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第八八話 「かぶき者の血統/前編」

 昭和15年11月12日、朝。


 明石(あかし)朝日(あさひ)は呉軍港の一角にて繋留される駆逐艦群の内の一隻へと足を運ぶ。小さな艦体を持つ故に駆逐艦は同じ駆逐隊や同型艦らの間で隣り合う形で連繋され、それぞれの甲板の上を渡した1メートル程の木の板を渡り廊下として両隣に位置する艦へと行き来できるようになっている。故に朝日艦にて会合した師弟はそこから一番近い駆逐艦の甲板へとまずは転移し、その後は各々の艦が両舷に持つ狭い甲板と渡し板を伝って目的の艦へと歩みを進めていった。

 駆逐艦は同型艦が多い事からどの艦が何という名前の艦なのかを傍から見分けるのは大変で、明石は朝日の後ろをついて行きながらも隣の艦へと渡された板の上から乾舷に大きく書かれたカタカナを確認していく。やがてその内に明石はお目当ての艦名が書かれた駆逐艦へと辿り着き、すぐ前を進む師匠に連絡。二人はそのまま歩みを止めた艦の艦内へと降りていった。

 人間達には決して聞えぬ靴音が薄れていく中、隣り合う駆逐艦の隙間にある狭い波間、陽の光すらも僅かしか入っていかないその波間にある乾舷には、白い塗料で大きくこう書かれていた。


「カスミ」






 そのまま明石と朝日は艦内の艦首付近にある倉庫へと足を運び、その部屋を寝床とするこの艦の主、(かすみ)へと挨拶する。

 先日の柔道大会で重度の捻挫を負ってしまった彼女は痛みもだいぶ引いたのか来訪した上官2名に笑みを向けてくるが、甚だ失礼とは彼女自身承知しつつも立ち上がっての直立不動の姿勢で応じる事はまだ出来ない。包帯が念入りに巻きつけられた霞の右足は艦内にて余っていた木製の椅子を利用して宙に吊り下げられており、枕元には厠や食事の調達に向かう際の松葉杖が立てかけられている。どちらも艦魂の世界では滅多にお目にかかれない物であったが、軍医である明石の分身にある木具工場にて霞の上司の神通(じんつう)と明石が一生懸命作ってくれた物であった。

 その事から霞は、友人であり適切な治療をしてくれる上官でもある明石の顔を見るや、陽に焼けたような麻色の顔に白い歯を輝かせて元気の良い挨拶をしてみせる。ただその上で今日はつい先日帰ってきたばかりの明石の師匠、朝日までも駆けつけてくれたのだから、霞としては嬉しさ半分、寝ているのが少し申し訳ない気持ち半分であった。

 対して朝日はこの霞の処置が非常に的を得た正確な代物である事を一目で見抜き、明石を褒めながら霞の右足を確認すべく自身の手で包帯を巻き取っていく。


『安静にするのは勿論だけど、冷却と圧迫、それと固定の上での挙上が上手く出来たようね。怪我の処置は負傷後の応急処置における成否がその後の治療にも響いてくる物よ。その意味ではとても的確で効果的な対応ができてるわ。よくやったわ、明石。』

『は、はい!』


 尊敬する師匠に霞という第三者が見ている前で褒められた事は、明石にとっては大きい物だ。つい昨日の室内礼での柔らかなお叱りの件でも明白となった明石の未熟さはこれまでの艦隊訓練の中でも常に思い知る機会が多くあった物で、霞は明石の友人の一人としてそれを間近で目にしてきた経緯もある。おまけにその思い知らされる機会というのは明石の親友にして霞の上司である神通がいつも一緒にその場におり、この人の苛烈な性格を考えれば尻を叩かれ、げんこつを頂戴して味わった思い出である事は想像に難くない。観艦式前の晩餐会の時などは皆が見ている前で「田舎娘」と大笑いされる程の始末である。

