表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
85/171

第八五話 「帝国海軍を信じた男」

 昭和15年10月31日。

 既に秋が暮れかけている時期にあっての寒空のキャンバスに、冷たい風によって流されていく雲が幾重にも連なる横須賀。


 来月の艦隊編成を控えて横鎮籍の艦が海上を埋め尽くし、長門(ながと)艦や陸奥(むつ)艦に代表される巨艦がブイと供に緩やかな波と戯れる光景が広がるこの地で、(ただし)は無為の日々を過ごしていた。

 晴れて彼は半年にも渡った地獄の日々たる砲術学校を卒業となり、明日からはもう半年の期間を水雷学校で過ごす事に決まっている。それはそれは厳しい砲術学校に比べると水雷学校は幾分校風が緩めで、忠のような普通科学生の者達は士官の待遇として近隣に下宿を得て生活する事になっており、敷地内の宿舎という牢獄で寝起きする生活はめでたく終わりとなっていた。当の忠も水雷学校がある田浦町の一角に居を構えるとある家具屋の家に水交社の斡旋で部屋を借り、私的な時間を艦隊勤務と同じ号令にて振り回される事が無くなって肩の荷も軽くなった。普段は滅多に食べれない家庭的なお料理も下宿先では味わえるし、忠と同じ普通科学生の内の何人かは気の合う女性を当地で見つけて一夜を過ごしている者までいる。

 しかしそんな横須賀の生活にあっても忠は仲間達の様に水雷学校までの僅かなお休みの日々を楽しむ事は無く、横須賀の寒空を眺めて力無く溜め息を漏らすばかりであった。どうせこんなデコボコの顔で出かけた所で同じ海軍軍人が多い横須賀では『どうしたんだ、その顔?』と連続で質問されるのは目に見えているし、ヤクザ者との喧嘩に負けた等と正直に言う事だってできやしない。ただそれでも何もせずに下宿部屋に引き篭もりっ放しでいると、下宿先の家人の方々より向けられる視線も忠には辛い物である。


 天下の帝国海軍軍人が、飯時以外に部屋から出てこないとは如何な物か?


 声には変わらずとも視線が代弁するそんな言葉を読み取る忠。決してお世話になってる下宿先の家族は悪い人達ではなく、いつも忠の姿を見ると普段の勤労を心から労ってくれるのだが、その胸の内を思うと忠としても家に居っ放しである事が億劫になってくる。故に彼は『同期と会って来る。』とか『親戚が近くに来ているので会って来る。』等といったもっともらしい理由を告げて、なるたけ顔を見られないように軍帽を目深に被って横須賀の市街地へと足を伸ばす事もあった。

 もちろんそれは全部嘘である。

 同期の連中は確かにそこそこの数がこの横須賀には滞在しているが、各々が休みを満喫している最中に酷い顔の自分が訪ねるのはなんだか変に気を使わせるようで忠には申し訳ない。親戚に限っては関東一円には一人もいなかった。




 ここ数日はそうやって下宿を後にし、なるたけ波間の見える場所には行かずに横須賀の市街の中を徘徊していた忠。今日も今日とて一張羅である濃紺の軍装に身を包み、どこ行くという訳も無くブラブラと街中を歩く。

 横須賀は古くから帝国海軍の軍港の街として栄えたいわゆる軍都で、市街地における帝国海軍の軍服を身に付けた者の往来は日本で一番多い。ぼんやりとした表情でただただ歩く忠の姿は街の中で異彩を放つような事はなく、時折、海軍のおかげで飯が食えているのであろうと思われるすれ違う街の住民が頭を下げてくる。少し困ったような笑みを浮べて忠は軽く頭を下げ、長話に巻き込まれない様にそそくさとその場を後にする。その姿は至って普通の横須賀の街の風景であり、彼とすれ違う人々はこの若者に特別意識を誘われるような事は無かった。


 そんな市街の中を忠は呼び止められないように早足でスタスタと歩き、目的地の無い横須賀巡りをしながら力ない吐息を漏らす。観艦式の直前くらいに思い知った自分の未熟さがその胸の内の中心にはあり、波間の上に置いてきた相方と釣り合える男に未だなれていない事は、忠の身体から放たれる彼なりの元気の空気を一際薄くしてしまう。


 帝国海軍の中でも筋金入りとされる砲術学校の半年間で、自分は何をして来たんだろう。


 日々その実力を磨いていた相方の姿を見て自身もその能力に磨きをかけようとした忠だったが、先日の仲間達との酒の席とその後の喧嘩で彼は自分という男が全然変わっていないのだと思い知った。すると忠の意識の中では、思い出の中にいる相方との距離がどんどんと離れていくように思える。

