第八四話 「最強を目指せ!/其の十」
大切な仲間が傷ついて苦しむ光景は、根が天真爛漫で無邪気な女性である明石の顔を瞬時に一人の軍医としての顔へと変貌させる。明石はその場に片膝をつくや無意識の内に右手に白い光を収束させ、自前の赤十字が蓋に描かれた大きな薬箱を出現させた。一度だけ神通の腕に抱かれる霞の顔に視線を向けてそこに苦悶の表情がある事を確認すると、すぐさま明石は霞の右足に手を伸ばしつつ顔を思いっきり近づけて患部の状態を確認する。
何かの化学薬品を混ぜたかのような気味の悪い青紫色で包まれた霞の右足は外側に向けて大きく腫れあがっており、触れた途端に明石の手には患部が放つ高い熱が伝わってきた。明石はすぐさま患部の状態を脳裏に有る医学知識と照らし合わせ始めるが、ほとんど時間を置かずに彼女の脳裏にはその症状を示す言葉がはじき出される。
『足首の靭帯損傷・・・、捻挫だ・・・。』
霞が負った負傷の状態を判断する明石。一口に捻挫と言っても程度の差は広いのだが、霞の右足首の容体は割合としては完全に重度の代物であった。
神通も日頃の教練では部下の捻挫を目の当たりにした事は何度かあるものの、こんな皮膚の色が変色しきってしまう程の捻挫は初めて目にする。いつもは『明石の所で治療してもらえ。』と言って付き添いの者を付けて軍医である明石の元へと向かわせる程度だったから、霞の捻挫に対する処置法を神通は全く持ち合わせていない。故に血相を変えた神通はしゃがみ込んで霞を抱きかかえた姿勢のまま、怒号にも似た声で帝国海軍艦魂社会では数少ない軍医の一人である明石に自分ができる処置の方法を問い掛けた。
『おい、明石! 猿をどうすれば良い!? 私は何をすれば良い!?』
『あぐぅっ・・・!』
間近で発せられる上司の叫びが触ったのか、霞は短い呻き声を放って強く噛んだ歯を唇の隙間より覗かせる。眉間によったしわもその深さと長さと数を増しており、霞が今どれ程の苦痛に襲われているのかを如実に表す。その悲痛な声と神通の鬼気迫る様子を目にした明石は、これから行う処置に医薬品の他で使用できる物がないか考えながら自分達のいる龍驤艦艦尾甲板のあちこちに顔を向ける。もちろんゆっくりと探している暇は無い事を明石は承知しており、迅速な処置を施す必要性を認識しているから延々と薄暗い甲板を見渡そうとせず、目に映して即座に脳裏で処置との接点を設ける事が出来た物を神通に用意するよう頼んだ。
『神通、そのまま霞を寝かせて! それから、すぐそこの舷門で海水をバケツに入れて持ってきて! あと手の平くらいの本って持ってない!?』
『よし、解かった! それと本ならこれを使え、そら!』
了解の意を示しながら神通はそれまで両手に抱きかかえていた霞を甲板の上に仰向けで寝かせ、淡く白い光を収束させた右手から出現させた本を明石へと投げるとすぐに艦尾甲板左舷にて展開された舷門へと駆け出していく。明石は神通より受け取った本を一旦脇に置くと、処置に使用する医薬品を取り出した薬箱の蓋を閉め、霞の右足を持ち上げて薬箱を足と甲板の間に滑り込ませる。さらに薬箱の上にはガーゼを敷いてから、持ち上げていた霞の足をゆっくりと薬箱の上に乗せた。
『よしっと・・・。』
『う、ぐ・・・、あ、明石さ・・・─。』
『あ、ダメ、霞! 上半身を起しちゃダメだよ!』
『くぅ・・・。』
何事かを言おうとした霞だが軍医としての自分を覚醒させた状態の明石の声には不思議と上司に似た迫力の様な物が備わっており、視線を遮るようにかざされた手の動きに起しかけた上半身をまた元に戻す。明石は霞が元の姿勢に戻るのを見てから処置を続け、今度は薬箱の上に乗せた霞の右足首側面に神通から受け取った本を縦にして添える。足首を包むように半円柱の形にしてあてがい、さらにその上から包帯を巻きつけ始めた。
『ちょっと痛いけど我慢してね、霞。患部の血流を圧迫しないと怪我が酷くなっちゃうの。足を薬箱の上に乗せてるのも、心臓より高い位置に持ってきて血流が少しでも弱くなるようにしてるんだよ。だから起きちゃダメ。』
『うう・・・、はい・・・。』
『まだ痛いと思うけど、辛抱してね。固定してとにかく足首が動かないようにしないと。』
声を掛けて霞の気を静めると明石は包帯の端っこを口に咥え、片方の手で霞の右足首にあてがった本を抑えながら、もう片方の手に持った包帯の束を念入りに巻きつけていく。その言葉通り患部がこれ以上可動できないようにする為で、1周ほど巻きつけると包帯の持つ手をぐいっと明石は引っ張り、巻きつけた包帯が緩んだりする事が無いように処置していく。明石の腕に力が入る度に霞は苦痛による小さく短い悲鳴を上げるが、自分の処置に間違いがない事を知識として身に付けている明石は構うこと無く処置を続けた。
するとちょうどその時、明石に要請されて海水を湛えたバケツを手にした神通が舷門より急ぎ足で戻ってくる。
『持って来たぞ、明石。次は?』
『うん。この手拭いを海水に浸したら絞って。雑巾を絞るのと一緒で良いから。』
『ん。解かった。』
包帯の巻きつけも終盤に差し掛かり、足首に添えた本が滑り落ちる事も無くなっていた為に明石は口に咥えていた包帯の端を手にし、巻きつけの最後として結び目を作りながら隣にまで来ていた神通に指示を出す。神通は濃紺の第一種軍装の袖を捲くるとバケツに手を突っ込み、海水に浸した手拭いを持ち前の腕力を駆使してきつく絞った。幾重にも巻かれて絞られた手拭いを握る神通の手からは海水の雫がしばらく滴る。だが包帯を巻きつけ終えていた明石は振り向きざまに神通の手より手拭いを抜き取り、間髪入れずに包帯で覆われた霞の右足へと巻きつけていく。
『よしっ・・・。本当なら氷が良いんだけど、冷やすのならこれでも効果がある筈・・・。』
いつの間にやら額に滲んでいた汗を袖で拭いながらそう言った明石。緊迫で張り詰めていたその表情からは少し力が抜け、疲労の感じられる溜め息には安堵の感すらも漂っている。どうやら応急的な処置が終わったらしく、明石は霞の苦悶の顔を覗きこんでは『もう、大丈夫。』と優しく語り掛けていた。やがて神通も海水で濡れた手を服の端で拭い、しゃがみ込む明石の背後から部下の様子を見てみる。まだまだ激しい苦痛が右足の足首では治まりきっていないのか、眉間にしわをよせて目を閉じ、強く歯を噛む彼女の表情は上司である神通にとっては一安心に至るまでにはいかない。なにより今この瞬間も彼女達の頭上にある飛行甲板で続いている柔道の大会が佳境を迎えている事は、その理由として大きな物だった。
『猿。大丈夫か?』
『ぐ・・・ぎ・・・!』
身を案じてくれた上司に対して返事をしようとした霞であったが、襲い来る苦痛はそれを許してくれない。ただそんな霞の姿は神通に自分の状態を示すのには十分であり、彼女は部下の怪我の具合がかなり重い物である事をよく理解する。
しかしそれでも、神通はそれ以上の言葉を声に変える事が出来ない。霞がまさに吹雪と死闘を繰り広げている際に最上にも話した通り、怖い怖い上司である自分の元で歯を食いしばって頑張ってきた霞の事、そして並々ならぬ決意を秘めて本日の大会に備えてきた部下の事を、最も身近で目にしてきたのが他ならぬ神通であるからだった。隊の為にと心を奮い立たせ、己の実力を存分に発揮してやっと決勝にまで進んだというのに、怪我による棄権という現実が今まさに霞には突きつけられている。それが神通には無念でならない。
そしてどうやらそれは霞にあっても同じらしい。
苦痛に歪んだ表情の中、僅かに片目を開いて眼前の明石の顔を認めるや、霞は重苦しい声で言う。
『あ、明石さん・・・、し、試合に出させてください・・・! 足なら大丈夫です・・・!』
その声色に襲い来る激痛の影響を残しながらも、霞は試合の続行を願い出る。ここ数日の教練で何度も甲板の脇から嘔吐し、上司の竹刀による制裁を受け、時には怖い上司の昔話を賜って英気を養ったりもした大会に備えた日々が、今の霞の意識の片隅でぼんやりと描かれている。それら全てが水泡に帰してしまうのかと思うと霞には居ても立ってもいられなかった。
しかしそんな霞に明石はすぐに明確な却下の意を示す。先程の彼女の言葉にもあった通り、霞が負った捻挫は安静にする事が最も大事な処置の方法だからであり、まだまだ駆け出しながらも軍医として彼女はその事をよく心得ているからだった。
『ダメだよ、霞。変に動かしたら関節だけじゃなくて、骨にまで傷が広がっちゃうよ。柔道の試合なんてとても無理だよ。』