 その度に自身の至らぬ点を克服しようと時に涙しながら頑張ってきた明石であるから、朝日の声を受けてやっとその苦労が報われるという物。そもその頑張る際に必死に胸の中で叫んだ『艦魂たる者は一流の淑女(レディ)でなければならない。』という言葉を与えたのが、舷窓から帯となって降り注ぐ陽の光によって今日もまた琥珀色の髪を美しく輝かせている師匠、朝日なのである。緩く握った拳を肩の高さで掲げ、噛み締めるように笑みに力を込める明石の仕草も無理の無い事であった。


 その後ほどなくして、包帯の取れた霞の右足に青く透き通った瞳を向ける朝日。明石も師匠の背後から覗き込む様にして視線を向け、師匠と供に霞の右足の状態を診断する。さしもに患部を動かすとまだ残る痛みがその度合いを一挙に発散し、霞はちょっとだけ奥歯を噛んで屈託の無い元気なその微笑を歪める。


『あ、ごめんなさいね。』

『んぎっ・・・。だ、大丈夫です・・・。』


 患者の表情も大事な診断材料としている朝日は霞に流し目で詫びの言葉を放つが、霞としては初めて間近に接した朝日という艦魂としての大先輩の姿に気圧されてそれ以上の言葉が出てこない。それは決して朝日が怖そうだとかそういう類の物では無く、唇の動きやちょっとした髪の流れ具合がこれまでに見た事も無いくらいに綺麗な物であったからで、美しさという言葉が体言された朝日の外見に良い意味での威圧を感じてしまったのである。なまじ見慣れない西洋人の顔立ちを持つ朝日の姿は、同じ第一種軍装を身に付けている弟子の明石、そして常に霞が教えを請いで来た神通とは並列に置いて比べるのもおこがましい程に霞には思えた。

 すると突如としてそんな朝日は手でそっと掲げた右足首より霞の顔へと両目を向け、片側にホクロを控える口元を柔らかく緩めながら声を掛けてくる。


『ふふふ。これはお友達の?』


 涼やかながらも優しさという温もりで満ちる声でそう言った朝日は、声に続いて先程霞の右足首から巻き取ったばかりの包帯をもう片方で持って霞へと示す。清潔感の溢れる真っ白な包帯は随分と所々に黒ずんだシミのような物があり、一筋の帯状になった今では一見すると触るのも億劫になってしまいそうな代物だったが、そのシミが残った包帯こそ朝日が尋ねた事を示している。


『は、はい、軍医中将。そ、その・・・、お、同じ戦隊の仲間が、か、書いて行きまして・・・。』

『まあ、そうなの。良い仲間を持てているのね。大事にするのよ、霞。』

『は・・・、はいっ!』


 以前よりも毒々しい紫色となった肌が面積を少なくした霞の右足首。その上に巻かれていた包帯の状態は包帯の至る所に縦横無尽に流れるシミの流れを一つの形として維持しており、巻き取る前に明石も朝日もその事には気付いていた。部屋に入った直後、霞の右足首を包む分厚く巻かれた包帯の上には、「全快祈願」とか「二水戦魂」等と墨汁による走り書きがなされていたのである。ただの落書きにしては霞の心根を鼓舞するかのような言葉が並ぶその様は、霞の仲間である二水戦に属する少女達が彼女の怪我の完治を祈って書いたであろう事は疑う余地も無く、朝日と明石は口元と同様に目も細くしてその包帯をまじまじと眺める。

 霞はちょっと恥ずかしそうに照れ笑いを浮べるのみであったが、朝日が笑みを崩さぬままで大事そうに巻き取った包帯を畳んでいくのを認めてようやく持ち前の元気を表情へと取り戻していく。何より怪我をも押して戦った先日の柔道大会で霞が懸けた物は、ここ最近は気さくに訪ねて来て筆を振り回していた仲間達と上司への想い。そしてそんな仲間達を、朝日という艦齢も階級も人柄も自分とは天と地ほども上である大先輩によって褒められた事は素直に嬉しかった。




