表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
87/171

第八七話 「教え子」

 昭和15年11月12日。


 雨の降る気配はない薄っすらとしたした曇り空の呉海軍工廠で静かに岸壁に繋がれる明石(あかし)艦には、呉海兵団での初等教育を終えた新兵が20名ほど乗艦。志願兵も多い海軍らしくまだまだほっぺの赤い10代後半の少年達の姿もそこにはチラホラとあり、いよいよこれから始まる四六時中足場が揺れる艦船勤務に物怖じしてその表情もどこかオドオドとしている。今日は伊藤(いとう)特務艦長が終日不在とあって当直将校と各分隊の班長各の下士官が甲板で彼らを出迎え、挨拶と短い訓示の後に各自の配属先と艦内配置を通達。泳ぐ視線と潮気の薄い雰囲気が拭えない新兵達は元気一杯の返事のみしか出来ず、艦橋頂上の測距儀の上からそれを見ていた明石はその初々しさに思わず笑みを溢してしまう。各々の分隊下士官たる先輩の前へと衣嚢片手に進み出て直立不動の姿勢を取り、全員の配属通達が終わると解散が言い渡される。

 そしてここから帝国海軍の新兵さんの長い長い艦隊勤務が幕を明けるのだ。


『これから配置先と居住区関連を案内する! 第一分隊第2班、続け!』

『『『 は、はい・・・! 』』』


『声が小せぇぞ、お前等!! 海兵団で何を勉強してきたんだ!!』

『『『 は・・・、はい!!! 』』』


 いきなり怒鳴られてしまう新兵さん達だが、その衝撃に面食らって尻込みする暇は帝国海軍には無い。「人も嫌がる海軍に、志願で入る馬鹿もいる。」という言葉が海軍にはあるが、まさに彼等はその馬鹿さをこれから叩き込まれる事になる。

 寝起きをするお部屋では一番最初に目を覚ましてすぐ上の先輩方の寝具納めを手伝い、古参の先輩方が洗面に行く間はさらにその寝具の片付けに部屋の掃除。帰ってきたら今度は部屋全員分の朝食の準備も担当し、休み時間や「酒保開け」の号令がかかる夜になってもどこかの整理整頓に汗を流しながら立ち食いでお菓子を頬張る。もちろん内火艇やカッターといった装載艇の揚げ降ろし作業では一番キツイ所をやらされ、毎週決まった日の夜には甲板に並べられて樫の棒を持った先輩方による闇裁判も受けねばならない。艦隊勤務の唯一の息抜きである入港先での上陸とて初めて艦艇乗組みとなった年は滅多に許可される事は無く、一年ほどの勤務を終えた頃になってようやく週に一日の割合で許されるか否かである。

 曲がりなりにも艦の命としてそれを見てきた明石には、キビキビとした動作で各々の班長の後ろに従って艦内に散っていく彼らの背中が少し可哀想に思えてしまうが、なんとかその新兵さん達が理不尽な境遇の中でひたすらに心を磨いていくのを願ってそれを見送る。


 海軍艦艇は辛い。

 漁船の様に時化で海に出るのを見合わせる事も無ければ、その役目も大まかに言えば相手の船の抵抗を掻い潜って沈める事が主な役割である。その最中に襲ってくる抵抗だってこちらの船を沈めようと企図して放たれる大砲や魚雷であり、お船の死に方としては最も忌諱される沈没という事態を常に強要する、またはされる運命にあるのが海軍艦艇という存在。そこで尚舳先で波を駆けようとするのなら、船を操る者達に要求される技術、体力、精神力は並大抵の物では済まされない。人それぞれの長短があるとは言え、各人があらゆる面において秀で、同時に強くなければならないのであり、先輩方が鬼になりきって新兵さんを追いまわすのもここに大きな理由が有る。

 帝国陸軍と同じ様に帝国海軍もまた後輩の指導はすぐ上の先輩格の者が当たるのが暗黙の了解である事から、時にはその教育指導の方法を叱責されて新兵さん達が見ている目の前で先輩方が古参兵にぶん殴られる事もあり、申し訳ない気持ち一杯でそのお叱り劇を目に焼き付けた後には『お前等のせいだ!』とところてん式に新兵さん達は散々に鉄拳と怒号を浴びせられる事となる。しかも階級社会の頂点たる軍事組織では底辺に当たる彼等である故に、それを発散する矛先はどこにも無い。

 ただひたすら奥歯を噛んでグッと堪えてその日その日を過ごした末に、彼等はいつの間にか潮の香りが染み込み、少々の荒波など意にも介さずに目的へと邁進できる胆力を育んでいくのである。本人達には辛さの方が色濃い事は確かであるが、先輩方も決して憎い一心で今にも泣き出しそうな新兵さん達のお尻に精神注入棒を叩き落している訳ではないのだ。


 そしてそんな水兵さん達の厳しいながらも励む現実を、明石は親友である神通が率いる二水戦の日常を見ている事からなんとなく理解する事が出来た。むしろまだ顔を殴られないだけ、艦魂の世界はマシですらあるようにも明石には思えてくる。