『う・・・、ぐ・・・!』
明石が声を返す間にも、足から来る電気が走るかのような苦痛に襲われて霞は顔を歪める。その首筋や頬、額には大粒の汗が滲んでおり、傍から見ても足の状態が大丈夫などで無い事は一目瞭然だ。だがそれでも霞は更に試合への参加の許可を求め、軍医として許可を与えれない明石は頑なに拒否する。
『ひ、飛行甲板からここまで、あ、歩いてこれました・・・! し、試合も行けます・・・!』
『ダメ。捻挫はこれで済んでるぐらいに思わないと。下手に患部を動かしたら治る物も治らなくなっちゃうよ。』
『ひ、左足だけで戦いますから・・・! うぐぅっ・・・! お、お願いします・・・!』
『霞、解かってよ。これ以上動かしたらどうなるか私にも解からない。11月の艦隊編成までしばらくお休みだし、この機会に治さないと霞の艦にも影響がでるかもしれないよ。』
明石は霞の肩に手を触れて、自分の言葉を聞き分ける様に促す。明石だって当の霞が並々ならぬ決意を示した際、神通と供にそれを目にしていたし、毎日の様に続けられた特訓もずっと見てきたから、霞が襲い来る無念と戦うのに伴って負傷を理由に棄権したくないと言い出すその気持ちも解からなくは無いのだ。
もっとも霞は尚も引き下がらない。仰向けの状態から僅かに上半身を明石のしゃがみ込む方に捻り、唇の隙間から強く噛んだ歯を覗かせながら改めて懇願する。
だがいまや軍医としての立場に身も心も置いている明石には、霞が何を言おうともこんな状態での試合参加の大義名分にならない事は明白だった。逆に自分の言う事に中々首を縦に振ってくれない霞に対し、明石は次第に苛立ちが募っていく。誰の為でもない霞の為を思っての判断であるのに、当の霞がそれを解ってくれないからだ。刹那、霞の苦痛に震える声を遮るようにして明石は声を荒げる。
『これ以上動かさないように、ひ、左足だけで戦います・・・! だ、だから試合に・・・─』
『馬鹿にしないでよ! 左足だけで柔道なんか出来る訳がないのは私にだって解かるよ!』
『う・・・!』
『絶対にダメだからね、霞! こんな状態での試合なんて軍医として許可できない!』
さしもの霞も、軍医としての鬼気迫る表情で放たれた明石の言葉は堪える。明石は艦魂社会での立場として軍医という役職を頂いているのみならず、本日の大会での医務全般を担当する責任者でもあるからだ。その明石が許可できないと明確に口にした事は、燃えるような霞の情熱に真上から蓋をする。そして隙間から漏れる情熱の残り香により、霞はゆっくりと項垂れると両手に拳を握って涙を流し始めた。
『うう・・・、う・・・。』
静かに嗚咽の声を漏らし、受け止めねばならない無念が口惜しい余り、霞の拳が握られた手は小刻みに震える。この日の為にと火の出る様な日々を送ったというのに、目前に迫った呉鎮最強を決める決勝戦を手放さねばならない事が、霞には悔しくて悔しくて仕方なかった。
だがここに来て明石の背後にて二人のやりとりを黙ってみていた神通が閉ざしていた口を開き、明石は友人にして霞の身を案じる上司でもある神通の放った言葉に仰天する。それは今しがた霞に念を押して説明したばかりの、試合への参加を適えて欲しいという物だったからだ。
『明石、なんとか猿を試合に出してやれないか・・・?』
『な、何言ってるのよ、神通!』
色々と神通なりに思いをめぐらせての言葉だったのか、その声色には含みも混じって彼女にしては歯切れの悪い言い方だ。
ただ明石にとってそんな事は問題ではない。部下の身体に異常があり、その状態を悪化させると散々に説明したのにも関わらず、なお神通は霞と同じく試合への参加の許可を願い出てきたのである。まして生まれたばかりの10代後半の外見を持ち、先程の様に湧き上がる情熱によって中々聞き分ける事が出来なかった霞とは違い、神通は既にこの世に誕生して15年以上も経た立派な大人の艦魂。湧き上がる想いを抑え付けるだけの理性をしっかり身に付けた者の筈だ。
そんな神通が事もあろうに部下の怪我の具合が悪化する道を選ぼうとしている事に、霞とやりとりで苛立ちが募っていた明石はついに眉を吊り上げて怒り出す。すっくとその場に立ち上がると自分より10センチ近く身長が離れている神通に怯まず、普段から彼女にげんこつで物事を教えられたり質の悪い冗談を戒められているのも嘘かと思えるほどに迫って声を張り上げた。
『まだ解かんないの!? 霞は運動なんてこれ以上やったら足がどうなるか私にも解かんないんだよ! 霞が心配じゃないの!? 下手したら歩けなくなるかもしれない部下を何で悪い方に行かせようとするのよ! 神通は霞の上司なんでしょ!?』
『そんな事は解かってる、明石・・・。その上でなんとか試合にだしてやりたいんだよ・・・。足の負担や痛みを和らげる処置とか、何か無いのか・・・?』
鋭く釣り上がった目つきに代表される怖い神通の顔も、今の明石にあっては恐れを抱く事など無い。それどころか全く医療への知識を持ち合わせていない彼女が都合の良い処置の可能性を求めてきた事に、明石は怒りの余り神通の胸座に両手を伸ばす。神通はその勢いに押されて半歩ほど後ろに退くが、明石は構わず神通の顔に自分の顔を近づけて声を返した。
『なによ! いっつも二水戦に口出しするなとか言ってるクセに、自分は解かりもしない医務の事にズケズケと口出しするなんて都合が良すぎるよ! 私は軍医なの! 怪我に対する専門家なの! 何にも解かんないクセに口出しなんかしないでよ!!』
普段から峻烈で短気な性格より来る自分の態度を持ち出されて責める明石の言葉に、神通は即座に言葉を返す事ができない。明石が言う通り神通に怪我の処置に関する知識は殆ど無い事は、艦尾甲板にて明石と落ち合った際にすぐに霞の処置に関して指示を仰いだ事でも証明されている。その上で霞が試合に出れてなおかつ怪我の具合の進行を抑える様な処置など、明石の指摘通り、素人が思いつく都合が良過ぎる代物に他ならなかった。
ただ、霞の怪我の具合を知っていても試合に出させようと企図した事は、神通にとってはそんなに簡単に諦めをつける事の出来るものでも無かった。胸座を掴まれて迫る明石に他意が無い事も解かっている神通は明石の声を受けて少しの間俯くと、ゆっくりと顔を上げて明石へと声を返す。その声には足元で倒れたままの霞にも似た苦痛による歪みがあり、怒り心頭である明石に神通の心の内をじわじわと伝えていく。
『明石・・・。お前・・・、私がこいつらの苦しむ顔を好き好んで見ようとすると思うか・・・?』
『な、なによ・・・?』
『私だって猿にこれ以上の苦痛を味合わせるのは不本意なんだよ・・・。だがここで身を引いたら猿は長い間、後悔する事になるんだ・・・。お前も海軍艦艇の事情なら解かるだろう・・・? ただでさえ支那の戦線が長引いていて鎮守府所属の駆逐隊が揃う事なんてここ数年無かったし、これから先もあるかどうか解からん・・・。欧州での戦争の影響だっていつ日本にくるか解からない・・・。そんな中でこいつらの想いや気持ちが注がれてるのが今回の大会なんだ・・・。』
歯切れの悪い神通の珍しい物言いはちょっとどもった感じもあって聞き取りづらい物だったが、文字通りの目と鼻の先でそれを耳にした明石は彼女の声に怒りを段々と静めていく。神通の語った今回の大会は、艦魂達が楽しみにしていた祭典でもあり、同時に昭和12年より始まった支那事変下の海軍事情にあっては稀有な集いの場でもある。特に一戦隊を除いた第一艦隊の部隊は頻繁に支那戦線での海上警備や港湾封鎖、上陸作戦の支援等に出張っており、鎮守府所属の部隊が一同に集う事はここ数年の内では皆無であったのだ。そしてそれに伴う呉鎮最強の駆逐艦を決める大会は、その言葉通りこれから先の開催も約束できない代物である。故に霞や雪風に限らず、今回の大会に色んな想い、気持ちを抱いて挑んでいる者達は大勢いるのであり、せっかく巡ってきた千載一遇の機会を無下にしたくないのは誰でも同じなのである。
平たく言ってしまえば『気持ちを解かってくれ』程度の事なのかもしれないが、艦から足を離せず、長引く戦時状態によって一同に会する事も出来ない帝国海軍の艦魂達にとってはほんの一握りの楽しみにしていた場でもあるのだった。