 するとその刹那、朝日と明石が背を向けていた霞の部屋の扉からは、外側より叩かれて発せられる少し重い感じの金属音が二度響いてくる。『あ、は〜い!』と部屋の主である霞が横になったままで応じるが、彼女の応答の声が鳴り止む前にその扉は開かれる。


『おお・・・、これは軍医中将。』


 その場に現れたのは霞の上司である神通で、霞と同じ駆逐隊の構成員でもある(あられ)、そして霞とは未だに少しばかり仲の悪い雪風(ゆきかぜ)を背後に控えていた。

 同じ呉在籍の艦艇でもある神通と朝日は明石が生まれる前から既にお互いの顔は知っている仲であり、明石はその事を知らないが神通とはその師匠である金剛の一件でも幾分の関わりを持った間柄だ。もっとも友人などという親しみに溢れた仲ではないのは当然で、大概の艦魂達と同じ様にして神通はすぐさま軍帽を取って朝日の前で浅くお辞儀する。


『敬礼。そら、お前らもだ。』

『あうっ・・・! け、敬礼っ。』

『あっ、ど、どもッス・・・。』


 いつもはふてぶてしい態度をとる暴れん坊の彼女も、この朝日の前ではその姿勢を正さねばならない。音も無く頭を下げるや神通は背後に立つ二人の部下にも敬礼を促し、霰も扉の向こうの姉の部屋にやたらと高貴な雰囲気を放つ女性を目に移すや、隣に立っていた雪風と供に慌ててお辞儀をする。


『まあ、神通。久しぶりね。』

『はっ。部下の治療に当たって頂き、有難う御座います。』


 軽い挨拶の言葉と手の動きで応じる朝日と、頭を上げた後にすぐさま部下の治療に対する感謝を示して見せた神通。それは生きてきた時間の長い者を目上と位置づけ、礼の限りを尽くして接するという当たり前の光景なのかもしれないが、この二人をどちらも親しい知人とする明石はこの時に初めて朝日と神通が相対する光景を目に映した。朝日はそのたおやか見目麗しい人柄を全ての艦魂達から尊敬されるのは周知の事なのだが、その一方で神通は師匠譲りの荒々しい気性と罵声よりも速いげんこつが特徴的な人柄であるのも周知の事で、言わばそれぞれが海軍内で使われるドカタ型とお嬢さん型という人柄の典型でもある存在だ。西洋人と東洋人の顔立ちも去ることながら、穏やかな波間の流線を模した朝日の目と日本刀の刃先を模した神通の目の形もまたとても対称的で、明石にはお互いが相容れない境界線をお互いの間に引いた別な生き物のようにもふと思える。ただ何事も外見だけで判断できないのが命という存在の常で、それは鳥だろうが虫だろうが人間だろうが変わらない。艦魂も例外ではなく、僅かに身体を捻って向ける朝日の青い瞳には若干の緊張を表情に滲ませた神通の顔が映る。明石もまたその神通の腰の低さを見て取り、二人がいがみ合い等とは距離を置いた仲である事を悟った。

 また当の神通にしても、この朝日には他の艦魂達と同様に大先輩としての強い尊敬の念を抱いている。明石も含めたこの場にいる者達にとっては既知の事だが、神通が師匠として教えを請いだ金剛(こんごう)の師に当たる艦魂は、この朝日の実の姉である敷島(しきしま)という名の大先輩なのであった。故に朝日にあってもドカタ型の典型である神通のような人物と場を同じくするのは相当の慣れがあり、むしろ彼女は神通を目にして久々に感じるその雰囲気を楽しむようにして明るい音色の声を放つ。


『あらあら。ふふふ、神通。なんだかしばらく見ない内に、随分と敷島姉さんに似てきたわねぇ。』


『いや、恐れ多い事です。改装に入っていた事もあって敷島の大親方にはこの2年ほどお目にかかってはいないのですが、観艦式の時に金剛の親方からは息災であると伺っております。』


