第九〇話 「新たな日々の始まり」
昭和15年11月15日。
この日、帝国海軍の全部隊を対象とした昭和16年度編成が発令となり、長く続いた休暇で静かだった呉工廠の艦艇達はそれぞれがにわかに騒がしくなり始める。明石艦においてはこれまでの第二艦隊付属が解かれて連合艦隊付属となり、指揮権限上での明石艦は山本連合艦隊司令長官直属の海軍艦艇となった。ただ第二艦隊の艦隊訓練は前期に続いて今期も所属全艦艇参加での熾烈極まる予定とされている事もあり、明石艦はなんと昨年に引き続き第二艦隊に追従しての任務を行うという通達を受ける。
母港の呉には同じ所属の師匠がいて、さらに勤務先には友人達がいるという事に明石は喜び、今期は自身の能力にさらに磨きを掛けようと企図する。それに春もたけなわの4月には長く離れていたかつての相方が水雷学校普通科学生を終えて戻ってくる筈で、今日から始まる新たな海軍生活に彼女は並々ならぬやる気を漲らせるのだった。
また、明石には馴染み深い第二艦隊でも、今期よりその編成がかなり変わる事になった。
まず第二艦隊内でも最も年長の艦魂であった五十鈴率いる三潜戦が、今期より新たに連合艦隊に加わった第六艦隊へと戦隊ごと転出。彼女とは非常に仲が悪かった神通が『ざまーみろ。』とでも呟く勢いで不敵に笑っていたのは言うまでも無い。
しかし転出した戦隊はこの三潜戦だけで、代わりに艦隊司令部が直卒する四戦隊には以前に明石も廈門巡航の折に出会った第二遣支艦隊の艦隊旗艦、鳥海艦が配属。高雄型の姉妹全員が四戦隊として一同に会すのは昭和10年度編成以来、実に5年ぶりの事であり、国民からの人気が非常に高い高雄型一等巡4隻で作り出されるであろう壮観な光景は艦魂達にも乗組員達にも今から見るのが待ち遠しい気分を与えてくれるのだった。
次いで第二艦隊の戦力は指揮部隊もさる事ながら尖兵の水雷戦隊にあっても大幅増強となり、神通が率いる二水戦には15駆が、そして神通の妹の那珂が率いる四水戦には昨年までの吹雪型に代わってより新しい駆逐艦である白露型で編成された2駆と24駆が加わり、さらには霞と霰の実の姉達に当たる朝潮型の駆逐艦で編成された9駆までもが配属となった。9駆は司令駆逐艦である朝雲艦を筆頭に山雲艦、夏雲艦、峯雲艦の4隻編成であり、長女である朝潮が率いる二水戦の8駆、18駆の霞と霰を含めて、めでたく朝潮型姉妹の全員が帝国海軍最精鋭の第二艦隊所属と相成ったのである。
さらにさらに、今期より第二艦隊には航空母艦の加賀艦と2隻編成の駆逐隊である3駆で構成された一航戦が配属となり、以前から所属している蒼龍艦、飛龍艦を始めとする二航戦と足してその空母戦力は3隻にまで拡大された。
しかもその上で第二艦隊には、艦隊が進出した先での港湾や泊地といった前進根拠地の防衛、及び周辺海域の測量や通信に代表される管理任務を担当する第一根拠地隊も新しく配属。
帝国海軍の中でも最も戦線を暴れまわる艦隊に相応しい姿となった。
他に明石と近しい所では姉と慕う長門のいる第一艦隊であろうが、この第一艦隊では今期より歴史的な編成が実施されていた。日露戦役時よりその勇名を馳せた帝国海軍の至宝「第二戦隊」が、解隊となった大正12年度編成よりなんと18年に及ぶ長きに渡った欠番の時を超えて復活したのである。編成はこれまで第一戦隊1小隊を組んできた長門艦と陸奥艦がそのまま居座り、2小隊を成していた伊勢艦と日向艦が転属する形で実施された。
呉鎮守府所属の伊勢と日向が大喜びする様は明石もその目で見る事ができたのだが、もう30代にもなる大人な女性の外見を持ちながらも栄えある二戦隊に選ばれた二人は有頂天となり、すぐさま呉軍港の桟橋の一角にてひっそりと繋留されている大先輩、浅間の下へと向かう。もう元気に波間を駆ける事も出来ぬ身体の浅間であるが、かつての彼女は押しも押されぬ初代二戦隊の一員。伊勢と日向にしたら直接の先輩への挨拶と良き報告であり、浅間はブラウンの瞳を細めながら一言、『その名に負けぬよう、頑張りなさい。』と声を掛けて栄えある二戦隊の名の下に励む事になった後輩達を激励してやった。