 きっと艦内の隅っこや厠の中で辛さに涙するであろう新兵さん達の遠くない未来を明石は予想し、後でこっそり銀バイしたお菓子や缶詰とそっと傍に置いてやろうと企図しながら、明石は小さく声を放って艦内へと足を踏み入れていく新兵さん達の背中をずっと見守っていた。


『みんな、頑張ってね・・・。』






 同日、1329。

 午後の就業を告げる号令が在泊の艦艇から折り重なるようにして発せられる中、呉軍港の海の玄関に当たる西側の海面上。江田島を背後に移す小さな海峡状の波間には、ラム状艦首による独特の水切りと天を貫かんとする程に高く伸びた2本のマストが目を引く古めかしい艦が単艦でゆっくり港内に向かっていく姿があった。真っ白な塗装も長い外地でのお勤めと帰り道で随分黒ずんだ所も見て取れ、そこそこの大きな艦体を持つ割に至って低速な船足ですすむその艦艇であるが、ずんぐりと幅広の形状を持つ為か静かな瀬戸内の波の恩恵か、出迎えの曳船がヨタヨタと港より出てくる中にあってもほとんど動揺せずに浮べる城の体裁を維持している。スタンウォークが残る艦尾に掲げた軍艦旗と僅かに残る備砲のみが海軍艦艇である事を目にする者に理解させる事が出来るが、当の艦の命たる者にあってはその限りではない。

 やがて曳船を従えて減速しつつ慣性のみの前進で軍港内へと舳先を進めていく最中、両舷に停泊する大小様々な艦艇からは人間には見る事のできない女性達の敬礼する姿が立ち並び、割かし大きな艦体を持つ艦艇からは港内への進入を労う声も発せられる。その内に軍港の岸壁より少し離れた波間に浮かんでいた伊勢(いせ)艦のすぐ横を通過する際、明治生まれの面影を色濃く残した艦影には伊勢艦の命たる者である伊勢の元気の良い声がかけられた。


『軍医中将〜! お帰りなされませ〜!』


 艦首旗を翻す艦首旗竿の真下でそう叫んだ伊勢はすぐさま踵を揃え、目に映る大先輩が自分の放った声に気付いて振り返ってくるのを確認して額に右手を添える。艦艇としてはもう既に一線から退いた先輩の分身が伊勢の黒い瞳に移るが、伊勢は強い尊敬の念を抱いて直立不動の体勢を崩さない。

 そして伊勢が力の篭った直線的な敬礼の姿勢で眼差しを向ける方向には、艦尾のスタンウォークに出て日の光に琥珀色の髪を輝かせながら柔らかな敬礼をもって応える先輩の姿。伊勢を含めた帝国海軍の艦魂社会においてただ一人だけ、軍医中将の階級を頂いてる者である朝日(あさひ)の姿があるのだった。




 その後、曳船によって港内北側に位置する軍需部前の岸壁に接岸した朝日艦。沖合いに停泊する艦艇からやってくる内火艇や短艇が列を成した第一上陸場、堺川を挟んで対岸にある第二上陸場を東側に見るそこは、西に港務部、上陸場の向こうに当たるさらに東には赤レンガと御影石の色調が一際輝く呉鎮守府庁舎が居を構える場所。岸壁に繋留された朝日艦からは美しい呉鎮庁舎は背面からでしか見ることが出来ないのだが、何時見てもその美しさを色褪せない庁舎を久しぶりに瞳に入れた朝日はすこぶる機嫌が良い。自身の分身の中では最もお気に入りであるスタンウォークが設けられた艦尾が、鎮守府のある東に向けられた形で繋留された事もその心を明るくさせる。

 やがてその場にはさっき軍港内の波間ですれ違った伊勢と上海で別れてきた出雲(いずも)と同じ旧友の浅間(あさま)が足を運び、久々に再会した朝日と供に軍港内の光景を一望しながら近況を報告しあう。


『浅間、背中や腰の痛みは大丈夫? 元気そうに見えるけど。』


『あんまり良く無いわねぇ。同じ海防艦なのに、練習艦隊の任務はもうずっと八雲(やくも)磐手(いわて)に任せっきりだった。ま、二人とも今年から御役御免。専門の練習艦として香取(かとり)鹿島(かしま)っていう新しい艦艇がその役に当たる事になって、二人とも今は横須賀と佐世保に帰っているわ。それでも兵学校での訓練でたまに呉には来るのだけどね。・・・うふふ。伊勢の前では言わないでよね、朝日。年寄りになったのを思い知るのはもう十分だわ。』


『ふふふ。出雲もそんな事を言ってたわ。歳はお互い様だ、なんて。』


 檜を思わせる白さが目立つ金髪を靡かせる浅間は腰にそっと手を当てて状態が芳しくない事を伝えるが、朝日より出雲の息災を耳にしてブラウンの瞳を細める。ついこの間上海で会った朝日に比べ、ただでさえ佐世保鎮守府所属にして3年前からは支那方面に出向している出雲とは浅間はしばらく会っていない。日露戦役では同じ第二艦隊、それ以降の遣米支隊や遠洋航海でもずっと一緒だった出雲は、この浅間も朝日以上に慕っている大事な友達。同期にも等しく、まして出雲とは同じイングランド、ニューカッスル生まれの仲でもあった。