 霰と雪風が邪魔をせぬようにと静かな足取りで、朝日や明石がいる所とは横たわった霞の身体を挟んだ向こう側へとそそくさと移動するのを背に、しゃがみ込んでいる朝日の隣まで歩みを進めた神通は再び朝日に対して頭を下げ、僅かに上目遣いでの視線を向けながら声を返す。どうやら神通も自分と同じ様に師匠への畏敬を抱いているのだなと明石は察し、まさに万人に認められるお師匠様の凄さを改めて実感。珍しい取り合わせだとその会話を暖かく見守る。また、以前に明石は横須賀在泊の折に富士(ふじ)という大先輩と会話した際に話題の敷島なる人物を写真越しにではあるが目にしており、その際に感じた友人の神通と敷島がやたらと似た雰囲気を持っている所を、同じく師匠もまた認めたようだと知って嬉しくなった。

 一方、朝日は荒くれ者ながらも真心と誠意をふんだんにその胸に秘めて接する神通の声を楽しむように何度か頷き、今しがた自らの口から漏らした姉の事を神通に問う。ただでさえ所属鎮守府が違う姉、敷島は今はもう佐世保の桟橋で海兵団練習艦として余生を過ごしており、支那戦線派遣の任にも当たっていた朝日はこの神通以上に長く顔を合わせていない。故に彼女は食い入るようにして、神通の言葉に琥珀色の髪を掻き分けてあらわにしたその耳を傾ける。


『敷島の大親方、最近は少しお酒を召される量が増えたと聞いております。金剛の親方が観艦式への参加の為に佐世保を出発する際も、軍医中将が佐世保においでにならん物かと愚痴っておったとの事です。あと、この頃は随分涙もろくなった、とも・・・。』

『そう・・・、あの敷島姉さんがねえ・・・。』


 この世でただ一人の姉の近況を耳に入れ、朝日はどこか寂しさを漂わせて呟く。

 話題に挙がった敷島と呼ばれる艦魂の顔を知るのは今この部屋の中では神通と朝日のみであるが、連合艦隊への編入と供にたくさんの仲間達と交流してきた過程で明石や霞達もその名前だけは聞いた事がある。



 帝国海軍艦艇でもわずか2隻しかいない分身固有の行進曲を持ち、朝日と供に日露戦役を戦った艦魂達の中でも出雲(いずも)と並んで屈指の戦上手でもあった敷島。日本海海戦の時には比較的大人しくて人望の厚い朝日や富士に指示を与え、まだまだ日本語の会話にすらも不自由があった日進(にっしん)春日(かすが)をなんとか励まし、隊列最先頭の末妹であり艦隊旗艦でもあった三笠(みかさ)に対しては全艦隊規模、全戦闘海域規模での視野を常に持たせようと企図して戦隊旗艦を頂く日進を補佐していた、という彼女を、朝日は今でもその瞼の裏にはっきりと蘇らせる事が出来る。対馬沖での戦闘では二人の妹と供に腔発事故にて主砲1門を根元からもぎ取られながらも、流れ出る血に尻餅をつきそうになる朝日や富士を鼓舞し、ややもすれば一人真正面ばかりを向いてしまう三笠をよく抑え、林立する水柱と轟音の中で一戦隊のまとまりを維持してみせたのがこの敷島だった。


『全員、隊列を崩すな!! 日進(にっしん)、二戦隊との策応距離に注意しつつ戦隊針路を維持!! 人間達の企図してる通り、私達一戦隊を割り込ませて浅間(あさま)の退避を援護!! 三笠は後方の二戦隊旗艦の磐手(いわて)と艦隊旗艦の出雲の動きを見逃すな!! 針路は私の航跡を辿れば良い! 追突しても構わん!! 急げー!! 急がんかぁあ!!!』