翌日の朝。
課業始めの号令が折り重なって響く呉海軍工廠の波間では、師走も迫った寒い空気もなんのそのと静かに浮かぶ各艦艇が来月より始まる艦隊訓練や新たな配属先に属す為の準備を始める。それぞれの乗組員達による活気と賑やかさは今月始め頃より久しく聞えていなかった帝国海軍の鼓動その物で、そこそこの長さに渡った休暇の日々が彼らの心身を良く癒してくれた事を如実に物語っている。桟橋よりも僅かに内陸側を沿うように走る工廠従業員用の通勤列車も満員なら、鎮守府庁舎付近にて停車する「廠内定期」と呼ばれる大型バスもまた乗客たる将校や高等文官らで満席御礼状態。港内の雑役船舶らも忙しなく軍港の波間を駆け抜け、人間達も艦魂達も全力での仕事始めを開始した。
そんな呉軍港の南側に当たる砲熕部施設前の桟橋では今日も優雅に気高くその身を浮かべる朝日艦の姿があり、長きに渡る支那方面行動の任を解かれた事からそれまで艦全体に施していた雪の様に白い塗装をねずみ色の軍艦色に塗り変える作業が始まっていた。野球帽にも似た略帽と事業服に身を包んだ乗組員達がかじかむ手に息を吐きかけつつ、支給された塗料を乾舷は勿論、艦橋やマストといった構造物に塗りたくって行く。
そしてそんな朝日艦の甲板上の喧騒を横目に眺めながら、明石は邪魔をせぬように甲板の一角をテクテクと歩いていた。ついさっきタンコブだらけの頭に鳶のような色の髪を靡かせるという変わり果てた姿の雪風と、そんな部下のせいであろうやたらと不機嫌な神通の二人に明石はすれ違い、事の仔細を耳にして生まれたその可笑しさを表情から薄める事ができない。歯を覗かせるまでには至らないまでも口元を緩く吊り上げ、彼女は新たな仕事始めにも関わらずいつもと変わらぬ二水戦の日々を笑った。相当に雪風は怒られたのか神通が明石の笑みを見て鼻息を荒くすると肩をビクンと震わせ、上司とはその形が良く似た大きな釣り目からはじわじわと涙を湧かせる始末。明石から見ると雪風の髪の色は中々にお洒落で格好良いなとも素直に思えたのだが、いざそれを口に出したらご立腹の友人の機嫌が完全に横倒しになってしまうと容易に想像ができた為、彼女は多くを語らずに二人と別れたのであった。
ぅんもう、初日からアレかあ。
そんな言葉を脳裏で呟きながら明石は怖い上司とお馬鹿な部下を少し憂い、ちょうど手近な所で開いていた扉から朝日艦の艦内へと足を進めていった。
朝日艦艦尾にある長官室は、長官たるべき人員が配備されていない事から朝日が日々を過ごす場所。その室内の中央にテーブルを挟んで向かい合った2つのソファこそ明石と朝日が時間を共にする定位置であり、教え子の明石は扉を背にする方のソファに腰掛け、部屋の主たる朝日は艦尾側にある執務用の机を背にした方のソファに腰を下ろす。師匠による教育を目前に控える今、テーブルの上にノートや鉛筆を並べていく明石の胸の内にはワクワクする感情が募っていき、テーブルの一角に用意してもらったティーカップより流れてくる香気は明石の好奇心に一片の優雅さと静けさを与えてくれた。
『えへへ、いただきまぁす。』
『ふふふ。どうぞ。』
勉強の用意を終えた明石はティーカップに指を纏わせながら眼前の師匠に声を放つ。返って来るのはいつも優しく、重みと奥行きが備わったバイオリンの音色のような師匠の声。片側に小さなホクロを控える口元には薄いしわを浮かべ、若さもちょっと陰りが見え始める容姿の朝日なのだが、明石はその美しい姿にいつも見惚れてしまう。透き通った青い瞳は快晴の空を映したかのように涼やかで、明石とは違って白さが目立つその肌は照り具合こそ目立たなくても無風の陽の雪原のように厳かで、顔の両脇を半円の軌道を描きながら流れ落ちる琥珀色の髪はその名の通り水平線から登り始めた朝日のような暖かさを持つ。この髪だけでも模してみたという雪風の髪が明石の記憶には新しいが、こうしてオリジナルを見るとやはり勝負にはならないなと明石は改めて思った。