 『変わらないわねえ。』と口にして浅間は笑い、朝日も苦言を呈すような形で笑みを浮べながら応じてみせる。

 また、その場には今の呉でも軍令承行上でも最も偉い立場を頂く伊勢もいたが、彼女は敢えてこの二人の大先輩のお話に声を挟んで行く様な事はしない。その理由は普段は病人と見まごう程に元気の無い浅間が心の底から笑っている様子を瞳に入れているからで、古くは日本海海戦にて僅か6分間の間に戦線離脱を強いられる程の深手を負い、アメリカでの出張では海図に載っていない暗礁に乗り上げて艦中央にあたる船底に15メートルにも及ぶ重度の裂傷を設け、つい5年程にはいま彼女達がいる所からもほど近いの倉橋島南端にて再び座礁し、しかもその際に竜骨損傷というお船としては致命的な傷を負ってしまったのがこの浅間の分身なのである。まさに満身創痍の身体なのであり、誰も口には出さないが艦の命である浅間の軍装の下には至る所に大小無数の裂傷の痕が残っていた。

 そんな事から浅間はいつもはブラウンに輝くその瞳もどこか虚ろな感じを滲ませ、大きく表情を変えて笑ったり怒ったりする事も殆ど無いのだが、それを友人として知っているとは言えこうもまた二言三言の会話で笑みを持たせてやる事のできる朝日は、伊勢の瞳にはやっぱり偉大な先輩として強く焼き付けられる。今も波間を駆けてお仕事に励んでいる点でも、伊勢の胸の内に尊敬の念を募らせるのには十分だった。おまけに日露戦役おいて今では伊勢自身が所属している第一戦隊の主力を成していた者の一人がこの朝日であり、実弾を敵に目掛けて撃つ、または撃たれるという世界を潜り抜けて来たというのだから、そもそもが大正生まれの伊勢とはその根性の質からして違う。

 故に伊勢は手持ち無沙汰に思うような事も無く、飽きもせずに気をつけをしたまま、スタンウォークの手摺に片腕を乗せて笑う朝日の横顔をじっと眺めていた。しかし嬉しい事にやがて浅間との会話も終え、後輩がその場にいる事もちゃんと承知している朝日は、すぐさま伊勢に細くした碧眼を向けて少し低い感じを持つ響きの良い声をかけてくる。もう既に30代にも入った大人の女性としての外見を持つ伊勢も、この大先輩にかかっては待ち侘びた贈り物を受け取る子供と同じ心持を抱かされてしまう。真っ直ぐに伸びた身体を不自然に肩に力の入った姿勢の気をつけに直し、弾むような声色で朝日に声を返した。


『伊勢。ご苦労様。特に大きな事故も無く、連合艦隊は過ごせてる様ね。』

『は、はいっ! GF旗艦の長門(ながと)始め、皆よく訓練に励み、潜水艦部隊以外は無事故で過ごす事が出来ました! それと新しい仲間も増えそうなので、みんな頑張っております!』


 意気揚揚と答えてみせた伊勢は眼前の朝日を喜ばせる意味も含め、今いるスタンウォークから右舷に望む呉軍港の波間のど真ん中へと手の平を流す。それを合図として朝日も浅間も伊勢が示す方向に視線を流すが、3人ともその方向に対して見るべき者を探したりするような素振りは無い。今日帰ってきたばかりの朝日とて、軍港に進入していくのに併せて既に軍港のど真ん中でデンと構えるその巨艦を認めているからだ。両舷を大きな起重機が設置された浮き桟橋(ポンツーン)によって挟まれ、中央甲板上に着々と上部構造物を積み重ねているその巨艦の正体は朝日としては初見ではあるが知っている。何より眼前のその巨艦の命を取り上げるべく策を授けてやったのは朝日自身なのだ。

 伊勢もまたその事は知っているが艤装作業の進捗も嬉しいその巨艦は伊勢と同じ現代型の戦艦である事から、彼女は自分の言葉で朝日にその大型艦を紹介しようと決めて張り切った口調で声を響かせる。


『あれが帝国海軍最新鋭戦艦、大和(やまと)艦です。全長263メートル、全幅38.9メートルで、予定している排水量は聞いた所ではなんと7万トン近くにもなるそうです。まだ主砲塔も搭載していない今の状態ですら4万トン近いらしいですから、既に私よりも排水量の点では優ってるくらいです。いやあ、初めて見た時はたまげましたぁ。』