 猛々しいその声と朝日とは姉妹という接点を築けないほどに鋭い眼光を持った彼女。戦の際には鬼神の権化とも取れる程に眉も目も髪も逆立ち、その言動や表情もまた半狂乱にも等しいくらいで、飛び散って顔に掛かった乗組員の血肉を怒りの表情を変えずに口から一息に吐き捨てた時にはさしもの朝日も思わず卒倒しそうになる程だった。当時の帝国海軍艦魂社会でも特に知られた寡黙ながらも短気で怖い人柄を持つ艦魂で、金剛を介して今や神通などに引き継がれたドカタ型の性格を持つ海軍艦艇の命達の始祖とも位置づけられる存在でもある。教え子達とは違って普段の言葉遣いには静けさと一定の品を滲ませる人物でもあったが、そんな姉が今ではもう容易に後輩の前で涙を見せるようになったのかと思う朝日の心には、寂寥感にも似た冷たい風がそよそよと吹き込んでくる。『指揮官たる者は─。』等と始める帝王学にも似た長女としての教育の言葉、容赦なくげんこつを叩き落して叱り飛ばす姿勢、それらを他の妹達や仲間達と一緒になって散々に教え込まれた朝日の思い出には、間違っても他人の前で泣くような姉の姿は無かった筈だった。



 そんな事から姉もまた自分と同じ様に老いという厄介な物に蝕まれてきたのだなと朝日は感じつつ、しばらくぶりの姉の様子を耳にして小さく笑う。確かに怖い性格と激情な所にはほとほと手を焼き、戦の際の猛り狂った姿には気が動転しそうになった事だってあるが、それでも朝日はこの時、最愛の姉という敷島への認識を確かな物とした。


『ふふ・・・。今度の艦隊編成で私は連合艦隊付属になるから、工廠の支援で佐世保にもきっと行くと思うわ。だから艦隊訓練で寄る事があったら伝えてあげて、神通。一緒にティーを飲むのを楽しみにしてると。』


 他人がなんと言おうとも、朝日はすぐ下の妹として敷島なりの優しさを知っている。彼女は決して「戦闘狂」の一言で終わるような人柄ではなく、自ら進んで汚れ役や嫌われ役を演じてみせて仲間達が懸案を解決して喜ぶ様を物陰から独り眺めて僅かに口元を緩ませているという、いわば黒子役のような艦魂(ひと)だった。同じ戦隊を組む思慮深い富士や、深い思いやりを持つ朝日も内心や理想を思い描く時には自分だって汚れ役で良いくらいに思う事はあったが、良くも悪くも二人は潔癖に過ぎて実際に行動として移す際には迷いや尻込みをしてしまう。そして唯一、敷島だけがそこで四の五の言わずに行動を起せる強く堅牢な精神力を持っていたのであり、妹達や仲間達に一切の汚濁を与えないと企図した姉の根幹を今更ながらに朝日は強く感じた。

 その内に今にも零れ落ちそうな目尻に光る雫を手の甲で拭いつつ、朝日はただ静かに笑って記憶の向こうにある姉の背を追い駆ける。そのちょっと寂しそうな微笑に神通も気付き、眼前の先輩の笑みが持つ明るさを更に一層増させるべく、さらに朝日を慕う者の名を声に出してみた。


『はっ。それと金剛の親方から、"叔母御(おばご)によろしく"との言伝を預かっております。』

『ふふ、ふふふ。金剛はまだそうなのね。まったくもう、誰が叔母御よ。』


 一応は人間の女性を心身供に模しているのが艦魂である。尊敬の念を込めているのは解かるにしても金剛による朝日への呼び方においては、最初の二文字の響きが朝日でなくても鼻に掛かってしまうという物。当の朝日自身もその事からはっきりと拒否の姿勢をかつて示してみせたのだが、神通の師匠はそんな朝日に対して呼び名を変える事は無かった。もっとも金剛にしても決して朝日への嫌味を抱いての事ではなく、初めて自分をコテンパンにしてみせた偉大な先輩への人並み外れた尊崇を前面に出しているに過ぎない。その深い尊崇の度合いを教え子として神通もよく知っていた手前、彼女は朝日が不満げな声を漏らすもの承知で敢えて師匠の言葉をそのまま伝えたのだった。

