第八九話 「かぶき者の血統/後編」
不意な師匠の質問を受けた明石は、手元に下げていた視線を上げて朝日の顔を目に映す。朝日はその青い瞳をつぶらにして明石の手元をじっと眺めており、師匠による突然の質問の対象が瞬時に把握できなかった明石も同様に自身の手がある薬箱の中を見てみた。
いつも見慣れた自身の薬箱はチーク材のような明るい黄色が目立つ木製の大きな箱で、開け閉めの為に取っ手が蓋に付いた物。艦魂社会では軍医の立場を頂く明石としては商売道具でもあり、結構大事に使っている事から目立つような傷もなくニスの光沢も眩しい綺麗な箱だ。蓋の裏に付いたポケットには常に在中のお薬やガーゼといった医薬品の数を正確に記しているメモが挟まれ、長方形の箱の方に沿って平行、または垂直に並べられた薬の瓶の列に折り畳んだ包帯、医療用のハサミ等が整然と収納されて明石の綺麗好きな性分を代弁している。
そんな薬箱は明石にしたらいつも通りと言えばいつも通りなのだが、弦楽器の様な響きの良い声を静かに放ちながら師匠は人差指で薬箱の隅っこを示す。
『ここ変色してるけど、何か薬品を溢したの、明石?』
『あ、はい。これは─。』
ともすれば薬箱の不衛生を指摘しようとしている様にも予想できるお師匠様の声であったが、明石は尋ねられた薬箱の変色に関しては大きく動揺する事もなく応じてみせる。もちろん規律正しい木目の流れで包まれる薬箱の中にあって白く変色した部分があるのは見てくれが悪いものの、既に変色が薬箱の中に見た目以外の影響を残していない事を知っているのと同時に、変色したそもそもの理由を朝日が正確に見抜いている事から、明石はその卓見にただただ安堵にも似た静かな感心を得て声を返す。同時に薬箱の中から明石の手によって引き抜かれた一つの瓶が、朝日に対する明石の返答の内容を物語っていた。
『霞の治療をする時、消毒の為にこれを薄めて使ったんですけど、朝日さんが言う通りちょっと溢しちゃったんです。えへへ・・・。』
『あら。それ、過酸化水素水じゃない。珍しい物を持ってるのね、明石。』
何やら小難しい薬品名を言い当てる朝日が声を放ち、明石はそれを受けて両端が吊り上がった唇の隙間より白い歯を覗かせる。明石の手に握られた無色透明の液体が入った瓶がそれらしいのだが、医薬品の知識にはさっぱりな霞と霰はその薬品と明石の薬箱の変色具合に何の関係があるのかトンと良く解からない。ようやくお叱りとお仕置きの時間を終えた神通と、涙目でタンコブが連なった頭を両手で抑えた雪風もまた、自分達の知識が追いつかない医薬品のアレコレにて語り合う師弟の会話へと耳を傾ける。
するとちょうど明石が事の仔細を朝日へと説明し始めた。
『えへへ。これ、消毒で使ったんです。私の艦の軍医長さんが医療物品の点検やってる時、少しだけこの瓶に移してきたんですよ。それで霞の捻挫の処置にも使ったんですけど、薄める時にちょっと溢しちゃって・・・。』
『ああ、腐食性がとても強いのよね、それ。』
『はい。あ、でも、真水で薄めれば消毒の効果はやっぱり高いみたいです。』
会話の途中で徐に朝日は明石へと右手を伸ばし、明石はそれに気付くや過酸化水素水の入った瓶をそっと手渡す。木の表面を変色させる程の効果を持つ液体を溢してしまったという明石の不注意はそこそこに危険と背中合わせな感じもあるが、師匠としてそれを耳にする朝日は青い瞳を細くして笑顔で頷くだけで、明石から大きめのコップと同じくらいの大きさのガラス瓶を手渡されるやまじまじとそれを眺める。瓶の側面に張られたラベルには鉛筆で書かれた教え子の文字で、「過酸化水素水 昭十五、一〇、七」と銘打たれている。後半の文字は調達した日時であるらしく、続けて正面より木霊してくる教え子の言葉も手伝って、天真爛漫で無邪気ながらも割と管理事には細かかったりするという明石の性格が朝日にはよく理解できた。
『目分量も測って、だいたい濃度を3パーセントくらいにして使ってるんです。看護科で保管してる参考書を見て知りました。』
『まあ、よく勉強してるじゃない。感心ね。お勉強とティーの味にはより良い物を目指す貪欲さが一番必要なのよ。』
『は、はい!』
今日はお師匠様から褒められっぱなしの明石は、何時にも増してその声に元気がある。コツコツ日々のお勉強に励み、未熟さを思い知りながらもいつもその後には挽回の努力を注いできた彼女の苦労も、事ここに至ってやっと良い評価が貰えたのだから無理も無い。いつも喉を通す度に暖かな潤いを楽しめる朝日の紅茶に例えられたのもまた嬉しい事だった。その内にお師匠様は手にしている瓶に詰まった薬品が持つ背中合わせの危険を一応の注意という形で明石に促すが、軍医である自分をサボらぬようにと頑張ってきた明石にあってはその点においても抜かりはない。
