第九二話 「45年の月日/其の一」
昭和15年11月24日。
昨日の新嘗祭の余韻も新しい呉海軍工廠は、工員達もそれによって操られる各種機械も元気一杯の声を上げてお仕事に邁進する。工廠のお仕事をお手伝いする工作艦の朝日艦、明石艦にあっても賑わいぶりは同じであり、艦体に設置された大小の起重機を桟橋と甲板に往復させて資材の搬入や物品の整備補修が行われていた。寒い中での露天作業場でも工作科の乗組員達が汗を流し、寒空を舞いながら足場を探すカモメ達もその喧噪に物怖じして今日は両工作艦のマストや鋼索には近づく事すらも無い。
ただ明石艦にあっては新しく搬入した工作機械の調子が思ったより悪いようで、工員達は工作機械関連を担当する近隣の広海軍工廠へと連絡。次いですぐさま自動車に乗ってやって来た担当の部署の技術官と供に、機械の調整と稼動試験を何度も試みてみる。
昭和16年度編成としての明石艦におけるお仕事始めは、残念ながら順風満帆とは言い難かった。
『う〜ん、おかしいな。電流は定格で出てるぞ。』
『潤滑油も注してみましたけど、あんまり動作は変わらないですね。』
そんな言葉を放って首を捻る乗組員達。
技術官も先日発送したばかりの工作機械の不調の原因が良く解らず、呉工廠に頼んで広工廠の上司や専門の人員と電話連絡をしながらの対応となる。結局、彼等はその日一杯かかっても満足な運転まで持っていく事が出来ず、その原因が明石艦の命である者が艦内にて猛烈な腹痛、次いで倦怠感と戦っているから等とは夢にも思わなかった。
もちろん艦魂独自の事情を目にする事のできない彼等に理解しろという方が無理なのであり、その足元に位置する艦内から響く彼女の呻き声は瀬戸内の潮風によって波間へと溶け込んでいった。
『ぐあぁあ・・・、し、死ぬぅう・・・。』
さてさて、そんな呉軍港の北側。
軍需部倉庫群の背後に呉駅を控えるその区域は、港務部施設も近い東西へと伸びた岸壁が続く。岸壁には呉鎮所属の駆逐艦達が隣り合う形で数多く舳先を並べ、来月より始まる艦隊訓練に備えて艦の整備に乗組員達が汗を流す。ただ明石艦や朝日艦、舳先の向こうにて艤装中の大和艦に比べると喧騒は随分と静かな物で、各々の甲板に見てとれる乗組員の数はそれ程大勢という訳でもない。故に狭い駆逐艦の甲板は船渠や工廠内の工場区画から発せられる機械音もどこか遠い音色で、雪を運んできそうな強めの潮風によってすぐにその場を流されていく。
そしてその潮風が流れたとある駆逐艦の舳先。艦首旗竿の下には肩を覆うくらいの茶髪を軍帽から垂らした少女が一人、黒い外套を被って胡坐を掻いている。細い竹の棒から海面に糸を垂らし、その棒を外套越しに手で持って小刻みに肩を震わせているのは、この艦の命にして二水戦きっての大問題児である雪風だった。
『へっきしっ・・・!』
吹き抜ける風によって外套越しに体温を奪われ、思わず頬杖から崩れ落ちる顔を静止させてくしゃみを放つ。外套越しの手の中から滑り落ちそうになる釣竿を持ち直し、雪風はくしゃみに続いて鼻から垂れそうになる雫をグシグシと音を立てながらすすった。強い鼻っ柱も寒さの前ではやや赤くなり、彼女はその大きな釣り目を左右で異なる大きさにして鼻頭を片手で抑えながら、胸の内より込み上がる愚痴を率直に声に変える。
『ちっきしょ〜・・・、今日はさみーなぁ・・・。』
