこうしてお叱り一歩手前の雰囲気に包まれるのはやはり辛い物である。根がスラリと長身の美人のお姉さんという容姿を持つ上司であってもその怖い顔の迫力が薄れる事は無く、雪風は次の言葉を放つのが億劫になってしまった。
ただそんな上司や自分も含めた帝国海軍に対しての不届き者を見つけたとなれば、失った上司の信頼も取り戻せるかも知れないと雪風は考え直し、怖気づく胸の中に鞭打って早速ここに来た理由を告げてみる。
『あ、あの、それがッスね。なんか民間船の艦魂のクセにやたらと海軍の言葉使う奴なんスよ。例の艤装中の大和艦をず~っと見てたッスし、ちょっと怪しいんスよぉ。』
『ああん・・・?』
どうやら部下が不審な輩を見つけたらしい事をようやく神通も聞き入れ、生来が嘘をついたりはしない雪風の性格を見抜いていた手前もあって神通は部下の報告を疑うような事は無かった。それに神通としても怒りに任せてこういう大事な報告を蹴飛ばしてしまうのは上司としての怠慢でもあると考え、傍らにいる霰に無言で手を伸ばして3杯目のお茶を催促しつつ話題の不審者の事を訊いてみる。
『で、ソイツは今どこに居る? 川原石港か?』
『いや、気の良さそうなばっちゃんなんで、上手く言ってココに連れてきたッスよ。呼んで来りゃ良いッスか?』
『む、連れてきたのか。よし、なら呼べ。』
ようやくマトモな会話の体裁を築き、その上で早速上司より指示を受けた雪風。とりあえずはこれ以上にお叱りの雰囲気を味わう事もないと一人胸を撫で下ろし、『うッス。』と独特の返事を元気良く放つとすぐにそれまで上司を正面に捕らえていた身体を甲板の一角へと向けて口を開く。
『お〜い、ばっちゃん! こっち来いよ!』
口元に片手を添え、もう片方の手を頭上で振ってそう叫ぶ雪風の声に、付近の甲板で柔道の教練を続けていた少女達は何事かと思って神通と雪風へと視線を集める。『何だ、何だ?』と小さなどよめきも起こるその中で神通は相変わらず椅子に腰掛け、3杯目のお茶が注がれた碗を唇に添えて静かにお茶を流し込みつつ、ゆっくりと眼前の雪風が声を張り上げている方向へと視線を流した。
するとそこにはあるのは、僅かに曲がった腰を起す事無く、足の裏を引き摺るような感じで歩く老婆の姿。地味な焦げ茶色の色合いを持つ外套を身に纏い、ほつれも目に付く毛糸の被り物で頭を包んだいでたちで、しわに包まれたつぶらな瞳を細くして甲板にいる少女達をゆっくりと一瞥しながら歩みを進めてくる。背の高さも140センチ台の雪風と大差は無く、些かみすぼらしいその格好も含めて、いかにも小さな民間の貨物船の艦魂という風体であった。
しかしこの時、興味本位の視線が雪風や霰といった少女達から一斉に放たれる中、神通はその瞳を大きく見開くと同時に、その老婆の顔が自身の記憶の中に存在している事に気付く。刹那、神通は咄嗟にその老婆が歩み寄ってくる方向とは反対の方へと顔を向け、たまたまそこに立っていた霰にまだ口に含んでいたお茶を圧搾空気の噴出の様にして盛大に吹き付けた。
『わあぁぁ〜っ・・・!』
『げへっ・・・! ごほっ・・・!』
突如として上司の口よりお茶を吹き掛けられた霰。咄嗟に顔の前に手を掲げてお茶の噴出から身を守るどころか、驚きという感情を覚える間も無くびしょ濡れになってしまい、もう既に神通の口からお茶の噴出が止んだ頃合になってようやく頭を抱えながらしゃがみ込む始末。舞い上がる吐息が白くなるこの季節に頭からびしょ濡れとなった故に、間髪居れずに霰は冬の潮風が持つ寒さによって襲われ始める。『つ、冷たい・・・。さ、寒い〜・・・。』等と呻き声を上げて甲板にうずくまり、唖然とした彼女の仲間達は何が起こったのか理解できずに呆然とその光景を瞳に映すだけだった。
また、霰の横では椅子に腰掛けつつも腰を大きく折り曲げた神通が酷く咳き込んでおり、規律が完全に乱れた吐息が荒々しい咳と化す都度、丸くなったその背中や肩を大きく上下動させていた。
対して雪風は老婆を呼んだのと同時に上司が咳き込み始めたその原因が良く解らなかったが、きっとお茶に咽ただけだろうと思い、とりあえず上司の咳き込みが納まるまでの繋ぎとして間近まで歩み寄ってきた老婆に声を掛ける。