『明石。確かに消毒には効くけど、この過酸化水素水はさっきも言った通り腐食性がとても強いわ。濃度が高い状態で使うと皮膚が炎症を起こすし、可燃性でもあるから取り扱いと保管には気をつけなくてはダメよ。』
『はい、あとは眼球にも厳禁ですよね。保管もなるべく風通しが良くて涼しい所でやって、分解が進んでるようなら甲板で蓋を開けてから海に投棄するようにしてます。』
軍医としてのお勉強を、例え短い時間であっても師匠より明石はみっちり与えられている。霞の右足首の捻挫に代表される処置の仕方はもちろんの事、そもそもの症状と千差万別である負傷の状態、基本的な人体の構造、各種医療器具の使い方、そして使用する薬品類にあってもそれは同じである。鉄や木といった堅牢な物質を組成とする分身を持つ艦魂であるから、人間の様に病気に掛かったりする事は無いのだが、いわゆる怪我に対してはその限りではない。切り傷を負えば血が流れるし、思いっきり強い衝撃を受ければその部位の骨が折れるし、変な捻り方をすれば霞の様に捻挫という負傷を負う。そしてその際の治療にあっては、ただ包帯を巻けば治る等と生易しい物ではない。処置の仕方も山の様にあり、使用する薬品類も塗って終わりというような簡単さは無く、多様な科学知識にしっかり裏づけされた対処が必要なのである。二人が話題に上げている過酸化水素水にしても、その素性がどんな物でどんな物質であるのかを明石はちゃんと学んだ上で使っているのであり、ただ人間の真似をしている訳ではないのだ。
「良い悪いの評価は二の次、試行錯誤の過程と結果が大切」という朝日の教育姿勢の賜物であり、過酸化水素水が高い温度で保管されると分解が進み、さらにその結果として酸素が出るという特性への対処は明石の述べた普段の取り扱いで見事に解決されていた。故にその結果が良く教え子に反映されている事を確認できた朝日の顔もまた、これ以上無いくらいの満面の笑みとなる。艦魂としてはもう既に老練な年代に入る朝日であるから教えを諭した後輩の成長は嬉しくてならず、思わず大きく頷いて声を放ってしまう。
『うん。・・・よし。』
『は、はぁい!』
すっかり上機嫌になっているお師匠様の姿に明石は鼻が高くなってしまう。先程の神通の態度にもあるように、明石の師匠である朝日とは現代の艦魂達が一様にその姿勢を正す人物なのであり、直接の教えを請いだ者である明石や長門にしたら罰当たりなのかもしれないが陛下と同じ現人神にも等しい。そんな朝日に気心知れた神通を始めとする仲間達の前で褒められた事は、明石としては無情の喜びでもある。その為に明石の返事には信号汽笛をも思わせるトーンが宿り、神通とその部下達はいつも見慣れている明石なりの凄さを知って目を点にしてしまう。無論、神通達のその視線もまた明石の胸に高揚感を募らせていくのだった。
『あ、あの、明石さん。軍医中将。ちょっと良いスか?』
ふと声を放って朝日と明石の間にひょっこり顔を覗かせてきたのは、怖い怖い上司のげんこつによる鈍痛がまだ残るのか頭のてっぺんを軍帽の上から擦っている雪風だ。涙目だった顔からも湿っぽさは消え、その背後にて腕を組んでいる神通が声を掛けるもやんわりそれを制してくれた朝日に促される事によって雪風の大きな釣り目は輝きだす。
『おい、犬、失礼だろうが。滅多な事で話しかけるもんじゃない。』
『ふふふ。良いのよ、神通。雪風、なにかしら?』
『はい。あの、よく解かんないスけど、消毒に使うその薬って色が変わるんスか?』
ついさっきまで耳にしていた朝日と明石の会話から、その発起点でもある薬箱の変色の事を簡単に掻い摘んで雪風は尋ねてくる。ただ明石や朝日の様に過酸化水素水の持つ特性をしっかり理解できていない彼女の疑問はちょっとその内容に間違いがあり、まだまだ未熟な10代後半の少女の容姿を持ついかにも雪風らしい疑問である。部屋の中にいる霞や霰等と供に励んでいる私立神通学校でも中々学ぶ機会の無い化学薬品の知識であるから無理も無い事で、朝日と明石はその間違いを正すと同時に、懇切丁寧に朝日の手にあるガラス瓶の中に入った液体について教えてあげた。
『色が変わるんじゃないよ、雪風。敢えて言えば、脱色とか漂白って言う方が近いかな。』
『明石の言う通りよ、雪風。酸化還元反応っていう化学反応で、物質が持つ色合いの基である色素が分解されるの。染物の色が水洗いで落ちるのと感覚的には同じで、色が変わるんじゃなくて抜けると言った方が正しいわ。』
『はは〜ん、そういう事ッスかぁ。』