 そして彼はそんな思い出の中の相方を追いかけようと考える事も無かった。


 縁が無かったのかも知れない・・・。


 歩きながら自分の身の程を考える忠の脳裏には、そんな言葉も浮かび上がってくる。

 元来、艦魂が見える人間というのはそうそう存在しないらしい事は忠も知っている。実際、忠が海軍軍人としての道を歩んできた中で艦魂の存在を耳にした事はあっても、こんな奴らだよと教えられる様な人には接した事が無い。明石艦乗組みの最中だって相方に始まる艦魂を瞳に映した者は彼の他は木村大佐以外に誰一人としておらず、実の弟ですらも見えてはいないのだ。


 なんでオレなんだよ・・・。


 この世に生きる人が一人として同じではない事を指す言葉に「十人十色」という物がある。

 姿格好も含めて極めて普通の青年である彼もそれは同じであり、言うなれば艦魂を瞳に映す事ができたのは彼が持つ人間としての色合いの一つなのかもしれない。だが忠はそんな自分の色合いをこの頃嫌い始めていた。他の誰もが持てない物を持てたなら独占欲にも似た気持ちの高揚感が得られるのだろうが、それが時として他の人々と供に生きる事に障害を設置する事もあり、まさに今の忠がそうである。何度目かの溜め息を放った後、彼は自身の境遇を呪った。

 刹那、忠は人通りの少ない道にいる事を辺りに視線を配って確認し、道端にある板塀に背を預ける。あても無く歩き続けた彼の身体は若干の疲労を訴えており、無意識にその感が集中する腰へ片手を添えた。するとその手にはポッケよりはみ出した白い封筒が当たり、忠はふとその封筒に包まれて送られてきた実家からの手紙の内容を思い出す。

 そしてそれは忠の意識を更に海軍から遠ざける物だった。


 つい数日前に届いたその手紙には、見間違う事の無い母の筆跡。懐かしさとすがりたい心持で目を通す忠だったが、手紙の文面は彼に笑みを持たせてくれる物ではなかった。

 母の手紙によると、どうやら忠の母方の祖父が脳溢血で倒れたらしいとの事であった。幸いにも命に別状は無く寝たきりの生活になった訳でも無いとの事だったが左手と左足に麻痺が残っており、忠も幼い頃にその目で見ていた漁師としての仕事はもう二度と出来ないと医師より言われたらしい。

 青森県の山奥である弘前(ひろさき)市の実家に反して、忠の母方の祖父は家の裏が陸奥湾である青森市の一角に地主として住んでおり、民間の飛行場もそこからは程近い事から忠も幼い時は母にせがんでよく遊びに行った事もある。母を始めとした女の子にしか恵まれなかった母方の祖父は、初孫にして"長女が生んだ長男"でもある忠を大変に可愛がり、忠が遊びに行くといつも張り切ってその手で獲った海の幸を食卓に並べてくれた物だった。

 若い頃より荒海で鍛えた逞しい身体と小波を思わせるかのような笑みが、忠の脳裏にはありありと蘇る。一緒に実家で暮らしていた父方の祖父と同様に、「じっちゃ」と呼んで幼心に慕った。

 そんな母方の祖父が高齢とは言え、ついに身体に支障をきたしたのかと考える忠は無意識の内に眉をひそめる。手紙の中では「忠も身体を大切に」と書かれていたが、筆をとった母がどんな気持ちであるのか、文面に変えれぬ言葉で何を言いたかったのかを、長男である彼は敏感に察してしまうのだった。

 忠の実家は長男である彼を始めとして、息子がいま家の中には誰もいない状態である。忠は何も無い田舎を嫌って飛び出すように海軍兵学校に入学してしまったし、弟の正志(まさし)ことマサは弘前の実家を継ぐ事はできない。同じ森姓ではあるがマサは同じく男の子が居なかった岡山県の親戚の家に15歳で養子に行っている身なのであり、水兵さんである彼が青森県を管轄区とする横須賀鎮守府籍の艦艇ではなく、呉鎮守府籍の明石(あかし)艦に乗組んでいる理由もここにある。

 そうなると弘前の実家を継げるのはもはや忠しかいないが、転勤も多く殆どの時間を船の上で過ごす海軍軍人という職業は跡取りの人間には向いていない職業であった。


『・・・はぁ・・・。』


 力なく息を放って忠は板塀より背を離すと、またあても無く寒空の下を歩き始める。殴られたアザが残る頬を擦り、まだ痛みが微妙に伴う脇腹を押さえながら、忠はゆっくりと流れていく景色を見入る事も無く物思いにふける。

 その脳裏には実家の農家を継ごうかなという、彼の人生としての選択肢が既にあった。

 花の海軍軍人から地味な野良着の百姓へ。その変り身は随分と落差も激しい物であるが、農家といっても彼の実家は近隣では名の知れた代々続く大地主であり、朝から晩まで鍬を振り下ろす小作人とは訳が違う。もちろん自分達で芋や大根、米等に汗水を流すのは変わらないが、土地の賃貸料としての収入も大きい為に社会的な収入の多さは決して悪い訳では無く、片田舎であっても忠自身が中学校へと通えた事がその証明でもある。生きる上で海軍から身を引いたとて、忠にあっては困る事など一つも無いのであった。