そう声を溢す間も冷たい潮風は絶える事は無く、軍帽からはみ出る新品のリノリウムのような色合いの髪が靡く度に雪風は肩をすくめる。自慢のこの髪が宙に舞うと輝きを一層鮮やかにするのは彼女にとっては嬉しい事なのだが、この髪のせいもあって本日このように一人でお外に居なければならないというのはやはり辛い。髪を話題にしてもてはやしてくれる仲間や姉妹がその場にいないばかりか、彼女の手にする釣竿にすらも今日は朝から反応がないのだ。
その内に雪風の寒さに色褪せる唇はみるみる尖り出していくが、彼女は胸の中にある不満の音色を口に出そうとはせず、寒い寒い艦首旗竿の下から暖かい艦内へと避難しようとする選択肢を履行する事も無い。なぜなら雪風がこの場にて待機しているのは恐怖のお師匠様による指示なのであり、その茶髪を睨まれたが故に誰もやりたがらないこの申しつけを処罰として与えられたからなのである。
ビールによる脱色に成功して師匠にカミナリを落とされた数日前。
呉鎮どころか現代に生きる帝国海軍の艦魂達の間では生き字引でもある朝日の声で丸坊主にはならずに済んだのだが、古き良き帝国海軍軍人を常に標榜する上司は部下である雪風の髪の色によって持ち前の癇癪を大いに発揮する事になり、最近はすこぶるそのご機嫌が悪い。聞いた所に依ると雪風の友人にして上司の従兵を勤めている霰が毎日のお仕事として朝に上司の下へと出向いた際、起きて部屋の扉を開けた時から既に神通はその鋭い眼を鋭角にしてしまっているらしい。そして課業始めだと雪風や霰を含めた二水戦の駆逐艦の艦魂達が修練の場である神通艦の甲板に整列すると、上司である神通はのっけから雪風の髪に『ガルル!』と唸り声を漏らしてしまう始末。今日も今日とて一日の教練予定を通達し終えるや、『犬ー!!』と物凄い剣幕で呼びつけられて雪風は一人こうして励む命令を受けたのだった。
ただ、神通の指示は確かに罰直の側面はあるが別に雪風で無くとも戦隊内の誰かが当番制で行っている役回りでもあり、我が家にも等しいこの呉軍港の治安と安全を守る為の立派な艦魂としてのお仕事でもある。それは彼女達呉鎮所属の駆逐艦達が軍港北側の岸壁、すなわち呉駅をほぼ背後に映す格好で横一列になって整列するように待機している事、次いで呉軍港と艦魂の世界での独特の事情が深く混ざり合った結果だった。
実はこの呉軍港、その大きな港湾区画の賜物故なのか、それとも余程造成の計画が急であったのか、海軍が軍港と画定している区画の中になんと川原石港という名の民間の港が設置されているのである。決して横浜や神戸のように大きな国際港などではないものの、帝国海軍の最新鋭艦艇が生まれる地でもある呉軍港にとって軍機と関係の無い民間の交通が近いという事はその運営においてかなりの影響が有る。現に今まさに軍港のど真ん中では機密中の機密である大和艦の艤装の真っ最中であるが故、川原石港は防諜の観点から普段は閉鎖されている。ただ、呉鎮守府納入の食料品を始めとした民製品の調達を絶つ事はできないし、船舶から列車等での輸送に切り替えるとなると輸送量に対しての経費が割高となってしまう。だから一応は民間の船舶の往来が可とされてはいるのだが、それにしても事前に軍港側に連絡を入れて許可を貰い、さらに実際に川原石港に向かう際は呉軍港の入り口の島、場所にすると呉駅の海岸沿い一帯の軍港区画から川原石港を挟んでさらに西側に位置する火工部や海軍潜水学校を設けた海岸の沖合いに浮かぶ大麗女島の検問所で厳重な検問を受け、そこでもまた許可を受けてからではないと軍港内にある川原石港には近づく事も許されてはいないのだ。