心優しい朝日と明石に声を返しつつ、雪風は胡坐を掻くや腕組みをして何度か深く頷いてみせる。本当にいま言われた事が理解できているのかと神通や霞、霰が疑いの眼差しを向ける中で、何やら片方の口元を吊り上げてどこか意地悪な少年の笑みにも似た表情を浮かべる。実の所、二水戦でも指折りの秀才である雪風は柔軟なその思考で朝日と明石が述べた過酸化水素水の特性を相応に把握できているのだが、生来がやんちゃで上司のお仕置き被弾率も戦隊トップの成績を納める彼女であるから、その背中に指を向けながら霞や霰がヒソヒソ声で怪しむのも無理のない事である。
すると雪風は天井の一角に瞳を向けながら何度目かの頷きを終えた後、輝きが失せていないその大きな釣り目を再び眼前の朝日と明石に向けて声を放つ。
『てぇ事はッスね。服の汚れ落としとか、そういうのには向いてるって事なんスか? その薬。』
10代後半の容姿を持ち、事実この今現在この部屋の中にいる者達の中では最年少に当たる雪風。胡坐を掻いて胸の前で腕を組むという年寄り臭い格好ながら、上半身を前へと倒して近づけてくる顔には、今か今かと答えを待つ彼女の猫どころか虎をも殺しかねない程の好奇心が良く表われていた。その上で尋ねてきた内容もまた朝日と明石が説明した事を良く理解されている事を示しており、現実に雪風が口にした汚れ落としに対して過酸化水素水は使用されているのだった。
『ええ、その通り。過酸化水素水の持つ酸化還元反応を利用した良い例はお洗濯よ。落ち難い汚れを落とす漂白剤として用いるの。雪風のような駆逐艦では配属されていないのだけれど、巡洋艦以上の軍艦や私や明石の様な特務艦、それと艦隊や戦隊の司令部が置かれている艦艇にはお洗濯を専門にする軍属の乗組員が配属されてて、たまにその人達が使っていたりしてるわ。』
『へぇええ〜。アタイ、知らなかったッス。』
朝日は雪風の考察を正しいとしてくれるのに併せ、捕捉として実際に自分達の身近にて使用されている事とそれがどんな場所で使われているのかを解かりやすく説明してくれた。
お洗濯に使っていたのはそれを目の前で耳にしていた明石も知っていたが、彼女は今の今までお洗濯を担当する乗組員が自身の分身の中に常にいた事から、帝国海軍艦艇ならどの艦艇にも必ずいる存在なのだと思っていた。だがそれは特務艦と類別される分身を持つ明石にあっては運が良かっただけに過ぎず、現実には朝日の言葉にあった様に艦艇としてそこそこの規模を持っている、いわゆる狭義の軍艦に当たる艦艇と特務艦、次いで艦隊や戦隊の司令部をその身に宿している艦艇に限定されている物なのである。
まず日本近海で活動しているそれらの艦艇では、基本的に理髪を担当する剃夫と呼ばれる人員が艦固有の乗組員200名に1人の割合で配属され、さらにその中の剃夫1名に代わって洗濯に従事する洗濯夫が1名配属されるようになっている。また、先頃まで上海に派遣されていた朝日の分身等は外国航路にて従事中の艦艇として識別される事から剃夫の人員枠で代用する事無く無条件で1名の洗濯夫の配属が許可され、神通のように部隊の司令部を宿していれば洗濯夫の補助を担当する従僕と呼ばれる人員をさらに1名追加できる。これらは全て海軍内に適用される法令や規則にてちゃんと決められているのだ。
瞬きも忘れて知識を吸収する雪風の表情に誘われ、朝日はその事を後追いの形で説明していく。感心の溜め息を連発する雪風の背後では霞と霰も同じ表情で耳を傾けており、同じ帝国海軍なのに見た事すらも無い軍属の乗組員さんの事情を3人の少女達は深く理解する事が出来た。彼女らに教えを授けるのは自分の仕事として自負している神通も、この時ばかりは懇切丁寧にして解かりやすい授業時間を展開してみせた大先輩、朝日の態度に感服する。教育者として日々精進を忘れない神通にしたら今日の朝日は私立神通学校に来訪した特別講師の様な存在で、なまじこの朝日は今しがた教えてくれた軍属の人員に関する法令が帝国海軍の中で時代に沿って整備されていく過程をその目で見てきた生き字引たる者である。本や書類で得た知識を教える事も多い神通にとってその声は説得力に満ち満ちた物であり、教えを授ける者としての非常に良い例を目と鼻の先で見れた事は彼女の中では大きい収穫だった。
むぅ・・・、さすが軍医中将。恐れ入った。
声には出さずに飲み込んだそんな言葉は、神通の中で朝日に対する尊敬の念を一層深い物にしていく。顔色一つ変えずに鋭い瞳の形をそのままにしていた事から誰も神通の胸の内には気付かなかったが、第二艦隊での日常では上官相手でも食って掛かる彼女がこれ程までに感服する様子は非常に希である。やっぱり朝日は凄い人物だ。
明石もまた朝日の博識さを改めて実感し、本当に自分は良い師匠を得たと感動。教え子なりの喜びが胸いっぱいに広がり、輝きが増した熱いまなざしを師匠の横顔へと向け続けていた。