 どう転んでも安泰な将来に家族の事情、そして相方への道程が霞むほどに遠い事に、やがて忠はいっそ海軍を辞めようかとすらも力ない思考の中で口走る。きっと自分にはそこに在るあらゆる物に縁が無かったのだろうと思い、足元をただボーっと眺めて忠はゆっくりと歩いていくのだった。




 しかしこの時、忠の耳にはその音量をどんどん増してくるの甲高い金属の摩擦音が響き、咄嗟に音のする方に眼をやってそれまで力む事が一切無かった彼の表情が凍りつく。なんと忠の目の前には黒塗りの自動車が一台、土煙を舞い上がらせながら迫っていた。


『う、うわっ・・・!』


 さしもに脱力した忠もこれには驚き、戦慄して強張った表情を隠すように素早く腕を顔の前で交差させる。こんな程度で向かってくる自動車の衝撃から身を守れる筈も無いが、何しろ今の今まで自分はどこを歩いているのかも深く考えていなかった忠には瞬間的な危機に対応するだけの余裕が無い。僅かに仰け反るような格好で忠は思わず目を閉じるだけだった。

 だが幸いな事に忠の身体にバンパーが触れる直前で自動車は停止し、舞い上がる土煙と付近でそれを目にしていた何人かの人々の視線に包まれながら忠はゆっくりと瞼を上げて眼前に迫った自動車を見てみる。するとガラス越しに見えた運転席には濃紺の海軍下士官の軍装に身を包んだ男が凍りついた表情でハンドルを握っており、忠の前に止まった自動車が一般人の所有ではなく帝国海軍所有の車両である事を忠は一瞬にして悟る。運転席にいる下士官は道のど真ん中に突っ立っていた忠を目にして方で息をしているが、彼もまた窓ガラス越しに眼前にいる男が上官に当たる海軍士官である事を認めたのか、文句を飛ばす訳でも無く心配そうな視線をガラス越しに投げるだけであった。


『あ、あぶねぇ・・・。』


 忠はようやく安堵の声を放って顔の前で掲げていた腕を降ろす。辺りにいる民間の人々のどよめきと未だ宙を舞う土煙が治まらぬ中、彼はすぐに道の真ん中に足を踏み入れていた自身の非を謝ろうと思って声を上げようとするが、それよりも早く忠の眼前の自動車の後部ドアが開き、同時に甲高い男の声で怒号が放たれてくる。


『おい! なにやってんだ、バカヤロー!』


 男にしては随分と音階の高いその声は、忠とは違って少ししゃがれた老いの滲むような声だった。開いたドアから捻った上半身を覗かせ、声の主は自動車の目と鼻の先に立つ忠に釣り上がった眉で睨みつけてくるが、忠はその後部ドアから鋭い眼光を向けてくる人物に驚いて声を失ってしまう。

 その男は忠と同じくスラリと痩せた身体に忠と同じ濃紺の第一種軍装を身に付けているのだが、鼻の下に生やした僅かな髭と軍帽から覗く薄っすらとした髪には幾分の白い筋も入っており、容姿から察する事の出来る年齢が忠とはまるで違う。50代にも至りそうな初老の海軍軍人で、しかもその軍装の左胸に当たる部分には積み上げられた徽章の山、そして襟には金色の野に咲く二輪の桜花。なんという事であろうか、忠にご立腹の表情で声を荒げたその人物は帝国海軍中将の立場を頂く者であった。

 さっきまでの脱力っぷりもどこへやら、さしもの忠も一個艦隊の司令長官クラスの人物に対してはその姿勢を律さない訳にも行かず、即座に身体に鉄棒を打ち込んだように直立不動の姿勢を取る。寒い10月末にも関わらず忠の首筋には冷や汗がダラダラと流れ、上ずった声で詫びの言葉を放った。


『も、申し訳ありません・・・!!』

『何が申し訳ないだ!! 海軍軍人が往来を邪魔するんじゃない!』


 忠による必死の謝罪の姿勢も海軍中将であるその男にあってはお叱りの対象でしかない。忠が言い終えるや凄まじい剣幕で怒号が放たれ、忠は生唾を飲み込みながら視線すらも硬直させて海軍中将の男の視線にただただ肩を震わせるしかない。すると矢継ぎ早に海軍中将の男からは怒号が発せられ、忠はその言葉に従って彼の元へと走り出した。