もっとも当の朝日は教え子から抱かれるそんな印象を鼻に掛ける素振りも見せず、伏せ目がちにして唇に添えたカップより流れ込んでくる琥珀色の水面とその香りをいつものように楽しんでいる。これを一日7回、しかもこれまでの40余年の生涯において毎日繰り返して来たというのに、彼女は紅茶に関しては飽きるという感情を微塵も抱かないらしい。
さらに今日はおまけがついて、明石の瞳に映りこむ今日の師匠はすこぶるご機嫌だった。
『今日はジャンピングが上手く行ったのね。我ながら良い味になっているわ。』
珍しく自分で自分を褒める朝日の言動。
愛弟子として接してきた明石も良く知る、師匠のご機嫌な胸の内を示す様子である。明石はすぐさまその理由がさっき甲板ですれ違った友人達にあるのだなと察した。
もちろんそれはビールによる髪の脱色という前代未聞の行為を行った雪風の事で、上司の神通はご立腹であったにしろ、雪風が髪の色を自分に似せようとした事は朝日にはとても嬉しかったのである。表立ってそれを声に変えると師匠の立場を頂く者の面目が立たない故に敢えて朝日は褒めるような真似はしなかったが、頭をツルツルピカピカの丸坊主にされかけた雪風を可哀想の一言で救ってあげたのもその嬉しさがあったからに他ならない。
明石もそれを悟り、一緒になって笑みを溢しながら残り僅かとなったカップの中身を一思いに喉に流し込む。
『は〜。美味しかったぁ。』
『ふぅ。本当に良い味だったわ。お昼もこうして淹れれば良いけど。』
この頃は後味で残る紅茶の渋みも中々美味しいなと感じるようになった明石と供に、朝日は空になったカップの底を見つめながら余韻を楽しむ。残り香と供にほのかに漂う湯気にかすかに鼻を鳴らし、朝日は深呼吸をしながら手にしたカップをテーブルの上に置いた。するとカップと受け皿が戯れて奏でられるなんとも心地の良い調べが短く放たれ、同時に朝日と明石の本日の教育を開始させるチャイムと化すのであった。
『さあ、始めようかしら。』
『はぁい。』
朝日の紅茶のおかげか、大人しくて決して声をは荒げたりしない人柄を持つ朝日の授業は明石でなくとも眠気を誘いやすい物なのだが、これまで明石は授業中の居眠りに陥った事など一度も無い。今日も今日とて尊敬する師匠から薬学や医術の知識を丁寧に与えられ、聞き落とさぬように耳を澄ましながら右手に持った鉛筆でノートに記していく。おかげさまで明石のノートはこれにて三代目であり、初代に綴られていた頃よりもその字はだいぶ達筆になっていた。これもまた心に染み込む様に深い味わいを持つ朝日の紅茶のおかげで、生来が明るくて浮ついた雰囲気の波に乗りやすい明石の心に一時の沈静を与えてくれているのだ。すると字も上手くなるし教えられる叡智への理解も捗るという物で、明石のお勉強に関しての朝日の紅茶の貢献は計り知れない物がある。これで味もまた美味いのだから文句のつけようが無い。
そしてこの素晴らしい紅茶と供に誰からも慕われる朝日の人柄が功を奏し、40余年のその生涯で朝日は常に仲間達の間では人気者であった。その様子を示す話として、朝日とティータイムを過ごす為にはウン十倍とも称される競争率を制して予め朝日に予約を取らねばならないという四方山話が、帝国海軍の艦魂社会には実しやかに囁かれている。教え子として近しい間柄にある明石にはそんな噂話の真相は不明ではあったが、決してそこに仲間達による師匠への嫌悪の感情が微塵も含まれていない事だけは確信する。なぜなら午前の分の授業を終えてお昼休みを迎えた際、朝日の部屋に現れた彼女の旧友が企図せず明石に師匠が持つ人気の度合いを教えてくれたからだった。
『ああ、やっと朝日のティーが飲めるわ。』
『またまた。ふふふ、この間飲んだばかりじゃない、浅間。』
『出雲から貰った茶葉、GFOPなんでしょう? それに朝日は抽出も上手だし、3日も待った甲斐があるわぁ。』
どうやら浅間はこの朝日のティーを飲む為に3日も前から予約していたらしく、濃紺の軍装の胸の辺りのホックを一つ外して首元の感覚を緩くしながら笑っている。地の色が金色である為に目立たないものの、幾分の白い筋が走ったクセの無い髪を肩口から流す浅間は怪我だらけの生涯のせいなのかその声に篭る勢いや髪に通す手櫛の仕草がどこか弱々しい艦魂で、彼女とは同じソファにて隣同士に腰掛ける事になった明石は師匠と同じ頃合の年頃にして病弱な女性像を持つこの浅間を少しだけ心配してしまう。