そんな中、後輩達に反して自身の凄さを見せ付けるつもりは微塵も無かった朝日は、食い入るようにして何度も頷く雪風が自分の言葉をしっかり理解してくれたのだなとは理解しつつも、そもこの少女が何故に医薬品である過酸化水素水に興味を抱いたのかをふと疑問に思った。艦魂社会では軍医の立場を頂く自分や教え子の明石なら商売道具の一つと言えるのかも知れないが、第一線で派手に戦場を駆け巡る戦闘艦の艦魂である雪風の立場を鑑みると使用頻度は決して高い物ではない。ましてその前の明石とのやりとりでも示されている通り、この薬品を扱う事に関してはそれ相応の専門知識がそこそこに必要であるし、間違えたなら怪我を負う事だって考えられる危険も含んでいるのだ。
しかし朝日がそんな疑問を脳裏に抱く最中も、雪風は波打った前髪の下にあるその大きな三角形の目を爛々と輝かせて朝日の手に握られたガラス瓶に向けており、どうにもその魂胆が理解できなかった事から朝日は直接本人に尋ねてみる事にした。
『ねえ、雪風。これはさっきも言ったように、使い方も管理の仕方も手間の掛かる代物よ。どうして雪風はこの薬品の事を聞いてきたの?』
至極ごもっともにして非常に素朴な疑問。
声を放つ側の朝日と受け取る側の雪風は別として、朝日という大先輩の凄さを各々が噛み締めていた手前、明石も神通もそれまで雪風がどうして突如として過酸化水素水なる小難しい名前の薬品に興味をもったかなぞちっとも思考を巡らせる事は無かった。特に神通は上司として、またかつての自分と容姿が瓜二つな事から特に目を掛けた部下として接してきた中で、雪風と医薬品との間に接点を見出す事が出来ない。確かにお勉強も出来る方ではあるものの、別に雪風は看護術や医学を志しているような素振りも無ければ、神通の分身に搭載されている航空機用の揮発油の匂いを嗅ぐのが好きであったりしてもそれが高じた化学薬品オタクな訳でもないのだ。
今更ながらにその事に気付き、部屋にいる者達は雪風から放たれる朝日への回答に耳を澄ます。
『はい。実はこの間、牛缶の汁を服に溢しちゃったんスけど、これが中々落とすの大変なもんで、なんか手早く落とせる方法をちょうど探してたんスよ。』
『ああ、それでこの過酸化水素水が使えるのかって考えたのね。』
普段の生活での失態を隠す事も無く雪風は声に変えて、朝日の問いに対する回答とする。ちょっとした手違いは朝日だって未だに犯す事はあるのだから、彼女は雪風の言葉を受けるや優しく笑って賛同するように頷いてみせた。流麗な線のみで作られるその表情と西洋人独特の美しい琥珀色の髪の輝きが更に映え、雪風もまた偉大な大先輩に理解を得て貰えた様子を喜ぶように笑う。
だがそんな雪風のなごやかな時間はすぐに終わった。
『馬鹿者が! 何が手早く落とせる方法だ! そんな物は手揉みの洗濯でなんとかせんか!』
『ぅぎゃっ!』
全くの無防備となっている彼女の頭には、背後よりツカツカと近づいてきた怖い怖い上司の怒号とげんこつが叩き落された。雪風としては便利で効率的にも優れた過酸化水素水での汚れ落としを否とされたのはちょっと意外で、頭の中でぐわんぐわんと鳴り響くような鈍痛に奥歯を噛み締めながら漂白剤の導入を上司に願い出てみる。だがそれに返されてきたのは、上司自身がかつて、今の雪風と同じ状況で洗濯という事態に対処せねばならなかった頃のお話であった。
『せ、戦隊長。一応アタイも洗濯はしたんスけど落ちないんスよぉ。あんなんじゃ日が暮れるどころか、次の日の朝までかかるッスぅ・・・。あいでで・・・。』
『だったら朝までやればいいだろうが! 私だって親方の下にいた時は朝まで洗濯したんだ! 自分で出来る事を最後までせんで最初から便利な方法なんか探すな! この馬鹿が!』
『ぎゃ!』
本日4度目のげんこつを貰った雪風の頭にはみるみるタンコブが重なっていく。ポカリポカリと叩かれるその様は明石と朝日にとってはなんだか微笑ましい光景であったが、当の本人達、特に叩かれる側の雪風にしたらとんでもないお話である。今日は朝日という大先輩の前という建前もあるからか、上司から振り下ろされるげんこつの鋭さは一回り増している。おまけに短時間の内にそれを4発も脳天に食らっているのだから、頭のてっぺんに走る激痛も生半可な物ではない。その痛みは雪風に、眼前にて笑っている明石と朝日という師弟の姿に向けられるちょっとした羨望を与え、同時にそれに反して何故に自分の師匠はこうもまたおっかなくて暴力的なお方なのかという不条理を少し募らせた。
ただそれでも雪風はさっきの様に弁明の言葉を返したりする事は無く、思った事を極めて率直に口に出す性格に背を押されて上司への不平を真正面からぶつけるような事も無い。もちろん反抗したならどうなるかをこれまでの私立神通学校の日々でしこたま身体で教え込まれた手前もあるのだが、お叱りの言葉の中にあった師匠自身の過去を述べた短いお言葉の意味を察する事ができた為でもあった。