『言われてる事が解からんのか!! 道の通りを何時まで邪魔するつもりなんだ!! さっさと車に乗れ!!』

『は、はいぃ・・・!!!』




 忠はこうして海軍中将の男が乗る車に、彼とは籍を隣にする形で後部座席へと乗り、やがて車は忠を乗せると海岸地帯へと向かって再び走り出す。

 だが忠の心胆は未だ氷の如く凍てつき、安堵の感を覚えて胸を撫で下ろすような事は無い。白いカバーが掛けられた後部座席の端っこで揃えた両足の膝の上に軽く握った拳を置き、足元に視線を下ろして時折忠はチラチラと視線を隣にてどっかと座席に腰掛ける海軍中将の男へと向ける。するとやはりそこには未だにはらわたが煮えくり返っている事を示す面持ちを浮べた男の姿があり、これから始まるであろう自分へのお叱り劇を予想して忠は頭が真っ白になってしまう。例え帝国海軍軍人同士であるにしても、公衆の面前でお叱りを飛ばすのはやはり格好悪い。有無を言わさず車に乗せられたという事は、車内という密閉された空間を存分に使ってのお叱りの時間になる事は言われなくとも忠には理解する事が出来た。

 しばらくすると忠の耳には海軍中将の男より発せられる言葉が響き始め、甲高く僅かにしゃがれたその声の口調が強くなる度に忠はビクンと身体を震わせる。


『まったくけしからん。中央の連中と言い、お前と言い、きょうびの若い奴はどうなってるんだ!! お前、所属はどこだ!?』


 なんとも迫力のある声が忠の肝を鷲掴みにし、返す声から冷静さを急速に奪っていく。たださっきの様に恐怖に慄いて返答が無いとさらにおっかない怒号を浴びされると忠は思い、上ずった声が震えたままで隣の男に身体を向けて額に右手を添えながら口を開いた。


『は、はい! 水雷学校普通科学生・・・! 森忠(もり ただし)少尉です・・・!』


 忠がそう言うと海軍中将の男はそれまで忠とは逆側にある車の窓から外へと投げていた鋭い眼光を瞬時に忠へと向け、再び大きな声でお叱りの言葉を叫ぶ。その声の持つ恐怖は生半可な物では無く、矛先とはなっていない車を運転している下士官の男ですらもその口調に思わず肩を上下に震わせる程だった。


『普通科学生か? お前、じゃあ砲術学校を終わってる筈だな? なんで軍装に修業の徽章を付けておらんのだ!』

『あ・・・。』

『その格好で街を歩いてるクセに短剣も不携帯だな!! おまけに帽子も汚いし、顔も悪い! 一体、兵学校で何を学んできたんだ!!』

『も、申し訳ありません・・・!!』


 服装身嗜みについてのお叱りは忠としても兵学校以来の久しい物だが、この状態では懐かしむような事など彼には不可能である。詫びの言葉を放つやすぐに忠は頭から軍帽を取るとポッケに忍ばせていた白いハンカチを取り出し、汚いと指摘された軍帽を隅から隅まで丁寧に磨き始める。

 海軍中将の男は相変わらずの剣幕で忠の横顔を睨んでいたが、軍帽を取った事であらわになった忠の顔のデコボコ具合を眺めて表情をそのままに僅かに思考を巡らせる。せっせと軍帽磨きに精を出す忠を隣にしばらく沈黙を得た後、彼は徐に身に付けていた腕時計を一度確認し、自身の正面にある運転席に手を触れて車を運転している下士官へと少しだけ落ち着きが伴った声をかけた。


『おい、時間はまだありそうだ。これから会いに行く奴は来月で転勤らしいから、今日は菓子の一つでも持っていってやりたい。もう少し行った所で道の右側に菓子屋があるから、悪いが一つ買って来てくれないか。そいつは私の同期なんだ。』


 運転手の下士官は短く返事をし、しばらくすると海軍中将の男が言った通りに車が走る道の右側に看板を掲げた菓子屋が姿を現す。やがて車が停止するや海軍中将の男が下士官にお金を手渡し、依頼する菓子の程度を二言三言で伝える。車内に満ち満ちていた恐怖の空気から逃れられる事に安堵したのか、下士官は返事を放つと意気揚々と道端の菓子屋へと入って行った。

 怒られた張本人の忠にあってはそのやりとりを耳にしつつもまじまじと眺める事は出来ず、一心不乱に軍帽の汚れ落としに精を出す。指摘された通り確かに忠の軍帽は汚れが酷く、白いハンカチで軍帽の紋章を吹くと黒い色合いがハンカチの一面にこびり付いてきた。ここ最近の堕落した生活から軍帽や軍装の手入れを怠っていたのだから無理も無い。黒ずんだハンカチは忠にとっては隣に座る海軍中将による更なるお叱りが跳ぶ事を証明する物であり、怯える心を益々動揺させながら忠は軍帽を磨き続けた。

 だがそんな中で不意に掛けられてきた海軍中将の男の甲高い声は先程までのそれと同じ様に怒鳴りつけるような物では無く、弦楽器の音色を思わせるかのような落ち着いたその響きを耳にして忠は思わず顔を上げて上官に視線を向ける。