もっとも当の浅間は明石の心配を鼻で笑うようにご機嫌の音色を唇の隙間より漏らして、友人がせっせと淹れてくれる紅茶が出来上がるのを心待ちにしていた。師走が迫った呉の空気が肌寒いのか、それとも待ち遠しさが与える手の感覚の寂しさなのか、彼女は膝の上で両手を擦りあわせながら深い茶色の瞳を朝日へと投げ、時折朝日もまたそんな浅間の視線に笑みを覗かせてやりながら自慢のティーポットへとお湯を注ぐ。
ずっと昔より変わらぬ朝日の紅茶を淹れる動作が、浅間にあってはすこぶる優雅で美しく見えるらしい。熱し終えたケトルから流れ出る熱湯の勢いと量、舞い上がる湯煙は勿論の事、片手で抱えたケトルの口からティ−ポットの口に至る空間の間隔までにも朝日は拘っている程で、浅間はその動作の一つ一つを昔懐かしい大海原を駆けていた頃の彼女の姿と重ねて眺めていた。
『少し抽出は長めにするわね。浅間は味がちょっと濃いのが好きでしょう?』
奥深い朝日の気遣いが、笑みによって浮かぶ浅間の口元や目尻のしわをさらに深くする。
『ええ、ありがたいわ。ストレートはまったりと味わいを楽しむのが好きなの。』
40余年の旧知の間柄は朝日と浅間の間にある隔たりを殆ど無くすには十分な物。普段は自分の分身からでてこないのに、疲れるのを覚悟してでも朝日の下へとやって来るという浅間の胸にあるのは単に極上の紅茶への楽しみであり、長年一緒に頑張ってきた朝日もそれをちゃんと解かっている。故に彼女は自分が用意する事のできる中で、友人の口にも合う最高の紅茶を用意しようとしているのだった。
やがて朝日の手に抱えられたトレイによって運ばれてくるティーカップは、浅間と明石の前に出されるやオレンジ色の小さな湖面にそれぞれの顔を薄っすらと映してくれる。そして映りこむ自分の笑みに誘われ、浅間は朝日にお礼の言葉を投げぬままでカップを唇に添え始めた。まだ朝日自身が席にも着いていないというのに、待ち侘びた紅茶の出現に抗えない浅間。喉を通り抜ける紅茶の流れを噛み締めながら、早くも次の機会を友人へと問い合わせる。
『んん〜、良い味ねぇ。朝日、次はいつ空いてるの?』
『ふふふ。明石の教育時間と一緒で良いなら別に明日でも大丈夫なのよ。あ、でも明石の教育にはちょうど良いかもしれないわね、浅間なら。』
『あら、なあに?』
前途の明るい予約状況を耳にして一瞬顔を綻ばせる浅間だったが、ようやく対面する形でソファに腰を下ろした朝日の声を受けてほんの少しの驚きを表情に混ぜる。なぜならたった今、朝日は浅間の隣に座る教え子の明石との教育時間と重なっても良いのならと口にしたが、朝日が呉へと到着した日に浅間は『教育の現場に第三者はいない方が良い。』という朝日自身が放った言葉を直接耳にしていたからである。ところがそんな朝日は胸の前で両手を合わせながら『ちょうど良い。』と口にし、浅間の隣にいる明石もまた持ち前の明るい笑みを浮べて師匠の提案を絶賛している。どうにも要領を得られない浅間は手にしたカップをまた口へと運びつつその理由を二人に尋ねるが、返って来た二人の言葉に彼女は先程の朝日の申し出をすぐさま納得する。それは明石に艦魂としての多様な叡智を授ける朝日と、この浅間が供に同じ英国生まれの艦魂である事、そして呉へと朝日が戻ってきた日より始まっている教育の日々の中、明石がさらなる己のステップアップを企図して新たな学問の分野に挑戦し始めた事に理由が有るのだった。
「艦の命たる者は、何事にも秀でた一流の淑女でなければならない。」
お師匠様からのそんな教えを起爆剤にして常に上を目指す明石は、軍医さんとしてのお勉強もそこそこにこなして来た自分の身の程に満足する事無く、数日前の朝日に対してある物の知識を教えてくれと願い出た。それは朝日が生を受けた地にて用いられ、彼女自身が初めて他人と意志を通わせる為に得た術。すなわち、明石は英語を教えてくれと言い出したのである。