『大和。そう、良い名前を貰ったわね。それにしても美しい艦体だわ。ケースメイトが無くてスッキリしているのも今風ね。』


 期待通りの朝日の反応を得た伊勢が笑う前で、朝日は大和艦の舳先から艦尾へと視線を流してその美しさを楽しむ。緩やかな曲線で整えられた艦首は艦体中央過ぎの当たりからスロープにて高低差を作り、大きさの割りにはその見た目に随分とスマートな印象を伴わせる。帝国海軍では約20年ぶりとなる新型の戦艦の姿は、まだまだ大型の軍艦が作れずにいた時代に遠く英国より日本へとやってきた朝日にはとても感慨深く、40余年の間にその実力を伸ばした帝国海軍の造船技術を良く理解させてくれた。すると自然に朝日の細くなった眼や口は更にその度合いを増し、瀬戸内の潮風がかき上げる琥珀色の流れの向こうにそれを認めた伊勢の心は益々踊る。

 浅間を隣に迎えて一緒に眺める朝日の邪魔をせぬように気をつけつつ、伊勢はさらに先輩の抱く大和艦への理解をより深くして貰おうと企図。呉鎮隷下の艦魂達には面会謝絶としている大和艦の命たる者に会う事を朝日に進言してみた。


『お会いになってみませんか、軍医中将? 長門の師匠である軍医中将なら、きっと大和も喜ぶかと思います。それにこう言ったらなんですけど、大和は軍医中将の血を長門を経てしっかり受け継いだようでして、礼儀正しい性格や勉強も抜群にできる所は軍医中将によく似ておりますよ。』

『ふふふ。そんなに大した艦魂(ひと)じゃないわよ、私は。』


 伊勢に返す朝日の謙遜の言葉を放ち朝日は一瞬だけ伊勢に流し目を送ると、すぐさま眼前の大和艦へと戻して再びその美しさを愛でる。40余年前は世界最強との呼び声もあった自分の事も鑑みる朝日には、時代の流れとそれに沿った海軍艦艇の頂点である戦艦が持つ姿の移り変わりが見て取れて思う所が山のようにある。もっとも自身の分身の老朽さを殊更に意識するような暗い気持ちは彼女の胸には微塵も無く、長い海軍生活において久々に目にした近代戦艦の誕生を朝日は心から祝福していた。


『やはり美しさは大事ね・・・。例え戦に赴く事を生業にする軍艦であっても・・・。』


 感心を通り越して感動の吐息も混じる声が唇から漏れ、伊勢はちょうど朝日を挟んだ所で一緒にその声をを耳にした浅間と笑みを交える。どうやらこの大先輩は帝国海軍艦艇としての新たな仲間を事の他気に入ってくれたらしいと確信し、『では、ご案内を。』と言いながらエスコートするべく朝日の手摺に乗った手の近くに自身の手の平を近づけていく。

 だが朝日は伊勢に向き直って小さく笑い声を放つと、ゆっくりと首を左右に振って言った。


『ふふふ。・・・いいえ、長門が居ない状態では会わない方が良いと思うわ。学ぶ場所に余計な人がいるというのは、長門を見ればよく解かるから。』


 後輩の好意に満ちた申し出を断るのはややもすれば辛い事であるのだが、朝日の返答を受けた伊勢はその言葉に笑い始め、朝日に寄り添うような格好で一緒に耳にしていた浅間も再び口に手を当てて元気な笑い声を上げ始める。その原因は朝日が口にした彼女自身の教え子の名と、それに纏わる思い出を伊勢も浅間も実際に目にして知っているからであった。


『あははは。 出雲さんの事ですね? 確かに長門は出雲さんの影響を強く受け過ぎましたね。はははは。』


『まあ、悪い子には育たなかったから良いじゃない、朝日。うふふふ、でも性格は別として、言葉遣いは完全に長門は出雲譲りよねぇ。』


『まったくあの二人には困った物よ。でも大和が伊勢の言った通りの子なら、長門が師匠筋になってもきっとこの先似る事はないでしょう? なら大丈夫よ。』


 まだまだ生まれたばかりで将来性と期待に満ち溢れる大和艦を眼に写しながら、朝日達3人はお互いに共有するずっと昔の記憶を脳裏から検索して一様に微笑む。

 未だ艤装工事中である大和艦であるが、その命たる大和の教育は現連合艦隊旗艦の長門によって始められている。生まれたばかりの若い命に長く生きてきた者が教えを授けるのは艦魂社会の伝統で、今から20年ほど前にはその長門も朝日によって同じく教育を授けられていたのだが、その際に朝日の言葉にもあった様に師弟の教育の場に第三者がいると、時として不協和音となる事がある。そして3人の記憶の中でそれを担当したのは、つい先日に朝日が別れを告げたばかりの親友、出雲だった。




 明治の頃より朝日とは仲の良かった出雲は当時は兵学校練習艦として内地におり、朝日先生と長門生徒の教育風景にも頻繁に顔を覗かせていたのだが、真面目な朝日に対して出雲は冗談混じりの陽気さが売りなのは周知の事。教科書や参考資料の文言を一言一句間違えずに述べる朝日に、まだまだ幼かった長門が眉間にしわを寄せて首を捻ると、横から上機嫌に出雲が口を挟む。