先日の柔道大会に備える際に霞と供にせがんで本人の口から聞かせて貰った神通の下積み時代。背も高く力も強く、教える物事に一点の間違いも無いと雪風達が信じる神通は、現代よりももっと怖くてもっと厳しい金剛という名の師匠を得て育てられたのであり、神通は召使いの様にコキ使われながら師匠との日々を過ごしていた苦労の記憶を教え子達に聞かせてくれた。そしてその中で、落ち難い汚れだろうがなんだろうが『白くしろ。』の一言で朝まで甲板で独り洗濯に励んだお話を、雪風もしっかりと耳に刻んでいたのである。
だから今しがた雪風が受け取ったのは理想や精神論を柱にした姿勢の押し付けではなく、師匠自身が汗と涙と血の滲むような努力を注ぎ込んで得た生の経験であり、辛く面倒な物事に対しても楽をせず手も抜かずに相対するという励み方の一つなのである。生まれたばかりで未熟な雪風には、それを否定できるだけの理屈も度胸も、そして声を染める説得力も無いのであった。
『ぐひんっ・・・。』
こうなると鼻っ柱の強い雪風とて抗う事は出来ず、頭に残る鈍痛の重みが一段と増してくる。持ち前の大きな釣り目の端っこに涙を浮かべ、両手で頭のタンコブを抑えながら歯を食い縛って耐えるのみである。ちょっとでも失言や教え子の未熟っぷりを目にするとすぐさまこうやってビシバシとげんこつを飛ばしてシゴくのが、彼女を始めとする二水戦の少女達が教えを請う神通という艦魂。やっぱり厳しい師匠だった。
朝日と明石も迫力ある神通の上司っぷりにちょっと苦笑いしつつ、厳しいながらも言ってる事は正しいその教育風景を察して静かに笑みを合わせる。次いで経験豊富な朝日はタンコブを擦って僅かに俯く雪風に語りかけ、彼女が企図した汚れ落としに対する薬品類の使用に関して、叱られたばかりの雪風の心を折らぬ様に注意しながら意見を述べ始めた。
『ふふふ、雪風。さっきも言ったように過酸化水素水は取り扱いが難しいから、ただ洗濯水に混ぜるだけではとても使える様な物ではないわ。他に身近な物で漂白や脱色できる物にはビールがあるのだけど・・・。』
『お!? び、ビールも使えるんスか!?』
『ふっふふふ。でもビールで洗っても服は水が染み込むでしょう? だから乾かした後は物凄く臭いわよ。念入りに石鹸水で洗えばもちろん臭気はとれるんだけど、でもそれだったら最初から念入りに手揉みで洗濯する方が早いわよね。』
『あちゃ・・・。そ、そッスねぇ・・・。』
他人への思いやりを常に忘れない朝日の語りは雪風に賛同するかのように他の案を提示しつつも、最終的には神通の言う様に時間をかけて頑張るという方向へ誘う。西洋人独特の両手を胸の前で大きく動かし、絶える事の無い優しげな笑みで話す朝日に声は雪風のベソを掻く寸前だった心をも救い、雪風はようやく服の汚れ落としへの対処法を心に決める事ができた。
『しょうが無いッスよね。なんとか朝まで頑張ってみるッス。』
『あ、雪風。ウチも手伝うてあげるわぁ。二人でやれば朝まで時間もかからへんやろし。』
ようやく腹をくくった雪風の声に重なるようにして、横たる霞の隣で座っていた霰の声が発せられる。二水戦の中でも一番のお人好しである霰の鼻から息が抜けたような声は力強さこそ無いのだが、怒られたばかりの脆い心で成した雪風の決心に外側から堅固さを与えていくのには十分で、二人はお互いに笑みを合わせてその友情を確認し合う。この時、神通は本当なら雪風の放った『しょうが無い。』の一言に本日5度目のげんこつを放とうとしていたのだが、雪風の声が響くと即座に霰が声を掛け、なおかつ二人が笑い合うや大先輩が再び笑って声を放った事に際してお叱りの機を逃してしまう。そしてもう一つ、その大先輩が放った言葉はこの神通ですらも耳にした事の無い彼女自身の師匠にあたる者の過去を含んでおり、初めて耳にして得た驚きを曇りなく表情に浮べるのだった。
『あははは。雪風はなにか金剛に似てるわね。あの子、まだ私達が現役で艦隊に所属してた頃なんだけど、髪の色を私と同じにしたいから変色する薬品を知らないかって私に尋ねてきた事があったの。』
『は・・・? お、親方が、ですか・・・?』
『ええ。神通と出会った頃はもうだいぶ大人になってたけど、日本に来た頃の金剛はとにかく言う事を聞かない子でもう大変だったのよ。』