またこれに併せ、呉鎮所属の海軍艦艇の艦魂達は民間のそんな呉軍港の事情に際し、川原石港に出入りする民間の貨客船の艦魂達に常に一定の警戒の目を向けている。
海軍艦艇がその真価を発揮するのは何でも有りの殺し合いの場。いくら国の守りだの国防だのと高尚な言葉で表しても、そこにあるのは妥協も容赦も一切無い命の奪い合いでしかない。使える手段は何でも使うし、それが最も合理的で効率が良いなら綺麗さだって無視して行動せねばならない。
それは殊に情報のやりとりであっても同様で、日露戦役の頃には旅順港に立て篭もったロシア艦隊の動向をなんとか探ろうと艦魂達も現地の漁船やジャンク船の命を利用し、お互いに情報を掴もうと探り合いをしていた歴史もある。何気なく通りかかってチラッと横目で見た光景すら旅順港を遠くから眺めるだけだった海軍艦艇の艦魂達には重要な情報源で、大連や仁川での待機中はひっきり無しに現地のお船を使った情報合戦は行われていたという過去が有るのだ。
その当時の事は帝国海軍の艦魂社会でも知識として蓄積され、時代を遥かに下った頃に生まれたこの雪風も他の姉妹や仲間達と同様に上司から教えてもらっている。例え同じ日の丸を掲げるお船であったとしても、機密事項である最新鋭戦艦の情報を早々易々と与えてはならない。だからこうして川原石港を目に映せる舳先に陣取り、大麗女島での人間達による検問を通った後であってもその艦魂が不審な行動を取らぬか見張っているのであった。
だが寒い。とにかく寒い。
もう11月も下旬。県北の山間には雪が降ったらしいという乗組員達のお話を立ち聞きしたのも記憶に新しい雪風は、外套の襟をギュッと締めて容赦無い瀬戸内の潮風に耐える。せめてこれが煙突の近くであったならどれだけ救いがあっただろうと思いつつ、雪風は釣竿を持つ手を静かに上げて糸が穿つ波間に眼をやる。すると海面上には空き缶の蓋を丸めて作った重りに続き、以前に明石に頼んで作ってもらった釣り針が姿を現す。烹炊所より銀バイしてきた魚の切り身の欠片は針に通した時と形は変わっておらず、雪風の今日の夕食を飾ってあげようとする奇特なお魚が未だ登場していない事を物語っていた。
『くっそー・・・。』
意図せずとも彼女の唇から漏れた愚痴は白く濁る息と供にその場にふわりと舞い上がり、先程より雪風の茶色い髪を靡かせている風に運ばれて波間へと流れていく。すると雪風の小さな身体には僅かに度合いの増した寒さが与えられ、彼女は再び釣竿を握った手を下ろして違和感の生まれた鼻をすするのだった。
その時、雪風が瞳に映す静かな波間は、軍港入り口の方向より伝わってくる小波によって歪み始める。現在の帝国海軍の艦艇は所属鎮守府にて艦隊訓練に備えている事から呉軍港にあっても結構お船の出入りは少ない筈で、雪風は波の変化の元を辿って江田島を背後に控える軍港入り口にあたる海面へと顔を向けてみる。
『はぁん、珍しいな。民間船じゃん。』
雪風の瞳に移ったのは僅か50メートル程の船体を黒、船体中央に構築された船橋等の構造物を白に塗り分け、艦橋すぐ後ろにそびえた細長い一本の煙突に二重線のファンネルマークを描いた小振りな船。艦橋と舳先のちょうど真ん中辺りに据えつけたデリックを備えるマストを見るに、どうやら客船ではなく貨物船であるらしい。波を切り裂く船首は海面に対してほぼ垂直で、ノロノロとした速度の割りに高い白波が一際目立つ。その狭い甲板には乗組んでいる船員さんと見られる男が数名ほど立っており、やがて彼等が乗る貨物船はその船首を雪風の方から左舷に向ける。川原石港へ入港しようとしている事は一目瞭然だった。