『朝日ぃ、んな難しい言葉解かる訳ないだろぉ。長門、含有(がんゆう)率や割合ってのは朝日が淹れてくれるティーの味わいや香りに例えてみれば簡単だよ。味や香りが薄けりゃ茶葉の量か抽出の時間が短いって事だし、そもそもの味や香りが朝日とあたしが淹れるティーで違うのは茶葉の銘柄が違うから。つまり茶葉が含んでいる味や香りの基が違うのさ。艦砲の発射薬も同じだよ。』


 なんとも強引な出雲の教えであるがその内容はごもっともでもあり、幼かった長門はこの出雲の横槍によって朝日先生の教えを深く理解したのもまた事実ではあった。だが偶に教室に遊びに来る陽気なお姉さんで終わってれば良い物を、生来が明るい性格で生まれた長門は出雲を師匠の次に慕うようになってしまい、その独特なしゃべり方と教え方は長門の人柄に少なく無い影響を与えてしまう。

 何時だったか出雲は帆船時代の名残りとして知っていたロープの多様な結び方を長門に教え、朝日もそれを教育の合間の休憩として間近で眺めていた事があるのだが、その際に不意に教え子が放った質問の回答として口に出される出雲の言葉を耳に入れて、ちょうど口に流し入れていた紅茶の流れを噴出した息と供に逆流させてしまう。


『出雲さん。アタシたちの分身にはロープなんてほとんど使ってませんし、信号旗を扱う索以外は全て鋼索ですよお? 覚えても使いどころが思い当たらないんですけど・・・。』


『な〜に言ってんだい、道を確保する為だよぉ。あたし達の転移は便利だけどとにかく疲れるだろ? だから甲板の上だけを道にしないようにするのさ、艦橋から逃げたり烹炊所に銀バイしに行く時ってのはね〜。』


 長い付き合いであるが出雲のこういう所に頭を抱える朝日。酷く咳き込んで呼吸に苦しむ横で、友人のその姿を内心笑いながら出雲はちょっした悪事への使用法を次々に長門に授けていく。


『長門にもスタンウォーク、あんだろ? そこは長官室があるってのがあたしらの時代からの相場なんだけど、会議や接待で使うのは艦首寄りにある長官公室っていう別の部屋だから、そんな時に長官室忍び込むんなら艦尾の旗竿からロープ垂らしゃ良いのさ。艦隊の日程なんざイジり放題できるっかんな。』


『おおお! 出雲さん、あったま良いーっ!』


 眼を離すと大事な教え子にこんな事ばかり教えているのだから、朝日としては堪った物ではない。古き良き時代のお船の命として物事を教える点では賛同するのだが、如何せん不真面目でおもしろ可笑しく日常を過ごす事を大事にする出雲という人柄の余波が余りにも出過ぎるのが悪い所。さしもの朝日もこんな日々の中で、何度声を大にして怒った事があったか数知れずであった。

 そして時代は流れ、現代。長門は二人の師匠より授かった物を遺憾なく発揮し、栄えある帝国海軍連合艦隊旗艦としてその職務に励んでいる。ロープを駆使した自分の分身からの脱走を繰り返しながら。

 なんともご立派な事である。




 本来ならそんな前例を顧みて長門の教育に一抹の不安を抱かねばならないのだろうが、確かに怒りはしたけども朝日は出雲が教育の現場にいた事をそれほど疎ましく思っていた訳ではない。

 なんだかんだで幼い長門に叡智を授ける役としては出雲の言葉は功績も大きく、そのおかげか長門は教養も豊かで運動も出来るし、不真面目なのは残念ながらも捻じ曲がって扱いに困る様な性格にはならなかった。かなり過分な所もあるが心を余裕の湖面で常に潤わせ、おかげで人当たりも良く誰からでも慕われる。他人を見る目もとても大らかであり、変に勘ぐって先入観を抱く事も無い。その上で長門は朝日が与えた真心に深く感謝してくれ、師匠が追い求めていた艦の命たる者の理想像をよく体言するに至る美しい容姿も持っている。武技教練も朝日には最後まで勝てなかったが腕前は相当な物で、あれで実は英語も堪能であったりするのだ。

 そんな長門を弟子として巣立たせれた朝日は過去の教え子と友人の3人で過ごした日々を懐かしみ、どこか嘲笑にも似た笑みを浮べて眼前の大和艦を瞳に映す。やはり自分の中では出雲の存在が大きく、むしろ友人の存在なくして如何に自分は未熟なのだろうかと朝日は考える。つい先日上海で別れた友人が持つ独特の陽気な言動がかろうじて朝日の口元を緩ませてくれていたが、その笑みの下で朝日は教え子の長門がそんな出雲の良い所をも受け継げた事を喜び、同時に少しだけ悔しさを募らせた。

 故に彼女は長門という教え子に対して抱く全幅の信頼を大きな物とし、今やかつての自分と同じようにして後輩に教えを諭す役目を負っている長門の邪魔をしてはならないと考えたのだった。


『長門が来た時に会えば良いわ。年寄りは後ろに居て、黙ってティーを楽しんでるくらいがちょうど良いのよ。』


 僅かに元気が無いようなその声色に浅間も伊勢も気付かず、すぐに肯定の意を示して朝日が向けてきた偽りの笑みに応じる。そのまま大和艦には再び視線を戻す事は無く、朝日はスタンウォークの開きっぱなしにしているドアを潜り抜けて艦内へと足を踏み入れていった。