 そのおかげか朝日は唇の隙間から寂しさと入れ替わりに懐かしさが滲んだ笑い声が漏れるのを止める事ができなくなり、小刻みに上下する肩の動きが傍から見ている明石や神通に止め処なく湧く可笑しさを示す。先日の浅間やそれ以前の出雲に続き、記憶を辿る道端にある楽しさは落ち着きを纏った朝日の胸の内をいとも簡単に動かし、中々鳴り止む事の無いその笑い声に明石と神通もつられて静かに笑みを合わせた。




 その後、朝日は神通より聞かされた懐かしい顔ぶれを懐かしみつつ霞への診断を続行。部下の足首に自らの手で包帯を巻きつけていく朝日に神通は何度もお礼を言い、横たわった霞の身体を挟んで向こう側にいる雪風と霰もまた同じ様にしてヘコヘコと頭を下げる。部下を持つ上官の姿とはこういう物なのかと明石は感心し、つい先日の柔道の大会で神通が口にした『部下を持つ者としては専門家のつもり。』という言葉を納得した。

 だがこの時、明石は神通とその部下達を順番に眺めていた事で、親友と供に部屋を訪ねてきた雪風と霰が霞の傍にて腰を下ろしながらもその足元に何やら黒光りする箱状の物体を目にする。よく目を凝らして見てみると雪風の胡坐の前に置かれたそれは墨汁を湛えた(すずり)で、その隣にて崩した正座している霰の前には細い筆が一本あった。どちらも艦魂である彼女達の生活に大きく関わりのあるような代物ではないが、明石はすぐになぜ二人が硯と筆を用意しているのかを察してみせる。もちろんそれは、朝日がついさっき霞の足首から巻き取った包帯と同じ理屈、すなわち雪風と霰は今まさに目の前で朝日が巻いている新しい包帯の上に早速霞への応援の言葉を綴ってやろうとしているのだった。


『おい、お前等。軍医中将の見ている前ではやめんか、馬鹿者が。』


 明石とちょうど同じタイミングでそれに気付いた神通は、すぐさまいつもの研ぎ澄ました刃物を思わせるおっかない声で雪風と霰に注意を促す。師匠以上に目上の立場である朝日であるから、せっかくわざわざ真新しい包帯を巻いてもらった直後に落書きにも等しい行為を部下が行うのは到底神通には見過ごす事は出来なかった。ただいつもの如く雷鳴を思わせるお叱りとげんこつがすぐさま神通の身体より飛ばないのは、そんな神通も雪風と霰が決して大先輩の前で粗相を犯そうと試みた訳ではない事を知っているからで、朝日が霞への処置を終えてこ部屋を後にしたなら黙って二人の包帯の上への書道を見ているつもりだった。

 一方、朝日としても自身の手で巻いた包帯が目の前で墨汁まみれになってしまうのに対し、別段嫌悪感のような物を抱いたりはしていない。もう小じわも隠せない相応の老いが明確な顔の自分と違い、神通によって静かにお叱りを受けるや気まずそうな表情で押し黙る雪風と霰は、背も小さく顔に比してその目が大きめと若々しさが目立つ顔立ち。その人柄も全てにおいてまだまだ理性で感情を抑えきれる面が少ないようで、早く包帯が巻き終わらない物かと二人がウズウズしているのが朝日にはすぐ解かった。


『良いのよ、神通。みんな待っててね。すぐに包帯は巻き終わるから。』


 そんな言葉を朝日が放って神通が申し訳なさそうに頭を下げる横で、雪風と霰は声を押し殺しながらも白い歯を輝かせて笑みを合わせている。少し前まではこの二人の片方である雪風がこうして霞の元を訪れて笑みを見せるなどとは極めて珍しい事ではあったが、先日の柔道の大会にて犬猿の仲であるこの二人はそれとなくお互いの存在が良くも悪くも自分の意識の中で大きい事に気付いたらしい。まだまだ笑い合ってお互いの健闘を称え合うというまでには行かないものの、包帯を巻き終えた朝日が笑顔で『さあ、友達に応援の言葉を書いてあげなさい。』と言って墨汁の流れが幾重にも走った包帯を持った手をかざしてみせると、雪風と霰はそら来たと言わんばかりの勢いで硯に筆を運ぶ。