『観艦式の前に富士さんと少しお話した事があったんですけど、その時に英語の発音を笑われちゃったんです。あはは・・・、それに英語って私、全然解かんなくて・・・。だから教えて欲しいんです!』
『まあ、そうだったの。外国語を学ぶ事はとても有意義な事よ、明石。特に私達のように、河川ではなく海を生きる場とする船にとってはね。』
頑張り屋の教え子の申し出を朝日は褒める言葉も混ぜて受け止め、意を決した事で力みかけた明石の顔からは笑みの硬さが消えていく。ましてや明石が教えてくれと頼んできた英語とは、朝日にとっては得意とか不得意の次元で身に付けている物ではない。その40余年の生涯では日本語の方を使っている期間が抜群に長いものの、朝日が生まれた遠き異国こそ話題に上がった英語の発祥の地なのである。
それに朝日としてもやはり自分が生まれた地の文化にどんな形であっても他人から興味を示してもらえるという事は嬉しくもあり、特にそれがその地の文化の根本を成す物の一つである言語であれば尚更だった。
『英語なら任せておきなさい。現代の世界において、人間の間でも艦魂の間でも最も使用される頻度が高いのが英語なのよ。国際港の上海なんかでもいろんな国の人達がいたけど、やっぱり一番使われてるのは英語ね。決してイギリス人が多い訳じゃなくて、支那の人達や他の国の人達が学んでいる言語では一番比率が多いのよ。だから明石が英語を学んでおけばきっと損はないわ。それにどこの国の海軍でも、母国語しか話せない海軍軍人というのはいないものよ。よく決めたわね、明石。』
教える側の朝日は快諾するのと同時に、教え子が英語を学ぼうとする姿勢を正しいものだと言ってくれる。その言葉通り、海原の上の国境を超えて任務に就く海軍軍人たる者にとって、外国語はお仕事に励む上で必要とされる重要なスキルの一つであり、士官に当たる者達の登竜門である海軍兵学校の入試科目として英語が設定されているのもここに大きな理由がある。とりわけ英語は世界的にも経済、及び政治の面で大きな影響力を持つ英国や米国の公用語である為に国際的な社交の場でも使用頻度は多く、上海や天津に代表される支那沿岸に点在した各国の租界が設けられている地区ではそれが更に顕著であった。
そんな英語の必要性と使用状況をとくとくと説いてくれる師匠の声に、明石は大きくした瞳を輝かせて耳を傾ける。これまでの明石からすれば未知の領域に近い語学の世界ではあるのだが、素直に褒めてもらえた向上心とまだ見ぬ世界への好奇心が彼女の胸の中から物怖じするような気持ちを完全に掻き消していた。
『は、はあい! 頑張りまぁす!』
すぐにそんな感情は明石の声へと滲み出し、朝日もまた明石の極めて前向きな姿勢に後押しされて即座に教育を始める事になった。
だがしかし、何事も精神論でまかり通るような甘さを備えていないのがこの世にある万物の事象という物である。それはお勉強においても例外ではない。
朝日による本場の英語の教育が始まって既に数日経つにも関わらず、紅茶をゆっくりと飲む浅間の眼前にて今まさに発せられる明石の声にこそ、それはよく示されていた。
『だ、だざぅあと、じ、のぉまる・・・─。』
どこの地域の方言なのかと訊きたくなる様な奇怪な声を放つ明石。一応は彼女なりに頑張って英語の文章を声に出そうとしているその試み自体は優しげな笑みを浮べて見守って耳を傾けている朝日や浅間にも伝わってくるのだが、英語に対して耳が肥えた二人にとっては明石の放つ声が底知れぬ可笑しさを誘発して仕方が無い。その内に浅間は小じわを控える口に添えていた手の隙間から盛大に息を噴出し、その率直な感想を思わず声にしてしまうのだった。
『ぷっ・・・あはははっ。これはヒドイっ。』
『が~ん・・・。』