明石もその事を理解するの併せて、実際に試合にこれまで臨んで来た霞と見守っていた神通の無念の度合いをひしひしと感じる。もちろんそれは自身の身体の管理など無視して良い事には直結しないので軍医の立場である明石は納得しきれずに顔を歪めるが、そんな霞達の心情を汲むのが自身よりも友人の方が遥かに上手く、そしてより濃い色合いで受け止める事が出来る事を、眼前より返されてきた神通の言葉によって知った。
『で、でも、それじゃ霞の足が・・・!』
『ああ、その通りだ・・・。私は下手をしたら怪我の具合の予測がつかんというお前の言葉を疑ってる訳じゃないんだ・・・。ただ、それでも猿をなんとか試合に出してやりたい・・・。別に言い返すつもりじゃないが、私も部下を持つ者としては専門家のつもりだ、明石・・・。頼む・・・。』
まじまじと目を見てそう言った神通に今度は明石が気圧される様な格好となり、それまで神通の胸座を掴んでいた両手を明石は離す。
明石としても友人達の願いは適えてやりたい。春頃に南支方面を行動した際に支那戦線の一端も彼女は見ており、毎月初日に行っていた第二艦隊内の戦隊長会議によって世界の情勢変化を少なからず耳にもしている。秋頃には北部仏印への武力進駐も日本はやってのけたし、昨年の夏には大陸の北の奥地でソ連との国境紛争まで起こっている事も人伝に聞いた。故に明石にだって、どんな形かは解からないが戦争という物の余波が海を伝って日本に来る事は容易に想像できる。
そんな中で自分と艦魂達、まして友人である霞や神通の想いが詰まった今回の大会の重さを明石は改めて実感した。
『あ、明石、さん・・・! あぐっ・・・!』
ふとその時、霞は上司のお願いに乗ずる形で涙を湛えた顔を明石に向けながら、再び試合の続行の懇願をしようとする。だがその最中に襲ってきた激痛に霞の顔は歪み、強く噛んだ歯の隙間から続く言葉が漏れてくる事は無い。まだまだ痛みが引いていない事がよく示されており、逆に明石はそんな霞の様子により軍医としての判断がやはり適当であると考えてしまう。今しがた意識した海軍艦艇の艦魂たる自分達の事も含んで、明石は再度神通に顔を向けて自身の考えを示した。
『やっぱりダメだよ、神通・・・。私達は帝国海軍の艦魂なんだよ・・・? いつ私達に出動がかかっても良い様に、自分達の身体をしっかり管理しなきゃ・・・。それを疎かにするなんて、海軍艦艇の艦魂としては間違ってると思う・・・。』
今度は明石の声の歯切れが悪くなる。彼女が口にした事は心の中に浮かんだ言葉を率直に示した物なのだが、それをぶつける相手が神通であった事が大きな理由だった。なにしろ生まれて2年程しか経っていない明石に対し、神通は年号も今とは違う時代に生まれた者。艦魂としては明石の完全な先輩格に当たり、海軍艦艇の艦魂がどういう物かなぞ、明石よりもずっとずっと良く解かっている人物なのである。そんな神通にさも正論という風にして海軍艦艇の艦魂の在り方を語るのは、少しだけ明石には気が引けるのだった。
しかし神通はちょっと視線を泳がせながらそう言った明石に対して眉を吊り上げる事は無く、むしろほんの少しだけ口元を緩めて小さく溜め息をしてみせる。やがて少し沈黙の後に返ってきた神通の言葉には、予想外にも海軍艦艇のなんたるかを示すような物は含まれていなかった。
『明石、違うんだ。海軍艦艇云々じゃない。・・・上手く言えないんだが、これは日々を各々の意志を持って生きてる奴の小さな願いなんだよ。我が儘なのは百も承知だが、なんとかやらせてやってくれないか?』
彼女の口から出てきたのは、これまで友人として付き合ってきた中で初めて耳にした神通なりの命に対する考察。常に不機嫌そうな表情を浮かべる普段の神通を知る明石は彼女が命に対する独自の考えを持っている事に面食らうが、直後にそんな命の在り方を明石にも考えさせるきっかけを作ってくれた師匠、朝日との記憶を脳裏に蘇らせる。
こうでありたい、こういう風にして行きたい、というささやかな理想を持つ事。朝日自身が今の明石くらいの時、その明石の先代によって教えられた物で、仲間の命を救う者である軍医の心構えとしては根本に当たる物だと師匠より授かったある種の倫理観だ。
もちろん今の自分にそれを当て嵌めると、霞と神通は願う大会続行を適えてやる事が今の自分の理想である事に明石は難無く気付く。まして朝日より授かったその教えにすがってその日その日を懸命に生きている事は、自分の未熟さから相方と別れる事態となって以来、明石の心の拠り所でもあった。内火艇に乗って去っていく忠の背中を見て涙し、独りになって呉に戻っり朝日の胸に涙で濡れた顔を埋めた時、心に抱いた理想を大事にしろと言ってくれた朝日。その時ほど明石は、素直に自分と向き合わずに相方を手放した事を激しく後悔した事は無かった。
そして今、明石の眼前では過去の自分と同じ様にして、我が儘と知りつつも敢えてこもごもが抱く理想が描く道を進みたいと口にする師弟の姿がある。それはただ単に明石に自分達の理想をとくとくと語っているのでは無く、自分達が願う物を適える為に軍医である明石の力を貸してくれと懇願する姿だった。
明石とて昔の自分のような後悔を友人である霞には味あわせたくは無い。尽きる事の無い懺悔の念に駆られるのは明石もしょっちゅうだし、いかに後悔という感情が惨い物であるかは観艦式前の横須賀にて富士という大先輩からも伝え聞いている。決して霞と神通が願う物は自分や富士から聞かせてもらった三笠の様に愛する者を掴み損ねたという代物ではないが、それでも明石は彼女達の願いを打ち砕き、後悔を代わりに与えるというのはここに来て嫌だと思い始める。
『ぐっ・・・! あ、明石さ、ん・・・!』
『明石、頼む。猿を試合にださせてやってくれ。』
やがて明石のズボンの裾を握って霞が涙ながらに訴え、一歩迫って瞳をじっと見つめてくる神通に、ついに明石はさっき自分で口にした軍医としての判断を覆す事に決めた。その最中にも苦痛に悶える声を上げる霞によって中々踏ん切り良くとまでは行かなかったが、明石は自分の軍医としての判断を押さえつけるようにして強く歯を噛みながら霞の包帯が巻かれた足へと手を伸ばすのだった。
それから10分程も経った頃になって神通と霞、明石の3人は、柔道の大会会場である龍驤艦の甲板へと戻ってくる。怪我の影響を隠そうとする霞はキッとその丸い目に力を入れ、真一文字に結んだ唇によって表情の歪みを律するが、麻色の頬や額を滝の様に伝って行く大粒の汗が怪我の事を知っている神通と明石に霞の身体を走る苦痛がどれ程の物であるかをひしひしと伝えていた。
『猿、大丈夫か?』
『ゼハァ、ゼハァ・・・。 だ、大丈夫です、戦隊長・・・。』
荒い呼吸も治まる事を知らず、彼女の両脇に立った明石と神通は霞の表情を覗きこむ様にして視線を送る。すると霞の瞳が正面を向いたまま僅かに見開くと同時に、飛行甲板の上には大きなどよめきが走った。
『『『 おおおおお!!! 』』』
何事かと思って霞の目が向けられる方に明石と神通は顔を向ける。すると3人の視線の先にあったマットの上では、起き上がりながらも青空に向かって咆哮を上げる少女の姿がある。波打った肩を隠すくらいの黒髪を振り払い、神通と良く似た鋭く釣り上がった瞳を細くして叫んでいたその少女。3人にあっては身間違えようも無い。二水戦の大問題児にして霞と同じく本日の大会に参加している雪風であった。
『おっしゃああああーー!!!』
『雪風! やったー!!』
『雪風姉さんも決勝だよ! これで呉鎮最強の駆逐隊は二水戦だ!!』
『雪風ー!』
マットに対して飛行甲板左舷側に陣取った少女達からは、霞の試合が終わった時と同じ様に歓声を上がる。見れば弓を引くように拳を腰の辺りで握り締める雪風の足元には、唇を強く噛んで顔を歪めている20駆所属の朝霧の姿があり、準決勝の試合においてまたしても雪風が先輩を破った事はという明白だった。霞に続いてこちらも余程の名勝負となったのか、二水戦の少女達の中には霰の他にもぼろぼろと涙を溢しながら笑みを作る者もチラホラと見受けられる。
『へ、へへ・・・。犬っころめ、勝ったのか・・・。ゼハァ、ゼハァ・・・。』
今にも途切れそうな言葉で呟いた霞は足を引きずる素振りも見せずに、喝采を送る仲間達の元へと独り進んで行く。その背中は激しく上下する肩と首筋に光る汗によって疲労感が拭えない代物で、飛行甲板にきてか此の方、一向に晴れる事の無い顔色を浮べている明石は思わず歩くのをやめさせようかと思ってしまうが、そんな明石の前にはゆっくりと動作で隣に立っていた神通の腕が伸ばされる。
『明石・・・。』