 その間もじわじわと胸の中を圧迫してくる穏やかな自己嫌悪の波が、浅間と伊勢を背にした形になった事で朝日の笑みを急速に薄れさせていく。朝日自身も口元の感覚がかなり薄らいだ事にそれを察し、こんなにも自分は弱く惨めな者なのかと静かに溜め息を放つ。久々の美味しいティータイムがいよいよ始まるのかと楽しそうな笑みを浮べる伊勢や浅間に、自分から背を向けて歩き始めた事自体、朝日には本当は周りの者達から向けられる自分への期待に尻込みして逃げ出したようにすら思えた。




 しかし朝日がそんな自己嫌悪の念に苛まれながら視線を落として歩いている最中、朝日の前には彼女達の仲間が現れる事を示す淡く白い光が収束し始める。いつの間にか視線を伏せ目がちになって足元に視界を得ていた朝日は最初の内はそれに気付かなかったが、背後から響いて来た伊勢の声を受けて眼前の光に目を向ける。


『あれ、誰だ?』


 呉鎮守府の所属艦艇が揃っているとは言え、戦艦や空母といった大型艦の艦は横須賀や佐世保へと今は帰っている状態。その中で帝国海軍の重鎮たる朝日の元へと気軽に足を運ぶ艦魂は実は滅多に居ない。帝国海軍の艦魂社会で将官クラスの階級を頂く自分と、艦の主である朝日とは旧友の仲になる浅間を除けば、伊勢には今まさにこの朝日艦に足を着けようとしている艦魂の名がすぐには思いつかなかった。

 やがて白い光は球状の形になるかと判別できそうな所で弾け、粉雪のような細かい粒子となって宙を降って行く。そして輝きを失っていく光の集合の中、3人の前には少し高い所からヒョイっと跳び下りて来るような格好で、首の後ろで一本に纏めた黒髪を振り回す若者が現れる。艶のある髪と頬に、スラリと細長い四肢。朝日と同じくらいの女性にしては割りと高めな背丈。整った綺麗な東洋人の顔立ちも朝日や浅間と比べて光を受けて反射する色合いが一層明るい照り具合を持つ女性であったが、その姿を目にした瞬間、伊勢や浅間は彼女の名と朝日の下へと訪れる事の出来る正当な理由を即座に悟る。

 なぜなら眼前に現れた若い女性は、先程まで話題に上がっていた長門と同じく朝日に直接の教授を受けた者だからだった。


『ほっと。あ、朝日さん! お帰りなさい!』


 若さ溢れる大きな声で現れるなりそう言ったのは明石。

 心底慕う師匠のお帰りを耳にし、先日行われた柔道の試合にて捻挫した霞の治療を終えるや一目散に朝日艦をやってきたのである。少し前の観艦式を控えた時に師匠へと抱いた母に対する物にも似た慕う心も利いてか、明石はまるで子犬の様に丸く黒い瞳を輝かせて朝日へと駆け寄ってくる。まだまだ生まれてから二年の歳月しか得ていない明石の若さが駆け寄るその足の運びと屈託の無い綺麗な笑顔には存分に表現されているが、同時に彼女は人間の世界での海軍軍人の立ち振る舞いを重んじる艦魂社会でやってはいけない行動を平気で行っており、その未熟っぷりをすぐに察した朝日は込み上げてくる無上の可笑しさに抗えず笑った。


『ふふ・・・、ふふふ。あははは。』


 大人しい朝日にしては珍しい高笑いを耳にして伊勢や浅間はちょっと驚いたような顔を見合わせていたが、朝日の笑い声には今度は一切の偽りが混じってはいない。上海で出雲と別れる際と同じ様に、朝日は心の底から楽しく明るい心の音色を謳歌していた。

 もっとも、久々の再会なのに顔を見るなり師匠に笑われたしまった明石としてはちょっと合点がいかない。朝日の前で歩みを止め、何か顔に変な物でも付いているのだろうかと片手を顔になぞらせたり、何も無いと解かるや今度は視線を自分の胴回りに巡らせて身嗜みを焦点とした探索の目を光らせてみる。


『うよ・・・、いっと・・・。あれ、な、何もない・・・。』


 その言葉にも示されている通り、朝日に大笑いされる理由を自分の姿格好に何も見つける事が出来なかった明石。師匠の笑い声の真相は本当の所、師匠自身の胸の中にしかなかったのだから無理も無い。

 まだ笑いが治まらぬ中で、朝日は早速愛弟子に対する久々の教授を始めてみせる。


『ふふふふ。明石、室内礼は教えたでしょう? こういう時は誰に敬礼するんだったかしら?』

『あ、け、けーれー・・・!』


 かつて一度教わった事もある内容だとの師匠の言葉を受け、明石は僅かに表情を凍りつかせた後に慌ててその場に気をつけをし、頭から取った軍帽の(ひさし)を右手で持って足の横にピッタリ添えると軽い角度で頭を下げる。だがそれこそが間違いであった。