天井に向けた手の平を肩の高さで掲げ、朝日は記憶に残る金剛が手に余る者であった事を示してみせる。その後に続いて朝日が語ってくれた内容を、雪風を始めとする少女達や明石、そしてその金剛に艦魂としてのありとあらゆる教育を施された神通は目を丸くして耳を傾けるが、聞く所に依ると金剛は朝日と柔道の試合をしてコテンパンに負けた後、朝日を慕う余り持ち前の美しいサンディブロンドを黒めに染めて朝日と同じ少し赤みがかった琥珀色に変えようとしたのだという。甚だ激しいその気性に反し、金剛の白とも黄色ともつかない美しい金髪は当時から朝日や教育係の敷島を始めとする艦魂達からは羨望の目で見られた物で、特に金髪碧眼という西洋人らしい、もとい英国人らしい身体的な特徴に内心で抱く理想の面で執着があった富士などは大層気に入っていたらしい。しかし当の金剛は憧れる物を目にすると全力突進というそのイノシシばりな性格に火を灯し、煙突に登るやそこから出てくる煤煙を頭に浴びせて自身の髪に黒の色合いを与えようとしていたのだという。
『うはははは! おもしれー! 金剛少将もあったんスね、そういう所!』
『あははは! そんな事してたんだ、金剛さん! あ〜はっはっは!』
間近でそれを聞いた明石と雪風は大爆笑で、ただでさえ怖い怖い人柄が今では前面に出ている金剛の印象がそれぞれの胸の中では大きかった事から、その激しい落差が面白くて面白くて仕方なかった。少し離れた位置では霞と霰も口に手を当ててクスクスと笑っている。話した朝日もまた当時の記憶を辿って在りのままの可笑しさが紡ぐ笑い声を唇の間から漏らしており、唯一神通だけが今まで知る事のなかった畏敬する師匠への思いを募らせて沈んだ声を放つ。
『親方・・・。』
溜め息と一緒になって流れた声を放ちながら、神通は額に片手を添えて疲れたような表情で目を閉じる。元来神通は突飛な行動や考えを好む人柄ではなく、極めて打算的、合理的に物事を捉えるといういわゆる理系肌の人物であり、些か気が短くて度胸がある点の他は割りと普通なお人である。もっともその二つの点が余りにも傑出し過ぎているが為に帝国艦魂の艦魂社会では超がつく程の嫌われ者になっている事もまた事実ではあるが、他人と同じ物を嫌うという雪風のへそ曲がりっぷりとそこから生まれる突飛な行動には何度もげんこつを落としてきた。ところがどっこい、直の教え子どころかなんと自身の師匠もまたそういう血を持っていたという事に、この時、神通は落胆とも呆れともとれる思いが募って文字通り頭を抱えたのだった。
『ふふふふ。まあ、さすがにそれはやりすぎね。金剛はすぐに敷島姉さんに引きずり降ろされて、富士先輩と敷島姉さんからもう散々に怒られたのよ。懐かしいわねぇ。髪はそんなに簡単に色が染みる事は無いから結局金剛の髪は黒くならずに済んだんだけど、口を尖らせながら涙目だった金剛の顔は今でも思い出せるわ。ふふふふ。』
約一名以外にとっては腹の底から笑える時間をそれぞれが楽しみ、お叱りの怒号とげんこつでちょっと重苦しかった部屋は舷窓から注がれてくる陽の光が強くなった事もあって瞬時に明るくなる。もちろんそれは部屋中に木霊する笑い声の音階にも反映されていき、下は艦齢2年から上は41年に及ぶ者達の笑い声はしばらく霞艦の一室を占領する。神通だけがただ一人、胸の中にあった師匠への尊敬の山がガラガラと崩れ掛ける様を憂いでいたのであった。
それからしばらくした後、霞の治療も終わっていつもの教育を行う為もあり、明石と朝日の二人は別れの挨拶を済ますと二水戦の者達を残して朝日艦へと帰っていく。
霞や霰、そしてお叱りと教えを両方貰えた雪風らは今日が朝日とは初めての対面であったが、麗しく高貴なその人とナリを十分に知って元気な挨拶を返して見送った。だが何やら片方の口元を吊り上げてニヤニヤしている雪風の顔に気づいた神通は、朝日達が扉を閉めた後に雪風頭を上から鷲掴みするようにして手を乗せて切れ味の鋭い声をかける。
『犬・・・、お前まだ何かロクでもない事を考えてるんじゃないだろうな・・・?』
どうにもヘソ曲がりな雪風の胸の内が気になってしまう神通は、ついさっきまで自身の師匠にあたる金剛の過去を聞いていた事から、また雪風がお洗濯への決心を変えて楽な手段を取ろうとしているのではないかと怪しんだのである。一応神通に対して反抗はしてこないが、とにかくやる事なす事が他人と同じというのを極端に嫌うこの雪風は、艦魂に限らず世間一般の当たり前の事である先輩への口の利き方ですらも満足に守れない二水戦きっての大問題児なのだ。
しかし本人にあってはそんな上司の疑いも屁とも思っていないらしく、そもそも彼女は疑われたお洗濯に関しては決心を全く変えてはいない。雪風はすぐさま大きな声で声を返し、上司の心配を暗に否定してみせる。
『あ、大丈夫ッスよ、戦隊長。洗濯は霰も手伝ってくれるそうスから、なんとか頑張ってやってみるッス。それに戦隊長も昔は実際にやったんスよね? んなら教え子のアタイもやるだけやってみるッスよ。』