遮るようにして腕を宙に伸ばした神通は明石の名を呼ぶとそれ以上の声を発しなかったが、じっと目を見つめて僅かに首を左右に振る事で彼女の意志は明石に示された。
頼むからこのまま続けさせてやってくれ・・・。
そんな言葉を無言で自分に投げてくるのが明石には良く解かる。艦尾甲板で察した後悔にも直結する事を再び思い出し、明石は何も言わずに神通と供に霞の後を追って行った。
一方、霞が戻ろうとする仲間達は雪風の勝利によってやんややんやの大騒ぎで、自分達の代表が二人揃って決勝まで勝ち進んだその大躍進振りに心の底から酔っていた。皆一様に尻の青い新米艦魂だてら、この機会に帝国海軍に自分達の名を轟かせてやろうと意気込んだ本日の大会で、彼女達は夢にまで見た呉鎮最強の栄冠をついに手に入れたのだ。決勝は霞と雪風でいわゆる二水戦の身内戦であり、どちらが勝っても呉鎮最強を冠するのは二水戦の駆逐隊である事は必定。お偉方が見守る前で艦魂社会では水兵さんの階級を頂く少女達が有頂天になるのも無理は無く、身近に居た者と抱合ったり、手を取って飛び跳ねたりと思い思いの動作で湧き上がる喜びを発散していた。明石と神通の心配が滲んだ視線を背にしながら霞のその輪の中へと入って行き、皆からの祝福と賛辞をちょっとだけ引きつった笑みで受け取る。
その内に少女達の近くまで来た神通と明石の前には、マットの上で礼を終えて戻ってきた雪風が元気良く小走りで歩み寄ってきた。
『はあ・・・、はあ・・・! 戦隊長、勝ったッスよ!』
今しがた死闘を制した上に走ってきた為か雪風は肩で息をしながらそう言ったが、彼女の大きな釣り目は上司よりのお褒めの言葉を待っている事を示してキラキラと輝いている。頭上に輝く太陽の光も宿るその目に、神通は口元を緩めて雪風の肩に手を置きながら労いの言葉を掛けた。
『ん。勝ったか。これで私達が呉鎮最強である事が決まったな。よくやったぞ、犬。』
『うッス! 決勝では猿をブッ飛ばしてやるッスよ!』
『ふん、そうか。油断はするなよ、犬。』
待ちに待った上司のお褒めの言葉は雪風の心から疲労の色を一気に拭い、白い歯を唇の隙間から輝かせてみせる。仲の悪い霞との決勝である事にもその闘志はより一層火の勢いを強くしているらしく、雪風は両手に握った拳を胸の前で掲げて気合を入れなおした。
対して雪風の意気込みによって放たれた言葉で霞の怪我の事を神通は頭に瞬間的に過ぎらせてしまうが、それを口にしてしまう事はせっかくこの場に戻してやれた霞の胸の内を踏みにじる事になると考え、雪風からふと顔を逸らして波間を眺める。もちろんそれはフリだけで、彼女は自身の表情の変化によって雪風がその事に気付かぬ様に企図したのだった。
しかしそんな二人を瞳に映す明石は神通が企図したような行動を取る事も無ければ、その表情はこの場にいる事が不釣り合いにも思えるほどにどんよりと曇っている。霞の怪我が思いの他酷く、そも安静という処置の基本を軍医である自分が放棄した事が、明石の意識の中では激しく叱責するような声色に変わって疑問を投げつけていた。
本当にこれで良いのか? 本当に自分がした事は間違っていないのか?
今まさに試合を行う為の会場へと戻ってきた霞の横顔を遠めに眺めながら、明石はこの時、声無き自問自答を何度も繰り返す。
だが悩める明石が答えを出せぬまま、その隣に立つ神通が部下達の躍進にほんの僅かだけ口元を緩めた刹那、早くも飛行甲板の上には本日最後の試合となる決勝戦の開始を促す呉竹の声が響く。
『傾注ー! これより決勝戦を始めまーす!』
その声に龍驤艦の飛行甲板上からはざわめきが消え、いよいよ呉鎮にて最も強い駆逐艦を決める試合に見合う心地の良い静寂を与えていく。甲板のあちこちにたむろする軍港の雑役船の艦魂達が拍手を始め、残念ながら今回の大会では全姉妹が次代を担う若者に負けてしまった吹雪を始めとする特型駆逐艦の者達が優しげな面持ちを浮かべ、供に大躍進をしてみせた者同士の戦いに胸を躍らせる大会本部の伊勢らが好奇心に支配された視線を集中させる中、マットの中央では呉竹が声を張り上げて二人の選手の名乗りを上げる。
『右舷側、第16駆逐隊、雪風二水! 左舷側、第18駆逐隊、霞一水!』
『はい・・・!』
『はい!』
呼ばれた二人が元気良く返事をしてマットの上へと歩き出していく。明石はついに霞が怪我を押して試合へと向かおうとするその背中に無意識の内に手を伸ばして彼女の名前を呼ぼうとするが、さっきと同じ様にまたしてもそんな明石の胸の辺りには隣に立つ神通の腕がゆっくりと持ち上げられた。動揺を隠せない表情での明石は腕の主に視線を向けて自身の胸の中に湧き上がる疑問の答えを無言で問おうとするが、神通は横目で一度目を合わせると何事も無かったかのようにして正面に視線を戻し、マットの上へと足を踏み出し始めた二人の教え子に声を掛ける。
『犬、猿、お互いに油断せずに全力をぶつけて相手を倒せ。獅子搏兎、常に頭と全ての力を使って戦に赴くんだぞ。』
『『 はい! 』』
上司の声が放たれるや二人はその場に一旦立ち止まり、獅子は兔を捕まえる際でも常に力の出し惜しみはしない事を、引いてはいかに単純な物事であっても持てる能力を全て投入する事を意味する言葉を受けて二人一緒に声を返す。ましてこの二人は普段から二水戦内の武技教練においては常に一位を奪い合って張り合っている者同士であり、慣れた相手だから相手の手の内は知っていると油断してはならない事をそれぞれが肝に銘じた。
ただ、全力で倒せという神通の言葉を雪風当て嵌めるとその矛先は当然の様に右足首に重度の捻挫を負っている霞になってしまう為、明石は神通の言葉に霞への心配を一層深い物としてしまう。ざわめきにも似た胸の高鳴りを抑えるように胸の前で握った両手を掲げ、明石はやはり声を発していますぐこの試合をやめさせるべきなのでは一瞬思った。
だが心優しい明石の事を解かっている神通は明石の唇が動く前にその肩に手を触れ、耳元に自身の口を近づけて呟くように声を放つ。
『明石。怪我をしてるからって加減して試合をして欲しいなんて当の猿は思っていない。見ろ、猿の顔を。痛かろうがなんだろうが、最後まで戦に赴く事が猿をあんなにまで良い顔にしてるんだ。それに相手も相手だからな。手加減するつもりもアイツにはないさ。犬にもな。』
神通の囁きを耳に入れながら明石の瞳に映るのは、マットの中心で審判の呉竹を挟む形で対峙している霞と雪風の姿。それが降り注ぐ陽の光によるものなのか、心地良い瀬戸内の秋風によって作られた物なのか解からないが、二人は頬に浮かぶ汗をキラキラと輝かせて僅かに口元を緩めている。涼しげな表情で互いの視線をぶつけ、辺り一面から木霊するそれぞれへの歓声も耳には入っていないかの様な静けさすらも彼女達の間には立ち込めていた。
不思議なその雰囲気を何故か邪魔してはいけないと明石は感じ、今しがた起そうとした行動をやめる。
『う、うん・・・。解かった・・・。』
『ん。すまんな、明石・・・。』
ちょっとだけ不貞腐れるようにしかめた顔で了解の意を示す明石に神通は感謝の念が色濃く滲んだ謝罪の言葉で応じ、足元に視線を落として未だ自問自答に襲われている明石の横顔へ彼女は包み込むように優しげな微笑を向けるのだった。
しかし上司と友人のそんな心温まる瞬間を、今まさにその雌雄を決せんとマットの上にて相対している霞と雪風の威勢の良い声が粉微塵に砕く。それぞれ猿や犬と上司より呼ばれ、文字通りの犬猿の仲であるのがそもそものこの二人の在り方であり、しかも具合が悪い事に二水戦の武技教練の試合においては接戦を展開した末に乱闘に及んで試合の体裁を維持できなくなる事から、未だにこの二人の間ではお互いの優劣が着いていなかった事にその応酬の理由があった。
『こんのエテ公め!! ここで会ったが百年目だ! 今日こそ決着をつけてやらあ!!』
『上等だ、この野郎! 犬に似合った四つん這いの格好で吠え面掻けるようにしてやる!!』
お互いに大股になって互いの顔にピンと立てた人差し指を向けながら、激しい剣幕で怒号をぶつけ合う霞と雪風。絶える事のない明石の心配や上司の想い、仲間達の応援、周囲からの期待も、非常に仲が悪いこの二人にあっては時折思考より抜け落ちてしまう。即座に神通が『馬鹿者が!!』と叫んだ事で二人は我に帰るが、もうその頃にはそれまで二人を包んでいた歓声は失笑へと移り変わっていた。
『んもう、またやりはったわぁ・・・。』
『あ〜も〜、せっかく二水戦を見る目が良くなってたのにぃ・・・。』