しかし監視対象を遠めにしつつも雪風は胡坐の頬杖という格好を変える事は無く、未だ音沙汰が無い竿を持つ手をゆっくりと上下させながら横目で眺めるのみ。監視などと大層な言葉で示す彼女のお仕事の実情はただ貨物船の艦魂を見張っていれば良いだけであり、そもそもが今の日本、ましてや帝国海軍の総本山である呉に諜報行為を働こうとする艦魂が現れるような事態は今も昔も聞いた事が無かった。また、雪風の眼前の小さな貨物船は実は瀬戸内航路を販路としているお船で、直接その艦魂と顔を合わせた事は無くともその船体を見たのは一度や二度ではない。
そんな事から雪風は緊張の糸を張り詰めるような様子も無く、猫の様に大きく口を開けてあくびまで放つ始末。次いで彼女は口から白い息を盛大に放って溜め息をつき、退屈にして寒さに耐えなければならない現状への不満に口先をまた富士山のように尖らせた。
するとやがて彼女の背後には白く淡い光が浮かび上がるのに続いて、これまでに耳にした事が無い程にひどくしゃがれ、空を流れる雲と同じくらいのゆっくりとした老婆の声が響いてくる。
『おやぁ、珍しいねえぇ。まだ駆逐艦には外国生まれがいるのぉ。』
かすれ気味で音程のブレ幅もそこそこに大きいその声は老いの塊で、生まれてまだ2年も経っていない雪風はこんなに年老いた女性の声を初めて耳にする。ちょっとした発見にも等しい物で、雪風は少しだけ募った好奇心によって頬杖をしたまま顔を背後に向けた。
『あれぇ、外国人じゃないねぇ。最近の帝国海軍の艦魂は髪の色も黒じゃないのかねぇ。』
雪風が振り返った先に居たのは焦げ茶色の外套を被り、僅かに前屈みの姿勢に腰を曲げた白髪の老婆で、その顔もまた声に違わぬシワと幾分のシミが目立つお年寄りの女性の顔。毛糸で編んだ被り物を白い眉毛の上まで被り、その隙間より流れる白い髪は艶も無く、真っ直ぐになろうとする癖も既に失っているらしい。無造作な曲がり具合のままで瀬戸内の潮風に揺らされ、シワだらけの唇から舞い上がる白い息と一緒に宙を踊る。目の輝きも若さ溢れる雪風と比べれば勢いは薄く、目尻が既に深い幾重ものシワに引き摺られるように垂れて何もしないままでも笑みを構成させていた。着ている服が地味な色合いなのは如何にも民間の貨物船の艦魂らしい服装で、人間で言えば工廠の隅っこで働いている労働者の姿その物である。
ただどうにもさっきから放つその言葉を耳にするに、この老婆は雪風を始めとした駆逐艦の艦魂達をそこそこに見てきた経歴があるらしい。まだまだ幼い日本人女性の顔つきの横顔を覗かせた雪風をつぶらな瞳に映し、ビールで脱色した明るめの茶色の髪と掛け合わせて雪風の生まれに考察を投げてくる。
すると最近はこの髪のおかげで散々な目に会っている雪風であるから、珍しげに見てくる老婆の視線に段々と煩わしさを覚えてきた。今日も今日とて寒い中のお仕事を申し付けられた原因である彼女の髪は他ならぬ彼女自身にその責があるのだが、戦隊の部外者どころか帝国海軍の艦魂ではない者にまでそれを見通されるのは、鼻っ柱の強い雪風にあっては相当に不満である。
やがて雪風は横顔を向けたままその大きな釣り目に角度を与え、ツンと尖らせた口を開いて老婆の正体を確認し始めた。
『ぁんだよ、アタイの髪なんかどーだって良いだろ。それよりあの貨物船は〝ばっちゃん〟のかい?』