この状況下であれば明石にも浅間が放った言葉の矛先が自身の英語にあるだろうと容易に察しがつく。瞬間、明石の心には鉄材が降って来たような思い衝撃が与えられ、ハの字に傾けた眉の下にある両目の端っこに小粒の涙が浮かび上がってしまう。これまでも自身の至らぬ所を思い知らされる事が多かった明石だが、その際に受ける衝撃はやっぱりどうして慣れる物ではない。緩く唇を噛んで首をすぼめ、目の前に掲げていた自身のノートに顔を隠して彼女は恥を忍ぶ。
決して教育を諦めようかという気は起きないものの、残念ながら明石は英語の発音が物凄く下手だった。
『Asama. Japanese isn't good. 』
そして具合が悪い事に、明石が頼るお師匠様は教え子に対して教育時間中は日本語では一切接してくれない。「授業時間中は日本語は一切禁止」と初めての英語の教育を受ける際に朝日と明石の間で取り決められた規則であり、授業の始まりや終わりの挨拶は当然として、落とした鉛筆を拾う際の許可も、厠に行こうとしてその場を一旦離れるのも、全て英語で受け答えせねばならない。朝日独自の英語教育法であった。
『Sorry. Please continue. 』
まだ笑い声が収まらない中であったが浅間も友人からの声によってその決まりを思い出し、流れるような美しい発音の英語で声を返してみせる。朝日も浅間も供に英国生まれの艦魂で、外見もまた日本人女性に通ずる特徴は一つとして持っていない。髪の色も瞳の色も、身体つきすらも明石とは違うのであり、同じ帝国海軍の艦魂だと認める事が出来るのは身に付けている服装が明石と同じ濃紺の第一種軍装である事くらいだった。
こうなると明石はなんだか自分だけが立ち位置を異にしているような疎外感を覚え、心から慕う朝日の表情すらも真正面から目に映すのはなんだか億劫になってしまう。しかもまだまだ始めたばかりの英語のお勉強であるから単語に関しても明石にはまだ覚えていない物が多く、今しがた眼前にて交わされた朝日と浅間のやりとりに関してもそれぞれが放った声に含まれる語句を聞き取れずにいた。
だが四苦八苦する明石に対して救いが与えられる事は無い。先輩方のやりとりに対してなんとか意味を知ろうと貧弱な自身の英語の知識から読み取れた単語を検索している最中にも関わらず、明石にはお師匠様より美しい英語による指示が与えられる。
『Now continue to read the note. Akasi.』
『あ、あい、すいぃ・・・。』
『sui? …Ah. It is see. Ok,It understood.』
なけなしの読解力でもなんとか朝日の言葉を理解した明石は、指示された通りに自身のノートに書いてある文章を英語に変換して読み上げる事を続けた。書いてある内容は明石自身が朝日との医学の教育において記した知識の羅列で文章が持つ本来の意味は書いた本人である明石が一番良く解かっているのだが、如何せんそれを英語に訳すというのは彼女にとっては至難の業である。師匠より貰った和英辞典、そして浅間からエールと供に頂いたコンサイスの英英辞典をパラパラと捲り、自分が意図する言葉の英単語を繋ぎ併せてなんとか文章を組み立てようと明石は必死だ。その最中にも早く朝日の指示通りに声を返さねばならない焦りと、自分の意志を上手くお師匠様へと返せないもどかしさが、明石の首筋に冷や汗を浮かび上がらせてその顔を泣く一歩手前の状況へと変えていく。
『うぃ・・・。えと、えっと、温度、温度って何て言うのぉ・・・?』
今にも泣きそうな声でそう漏らしながら辞書とノートに視線を往復させ、それが出来たとしても再び彼女の口から出てくるのは酷い発音である出来損ないの英語。意地悪をするつもりはないのだが浅間はまた明石の英語が始まるや込み上げてくる笑いを抑え、朝日も変わらずに優しげな笑みだけを浮べて黙って教え子を見守った。
朝日は明石が彼女なりにとても頑張っている事は理解しているが、それでもなお日本語の使用を解禁してやろう等とは微塵も考えようとはしない。もちろんそれは朝日自身が歩んだ40余年の生涯にて培った経験から来る物に他ならず、初めて英国から日本に来た当時、彼女もまたこうして懸命に日本語を覚えようと勉学に励んだという自負があったのである。言わば自分が知る限りでは最も確実にして間違いの無い勉強方法だと朝日は信じているのであり、その結果は日本生まれの艦魂である明石と同等に日本語で会話する事が出来る現代の彼女の姿を見れば一目瞭然であった。