龍驤艦の飛行甲板上をうねる失笑の波が、張り切って応援していた二水戦の少女達を瞬時に赤面させていく。一日に何度恥を掻かせるのかと彼女達は少し二人を呪い、その代弁として怖い怖い上司である神通のギラついた視線がマットの上の霞と雪風を刺し貫いた。対してさすがの霞と雪風も神通のお叱りだけには天地がひっくり返っても勝てると思っておらず、後に受けるかも知れないげんこつの可能性を脳裏に過ぎらせてそれ以上の口論をやめる。なまじ自分達を取り巻く失笑が、大事な大事な二水戦の名前に泥を塗っている事を示しているのだから無理もない。もちろんその主犯格は呉鎮最強の駆逐艦を賭ける神聖な場において猿と犬になった、他ならぬ霞と雪風だ。
もっともようやく無駄口を叩くのを二人が止めた事により、審判の呉竹としては試合の続行をこなす事がやっと出来る状態になった。どうやらこの二人の若者は仲が悪いらしいと察しつつ血気盛んなその様子を懐かしむようにして微笑むと、降ろしていた両手を持ち上げて試合の進行を開始していく。
『では、正面に礼!』
未だ嘲笑の余韻が冷めやらぬ中での合図に従い、雪風と霞は大会本部に向けてお辞儀をする。霞の右足首はたすき掛けの様にして幾重にも巻いた包帯で簡易に固定してあるのだが、明石や神通がみつめる先での霞は至って普通に身体の向きを変え、深々と腰を折っていたりしている。今の所は足首の痛みをそこそこに抑えられているようで、艦尾甲板では苦悶によって歪んでいた表情も今はたまに顔をしかめるくらいであった。
やがてお互いに向き合っての礼を終えるや、霞と雪風は目の色を瞬時に変えてお互いに軽く腰を落とす。両腕をゆっくりと前に伸ばし、顎を僅かに引いて身構えたその様子を認め、呉竹は本日最後の試合にしていよいよ最強の座を賭けた大一番の開幕を示した。
『始め!』
決勝戦ともなると注目の度合いも大きく、呉竹の合図が放たれると飛行甲板のあちこちから短い歓声と拍手が巻き起こる。大会本部のお偉方も椅子から身を乗り出すようにして試合場に熱い視線を注ぎ、マット端っこに当たる部分には吹雪の姉妹達や軍港雑役船の艦魂達が押し寄せてこの一戦を見逃すまいとしていた。
そんな中での霞と雪風は神通のお叱りを受けた事も功を奏し、お互いに妙に高ぶる事のない静かな緊張感を抱きながら試合を始める。一回戦にも示されている通り雪風はその性格に似合わず慎重に相手の体勢を崩しに掛かる戦い方で、強靭な足腰と腕力を懐の辺りで器用に使う守備型の柔道とも言え、悟られぬようにしていながらも右足首を負傷している今の霞にとっては吹雪の様に速度的な咄嗟の攻防とはなり得ぬ相手で少しありがたい。
踏み込む手前程の遠い間合いから霞は雪風の袖へと手を伸ばし、腕力に自身のある雪風はあわよくば逆に霞の袖を取って自分の間合いに強引に引き込んでやろうと霞の腕を捕まえようとする。しかしながら霞の怪我の事を知らない雪風は大きく腕を伸ばして懐が空いた瞬間に瞬発力に優れた霞による得意の突進も警戒せねばならず、憂い無く霞の腕へと対応出来る物ではなかった。故にお互いが相手の腹を探りつつ袖の掴み合うという小競り合いがそこには繰り広げられ、双方供に一筋縄では決着をつけさせてくれる様な相手ではない事を見学する者達も無言で納得する。
でもやはりいつも常日頃より二人に教えを授けている神通には、霞の動きに持ち前の俊敏さが欠けているのはすぐ解かった。前後に開く左右の足の幅も狭く、左右前後へと忙しなく飛跳ねる様な仕草も殆ど無い。その上で揺さぶりをかけ様として上半身を大きくくねらせたり反らしてみたりする霞の柔道は、口にこそ出さないが神通自身が柔道の際に用いる戦い方でもある。単に脚力と素早い身のこなしを特徴とする霞に上手く合う為に授けた戦い方でもあったのだが、やはり自分と同じ姿勢で相手に挑んでいく若者の姿はそれに見合った親近感とも親心ともとれる様な感情を神通に与えてくれる。だがそれ故に神通は、愛弟子が本来の自分を右足首から襲って来ているであろう苦痛によって発揮できていない事をすぐに気付いてしまうのだった。
するとすぐさま神通の感じた物が、試合場たるマットの上では現れる。
お互いに袖の取り合いの応酬の最中、霞は掴まれた袖を振り払おうとする雪風が振り払った直後に一旦距離を取ろうとする癖を見つけ、重心が軽く浮き上がったその一瞬を捉えて一足飛びに雪風の懐目掛けて飛込もうとする。
『ぐ・・・!』
しかし霞の身体が前へと進み始めた途端、彼女の右足には雷鳴の如き激痛は瞬間的に放たれてその推力を根こそぎ奪って行った。すぐに失速を始める霞の突進は雪風に回避の猶予を与えるには十分である。
『ぃよっと!』
体を捻りつつも真後ろに飛び退いてみせる雪風。元より彼女は霞に読まれているとは知らずに後ろに退くつもりであったのだからその動きは軽快であり、雪風の前には片足が進まずにその場へとつんのめる様にして崩れていく霞の姿があった。
『あぐっ・・・!』
なんとか二本の腕で受身をとる霞であったが、満足に利き足が動かせないのでは思い描くような身のこなしを発揮できない。顎をマットに打ちつけてうつ伏せに転ぶ霞は、倒れこむを同時に悲鳴と苦痛が入り混じった痛々しい声を放った。
すると彼女の頭上からは、自身の攻撃を難なく避けてみせた大機嫌いな雪風の声が浴びせられてくる。
『ケッ! トロい猿だな!』
『ゼハ、ゼハ・・・! な、なにを・・・!』
見下した視線と嘲笑を笑みを浮べた雪風の憎まれ口が霞の心を怒りで満たすが、即座に立ち上がってやろうと企図しても霞の右足は中々動いてくれない。所詮は包帯でグルグル巻きにしただけの処置であるから霞の右足首は完全に固定されているとは言い難く、立っているだけでも彼女の右足首は雪風との駆け引きにより微細な動きが求められる。当然、動かす度に霞の意識の大半を痛みと苦しみが支配し、さっき試合が始まったばかりだというのに規律を失った呼吸をしている事の真相ともなっている。強く唇を噛んで歪んだ表情を浮べながらゆっくりと立ち上がるのも、疲労では無く右足首の激痛に理由があった。
『霞先輩! しっかり!』
『霞姉さん! 頑張るんや!』
二水戦の少女達も戦っている二人がどちらも自分達の代表である事からこれまでの応援は両者に公平に送ってきたが、フラフラと覚束ない足取りで立ち上がる霞を目にして叱咤の声を放つ。
もちろん彼女達は霞が怪我をしていること等知りもしないのだが、そこから少し離れた背後の方でずっと試合を見ていた明石と神通はその限りではない。鬼気迫るような覇気が篭った顔で食いしばった歯を唇より覗かせる霞は、今しがた雪風より放たれた憎まれ口に立腹したように見える。試合を始める直前にその犬猿の仲を示して見せたのだから明石と神通以外の見学者は一様にそう捉えて疑う事は無いが、霞の怪我を知る明石と神通から見れば、それはどんどんと増してくる痛みに懸命に耐えながら尚も戦おうとする霞の姿に他ならない。
『か、霞・・・!』
友人に対する心配の念は怪我の事実によって油を注がれ、瞳に映る痛々しい患者の姿は明石の意識を試合場へと誘う。もう既に満身創痍である事は明白であるし、太陽にも負けぬ元気な笑顔がいつも眩しい筈の霞の顔は苦悶の色のみで染まっている。そんな霞にこれ以上試合を続けさせる事は、友人の想う心優しい明石には出来なかった。
咄嗟に明石は霞の名を呼ぶと試合場に駆け出そうとする。後悔なんかしたくないという当の霞とそれを理解してやれた神通の願いも、もはや明石の脳裏には浮かび上がってこない。目の前で苦しむ霞を、軍医としても友人としても放ってはおけなかった。
しかし明石がまさに足を一歩踏み出した所で、明石の身体は神通が肩を組むように巻きつけてきた腕で制動される。同じ細身の長身な体格ながら、明石より背も高く力も強い神通の腕は明石の身体をそれ以上前へと進ませる事は無いが、今すぐ霞へと駆け寄って救いの手を差し伸べねばと叫ぶその心までは止めることは出来ない。
『じ、神通・・・! こ、これ以上は私、見てられないよ・・・!』
既に友人達の願いを胸の中では退けた明石は、付近の者達が自分の声を聞いてそれまで口外してこなかった霞の状態を知ってしまう事も承知で叫ぶ。それでも尚、神通は明石の肩の辺りに巻き付けた腕より力を抜かず、明石は叫び終えるや神通の腕から逃れようと真横に寄り添う形で立っている神通に顔を向ける。