『おい、ばっちゃん。いきなりだけどさ、ばっちゃんはナニモンだ? なんで砲郭とか備砲なんて言葉を知ってんだよ。それにさっき、昔は海軍の船は神戸と横須賀でしか造れないとかヌかしてただろ? なんで民間船のばっちゃんがんな難しい言葉とか、昔の海軍の造船なんて知ってんだよ?』
『んん? んふふふぅ。』
出会った際の気の良い会話からちょっと雰囲気を変えた雪風の声を受けても老婆は微笑を崩さず、ゆっくりとしていて語尾が間延びする独特の声で笑うばかり。その笑い声に少し小馬鹿にされたような感覚を雪風は覚え、頼みの上司が度合いを薄めつつも未だ酷く咳き込んだままである事を勘定して、この場は自分一人でこの怪しい艦魂を問い質して見せるしかないと意気込みを新たにする。大きな釣り目に力を込めて師匠と同じ様な形にし、まるで神通の雰囲気だけを真似るかのようにやや大股で足を開くと腕組みをして老婆の前に構えてみせた。
すると老婆は口元に手を当てて笑い声を押さえ込み、師匠のような鬼にはまだまだなりきれない眼前の雪風の姿を愛でながら声を返す。
『んふふぅ。そうだったねぇ。ばっちゃん、自己紹介もまだだったねぇ。ばっちゃんは昔ねぇ─。』
『こっ・・・、こんの馬鹿がぁあ!!!』
老婆のゆっくりとした口調はようやく雪風が呈した疑問の回答になろうとしていたが、それはやっとの事で吐息に規律を取り戻した神通の咆哮によって遮られる。雪風は驚いてすぐ真横の椅子にあった上司に目を向けるが、そこに上司の姿を捉えきる前に彼女の頭には強い衝撃が真上から降り注いできた。もちろんそれは上司のカミナリ、怖い怖い鬼教官である神通の鋼の如きげんこつだ。
『ぎにゃっ・・・!!』
突然にしていつもより数段は勝った腕力で放たれた神通のげんこつは雪風の頭を押し込み、一瞬気が遠くなった後に雪風はげんこつに押し切られる様にしてその場にうつ伏せに倒れこんでしまう。〝被害担当艦〟などと二水戦の仲間内からは呼ばれている程に雪風は頻繁に上司のげんこつを受けている身で、神通によるお仕置き被弾率は戦隊内でもダントツの一位に輝く。しかし上司が半端な度合いでのお仕置きをしない事は雪風がこの場に現れる前に繰り広げられた天津風への教育風景を鑑みれば言うまでも無く、ちっとも慣れない上司の愛の鞭が続けざまに甲板に横たわった雪風の尻に叩き落される。
『貴様ぁ! 誰がばっちゃんだ、この馬鹿が!! 誰に向かって口を利いてると思ってんだ、おらぁあ!!』
『ぎゃ! いてっ! 痛いーっ!』
つい最近にも茶髪を咎められて散々に尻をぶっ叩かれた雪風。ただでさえかさぶたがまだ残っている彼女の尻の皮はまだまだ脆く、烈火の如く怒ったお師匠様の竹刀の激痛は全く緩和されずに全身を伝わってくる。服越しにベッチンベッチンと乾いた音が雷鳴のように轟き、発信元たる雪風は一瞬にして涙目になって甲板に突っ伏したまま泣き叫ぶ有様だった。
だが持ち前の気の短さからすっかりご乱心となっている神通は、不意に足を引き摺ったような独特足音が近づいてくるのを認めて咄嗟に眼をやる。そこにいるのはお馬鹿な部下が連れてきた怪しげな老婆、もとい現在川原石港にて荷降ろしを行っている民間の古く小さな貨物船の艦魂であるが、そのみすぼらしく覇気が微塵も無さそうな雰囲気に反して神通は表情を強張らせる。どうやら上司とこの老婆が顔見知りらしい事は雪風への怒号によっても示されているが、雪風を含めたその場にいる少女達は普段から尊大にして横柄な上司がこれほど前に態度を整えてしまうこの老婆の正体を一向に把握できない。
ましてや神通は僅かに声を詰まらせるとなんとその場に平伏し、土下座するような格好で甲板に両手を着いてみせる。間違っても部下の前で卑屈な姿勢を見せないこの人の事を考えれば、今の神通の姿は珍しいとかそんな次元の姿ではない。夢でも見ているのだろうか霰が頬をつねり、まだまだ捻挫が治っていない霞が手にした松葉杖を思わず甲板に倒してしまう中、鬼気迫る緊張の表情で唾を飲み込んだ神通が慌てた口調で声を上げる。
『し、失礼しました・・・、〝赤城〟様・・・! こ、この馬鹿者はアンカーに巻きつけてすぐに沈めますので・・・!』
『あらぁ、よくばっちゃんの名前を知ってるねぇ。んふふふぅ。でもそんな事したらダメよぉ、中尉さん。』