『まったくもう、違うわよ、明石。私は軍医中将で将校相当官。この場で将校なのは一人しかいないのよ? ふふふ。』


 明るく穏やかな物言いでの朝日の指摘は、明石にとってはお叱りの雷にも等しい。誰に何をしろと言わないながらも明石の行動が間違いである事、その理由は艦魂社会で頂く階級の厳密な差異である事を伝えられ、ようやく明石も自分の行動の至らぬ部分を理解する。

 大事な大事な礼式、すなわち挨拶の仕方も決められている帝国海軍にあって、明石の敬礼する相手は礼式上は間違っているのであり、この場合は最も目上の将校に対して敬礼するのが決まりなのである。人間の世界ではさらに部屋や艦における主か客人かもここに付随してくるのだから結構複雑であったりするが、艦魂社会ではその場を供にした事は区分を設ける物ではない。ただそんな中でも軍医中将の朝日に比し、兵科将校の少将の階級を頂いている者が師匠の背後には居たのだった。

 二度の失態でもう来訪直後の笑顔もへったくれも無い明石。大慌てでその身体を朝日の前から少し横にずらし、腰に手を当てて失笑の声を向けてくる伊勢へと向けて再び僅かに腰を折って頭を下げる。


『ぅげ・・・!、す、すいません、伊勢さん・・・!』

『わはは。敬礼の順序には気をつけるんだよ、明石。朝日さんの顔に泥を塗る事になるぞ。』

『うぅ・・・、はいぃ・・・。』


 気さくに笑ってくれる伊勢は苦言も軽めに発したつもりで、それを横から見守る注意を促してくれた師匠もまた優しげに微笑んでいるが、明石としたら完全な大失敗。眉を大きくハの字に傾けて肩をすくめ、自身の尻の青さを恥じる。

 そんな愛弟子の落ち込む表情がまた、朝日の笑い声を生む胸の内を一層明るくさせた。だがもちろん、彼女は教え子の無様な姿を嘲笑う気は微塵も無く、唇を噛んで恥を忍ぶ明石の肩に上から覆い被さるようにして腕を回して語りかける。


『大丈夫よ、明石。明石の気持ちはちゃんと私にも伝わっているわよ。逆にこういう決まりをいくら守っても気持ちを込められない礼式は、相手の受け取る様もまるで正反対なのよ。その意味では明石は次から気をつければ良いだけだじゃない。それに私達の礼式は、階級という過程を考えてその結果を元に判断すればそんなに難しくないわ。現に今、明石はちゃんと自分で判断して伊勢に敬礼してみせたでしょう? もう少しの努力だけだから、元気を出しなさい。』


 未熟さを指摘されるが久々なら、その思いやりのあって過程と結果を大事とする一貫した諭し方も久々。柔らかに抱きつく形で耳元で放たれる静かな声も、高い鼻と奥まった目が特徴的な西洋人の顔立ちも、その横をカーブを描いて流れ落ちる琥珀色の髪とほのかに香る良い匂いも、しばらく振りに五感で感じた明石は落ち込みかけた心からビルジの如くそれを吐き出してしまう。彼女の返す言葉にも、既に恥じらい等という感情は少しも滲んでいなかった。


『は、はあい!』

『ふふふ。ただいま、明石。』


 教え子の心遣いも嬉しい朝日が声を放つと、まるで魔法が掛かったように明石の顔には笑みが戻る。そのまま朝日は片腕を巻きつける明石を部屋の中央にあるソファへと誘い、後ろ手にもう片方の手をかざして伊勢や浅間も招き入れて行く。


『さあ、ティーを淹れるわ。オレンジ・ペコーの上級品を、出雲からたくさん貰ってきたのよ。』


 その言葉が響くや伊勢も浅間も手を叩いて喜び、明石もまたはしゃいで朝日による紅茶の準備を手伝い始める。その最中も浅間が聞きたがる出雲の話を朝日は声に変え、愛嬌と冗談が溢れた出雲のお話を皆で笑いながら紅茶への一時を楽しんだ。

 語り部となる朝日は手を動かしながらも常に笑みを浮かべ、口元にいつも以上にしわが目立つ事も顧みずに惜しげも無く3人が笑うような話を紡ぎ出すが、彼女の優しげな笑顔は出雲のお話が持つ面白さから来る物でも、部屋に絶えず響く自分以外の者の笑い声に後押しされて生まれた物でもない。