『え〜ん・・・、解かんないよぉ・・・。』
やがてにっちもさっちも行かなくなった明石が涙ながらに自分の状況を表現し始める。まだまだ若い明石はさすがに誰からの理解も得られない状態に長い時間浸るにはまだ無理があり、朝日と浅間が微笑みを向ける中でぼろぼろと涙を流して泣き始めてしまった。事ここに至って仕方なしで、朝日はちょっと早いとは承知しつつも日本語を解禁できる時間を設けてやる。
『he he. Akasi. Let's take a rest. 』
『え〜ん・・・。』
じわじわと効くプレッシャーに弱い教え子の姿は朝日には可愛く見えるかも知れないが、当の明石にしたらもどかしさと疎外感と悔しさが入り混じるという、これまで体験した事も無いような重圧が授業時間中はずっと圧し掛かっていた。堰を切ったように両頬に輝く流れを設け、般若のお面のような顔で泣く明石の横に、向かい合い形で座っていた朝日はゆっくりとやってきて座るとその腰に静かに腕を回して声を掛ける。
『明石、泣かないの。みんなこうやって覚えた物なのよ。長門もこうやって私から英語を教わったし、貴女の先代も私に日本語を教える代わりに英語を学んだ時はこんな感じだったわ。二人とも何十日も掛かったんだし、明石はまだ始めて一週間くらいでしょう。挫けるにはまだ早いわ。』
『ぅえ〜ん・・・。』
生来が頑張り屋の明石がここまで心を折られる事は珍しく、朝日は教え子の胸の内にとどめを刺さぬよう労わりながら語りけた。その内に紅茶を用意してくれた浅間も加わり、中々泣き止む事が出来ない明石を励ましながら休憩時間のティーの味わいを楽しむ。また休憩時間中は日本語に使用も許可される事から、背中から伝わる朝日の手の温もりと一緒に明石の心からはとりあえず疎外感だけは薄れていく。手の甲で涙を拭いながら明石は頷き、二人の心優しき先輩と一緒に紅茶を飲み始めた。
みんなこうして頑張ったのかと思うと確かに明石も負けてられないとは思うものの、中々どうして語学という物は簡単には身に付かない。休憩時間中、朝日はその事実として自分の師匠筋に当たり、なおかつ紅茶の渋みが一層身体に染み渡る今の明石の先代、すなわち初代明石艦の艦魂が英語のお勉強に励んでいた頃の姿を教えてくれ、愛する愛弟子に自身へと繋がる者達がどうやって課題を克服したのかを教えてあげた。聞けば明石の先代は同じく日本生まれだった事もあって英語の発音は大変に下手だったそうであるが、時間を見つけては朝日の所に赴き、日露戦役の時などは同じ第二艦隊所属の浅間の下にも現れて英語のお勉強を頼んだのだという。そして猛勉強の甲斐もあって朝日や浅間とも対等に話せるほどに先代は英語を身に付けたらしく、その結果は前大戦の頃に先代が経験した欧州派遣にて真価を発揮したらしい。明石も観艦式の際に浅間の妹に当たる常盤より教えてもらった帝国海軍第二特務艦隊による地中海派遣の事であり、帝国海軍艦魂社会でも有名人である出雲が舌を巻き、艦隊に対してではあったが英国の国王陛下から勲章まで貰う程の功績を残したという先代のお話である。その苦労の下、日本より遠く離れ、護衛する船舶も全て欧州生まれの艦魂達で構成されていた事を容易に想像できる時、明石はきっと先代が頑張って身に付けた英語を駆使して護衛対象であった現地の船舶の艦魂達と意思疎通を図ったのだろうと悟った。
『貴女の先代はよく頑張って結果も残したのよ、明石。でもその頑張りは華やかな物ではなかったわ。今の貴女と同じ様に、発音の段階で泣きそうになりながらそれでも一生懸命に、夜遅くまで地道にお勉強したからこそなの。そしてそれは、きっと明石の名を継ぐ者にしかできない事よ。だから頑張りなさい、明石。大丈夫、私が付いているわ。』
『は、はいぃ〜・・・。』