『ウチが最初に書くわぁ。雪風の書く字は大き過ぎて、いっつもウチが字を書く場所が無くなるんやもん。』

『うるせーなぁ。わーったよ、ちっちゃく書きゃ良いんだろ。』


 霰からの苦言もなんのそのと悪態をつきながら声を返すと、雪風は緩く噛んだ唇から舌を覗かせて早速霞の右足首に巻かれた真新しい包帯へと筆を走らせた。現在、この部屋の中にいる者達の中では最年少である雪風なのだが、鼻っ柱の強い彼女は先輩にあたる霰の文句や上司から放たれるギラリと鋭い視線にちょっと頬を膨らませながらも動じる事無く、霞の右足首に顔を思いっきり近づけてなにやら字を書いていく。

 取り敢えずは二人がようやく楽しみにしていた光景であるから、朝日は笑みを伴ってそれを黙って見守る。明石も師匠が行った処置をその目で見れた事で色々と学べた事が嬉しく、上機嫌で朝日の隣にしゃがみ込んで医薬品を薬箱へと戻し始めた。

 するとその刹那、部屋の中には元気の良い猿と犬の鳴き声が木霊し始める。


『うあ! くそ! なに書いてんだよ、雪風!』

『ひゃはは! ざまーみやがれ、猿め!』


 床に仰向けで寝たままの霞が声を荒げて腕を振り回す横で、雪風は未だ右足の自由が利かずに起き上がるのもままならない霞の腕を掻い潜りながら嘲笑の音色も混じった高笑いを放つ。どうにも簡単に仲良しになれないのがこの二人の関係であり、神通や朝日、明石の3人はきっと雪風が今しがた霞の右足首を包む包帯の上に書いた文字にそのい原因があるのだろうと即座に察して3人一斉に霞の右足首を覗き込む。するとそこにはミミズがヘソを曲げたような字でこう書かれていた。


「木から落ちた猿」


『ちくしょー! 霰、こんなの消しちゃってよ!』

『霰ぇ、消すんじゃねーぞ! 治るまでこのままにしてやらあ! ひゃははは!』

『うんも〜、こないに大きゅう書きはって〜。ウチが書く所、やっぱりあらへんようになっとるやないかぁ。』


 まだ起き上がれない霞は荒げた声の怒りの度合いはいつも通りだが今日はその勢いをそのままに天敵へと拳を叩き込む事はできず、それを知る雪風も霞が伸ばしてくる腕が届かない所まで退いてこれでもかと大笑いしてやる。霞はあだ名を書かれた事が余程悔しいらしく、雪風に次いで筆を右足首の包帯の上に走らせている霰へと先に書かれている文字の塗りつぶしを命令するが一足遅かった。霞が叫ぶ前に霰は一言「ガンバレ」と小さく書いた後で、すぐさまその手からは雪風によって筆が抜き取られてしまう。おかげで雪風は勝ち誇った高笑いと嘲る言葉を思う存分に吐き、霞は激怒して腕を振り回し続ける。

 ただこの3人の若さの成せる業とはいえ、一気に騒がしくなってしまった部屋の空気を楽しむのは朝日と明石だけであり、3人の直属の上司である神通は朝日という大先輩の前で自分達の失態を見せぬ事に懸命になる。覇気の篭った彼女の怒鳴り声がそれを物語っていた。


『こら、静かにせんか、馬鹿者が! 軍医中将の前だぞ!』


 度の過ぎた賑わいは時と場所を選ばなければならない。艦魂とてそれは同じであり、ましてこの朝日は現代の帝国海軍の艦魂社会では現役で海を駆けている重鎮でもある。そんなお偉方の前での無作法は神通の最も嫌う所で、朝日や明石が宥める前に一連の喧騒の主犯格で高々と笑い声を上げていた雪風の頭には神通によるげんこつが急降下。『ぎゃ!』と持ち前の虫の悲鳴の様な声を放って雪風はようやく大人しくなり、良い気味だとにやける霞の前でお説教を食らう事になってしまった。