『む・・・。そ、そうか。』
最近は神通という気難しい上司には慣れてきた雪風は、自分達二水戦所属の駆逐艦の艦魂達が自ら「教え子」という言葉で自身を示すと、神通のお叱りの矛先が幾分丸くなるのを知っている。雪風もまたその事から言葉を選んで声を変えし、神通は彼女の意図した通りに何か教育者たる者の優越感とも似た気持ちが湧いてきて機嫌の角度を斜めから少し垂直に戻す。
こうしてお叱りも5発めのげんこつも無く霞の見舞いは終わり、4人はその場で別れる事になるのだが、この時、雪風のニヤニヤとした顔と『フヒヒ・・・。』という奇妙な笑い声に気付く者は誰一人としていなかった。
そして数日経った、昭和15年11月15日。
ついにこの日、連合艦隊所属の全艦艇を対象とした大規模編成見直しが発令となり、呉在泊の各艦の艦長さんや戦隊の司令官らは各々が隷下とする人員や艦艇の把握と調整にてんやわんやの一日を送り始める。連合艦隊としても南洋方面を担当していた独立艦隊の第四艦隊、そして今まではその主戦力を潜水艦によって成されていた第六艦隊が戦闘序列に加わる事になり、帝国海軍史上希に見る大所帯となった。
艦魂達も人間達も以前より増してさらに強大になった連合艦隊の精強ぶりに胸を躍らせるが、朝日はこれを知った時、上海で友人の出雲が示した憂いが早くも現実味を帯びたのでは思えて、しばらく自室で押し黙っての懊悩の時間を過ごすのだった。
その一方、今日から新たな仲間も加わる二水戦の艦魂達は全員が戦隊旗艦である神通艦の艦尾甲板へと集合の上で整列し、艦の主にして「鬼の戦隊長」との異名をとる上司が来るのを待つ。雪風が司令駆逐艦を勤める16駆には黒潮に代わって天津風という妹が配属となり、その黒潮を転属した上で編成を完了した15駆も今日から晴れて二水戦の所属部隊である。
『返事は大きくだぞ。』
『呼ぶ時は戦隊長って呼べば大丈夫。』
『まあ、怖い艦魂だけどとっても良い艦魂でもあるからさ、早く名前覚えて貰うと良いよ。』
新たな仲間達はみんな陽炎型駆逐艦の姉妹艦であり、霞と同じ18駆を組んでいる陽炎の実の妹達。二水戦所属の艦艇の中では半数以上を占めるのが彼女達であるから、皆は何事も初めての妹達に励ましの声を掛ける。その光景を微笑を浮べて眺めるのは朝潮型駆逐艦である霰や、まだ松葉杖を伴っている霞も同じであった。だが霞はその視線をすぐ隣の列に向けて少し動かすや、微笑はすぐさま消え失せて目を点にしてしまう。
『なあ、霰・・・。アイツの方がなんか猿っぽくないか・・・?』
『あ〜、そ、そやな・・・。あはは・・・。や、やて、戦隊長が見はったらなんて言いはるやろか・・・。』
姉の囁くような声色での声を受けた霰は霞と同じ方に視線を向けるが、彼女は額に若干の汗を浮べながら困ったような苦笑いをする。姉に返した言葉にも滲んでいたように、彼女は目に映している代物が神通のお叱りに標的になるのではと内心では大いに心配しているのだった。
だがその刹那、霰の心配を他所に、各駆逐隊の司令駆逐艦である者を先頭にして少女達が3列で整列した甲板には、甲高い靴音と供に一際長身の上司が姿を現す。潮風に揺れる長い前髪の奥に日本刀を模したような鋭い目を鈍く輝かせ、今日もまたどこか不機嫌そうな表情で胸を張って歩いてくるのは、彼女達がただ一人の上司と仰ぐ人物である神通であった。
『気をつけ〜!』
神通が歩いてくる側に陣取った第18駆逐隊。その司令駆逐艦を今日から担当する霰が精一杯に叫んで号令を掛ける。少女達はすぐさま踵を揃え、胸を張りながらも僅かに顎を引いて凛々しい表情を一斉に浮かべた。新編成での第一日を、そして今日から始まるお仕事の日々を立派に迎えんとする少女達は微動だにしない直立不動の姿勢を維持し、神通は横目でそれを見ながら彼女達が身体を向ける隊列先頭前、中央の位置へと静かに足を運んでいく。
しかしこの時、左から順番に視線を流していた神通は、一番右側に整列している少女達の先頭に立つ者へと目を奪われる。
『ん・・・!?』
そこは今期の編成でも3隻編成のままである16駆の列であり、先頭に立つ者は16駆の司令駆逐艦である雪風なのだが、神通の瞳に映った少女は軍帽からはみ出すその特徴的な波打つクセ毛が色合いを今までとは、否、つい数日前のそれとは別にしているのである。神通を含めこの場にいるのは純日本生まれの艦艇を分身とする者達であり、その容姿は黒い髪を基調とする日本人の女性の特徴を持つ者ばかりなのが当然の事であるのに、なんと雪風の頭に乗った軍帽から流れ落ちる髪の色はまるで甲板に貼ったリノリウムのような明るめの茶色なのであった。
『い、犬・・・。お前、その髪・・・。』