『お前、どうしたんだ? なんであんな風体で道を歩いていた? その顔も酷く殴られた物だろう? 何かあったのか?』


 海軍中将の男は鼻の下の髭を左右に揺らして窓の外を眺めている。忠はその横顔を目にして彼の怒りが一応は収まったらしいと捉えながらも、未だ動揺が治まらない胸の内は上官に向けて返す言葉を選ぶのに随分と時間をかけてしまう。だが自分の身の上と無為の日々の日課である市街の徘徊についてその理由を尋ねてくれた所を見るに、どうやら眼前の海軍中将の男は自身の話を聞こうとしているらしいと忠は認める。最初の内は何から話せば良いのか忠には解からずあたふたと慌てて言葉にならぬ声を紡ぎ出すが、ついさっきまで続いていたお叱りが強烈に印象に残る彼は、もはや海軍軍人としての自分は限界を迎えたのだろうと諦めにも似た気持ちを抱いて上官に声を返す事にする。艦長や科長格どころか、艦隊司令長官やひょっとしたら国政に参加する海軍省の役人にもなれる海軍中将の襟章を、いま彼が目に映す初老の男は襟に輝かせているのだから無理も無い。この車を止めてしまった事自体、過失とは言え一般的な会社で例えるなら新人の社員が専務や常務に粗相を犯してしまったのと同義なのである。


 もうダメだ・・・。


 ここ最近は自分の不甲斐無さを呪う日々を続けてきた忠に、この上で海軍における重役に失態を演じた事で生じる自責の念に抗う事はできよう筈も無い。彼は磨き終えた軍帽を頭に乗せてハンカチをポッケにしまうと、今度は逆側のポッケから僅かにはみ出していた封筒を入れ替わりに手にとって海軍中将の男に差し出す。僅かに海軍中将の男が窓より視線を逸らしてこちらに向けてくる中、忠は伏せ目がちになって手紙を受け取って目を通す上官に事の仔細を話し始めた。


『じ、実は・・・─。』


 さすがに艦魂が見える自分の突飛な境遇の事は口にはしなかったが、忠は砲術学校を終えたにも関わらず自分が何も変わっていない事と仲間達との諍い、自身の家の事情に長男である身の上を力無い声で上官に説明する。


 いつの間にか両親を始めとする家族達も歳を取り、それに併せて身体の健康にも障害が出始めつつある。老いという物の在り方その物であり、この世を生きる残り時間が少なくなってきた事を示している。故に誰しもが残り少ない将来を案じ、特に田舎でそこそこの家を持つ自身の家族は森の家柄の将来を安泰にしたいと願っているのだ。その為の最も現実的で確かな方法は、その家の長男が終始家に居る事。ましてその長男であるのは自分しかおらず、代わりの身となる弟も既に実家にはいない。その上で海軍軍人としての成長の見込みも無く、海軍に対する想いがここ最近では完全に薄らいでしまった。


 母からの手紙に目を通している海軍中将の男に注釈をする様に、忠は静かにそんな自身の悩みを打ち明けていく。やがて隣にて腰を下ろす上官が静かに声を放ったのに続き、忠は漠然と考えていた海軍軍人としての自身の身の振り方を端的に声に変えた。


『そうか・・・。』


『海軍は・・・、私には縁が無かったのかも知れないです・・・。同期の仲間みたいに上手くできそうにないし・・・。もう・・・、辞めようかなと・・・。』


『・・・・・・。』


 覇気など微塵も込められていない忠の声が車の中に静かに響き渡る。

 先輩や教官から厳しく辛い教育を受けた兵学校に入った時でさえ、忠は正直な所では防人への憧れ等を持って入校した訳ではない。何も無い山奥の田舎を嫌って飛び出すに当たり、官費で生活できる事から憂い無く選べたのが海軍兵学校だったのであり、叔父に当たる人が海軍軍人であったからそれを知っていただけである。もとより国防に携わる事への強い意志があった訳では無く、仲間が頑張ってるからという理由で流れに任せて励んできたのが忠の海軍軍人としてのこれまでの経歴であった。そこで自分が艦魂を目にする事が出来るのを知ったのは計算外な事であったが、そんな艦魂の一人である相方への距離感が絶望的なまでに離れた今ではもう、忠の心を繋ぎとめようとする魅力が帝国海軍には感じられない。そうなると根が海軍に対しての思い入れが希薄な忠にとって、この先海軍に身を寄せる事には長所も無い事から億劫になってしまうのだった。

 だがそれでもこうして歯切れが悪い忠の物言いは、やはりその中心に相方への未練が据えられている。今しがた縁が無かったと言い聞かせるように言い放ちつつ退職の願いを行動に出そうとしないのは、かつての相方へと続く恋慕の錨鎖を中々断ち切ることができないからに他ならない。彼としてもそんな自分に嫌気がさしていた事から、忠はこの時、鉄拳も覚悟の上で「いっその事これで眼前の海軍中将に取り計らってもらってクビにしてもらおうか。」とすらも脳裏の片隅で淡く期待しているのだった。