『戦隊部外者の前では気をつけろと何度も言ってるだろうが!』

『ぐひ・・・、すいやせぇん・・・。』

『それを軍医中将の前で騒ぎおって! そんなにみんなのいる二水戦の名を辱めたいのか! 馬鹿者が!』

『ぎゃっ・・・!』


 ぽこぽことげんこつを落とされる雪風はすっかり涙目で、ついさっきまでの鼻っ柱の強さからくる霞へ向けていた嘲笑はその表情のどこにも無い。ただでさえ癇癪持ちの上司の前での失態でもあるのだから具合が悪く、神通もまた朝日の視線がその背に向けられている事を完全に忘れて部下へのカミナリ落としをしばらく続けた。


 その一方、明石にとってそれはいつもの光景と言えばそうであったが、おっとりとして暴力的な雰囲気を微塵も持たない師匠が見ている前での光景としては少し戸惑いもあるのが正直な所という物だ。ましてその立場も仲間に対する医務の道を極めた軍医中将であるから、このまま神通がお叱りを続けると、今度は親友である神通に朝日によるお叱りが飛んでしまうのではないかと一抹の憂いを抱く。しかしその最中、眼前にて繰り広げられるとても厳しい教育的指導を碧眼に移していた朝日は、明石に覗き込まれているその横顔の口元を緩ませて静かに笑い声を上げる。ちょっと明石としては意外な事であったが、笑い声に続いて僅かに顔を彼女のいる方へと向けながら放った師匠の言葉に、明石は師匠がそんなおっかない教育にすらも懐かしさを滲ませているのだと理解する事が出来た。


『ふふふふ。本当に神通は敷島姉さんに似てきたわねぇ。明石も金剛とは観艦式の時に会ったのよね? 金剛もあういう性格だから、あの子が来た頃はもう毎日ああやって敷島姉さんに怒られていたものよ。不思議な物ねえ、明石といい、神通といい・・・。』

『えへへへ・・・。』


 朝日が最後に言おうとした事を察し、明石は先代に良く似た容姿と人柄を持つ自分もまた尊敬する師匠の笑みへと貢献できたと知って照れ笑いを浮べる。もちろん笑い者にされたというような気は微塵も湧かず、明石には母の様に慕う朝日がそれは嬉しそうに笑ってくれる事がそれだけ嬉しい事だった。朝日もまた教え子の明石の笑みを見るのが好きなのか、明石の笑い声が響いてくると顔を明石に向けてニコニコと慈愛に満ちた笑顔を見せてやった。

 高い鼻と青く透き通った青い瞳、そしてまるでいつも口にしている紅茶の流れと見まごう程の独特の琥珀色の輝きを持つカールのかかった髪。部屋に一つしかない舷窓から漏れてくる陽の光が一層その美しさを際立たせ、神々しいまでの綺麗な姿を朝日の身体全体へと纏わせる。明石はその美しさが眩しく感じるほどで、笑みを掻き消さないながらも思わず逃げるようにして、手元にある医薬品を納めかけていた薬箱へと顔を向けてしまう。「一流の淑女(レディ)」とはかくあるべしといったその様には、部屋の中では一番に朝日に慣れている筈の明石ですらも抗う事は出来なかった。


 しかしこの時、教え子の俯く様子を見ていた朝日はそのまま明石が手を動かし始めた薬箱へと視線を落とし、そこに何か妙な部分を目にしてその表情から笑みの色合いを薄くする。ただそれは決して怒りとかそういうハッキリした気持ちが込められている物ではなく、一瞬見ただけでは真相を把握できない変化点がその薬箱にあった為にちょっと驚いたに過ぎない。

 師弟として関係を結んでから相応の時間を過ごしている事もあり、すぐさま朝日はそんな驚きを自分へと与えた薬箱の事を教え子に問い始めた。


『明石。』

『はあい。なんですか?』


『その薬箱なんだけど、ほら、そこ。ヨードチンキの瓶のすぐ脇の所。ちょっと変色してるけど、どうかしたの?』

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