その時、一年以上も彼女とは親友として付き合ってきた中で僅かに一度しか見た事が無かった一筋の輝きを、明石は神通の鋭く釣り上がった瞳の端に見つけてしまった。
『・・・なぜ、あんなに頑張るんだろうな・・・。猿は・・・。』
ただただ静かに、神通は声を放つ。
呼吸を乱す事も無く、飛行甲板に戻ってきた時と何一つ変わらぬ声色でそう言いながら、神通は眼前にて再び雪風との乱取りを再開させている霞の姿を濡れた瞳に映していた。初めて明石と出会った時に一度だけ見せたその涙は、明石の心に声も無く沈静を命じていく。
『・・・一言、足が治ったらって言えば良い物を・・・。 ・・・何故にああやって頑張るんだろうな・・・、アイツは・・・。』
飛行甲板の上に木霊する歓声に掻き消されてしまう程の声であるが、明石は耳元で放たれる友人の言葉と彼女の涙の重さが胸に堪える。
常に怖い上司として霞や雪風を始めとした部下達を虐め鍛え、先輩や目上の者と喧嘩してでも絶対に己の信念を曲げようとしない神通。その体裁を頑なに守り続け、口出ししたなら例え友人の明石であっても公然と怒りを向けて来る彼女が、振り返ればすぐに部下達によって認められてしまう今の状況にも関わらず涙を流している。生来がいつもの怖い上司という姿以外の自分を他人に見せたがらない筈だった神通の涙は、それだけ眼前にて何度も転んだりしながら、苦痛に顔を歪めながらも諦めずに必死に立ち向かおうとする部下に、胸に抱く部下への想いを大きく揺さぶられているからこそ流れた物だった。
その意味を親友と自負する明石はすぐに察すると同時に、陽の光を浴びて輝く神通の涙を否定する事はいけないと声を発せずに悟り、霞の元へ向かおうとする心と身体を自ら抑制した。
すると神通と明石の正面より一際大きな歓声が上がり、静観しようと声を交えずにお互いに決めたばかりの二人が目を見張った先では、お互いにおでこがぶつかるくらいの距離にまで詰め寄ってそれぞれの袖や襟へと手を伸ばしている霞と雪風の姿がある。大きく肩で息をしてどこか表情も虚ろになってきた霞の状態を認め、それまでじっくりと機会を窺っていた雪風がついに自分から霞の懐へと潜り込んだ瞬間であった。
『こんのぉ!』
『うぎ・・・! ち、ちくしょう・・・!』
背は同じくらいでも自分より腕力で優れている雪風という相手を知る霞は、全く自分の調子で組み合った状態ではない事から一旦逃れるべく足を動かそうとするが、激痛を通り越してもはや足の裏の感覚すらも無くなってしまっている彼女の右足は霞の意識に従う事は無い。真正面より雪風の腕に捕まってしまい、その勢いのままで投げられないようにと雪風の袖や襟を握り返すのが精一杯だった。すると体力に勝る雪風は最初に襟を掴んできた右手をパッと放し、下から突き上げるようにして今度は霞の柔道着の帯へと伸ばしていく。霞は瞬時に雪風が自分を下から抱え上げる様な体勢で投げようとしているのだと判断してそれまで雪風の袖を掴んでいた左手を離し、正面下方より襲ってくる雪風の袖を握ってその自由を奪おうと試みる。
だがこれは罠だった。
『ふんが!』
『ぐあ・・!』
自分の胸の前くらいでの手の動きは雪風の最も得意とする所。霞が左手で応戦しようとする様子を確認するや、雪風は下側から伸ばす右手を霞の頬をかすめるようにして引き抜き、横から殴りつけるような軌道を描いて霞の首真後ろに当たる奥襟へと右手を伸ばしたのだった。
そして奥襟を取られた事を察した瞬間、満身創痍の霞の右足には衝撃が走る。これまでにない苦痛に襲われる霞の右足には半身の体勢へとなった雪風の右足の踵が添えられており、霞の身体はそのまま雪風の右足を軸にしてその外周を回る様に円運動で流れていく。少々強引に巻き込むような形で発動された、雪風による変則の大外狩りであった。
『『『 おおおおお!!! 』』』
小競り合いがずっと続いていたこの試合において、ついに片方の技が出た事に会場が湧く。その割れんばかりの喧騒に霞の悲鳴にも似た呻き声は掻き消され、身体を支える事など到底不可能な彼女の右足はいとも簡単に膝から折れ曲がる。対して雪風は足の掛かり具合に抜群の手応えを得ており、このまま引き倒してやろうと自分の肩に霞の顎を乗せるようにして身体を密着させ、渾身の力を振り絞って霞の背中をマットに向かって降下させた。
次の瞬間、持てる力と自分の体重の全てを預けるようにして雪風はマットへと急降下。鈍くどもった様なマット独特の衝撃音が響き、叩きつけられた霞の身体は勢い余ってマットに背をつけてから僅かに浮き上がる。その上に雪風は腹這いの格好で折り重なるようにして倒れ込み、技を仕掛けてから最後の瞬間まで霞の身体が背中を下にして崩れるように維持した。その理由は柔道において勝負を決める判定の基準が背中を背にして倒れる事と決まっているからであり、雪風はその基準を見事に成してみせる。
信号ラッパの様に寥々と鳴り響く呉竹の声が、その事を物語っていた。
『いっぽーん!! 雪風二水!! それまでえ!!』
空気を切り裂くように放たれた判定だが、声を聞くまでも無い。一緒になって倒れたとは言え、思いっきり背中から叩きつけられた霞への弁解など不可能だった。幾重にも重なり合って渦巻く歓声にも雪風を湛える言葉が混じっている事でそれは表されており、マットに突っ伏したままの霞と雪風も自分達の試合の結果を確信する。その刹那、雪風は跳び起きる様にして立ち上がるや、一年近くにも及んだ宿敵との抗争についに終止符を打てた喜びを爆発させる。
『おっしゃああああ!! 見たか、コラアァ!!』
拳を握って腰を落としながら天に向かって咆哮する雪風。余程嬉しいのかその場を彼女はピョンピョンと跳びはね、マットの周辺にいる者達に向かって自身の強さを誇示するように右腕を向けていく。二水戦の日々の中では武技様錬や勉学においてもずっとずっと決着がついてこなかった、犬猿の中である霞をようやく完全粉砕できたのだから無理も無い。奇声ににも近い叫び声を上げ、彼女はマットの上を汗で輝く笑みを浮べながら走り回った。
『アタイが最強だ! ひゃっほー!!』
これまでにない雪風の喜び様を瞳に映していた少女達が祝福の声援を送る中、その後ろで同じ光景を目にしていた明石の身体からは、それまでまとわり着いていた神通の腕がゆっくりと離れていく。さっきまで霞の激しい闘志を目の当たりにしていた明石と神通も、ろくに返し技で反撃する間もなくあっけなくマットに叩きつけられてしまった霞の姿を半ば呆然としたような表情で眺めていた。
『か、霞・・・。ああ・・・、負けちゃった・・・。』
『・・・・・・。』
力なくそう呟く明石を隣に、神通は無言のままで目尻に溜まっていた物を指先で拭い去る。怪我をした部下の最後は確かに可哀想ではあったが、そんな霞を相手に見事な一本勝ちを納めた雪風だって大事な部下の一人。上司としては悲しみ半分、喜び半分といった所で、明石に対しても当の部下達に対してもなんと声を掛けて良いのか神通には解からなかった。
すると二人が顔を向けるマットの上では、自分に向けられる歓声と天誅達成の事実で我を忘れて酔いしれていた雪風に、試合の進行を掌っている呉竹が声を掛ける。
『いえ〜い! アタイの勝ちだ〜い!』
『お〜い。そろそろ礼に戻って来いよ、おチビちゃん。』
『あ。う〜ッス!』
笑いながら礼を促した呉竹に従い、マットを走り回っていた雪風がようやく定位置へと戻った。すっかり上機嫌で胸に収まりきらない喜びが雪風の疲れ切った身体と心を羽根の様に軽くし、彼女はダンスのステップを踏む様な足取りで歩く。
一方、呉竹は素直に指示に従う雪風に笑みを送ると、今度は足元にて投げつけられたまま仰向けになっている霞にも立って礼に応じる様に促す。礼に始まり礼に終わる柔道の在り方を最後まで貫こうと考えているからだが、見事に優勝を決めてご機嫌な雪風に反し、足元に倒れる霞には声を掛けるのが呉竹にあっては少し億劫になった。なぜならこの時、呉竹が足元に向けた視界には、頭を抱えるように両手を額の辺りに這わせてすすり泣く若者の姿があったからだ。
『・・・残念だったね、ちっちゃいの。もうちょっとだったのにね・・・。』
『う・・・、ううう、ぅうっ・・・。』