不満げ一杯に歪めた表情でぶっきらぼうな物言いをしつつ、雪風は右手の親指を今まさに川原石港へとゆっくり進入していく貨物船に向けてみせる。すると老婆は屈託の無いシワくちゃの笑みを浮べて答えた。
『んふふふぅ。そう、あれは〝ばっちゃん〟の分身よぉ。』
まるでトンボが止まりそうな程にゆっくりとした声で応じる老婆。初対面にも関わらず〝ばっちゃん〟という呼称を用いる雪風の失礼に眉を吊り上げる素振りは無く、むしろそんな自身への呼称を楽しむようにして老婆は雪風のすぐ隣まで歩いてくる。その足取りもまた靴の裏を終始甲板に擦るような感じで、彼女が既に膝を高く上げての歩行もできないご老体である事を無言で雪風に教えた。
ただこれほどまでの高齢の艦魂であればこそ、帝国海軍の駆逐艦の事を自分が生まれる前よりこの老婆は知っているのだろうと雪風は考える。いざ隣まで歩いてくると老婆の方からは独特の香りが漂い始め、ガソリンの匂いが好きという奇妙な嗜好を持つ雪風はその独特の香りに鼻を鳴らしながら竿を握った手を上下に動かした。
『なにか釣れたのぉ?』
すると老婆はしゃがみ込み、無垢な笑みを近づけて雪風の釣果を問う。雪風は鼻水をすすりつつ尖らせた口を開き、老婆とは雪風を挟んで反対側にあった空のバケツを手に取って声を返した。
『ぜーんぜん釣れねえよ、ちきしょう。あ〜あ・・・、アイナメ食いたいなぁ・・・。カレイ食いたいなぁ・・・。』
旬のお魚の名を連ねる雪風の表情は寒さと空腹で歪んだ。胡坐に頬杖、一日中座りっぱなしという楽な姿勢であっても、師走が迫る寒さに耐えるのだけでも一苦労であるから、朝ご飯をちゃんと食べたとしても腹が空くのは無理もない。おまけに雪風の平均的ディナーメニューは缶詰がほとんどで、取れたてのお魚というのは結構豪華なおかずである。それ故に罰直の上でのお仕事の合間をこうして釣りに勤しんでいる訳だが、残念ながらこれまでの釣果は竿の持ち主を嘲笑うかのように無しである。その上でなんだか暢気なお婆さんの相手もしてやらねばならない。決してサボるなどという選択肢は浮かんでこないものの、雪風で無くとも退屈にして面白みの無い時間に熱意を込められる物ではなかった。
あ〜あ、なんでアタイがこんな目に・・・。
口を尖らせて脳裏で呟く雪風。横目でチラッと隣を見ると老婆はしゃがみ込んで微笑んだまま、雪風の竿から波目へと垂れる糸をじっと眺めている。ほのかに流れる潮風が老いを滲ませる香りを雪風へと運び、再び風の音に混じって雪風の鼻を鳴らす音が静かに響いた。
その内に隣同士に座った形での沈黙を嫌った雪風が物は試しだと釣竿を上げてみたが、そこには見事に餌の切り身だけを取られた針が水面より姿を現す。
『あ。くっそ〜・・・。』
『んふふふぅ。魚は賢いねぇ。』
いつの間にやら餌だけ盗られていたらしく、雪風が顔をしかめる横で老婆は相も変わらずニコニコと微笑んでいる。お船の命として雪風という若者を嘲り笑おうとする様子が無いのは傍から見ても一目瞭然であったが、先程より空腹と退屈で集中できない雪風にはその声は心地良い物ではない。なんだか魚達の嘲笑の声をこのお婆さんに代弁されているような気がし、年配の者である事も忘れて思わずその大きな釣り目を鋭くして視線を投げる。するとその視界一杯に老婆の手に握られた饅頭一個が映る。
『ぬお・・・。』
『お腹空いてるなら食べなさい。差し入れで持ってきた物だからねぇ。』