『うッス。呉鎮最強の座も取ってみせたッスし、今期からはアタイも頑張るッスよ。その為に髪の色を変えてみたッス。軍医中将っぽくなってるッスかね?』
僅かに開いた唇を閉めるのも忘れて唖然とする上司を前に、雪風は早速顔を僅かに左右に振って肩に掛かるくらいの髪を宙に靡かせてみせる。瀬戸内の緩やかな潮風がその靡く様を優雅にし、降り注ぐ太陽の光は雪風の髪が持つ茶色の色合いを一層鮮やかにしてくれた。
『酒保倉庫から銀バイしてきたビールを洗面器に注いで、頭突っ込んでたら見事に脱色成功ッス。ずーっと四つん這いの格好で頭下げてるのは大変だったッスし、臭いもキツくて酷いモンだったッスけど、髪って簡単に染み込むような事は無いって軍医中将が言ってたッスから念入りに頭洗ったら臭いは取れたッス。』
大変にお勉強の出来る雪風は先日の霞の部屋でのやりとりをよく覚えていたらしい。その上でご立派にもそこで得た知識を実戦すべく行動し、その結果は今の彼女の髪の色に表れたのだという。雪風はニッと口元を吊り上げ、歯茎まで見えそうなくらいの笑みを輝かせていた。
だがその刹那、雪風の瞳に映る上司の長い前髪の奥には、対称的にギラリと危険な輝きを発する上司の瞳があった。瞬間的に雪風は笑みを凍りつかせるが既に時は遅い。いつもの如く、彼女の頭には振りかぶった上司のげんこつとお叱りの言葉が降下爆撃として降り注ぐ。
『こ、ここ、こんの馬鹿がぁあ!!!』
『ぎゃあ!!』
全力での正拳突きにも等しい軌道のげんこつは周りの少女達を仰け反らせ、雪風もまた余りのダメージに思考回路が一瞬停止。痛い等と感じる間もなく彼女の身体はその場に崩れ落ち掛けるが、その頭から軍帽がポトリと落ちてもそれ以上はご立腹の上司が許さない。その乱心ぶりにも等しい物凄い剣幕に今日から二水戦所属となる少女達が震え上がる中、烈火の如く怒った神通は小脇に抱えた雪風の頭を目掛けてげんこつを連発で叩き込んだ。
『貴様ぁあ! 天下の帝国海軍軍人が髪の色なぞ変えおって!! 良いと思ってんのかあ!!』
『ギャ! だ、だって軍医中将だって髪の色が─!』
『アレは地毛だ、この馬鹿が!!!』
二水戦にとっては新たな仲間を加えた上での良き旅立ちの日だというのに、完全にご立腹の神通がこうなっては最早誰も止める事は出来ない。むしろ止めるだけの勇気を振り絞れる者がいないと言った方が正しく、少女達はただ唖然として雪風の染物のように鮮やかな髪と上司のご乱心を眺めるだけである。
古き良き海軍軍人を標榜する神通であるからそのお叱りの声は久々に迫力のある者で、その内に突如として放たれた叫び声に霰は聞き返す事も抗う事も出来ずに従うしかなかった。
『霰ぇ!! 私の艦の中から石炭一つ持って来い! カラスより黒く染めてやる!!』
『ぎゃあ! か、勘弁してくださいよぉ! こ、金剛少将だって髪の色を・・・、ぐえ!!』
『馬鹿者が!! 親方がどうだろうと私は許さん!! おらぁあ!!』
みるみる内に雪風の頭には長門艦の艦橋を彷彿とさせるタンコブの山がそびえ始め、霰は神通の余りの剣幕に逃げるように神通艦の艦内へと走っていく。
その後、雪風は散々に頭をぶっ叩かれた挙句、石炭をこれでもかと押し付けられて髪を黒く染められてしまうが、翌日には頭を洗った事ですぐに黒い色は落ちてしまいまたまた叱られるハメになる。もっとも石炭を使っての染色は行う方の神通の手をも真っ黒にしてしまい掃除も大変な為、神通はお馬鹿な部下を引き連れて朝日の下へと赴いて雪風の髪の事を相談してみた。
大きなタンコブを頭のあちこちに作って泣きじゃくる雪風は朝日の目にはどう映ったのかは解からないが、朝日によると髪を染色する為の薬品というのは皆無なのだという。ただ髪は伸びればまた黒い毛が出現してくるとのお声を頂き、神通は問答無用で雪風の頭を丸刈りにでもしてやろうとバリカンまで持ち出す始末だったが、さしもにそれでは可哀想だという朝日のお言葉を聞き入れて取り止めとなる。
ただ帝国海軍随一の癇癪持ちであった神通の怒りは簡単に沸点を下回る事は無く、雪風はみんなが見ている前でこっ酷く竹刀でお尻を叩かれた末に、ある程度髪が伸びたら散髪するという事で許しを得る。雪風のお尻は青く腫れ上がるのは序の口で、それ以上の竹刀の一撃は腫れたお尻の皮が裂けるまでに及び、雪風は夜も眠れない程の激痛に歯を食いしばりながらの睡眠時間を過ごすハメとなる。しかし消灯した自分の部屋で布団にうつ伏せの格好で横たわる雪風は、あの金剛ですらも持てなかったという自分の欲する色合いの髪を涙で曇る視界に僅かに入れ、それでもなお苦痛に歪んだ笑みを浮べてみせるのだった。
意図してかせずか、直接の師匠を跨いで受け継いだ艦魂社会のかぶき者の血統を、彼女はこうして発揮したのであった。