 あれだけお叱りの迫力があるこのお方なら是非も無いだろうと考え、うつろな視線を足元に落とす彼は続けざまに襲ってくるであろう罵声と鉄拳を待つ。しかし驚く事にそんな忠の耳に響いて来た海軍中将の男の声は期待していた罵声等ではなく、逆に自身を褒めるかのような言葉であり、耳を疑う忠は目を点にして隣に座る海軍中将の男へと顔を向ける。


『・・・お前、若いのにしっかりしとるな。私は男兄弟の中では末っ子だったから、家を継ぐとかそういうのをお前くらいの歳で考えた事なんか無い。だがしかし、なんでそんなお前が迷うような顔をしている?』


 驚く頃に初対面にも関わらず、忠が諦めの心の中でその色合いを決定的に変え切れていない事を海軍中将の男は言い当ててみせる。免職に繋がる言葉を内心ではほのかに期待していた忠には予想だにせず、後に続いて返そうとする言葉が見つからずに僅かに唇を開いたままで隣の上官の顔をじっと見つめた。海軍中将の男は腕組みをしてずっと忠とは逆の方にある車の窓から外に視線を投げているが、彼は構わず隣にて呆けた顔を向けてくる若者に特徴的な甲高い声で語りかけを続ける。

 そしてまたしても忠は予想外の言葉を耳にして思考を停止し、声を失ってしまうのだった。


『私もな、何年か前に海軍を辞めようと思った事がある。』


『・・・!』


『当時は私は海軍省で仕事をしとったんだが、職場で一緒になる上官や後輩の連中とどうしてもソリが合わなくてな。自分で正しいと思った事をあっちこっちから否定されたんだ。私は今でも間違っていないと思っているが、あの頃から中央の連中ってのはどいつもこいつも偉い奴の顔色ばかり窺っててな。平気な顔で他人に節操を捨てるのと同じ事を言うもんだから、もうこんな海軍いたくないと思って辞表を出してすぐに家に帰った事がある。その勢いで家族にも、もう海軍なんか辞めてやると言ったモンだよ。』


 なんとさっきはその迫力あるお叱りで忠の海軍軍人としてのだらしなさを容赦無く指摘したこの人物は、今の忠と同じ様にかつて海軍に対する想いを完全に失う所まで行ったのだと言う。その上で上官の語る自分が正しいと思った事をよってたかって否定されたという過去は、先日に仲間達との諍いを起した忠とはなんだか重なっていく。その理由は忠の場合、自分だけが艦魂を目にする事が出来るという事象だが、憤りの混じった酔いの中で仲間に言われた言葉に拳を振り上げ、同時に相方への距離が程遠い事を知って海軍への情熱を失った自分の身の上は、不思議と落ち着いた潮風を思わせる声で紡ぎ出される隣の上官の過去へと同化していくのだった。

 そしてその最中も語りを続ける海軍中将の男。いつの間にか彼の男性にしては高めの声からは立腹の感が消えており、とくとくと静かに紡ぎ出す自身の過去の話は忠の意識を深く誘っていく。


『でもね、私は辞めなかった。・・・いや、大見得切って辞めるとまで言ったのに、きっと内心では辞めるのが嫌だったんだろうね。私は。・・・左遷もされて干された身ではあったけども、いまさら無職になるのも家族には悪いとか、身体の弱い娘の為とか当時は言い聞かせてた。でも結局は私は海軍が好きだったんだと思う。未練がましいのかも知れないが、おかげで今はこうして将官の身となって中央に戻ってこれた。また昔通りに海軍の舵取りに少し意見ができる身にもなったよ。』


 海軍中将の男の語りは、諦めという感情に舵取りを委ねていた忠の胸の内の針路を僅かずつ変えていく。一人の海軍軍人として望んだ道に聳えた障害に憤り、もう挑む気も無いと自ら投げ出した道。それを忠の目の前にて腰掛けて窓の外を眺めながら語ってくれた上官も、かつては同じく持ったのである。その理由は上官の放った言葉によればただ海軍が好きだったからだとの事であったが、漠然としたその物言いに忠は理解を示せない訳ではなかった。忠にとっての海軍とは帝国の海を守る組織である以上に、いつも記憶の片隅から姿を消さない海軍艦艇の艦魂という存在で生きる相方と共有できるたった一つの居場所。例え身の程を鑑みた相方との距離がどんなに離れていようとも、海軍艦艇の命である彼女と普通の人間である忠が一緒に過ごす事の許された一つしかない世界なのだ。

 そして忠はそんな海軍を今、眼前にて口髭を揺らす上官と同じ様に家族や家の事を理由にして投げ出そうとしている。もちろんそれらが長男たる彼にあって無視して良い物等では無かったが、忠はこの時、自分は本当に海軍に対してどういう想いを抱いてるのか、否、どういう想いを抱いていきたいのかを声も無く黙って見つめなおす。



 仲間と諍いを起した事で否定せねばならない物なのか?

 身を持って思い知らされた自分の身の程の程度で尻込みし、放棄する様な物であって良いのか?