勝者がいれば同じ場所に敗者もいるのが試合という物の常。それもあと一歩で本日の柔道大会にて頂点に立つ事ができた決勝の場において、果敢に挑戦を続けてきた霞は力及ばず負けてしまった。甲板の脇から嘔吐しながらも身体を鍛え、お尻を何度も竹刀で叩かれながら上司の教えを受け賜り、所望した昔話を渋りながらも神通の口より聞かせてもらい、死闘の末に吹雪という大先輩を打ち破った、今日という日の霞の戦い。自身の右足首が負傷しようがなんだろうが、仲間の為にと頑張った霞の願いだったが、非情にも実る事は適わなかった。投げつけられた後に雪風が歓喜の声を上げるのを聞いた瞬間、霞はその事を誰に教えられるでも無く知ってしまい、瞬間的に吹き消されてしまった燃え滾る闘志と入れ替わりに彼女の胸には悔しさと無念が滝の様に募る。それは霞の瞳より溢れ出る幾筋もの輝く流れへと形を変え、滲みいく視界で目にした青い空に霞の泣き声は吸い込まれていった。
呉竹はそんな霞にそれ以上の声を賭けてやる事が出来ない。無念の想いと打ち砕かれた呉鎮最強への道、その胸の内は推し量るのに余りある。呉竹自身も昔はこうして涙を飲んだ経験を持ち合わせているが、長く生きてきた彼女であっても一向にこういう場面に慣れる事は出来なかった。
その内に呉竹の指示を受けた雪風は試合開始の礼をした位置へと戻り、マットの一角にて未だ倒れたままである一年近くも争ってきた天敵の末路を一目見てやろうと意気込む。喧嘩でもお勉強でも運動でも、これまでに優劣をはっきりさせた事が無かった彼女は、霞の歪んだ泣きっ面を見ても呉竹の様に彼女の気持ちを察してやる気なぞ微塵も無い。『ざまーみろ!!』と思いっきり馬鹿にしてやろうと思い、彼女は少し歩いた所ですすり泣く霞へと進んで行った。
だが2、3歩進んだ所で、それまでニヤついていた雪風の表情はその色合いを驚愕へと変える。霞は足を雪風に向ける格好で倒れていた為、雪風は近づく際にその右足に特徴的な麻色の肌に代わってグルグル巻きの包帯がある事を認めたのだ。
『さ、猿・・・!?』
咄嗟に声を上げた雪風は倒れた霞へと駆け寄り、彼女の足の辺りでしゃがみ込んで僅かにはだけたその裾を捲り上げてみる。すると霞の右足の足首は全て包帯によって包まれており、腫れあがっている上に包帯を巻いている為か、霞の右足首は左のそれと大きさが異なるような状態で雪風の瞳に映る。切り傷や打撲などとは程度が違う負傷を霞が伴っていた事は疑いようは無かった。
『テ、テメエ・・・! なんで言わねーんだよ!』
『ううぅ・・・、うう・・・。』
『こんな足でアタイに勝てるとでも思ってたのかよ、馬鹿野郎! なんで怪我してっからって言わねーんだよ!』
さっきまでの笑みが嘘だったかのように雪風は眉を吊り上げ、怪我をした状態で挑んできた霞を糾弾する。試合の最中、お得意の突進に失敗して何度も何度も無様に転ぶ彼女を雪風は鼻で笑っていたが、この時になってようやくその真相を理解する。天敵たる霞は既に試合をする前から怪我を負った状態であり、逆に万全であった雪風とは試合を始める前の段階で既に有利不利が存在していたのだった。何事も型に嵌るのが嫌いな鼻っ柱の強い雪風にとって、結果が見えている勝負事ほど嫌いな物は無い。それもお互いの実力が拮抗している事をいつもの二水戦の日々で不本意ながらも十分に知っていた雪風は、勝って当たり前という状態で霞との間に優劣の差をつけた事が腹の底から気に入らなかった。
故に雪風は大きな釣り目を更に尖らせ、大勢の艦魂達に見られている事も忘れて剥き出しの怒りを顔に表す。怒号にも近い声ですすり泣く霞を叱責するが、ふと自身の仲間達がいるマットの端より響いてきた高めの声に雪風は放ちかけた声を飲み込んだ。
『犬、よくやった。』
『あ・・・。戦隊長・・・。』
語りかけに雪風が目を移すと、明石や二水戦の仲間達を背にしてマットの上に足を踏み入れてくる上司、神通の姿がある。既に試合が終わった段階で熱くなった目頭も沈静させ、雪風と霞の元へと近づいてくる彼女は、いつもの神通らしい落ち着いた表情を浮かべている。どこか不機嫌そうに口を横一文字に結び、日本刀の切っ先を思わせる鋭く尖った目は雪風がしる神通の普段通りの姿だった。
やがて神通はスタスタと雪風の前まで歩み寄るとその肩に手を乗せ、ほんの少しだけ瞳の角度を緩やかにして教え子が成し遂げた勝利を褒め称える。
『決して無理をせずにじっくり猿を観察し、しっかり猿の動きに目安をつけて終盤に自分の思うとおりの戦いに持ち込んだお前の勝ちだ。頭と自分の得意な物、優れてる物を組み合わせた良い勝ち方だったな。』
上司による労いとお褒めの言葉はいつもなら雪風の心を躍らせ、気力を一気に漲らせるだけの力が有るのだが、この時だけは雪風は神通の言葉を真に受けるような事はない。なぜなら神通が讃えてくれた勝利その物が、最初から決まっていたに等しい茶番劇の様に雪風には思えたからである。
すぐさま雪風はその事を伝えるべく、怒りの色合いが滲んだ声で口を開く。
『戦隊長、見てください! この馬鹿、怪我してるんスよ! こんな勝ちなんてアタイは嬉しくもなんとも無いッス! 勝って当然じゃないスか、こんなの!』
『ふん、馬鹿者が。お前は教育日課で何を学んできたんだ。』
『え・・・。』
すると返ってきたのは上司によるお叱りの一言。いつもならこれにげんこつのおまけが付いて来るが、雪風の前で目の形をまた菱形に戻す神通は腕を振り上げる素振りを見せない。神通は腰に手を当てて僅かに首を捻り、黒い瞳に頭上の空の色を宿して雪風の言葉の間違いを諭していく。
『戦という物はいつ何時であっても、自分と相手の条件が同じになる事などあり得ない。"兵ハ詭道ナリ"。戦という物の本質は相手との騙し合いだ。むしろ戦をするに当たっては自分には有利で相手には不利な条件を与えるように、どう転んでも勝てて当然な条件を得て臨めるように、常に頭を使えと教えた筈だぞ、犬。』
『・・・・・・。』
『さっきの試合では良く頭を使い、例えその原因が怪我だったとしても踏み込んだ直後の霞の動きが酷く緩慢になる事を見抜いて仕掛けたお前は正しい。よくやった。』
上司の言葉は雪風が口にした事を真っ向から否定する物だったが、試合における自身への評価はさすがに正鵠を得ている。この一年間の間、仲間達と同じく必死に「私立神通学校」の中で己を磨き、怖い怖いお師匠様の教えを時には竹刀の一撃を経てその身に叩き込んで来た雪風。そんな彼女であるからこそ、試合の中では上司の教えをひたすらに履行しようとして頭脳も駆使した戦いを意識せずとも展開できたのである。腕力や体力だけではなく、戦い方や戦その物に対する向き合い方、概念、理論。雪風が持つそれら全ては、神通より愛の鞭と供に授かり、自身もよく理解した上でその小さな身体に宿した大切な教えなのだった。
だがそれでも尚、雪風の胸の中はスッキリしない。姉妹の為、友人の為、上司の為、二水戦の為と決心し、何が何でも手にしてやろうと懸命に挑んだ呉鎮最強の栄冠を賭けた本日の大会において、長き因縁の決着も含んだ霞を相手に迎えての決勝戦が、実力の優劣を無視して最初から勝敗の天秤が自身に傾いていたという事が雪風にはどうしても許せなかった。
『な、なんで・・・! せっかくの決勝だったのに・・・! ア、アタイが最強の駆逐艦になれる試合だったのに・・・!』
歯を強く噛んで降ろした両手に拳を握り、雪風は公平な条件の下に戦う事が出来なかった事への怒りに打ち震える。歯の隙間から漏らす声は身体に従って震えるも、篭められた怒りの色合いはさっきよりも更に激しくなっていた。
もっとも雪風が自身の言葉を受けて理解を示していない今の姿を、神通はいつもの様に怒るような事は無かった。彼女は腰に手を当てたまま、俯いて足元を睨みつけている雪風をじっと眺め、少しの間だけ沈黙の間を持った後に小さく口元を緩ませた。雪風が全身に示すその怒りこそ、いつぞやイギリス海軍の戦闘で彼女が教えようとした、神通が独自に抱く戦への観念その物だったからである。
それまで雪風の肩に触れていた片手を降ろし、神通は静かにそれを雪風に問う。
『犬、戦とはどういう物だ・・・?』
これまで神通の元で励んできた雪風の脳裏には、すぐさまその問いに対する答えが浮かび上がってくる。
まさにこの時、雪風は以前に上司から教えてもらった言葉の真の意味を身を持って理解した。
『い、戦とは・・・、そ、そもそもが・・・、理不尽・・・!』
『・・・ん、よく覚えていたな。その通りだ。』
かつて美保ヶ関事件で不幸にも仲間を殺めてしまった神通が導き出したモノ。それをようやく雪風という教え子が完全に受け継いだ事を神通は確認し、当の雪風が噛み締めるようにして怒りを溜め込むのとは反対に彼女は笑みを浮べて頷く。