お師匠様の暖かい応援の言葉もさる事ながら、先代の成し遂げた欧州派遣のお話は英語の重要性を改めて明石に認識させるのには十分である。遥か彼方にまで続くわだつみの向こうにある地は、自分達が生まれ育った地の言語や文化がまた違う形で存在する異国の数々。そこで励む事を生業とする海に生きる者達なれば、乗組員の人間だろうが船の命である艦魂だろうがその地で用いられる文化に対して予め知識を得ていなければ円滑に接する事ができない。その基礎中の基礎が言葉なのだ。
ようやく涙が収まり、背中からは師匠の腕が持つ温もりで、身体の内からは浅間が用意してくれた紅茶によって温められた明石。そんな異国の言葉の大切さを噛み締め、同時に崩れかけた英語のお勉強への熱意を再び組み立て直しながら決意を述べる。
『が、頑張りますぅ・・・。』
『うん。その意気よ、明石。』
朝日の注いでくれる真心の暖かさはこうして教え子の心を立て直す。ただその教育姿勢を微塵もかえようとしない所もまた朝日なりの英語教育に対する拘りだ。と言うのも、明石の先代より日本語の教育を受けた際に自身が使ったノートの存在を彼女は教え子に教えてくれ、現物を部屋の一角にある戸棚の中から出して見せてくれたのだが、日本語と英語の両方が記載されているそのノートを自分の教育に利用したいと申し出た明石の言葉に朝日はにべもなく否の回答を返したのである。その際にちょっぴり気落ちする教え子に放った声が、朝日なりの教育者たる者の体面を如実に物語っていた。
『ふふふ、明石。これは飽くまでも私が学ぶ際に見つけた勉学の道。その道を辿る事は確かに楽かもしれないけど、それだと貴女は私以上の道を探す手段を失ってしまうわ。工作艦としてもお船としても、明石は私なんかよりももっともっと上を目指せる筈よ。だから明石の道は明石自身で見つけなさい。例えそれが英語のお勉強であったとしてもね。前にも言ったけど、明石の戦線は明石一人の力でなんとかするしかないのよ。』
師匠たる立場を頂く朝日による、教え子に限界を設けさせないという信念。その言葉通り、明石の分身は工作艦としても現代に生きるお船としても、潜在的な能力は朝日の分身とは比べ物にならないくらいの値を秘めている。現実に明石の分身である明石艦はその計画設計の頃より当時最新鋭の工作艦であった米国海軍のメデューサ級工作艦を比較対照として設計され、同じ特務艦でありながらもオリジナルの艦体が明治生まれの朝日艦、そして当時帝国海軍に在籍していた工作艦である関東艦等はその手本にすらもなっていないのである。故にお船としても朝日と明石の分身は秘められた能力が根本的に違うのであり、お船の命である艦魂にあってももまた師匠格の者を目指すのではなく、それを遥かに超えた立ち位置に到達せねばならないというのが朝日の教えなのであった。
それは底知れぬ朝日という師匠の教え子に対する愛の形なのかも知れないが、明石にあっては感謝の念を持ちつつもその後に再開される英語のお勉強でまたまた四苦八苦する時間を味わうという事に等しかった。
軍医としても艦魂としてもこの朝日を唯一絶対の存在として尊敬する明石。声を荒げたりは絶対にせず、間違った知識を与えたり、他人を嘲り笑うことも絶対にない朝日を、観艦式前の宴で長門と話した時より明石は師匠以上の存在と慕ってきたが、今この瞬間にも自身へと浴びせられる愛情とそれに釣り合う厳しさもまた、確かに師弟の次元で与えられる物ではなかった。
『Now the rest ends. The class is restarted. Akasi.』
やがてティータイムを終えて発せられるのは、またしても規律の整った流れを備える朝日の英語。最初の挨拶ですら既に日本語は封印されているというその有様に、明石は解からないからと言って一切の甘えも妥協も許されない授業で自分は励むしかないのだと腹を括る。その後も彼女は例に漏れず何度と無く回答に詰まり、涙と鼻水で顔を湿らせながら懸命に英語を学ぶ時間を過ごす事になった。
その姿はまだまだ「一流の淑女」には程遠い。明石もまた直接声で諭されなくとも、そんな自分の身の程を朝日によって思い知らされたのだった。
厳しい母だった。