 もっともらしい理由を設けて諦めねばならない物なのか?



 そんな疑問を意識の中に問う忠。彼の耳には隣でようやく忠に顔を向けた海軍中将の男の、切り裂く様でもあり包み込む様でもある優しげな声が届く。放たれた言葉も忠の背中をそっと押してくれるような物だった。


『・・・若いんだからもう少しだけ頑張ってみたらどうだ? 勝手な言い分かもしれないが、親御さんの身と家を案じる事が出来る君には、有り触れていながらも見落としがちな物事の正しい面がきっと見える筈だ。その力は今の海軍には一番必要だと私は思うんだよ。』


 そう語りかけた海軍中将は忠と一瞬だけ瞳を合わせると、僅かに眉をひそめて再び忠とは反対側にある窓の向こうへと顔を向ける。ほのかに燃え上がる苛立ちを腕組みの中で跳ねる指先に示し、海軍中将の男は声の旋律をそのままに吐き捨てるような口調で口を開く。その矛先は忠にも語った、かつての自分へと向けられた意見に対する否定の嵐だった。


『最近の中央の奴らはダメだ。私はついこの間までこの目で見てきたから解かるんだが、支那があんな状態なのに今度は米英といがみ合う事も辞さずくらいに思ってる。そんな力は我が国には無いのは誰でも解かる事だが、あいつらはそれを主上(おかみ)や陸軍の連中の顔色を気にして見ていないフリをしてる。』


 刹那、海軍中将がの男が先程から窓の外をしきりに眺めている事に忠は気付き、彼もまた僅かに身体を伸ばして上官の頬をかすめる形で視線を窓の向こうに投げてみる。

 そこには運転手である下士官が入って行った菓子屋とは道を挟んで反対側にある一軒のお店。軒先に掲げた看板を見るに文具店である事が解かるそのお店からは、丸眼鏡を掛ける少し太った背広姿の中年の男性が肩を落として出てくる。明日でもう11月と寒さが増すこの頃であるにも関わらず彼は汗だくで、何枚かの絵葉書を握った右手の甲で汗を拭うとトボトボとした足取りで通りを去っていく。

 国家総動員法が施行されて久しいこのご時世。古くから当然の様に伝わるこの国の文化でもある年賀状すらも、「不急」の二文字で流通が規制されてしまっている今の日本である。きっとあの中年の男は印刷の仕事を生業とする国民の一人で、需要の厳しい中でなんとか家族の食い扶持を得る為に営業活動に汗水を流しているのであろうと、車中より眺める忠が察するのに時間は掛からなかった。

 力なく首を垂れ、汗を拭きながらその場を後にする中年の男の背中は、忠の瞳にはとても寂しく映る。


 家で待っているであろう家族、職場で待っているであろう社員に、あの足取りのままで帰る彼は何と声を発するつもりなのだろうか?


 そう思うと去っていくその背中はなんとも可哀想に見え、忠は無意識の内に右手に拳を握る。それは忠の隣で腕組みをしつつ同じ背中を眺めていた海軍中将の男も同じであった。


『・・・あれを見捨てる海軍ではいけない。あんな人達を助けるのは、国政にも参加する組織たる海軍の最大の目的の筈だ。国民だ陸軍だと言い訳にして怖気づいて逃げるのは、帝国海軍の軍人なんかじゃない。まだ若いお前はそうなるんじゃないぞ。格好悪くても大変でも信じた物を曲げず、むしろそういう奴らを片っ端から海に突き落としてやれ。』


 海軍中将の言葉がここ最近の忠の心模様を如実に表す。

 相方への想いの遠さや家族の事を言い訳にして海軍を辞めようかというこれまでの忠の考えは、目の前の障害に怖気づいて逃げているだけに他ならない。周りの視線や自身の境遇を盾にして相方へと通ずる道に背を向けるのは、酒の席と言えど「悪い女」と言われてあんなに憎らしく思った仲間達と何一つ変わらない。知りもせず見た事も無い中で思い出の相方を悪いと断じ、別れた女性の数を誇らしげに武勇伝とするその態度に拳までも振り上げた忠。その理由は(ひとえ)に忠の心が明確に示した否定のサインの筈だった。

 そして今、忠はそんな否定しようとした者達と同じ立ち位置へ自ら足を進めようとしている。確かに現実的な判断かもしれないし、家族や家の事を長男として心配する事は間違いでは無いであろう。だが例えそれが世に言う普通なのであったとしても、例え格好の悪い物だったしても、忠はそれこそが真の海軍軍人の姿にして、男女の片方として相方と釣り合える者の理想像なのだろうと確信する。正しい事を信じて相対する者を駆逐し、左遷や辞職の見得を背負いつつも自分を誤魔化さなかった眼前の海軍中将の男がそうである様に、と。

 その瞬間、ここ最近はずっと忘れていた決意が忠の胸に宿り、彼の瞳には若さと込み上げる気持ちによって炎が灯る。噛み締めるようにようやく放ったただ一言の返事にもそれは現れており、海軍中将の男もそれを感じたのか出会って以来初めての笑みを向けてくれるのだった。