真珠色の餅肌は老婆のシワだらけの指との対比でより一層目立ち、雪風の瞬間的な苛立ちはその火勢を一挙に沈静させる。するとそれまでと同じ老婆の微笑みがそれは優しさに溢れた物に感じ、雪風はゆっくりと彼女の手から饅頭を受け取りつつ声を放った。
『ばっちゃん、ホントに良いのか?』
『ええ。たんと食べなさい。何個もあるからねぇ。』
快く勧められた饅頭の誘惑に抗うだけの気力は今の雪風には無い。白い歯をを見せて笑うと雪風は大きく口を開けて饅頭に齧り付き、最初の一口で既に手の平より一回り大きな饅頭の半分を喰いちぎってしまう有様だった。その間にも雪風は垂れ落ちてくる鼻水をすすりながら饅頭を口に押し込み、隣に腰を下ろして微笑を湛える老婆の吐息よりも速い勢いで寒さにより赤く染まりつつある頬を上下に動かす。
やがて雪風が老婆が持ってきた紙袋の中にある2つ目の饅頭に手を伸ばした頃、老婆はふと視線をお互いが座る正面、すなわち雪風艦の艦首向こうにある波間へと向けてその瞳をさらに細くする。もちろん老婆の瞳に映るのは銀色の雲が目立ち空を映した呉軍港の波間ではなく、むしろその波間を一刀両断するかの如く身を浮べている艤装作業中の巨艦、大和艦であった。
『秋津洲からもう50年・・・。大きな船だねぇ。』
『あん? どーした、ばっちゃん?』
早くも3つ目の饅頭を咥えたままで雪風が目をやると、隣に座った老婆は何か感慨深げな瞳を輝かせてじっと正面にある大和艦を眺めていた。なんと言っても帝国海軍最新鋭の戦艦であるというのだからこの老婆で無くとも視線を集めるのは理解できる事だが、老婆の表情には不思議と物珍しいといった雰囲気は微塵も篭められていない。大和艦の巨大さは帝国海軍の一員である雪風やその仲間達も含め、初めて目にした時は腰が抜ける程にビックリして意図せず絶叫してしまったものだ。
しかしこの老婆、驚きの感情が殆どその姿からは見て取れず、なにやら大和艦を見て考えを巡らせている風でもある。するとその内に老婆は視線を眼前の大和艦に向けたまま、再びそのゆっくりとした言葉遣いで雪風に質問をいくつか投げてくる。
『本当にあの船は大きいねぇ。艦首から艦尾までどのくらいあるのぉ? 砲郭はまだ艤装中なのぉ? 備砲が一つも見当たらないねぇ。』
どうやら大和艦に興味を抱いたらしく、老婆の口より出てきた質問は全て眼前の艦に対しての物だ。雪風は声を耳にした瞬間に年寄りの好奇心なのかと思ってその場の話題にしてみようかと思ったが、老婆の言葉の中に「砲郭」という言葉があった事に思考を一旦停止する。なぜならごく普通のお船にとって砲郭等という言葉が出てくる機会は少なく、そも軍艦の構造としての用語であるその言葉を、人生経験豊富な高齢とは言え何故に民間の貨物船の艦魂であるこの老婆が知っているのか、と雪風はふと疑問に思ったのである。併せてつい今しがた、この老婆は艦載砲を世間一般的な「大砲」ではなく、「備砲」というちょっと小難しい言葉で示してもいる。どちらも海原の上で砲火を交える事を生業とする海軍艦艇の世界でしか用いられない言葉であり、そうなると貨物船の命であるこの老婆が何故にそんな海軍艦艇への知識を得ているのか益々怪しい。
雪風はそんな考えを募らせて僅かに首を捻りつつ老婆の横顔を覗き込む。すると老婆は再び妙に詳しい帝国海軍の事情も声に乗せ始め、雪風はここに至ってこの老婆を自身が警戒すべき対象の範疇であると判断した。
『昔はまだ横須賀とか神戸でしか海軍のお船は造れなかったのにねぇ。今はもう呉でこんなに大きな船を造れるようになったんだねぇ。あんなに畑や漁師小屋ばっかりだったのにねぇ。』