涙と鼻水に濡れた顔で目を回す雪風の頭を鷲掴みにして信じられない程に低姿勢を示す神通に、もはや幾重ものしわによって微笑みしか構成できぬ顔の老婆は過剰なほどに頷いて声を返す。どうもこの老婆を上司は相当に偉い人物だと捉えているようだった。
ただこの時、ようやく激しいお尻の痛みによって歪んだ視界に輪郭を戻し始めた雪風とその仲間達は、神通が今しがた呼んだこの老婆の名前を耳にして一斉に目に見えぬ疑問符を頭の上に掲げる。
関東地方の北部に聳える霊峰「赤城山」より頂いたであろう、その船の名。
その名を冠している船を思い浮かべる時、神通の部下である少女達が記憶より検索できる者は、先月の観艦式直前の宴でそれぞれが給仕の任に励んだ際に目にした帝国海軍でも最も大きな航空母艦の一つである赤城艦の艦魂だ。上司の神通とは同じ金剛という名の艦魂に教えを請いだ仲で、巡洋戦艦として金剛の後継となる者だったが故に赤城は妹分として大変に可愛がられ、帝国海軍艦魂社会にその名を轟かす「海軍砲術学校金剛艦分校」の栄えある一期生でもある。厳密には赤城は神通よりも2歳ほど年下に当たるが、そんな事情から神通にしたら兄弟子ならぬ姉弟子に当たる上に師匠譲りのスパルタ教育と荒々しいお互いの気性は二人のウマを合わせてくれた為に、現代では神通が尊敬と信頼を寄せる数少ない先輩艦魂となっているのがその赤城という名を持つ艦魂であった。
そう考えるとこれ程までに神通が畏まる様子も解らないでもないが、雪風を含めた少女達が実際に瞳に映した赤城という名の艦魂は、上司とそれほど見た目の歳が変わらない20代後半の容姿を持つ女性の筈。しかしいま現在、彼女達の目の前にいるのは、僅かに腰が曲がって深い亀裂を思わせるしわだらけの顔をした老婆。どう見ても彼女達の知る赤城という名を持つ艦魂などでは無かった。
『う、ぃ、いででぇ・・・。』
緩く歯を噛んでやっとの事で顔を上げる雪風は、突っ伏したまま僅かに腰を折って上げた尻へ後ろ手に両手を当てる。黒い軍装の下で真っ赤に腫れたお尻はジンジンと鈍痛を発し、雪風の手が触れた感覚も神経を介する事は無い。立ち上がる事はおろか、軍帽が落ちて露わになった頭の上に乗せられる上司の手を振り払う事すらも出来なかった。
もっとも彼女にしたら上司の指示通りに行動したにも関わらず、いきなりげんこつと竹刀の速射を叩き込まれてしまった不条理の原因が納得できない。やがて奥歯を噛んだまま歯の隙間より漏らすようにして声を放ち、雪風はすぐ隣で平伏して奇しくも同じ高さに位置していた上司の顔にその理由を問うてみた。
『す、すぇんたぃちょお〜・・・。ど、どうしたんスかぁ・・・? そ、それに〝赤城〟さんて・・・、こ、この間の新しい艦隊編成で艦隊から外れて、い、今は本籍の横鎮なんじゃ・・・?』
企図せず背後にて立ち尽くす仲間達も抱いていた疑問を代弁する雪風に、神通は鷲掴みにしたままの雪風の頭を甲板に埋め込むようにして下げさせ、彼女達の疑問が勘違いである事を即座に伝える。その最中にも老婆は相変わらず寒い潮風の流れの中に優しげで暖かな微笑を灯し、自身の正体をようやく知って驚愕する少女達全員の顔を嘲笑うように眺めて楽しんでいた。
『馬鹿者が、そりゃ〝二代目〟だ! この艦魂は〝初代〟の赤城さんだ!』
『え・・・、しょ、しょだぃい・・・?』
『ん〜ふふぅ。初代って言っても、海軍に所属してたのはもう30年くらい前の事だけどねぇ。』
『『『 ええええー!! 』』』
寒空を覆う銀色の雲を切り裂くような少女達の叫びが木霊し、次いで神通に促されて少女達は神通と雪風のお尻を拝むような形で整列すると一斉にその場に平伏。帝国海軍の礼式ではこんな礼式なぞ規定されておらず、彼女達の師を勤める神通も教えた事なぞ無かったが、全員一様に老婆への正体を察すると同時に尊崇と威厳を抱いた為、打ち合わせもせずにまるで中世の武士がとる臣下の礼の如き光景を作り出したのだった。
なぜならその自称を〝ばっちゃん〟とするこの老婆。かつては彼女達を含めた帝国海軍所属だった艦艇の命であり、その芳名は軍歌としても歌われた程の経歴を持っているのである。
老婆の名は、赤城。
今年で創立68年に及ぶ帝国海軍が初めて戦の海へと軍艦旗を進めた際に、連合艦隊の名の下に属していた立派な帝国海軍艦艇の内の一隻。
すなわち彼女は摩耶型砲艦4番艦、赤城艦の艦魂なのであった。