 人知れず悩み事や困り事を背負うのは朝日だって同じであるが、生来の性格と何でも出来てしまうその有能さが仇となって、朝日のそんな苦しい胸の内を推し量ってくれる人物は昔から皆無だった。大和艦を眺めながら抱いた自己嫌悪もそこに理由があり、彼女は出雲という親友が気転を利かせてくれる事で自分のこなす物事が上手く行っているのがちょっと辛かった。言うなれば自己完結という物だが、どうにも昔から彼女は自分の胸の内に抱いた悩み等をそのまま相手に伝えるのを悪い事だと無意識に捉えてしまう癖があり、結果として一人で抱え込んでしまう所があった。その際に彼女の本心を無言で読み取って手を回してくれる友人らも、この世に生まれて40余年経つ今では、日露戦役の頃の様に振り向けばすぐそこにいるという状態で存在してはいない。往年と変わらず大洋の荒波を舳先にて切り裂きながら励んでいるのは朝日を入れても既に片手で数えれる程にしか残っていないし、海軍艦艇として働く先も散り散りとなってしまっている。10年前には朝日がこの日本という国へとやって来た頃から師として仰いだ者も、最後のご奉公として標的艦任務に就いて永久の別れをする事になった。

 そんな中でこれまで頑張ってきた朝日なのだが、積み重ねてきた多様な物事に他する知識と経験でケアしつつも、やはりその心の奥底では色んな懸案に対して頭を抱えるもう一人の彼女が居る。その人柄と博識さから仲間達は一様に朝日の事を偉大だと捉えるのに対し、真実の朝日はそれを読み取ってくれる人物が常に傍らに居なければ晴れやかな気持ちを維持できない程に弱い人物なのであった。

 だが親友とも別れてまた再び本当の自分を察する事が出来る者がいないであろう内地へと帰ってきた今、朝日の前に現れたのは、そんな自分に企図せずとも笑みを与えてくれる人物の二代目。首の後ろで一本に纏めた黒くクセの無い髪に綺麗な顔立ち、背丈、物言い、失敗の事例、最初の一口は口を大きくすぼめてありつこうとするティーの飲み方と、まるで時代を超えて自分を救いに戻ってきてくれたのかと思える程に先代に似た明石である。今や師弟の関係が逆転し、当時は1歳程の年齢さしかなかったのに今では片や小じわも混じる40代の顔立ちで、片や若さ溢れる20代になるかならないかの顔立ちを持つというその関係は往時とは違うが、朝日はこの時、まだまだ未熟なこの明石に師として接する事が出来る今という瞬間を心の底から有難いと思った。

 あと数日もすれば15日となり、その日は来年度を見据えて帝国海軍艦艇の殆どを対象とした大規模な艦隊編成が実施される。既に連合艦隊司令長官直属である付属艦艇として名を連ねる事も決定している朝日であるが、それ以降の彼女には出雲の様な本当の自分を察してくれる者がいない中での海軍生活が待っているであろう事は想像に難く無い。だがそんな中でも、教え子とは言え自分を救ってくれる者がちゃんと存在する事を、朝日は確認できたのである。

 すると琥珀色の前髪をかき上げた向こうにある青い瞳の中に灯るのは、これ以上無い安堵の念。決して若くも無い今の彼女であっても遠慮せずもたれかかる事のできる、大事な大事な心の揺り篭であった。


『明石。ティーの礼式は客人が先よ。まずは伊勢と浅間の分のカップを用意してあげなさい。』

『おっと・・・。は〜い。』


 優しげに指示を与える朝日の前、師匠のそんな心の巡りを知ってか知らずか、明石は銀色のトレイに乗せたカップにナイフ、そして砂糖の入った小さなガラス瓶を朝日の下から少しはなれたテーブルへと運んでいく。大切に扱おうと一生懸命な明石はその表情も足の運びも慎重を極め、ちょっと緩く唇を噛んでテーブルを前にしたソファに座る浅間や伊勢の前にカップを置く。するとその場では何やら伊勢の言葉が放たれるのと同時に、明石が赤面して後頭部を掻きながらちょっと歪んだ笑みを浮べている光景が作られる。


『テーブルマナーは覚えたのかい、明石? また魚や肉用のナイフ持って来てないだろうねぇ、はっはっは。』

『うっ・・・。あはは・・・、だ、大丈夫、のハズですぅ・・・。』

『まあ、なあに? 魚用のフォークでサイドメニューを食べようとしたの?』


 どうやらテーブルマナーに関わる所でも失敗しているらしい教え子は、朝日の碧眼の中でペコペコと頭を下げながら苦しい応答を行っていた。

 すると再び朝日は可笑しくて笑い出す。なぜならこの明石に瓜二つの外見を持つ師匠が、かつてテーブルマナーにおいて悪戦苦闘を繰り広げていた事を記憶に留めていたからだった。


 どこまで似るというのか。


 そう脳裏で呟いた言葉は苦言にも近い代物であったが朝日は釣り上がった口元を一切戻す事無く、頃合を迎えたティーポットを抱えて教え子と仲間達の待つテーブルへと歩みを進めて行った。

 その後は観艦式での教え子の大失敗を大いに笑いの種としながら、4人は心行くまでティータイムを楽しむ。明石は自分の未熟っぷりに恥を忍ぶばかりで何度も眉をハの字の形にして気を落とし掛けるが、その度に朝日は隣に座る彼女の肩をそっと抱き寄せて挽回の道を授け、終始教え子が笑い声を静める事の無いように尽力する。

 朝日のその胸の内には、明石に対する底抜けの優しさと、果ての無い感謝の気持ちが込められているのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