そのシワに包まれた目で見たのであろうか、ずっと昔の呉の様子と帝国海軍の造船事情を漏らした老婆。
怪しい。非常に怪しい。
饅頭の味はとても美味しい物でこの老婆の御恵みには感謝の念もあるのだが、どうもその言動が先程から引っかかる雪風はスッとその場に腰を上げる。もしかしたらさっきまで食べてた美味しいお饅頭は自分を安心させる為の物で、本当の所は油断した若輩から眼前の最新鋭戦艦の情報を引き出そうとしているのかとも思える。
また、上司の神通よりもあの大和艦という名の巨艦が大変に厳重な機密として扱われている事を雪風は耳にしており、事実、眼前で艤装中の大和艦の艦内では工員の迷子がほぼ毎日のように発生している事も耳にしている。厳重な機密の程度は艤装工事に直接関わる作業員が使用する図面にすらも及び、個人個人が担当する作業区域以外の図面は決して手渡されたりしないのだという。あれほどに大きな艦であればその内部も相当に複雑で広く、例え専門の工員さん達であっても図面が無い事から自分達の艦内での位置を見失って迷子になってしまうのだ。
人間の世界でもこれ程までに気を使っているのが大和艦の存在である。それを幾分専門的な用語、知識まで用いて嗅ぎ回るような様子の老婆を、雪風は帝国海軍の秘密に手を伸ばそうとする諜報員、船の命の世界によるスパイの類なのではないかと考える。よって雪風はこの老婆を、信頼を置けて相応の判断ができる立場を持つ者の下へと連れて行く事に決めた。もっとも人の良さそうな風貌と歩き方すらも既に若々しさが漂っていないこの老婆に、背後から銃剣を突きつけて連行しようという選択肢は雪風には沸いてこない。幸いにも老婆はまだ大和艦を眺めたままで雪風の疑惑の目には気づいていない事から、雪風は変に波風を立てて逃げ出す意識を持たせぬようにそれとなく連行を試みてみた。
すぐさま雪風は両頬を手で揉んで自身の表情を柔らかくし、殺気や敵意の類が自分に無いという雰囲気を整えた後に声を掛ける。
『あ、ばっちゃん。ちょっと良いか?』
『んん? どうしたのぉ?』
雪風の声を受けると、それまで大和艦を眺めていた老婆は雪風に顔を向けてくる。同じ小柄な体格の持ち主である為に老婆の微笑は雪風の視界の大半を埋め、悪気や企みとは無縁な感じもする朗らかなその表情は逆に策を胸に秘めている雪風をギクリとさせる程であった。だが咄嗟に雪風は口の中で舌を動かして歯の隙間に残っていた饅頭の餡を探り当て、その甘さによって口元をなんとか緩ませながら話を続ける。
『あ、うん。残ってる饅頭を仲間に分けてやりてーんだ。それにアタイ、あの艦の事、ホントはまだよく知らねーんだ。んでも仲間なら知ってると思う。アタイがみんなにばっちゃんを紹介してやるよ。』
『あれぇ。良いのかい?』
あまり上手ではない作り笑いを浮べる雪風だったが老婆はその申し出に瞳を糸の様に細め、自ら饅頭の入った紙袋を抱えて雪風の後ろを歩き始める。二人が居る雪風の分身の甲板は両舷に渡した板で舳先を並べる駆逐艦の列の端まで繋がっており、雪風と老婆は転移の為に目標の艦に対して最寄の駆逐艦までを歩いた。その間にも屈託の無いシワだらけの笑みが振り返る雪風の視界に入り、なんだか嘘をついてこうして連れまわしている事にちょっとだけ罪悪感にも似た感情を募らせる雪風。その都度、さっきの妙に専門的だった老婆の言葉とそれに対する疑惑を思い起こし、彼女は背後に続く老婆を自身の直属の上司、神通の下へと連れて行くのだった。