『・・・はい。』

『おっ。なんだ、お前。軍帽も綺麗になったし、ようやく顔も良くなったな。』




 それから数分もした頃になって菓子屋から戻った下士官と入れ替わりに、お叱りの時間も終わった忠は車から降りる。

 後部座席を望む車の側面にて直立不動の姿勢をとる忠の目と鼻の先。

 ドア越しに開いた窓より顔を覗かせる上官は朗らかに笑い、あれほどにおっかなかった服装に対する甲高く僅かにしゃがれた指摘の声も、今は何か波間の上空にて賛歌を高らかに歌うカモメの鳴き声を思わせる。50代の風貌に見合うしわも伴った笑顔もまた、忠には優しげで父親にも似た親近感を抱かせる程だった。

 やがて貴重な教えを諭してくれた事に感謝しつつ、いつまでも上官をこの場に留め続けてはいけないと忠は思って別れの挨拶をする。


『本当に今日は有難う御座います。もう少し海軍を頑張ってみます。』


 彼の口にした海軍とは彼が独自に持つ相方への想いを多分に含んでいたが、それを知らないながらも一人の若者が気持ちを改めた事を喜ぶ海軍中将の男。大きく頷いて笑いながら声を返す。


『うん。でも張り切りすぎるな。何事も余裕が無く、ソフトネスに欠けるというのは良くない。まだ若いんだから視界は広く、やり方を絞るんじゃないぞ。』

『はい! ・・・あ─。』


 久々に腹の底から声を出す返事をした忠であったが、ここで彼は重要な事に気付く。彼との出会いに関して、ぼーっとしていた事から車を止めてしまいお叱りを受けたというその流れにも問題はあるが、未だに彼は眼前の海軍中将の男の名を耳にしていなかったのだ。

 みれば忠の目の前では既に海軍中将の男がドアに手を掛け、今にもドアを閉めんとしている。咄嗟に忠は声を放ち、本当に短い時間ながらもお世話になった恩人に問い掛ける。


『あ、あの・・・! 失礼ながらお名前を・・・!』

『うん? ああ〜、まだ名乗ってなかったか。』


 閉めかけたドアの窓がちょうど後部座席に腰掛ける海軍中将の男の顔に当たり、青空から降り注ぐ陽の光を反射して口髭を湛えたその細長い顔つきを隠してしまう中、忠の耳には恩人の男にしては甲高い声が潮風に乗って流れてくる。


『私は海軍省で航空本部長ってのをやってるから、よく空母の艦載機の件で横須賀の航空戦隊の連中と会議をやってる。今日もそうだ。だから何か困ったら遠慮せず声を掛けて来きなさい。私の名は井上(いのうえ)だ。』


『はい! 井上中将、有難う御座いました!』


『うん。頑張れ。』


 井上の言葉を受けてすぐに忠は額に右手を添え、その前を軽く答礼する井上を乗せた車が再び砂煙をにわかに巻き上げて走り去っていく。忠は少しの間その場で車を目で追い、後部の小さな窓ガラス越しに肩の辺りだけが見える井上の後姿を眺め続ける。次いで大きく深呼吸をした後、長い曇り模様を終えて晴れ上がった顔を一度そらに向けると、クルッとその場で踵を返してその場を後にした。

 軽い足取りでグングン進んでいく彼だが、ここ最近の日課とは違ってその脳裏にはちゃんと目的地が設定されている。行き先は水雷学校の日々を過ごす為に得た下宿であり、そこでやるべき事も既に彼は決めていた。


 砲術学校は幸い三番の成績。続く水雷学校では一番を取って、配転先希望を叶えやすくするんだ。

 そして戻るんだ、明石の所に。


 アザと若干の腫れが残る顔で笑みを作り、同時に胸の中で大きく叫んだ忠。

 小走りにも近い速さで下宿へと戻ると彼はその速度をそのまま手持ちの数学の参考書へと投入し、明日から始まる水雷学校での日々に備えての予習へと励む。この日、自分が望む道への好例を目にした忠は難解な数字と方程式の羅列にも怯む事は無く、夜遅くまで覇気を伴った表情で勉学へと打ち込む。






 そしてその好例となる役割を企図せず担った、井上と名乗った海軍中将。


 彼はその名を井上成美(いのうえ しげよし)といい、後年、帝国海軍最後の大将として3年8ヶ月に及んだ惨劇を終える事に尽力。さらにその後には海軍という組織の中に在った責任を省みる場において主導的な立ち回りを演じ、帝国海軍の持っていた問題を白日の下に曝け出してみせる事になる。

 世に言う海軍善玉論という悪辣な論調が蔓延(はびこ)る中、海軍に注ぐその人並み外れた信念が生む熾烈極まる弁に対し、後世の人々はこもごもの"真実"を見るのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