一貫して神通が抱いてきた考え方にして、海軍艦艇の命たる自分達に義務付けられた事への捉え方。例え戦への見識が豊富であろうとも、例え魚雷や砲術、艦隊運動に関する知識に精通していても、例えその短気な性格から殺伐とした言葉を普段から用いていようとも、神通は好き好んで戦に相対する者などではない。彼女は腹の底から、全てが理不尽である戦という物が大嫌いであった。
雪風が声を失って自分と同じ目の色を宿したのを確認した神通は、音も無くその場にしゃがみ込んで未だに涙と嗚咽に苦しむ声が静まっていない霞の身体に手を伸ばす。片腕を霞の背中とマットの間に滑り入れてゆっくりと抱き起こし、自身の胸の辺りに霞の顔が位置するくらいまで上半身を起してやる神通。怪我を言い訳にせず最後まで戦ったもう一人の教え子に神通は間近で笑みを見せてやるが、この時、彼女自身が今しがた雪風に教えた事を改めて思い知る事になった。
『ご、ごめんなさい、戦隊長・・・。ううぅっ・・・。ごめんなさい・・・。あ、ぅああ・・・。』
既に汗も引いた麻色の頬にぼろぼろと涙を流して泣きじゃくる中で、霞は何度も何度も上司に向けて詫びの言葉を放つ。神通は、きっと彼女が自分から最強への道を歩むと示し、その上でここ数日の特訓を受けて来たにも関わらず結果を出せなかった責任を感じ、これまで今日の大会に備えて教えを授けてくれた自分に罪悪感の様な物を感じてしまったのだろうと思った。まして試合の最中は右足首を負傷していたとは言え何度も躓くように転び、その様子はお世辞にも立派な戦い方だったと評するには無理のある無様で格好の悪い物。その不甲斐無さをも根が素直な霞は自分の罪だと認識したのだろうと神通は考え、部下が自分を責めるのを止めさせるべく静かに声を掛けた。
『謝る事は無い、猿。怪我をした中であそこまで戦えた事は並大抵の事じゃない。それに吹雪にも勝った準決勝の試合は素晴らしい内容だった。誰にも文句は言わせん。お前は立派に戦った。』
『あうぅ・・・、ゆ、優勝、できなかった・・・。わ、私せ、戦隊長と、同じ戦い方なのに・・・。』
『うん・・・?』
返ってきた霞の途切れ途切れの声にはこれまでの教育や、今回の大会への参加を自分から言い出した事に対する責任などは無く、代わりにそこにあったのは神通と同じ戦い方という言葉だった。確かに霞が言う通り、神通が彼女に与えた柔道の戦い方は神通自身も用いている足を使った速度的な戦法なのだが、単にそれは霞が小柄ながらも脚力と瞬発力に優れているというその身体能力によく合っていると判断して与えただけに過ぎない。その上で霞が言う戦い方と優勝できなかった事に神通は上手く接点を見つける事が出来なかったが、大きく歪めた泣き顔で口を開いた霞の声によってその意味を知った。
『うう・・・。せ、戦隊長の戦い方で、優勝できな、かった・・・。せ、戦隊長は、ま・・・、間違ってなんかいないって・・・、しょ、証明できなかった・・・。あ、ああぁあ・・・。』
言い終えるや霞は声を上げて号泣し、自身の願った事が適わなかった事への悔しさを飛行甲板にいる全ての者達に示す。
姉妹の為、仲間の為、所属部隊の為と頑張った霞が懸けた想いは、自分の師匠でもあり上司でもある神通へも向けられていた。いつもげんこつと竹刀を振り回し、雷鳴の様な声でお叱りの声を浴びせつつも教育に関しては決して投げ出したりせず、解からない事には理解できるまで夜遅くまでになっても教えを授け、時には渋々とであっても自分の修行時代を話してくれた上司。そんな神通を尊敬する霞は、今回の大会で優勝する事で呉鎮最強の駆逐艦の栄冠を手に入れると同時に、自分を育ててくれた神通が二水戦以外の艦魂達に認められる事を企図していた。
帝国海軍の艦魂社会ではその性格によって大いに嫌われ者である神通の事を、観艦式前に行われた宴の場にて霞は知ってしまう。無理も無い事だとは霞自身も思いながらも給仕のお仕事をしている最中に小耳に挟んだお偉方の言葉は、実体とはかけ離れた神通に対する誹謗中傷が大半だった。当の上司は屁とも思っていないようだったが、決して嫌われ者という一言で終わる人物ではないと信じる霞は、なんとか上司に花を持たせて周囲からの視線を良い物にしてやろうと考えたのである。その考えを行動に移したのが本日の大会で優勝を目指す事であり、呉鎮最強の駆逐艦として自身が認知される事であった。そうすればそもそもの戦い方が全く同じである事から神通への教育姿勢とその内容に間違いが無いという事に繋がり、時雨という柔道の名手を部下として持てた川内のように上司もまた部下をあちこちに我が物顔で自慢出来ると思ったのだ。
そしてそんな霞の願いと残念ながらそれが実る事が無かった現実を、神通はこの時に全て理解してしまった。
刹那、神通は霞の額に片側の頬を乗せるようにして抱き寄せる。すぐ近くに立つ雪風を始めとする部下達は10人近くもおり、本来なら一人の部下を特別扱いするような事があってはならないと承知しつつも、部下の秘められた自分への想いが嬉しくて、嬉しくて嬉しくて神通の身体は無意識の内に霞を包んでいた。肌を通して伝わる霞の呼吸と鼓動を感じながら、神通は胸の中で雪風と同じく戦の持つ理不尽さに静かに怒りを燃やす。
なぜ・・・。
なぜこんなに純粋で、素直で、可愛い奴に、唯の一瞬すらの笑みをも持たせてやれないんだ・・・。
霞の身体を抱える神通の手は強く拳を握り、彼女の怒りが普段の二水戦の日々で発揮される物とはその度合いが違う事を表す。だが不思議な物で、部下を抱いた神通の心の炎は間近から発せられる霞の泣く声と吐息によって急速に火勢を弱めていく。入れ替わりに霞が自分の為にと抱いてくれた想いの崇高さを感じる取るのと同時に、神通の胸の奥は部下に対する綺麗な慈しみの感情で満たされていった。
明石や他のマットの上にる3人以外の二水戦の者達、そして伊勢や浅間といったお偉方を含んだ見学者達が一様に目に映した美しい師弟の姿に熱くなった目頭を押さえる中、神通は霞の背中と膝の後ろに腕を添えて抱きかかえるとその場に立ち上がる。まだ腕の中で止め処なく頬を伝う涙で顔を湿らせる霞に笑みを見せると、僅かに顔を呉竹へと向けて言った。
『すまないが、こいつは右足首を捻挫してる。礼は勘弁してやってくれ。』
『はい。解かりました。すぐに治療させてやってください。』
呉竹も眼前で見た神通と霞のなんとも美しい姿に何かを感じたのか、礼に始まり礼で終わるという柔道の試合の最後を実施する事をやめた。神通は呉竹に一度小さく頭を下げてお礼とすると、雪風に背を向けながら再び声を放つ。
『犬。猿の気持ちがお前にも解かるか?』
『うッス! 良く解かるッス!』
先程まで公平な勝負ができなかった事に怒りを飲んでいた雪風は、霞と上司のやりとりを目にしてその心に吹く風の方角を変えていた。今しがた神通に返した言葉は嘘ではない。雪風とて上司への想いを彼女なりに募らせ、霞と同じく今回の大会で優勝する事で自分を鍛えてくれた師匠が嫌われ者一辺倒である事をなんとか変えようと企図していたからだ。霞の様に柔道の戦い方が同じ事からより率直にという訳には行かないが、それでも雪風はこの先、呉鎮最強の柔道の腕前を尋ねられた時の回答を定める事によって自身の願いを実現しようと決めている。
誰に教えてもらったものだ?
それは第二水雷戦隊の戦隊長にして帝国海軍屈指の名教育者たる艦魂、神通である。
もう既に誰に聞かれてもこの答えで行こうと決めた雪風。その決心の中には自身の師匠に対する想いと一緒に、大嫌いながらも同じ物を掛けて戦った霞の想いも含まれている。10年近く無敗であった吹雪という大先輩を倒し、怪我を負いながらも決して諦めずに最後まで立ち向かってきた霞を、いま雪風は自分にとって唯一人しかいない最強の挑戦者だと認めた。その気持ちを胸に刻み、雪風は神通に対して続けざまに言う。
『仲間の想いも懸かった勝負の結果を無下にする奴は二水戦にいらねッス! もしいたらアタイが魚雷でそいつの艦体を真っ二つにしてやるッスよ!』
『ふん。』
短く声を返すだけの神通であったが、その声色は半笑い気味でった。これまで犬猿の仲であった霞の事を仲間と口にした雪風の事が嬉しかったのか、それとも自分が幼い時に瓜二つの容姿を持つ彼女の物言いがこれまた自分と似ていたからだったのか。いずれにしても神通は雪風の言葉を耳にするや笑みを作り、そのまま明石と他の部下達が待つマットの左舷側端へと戻って行く。次いでマットを後にするその師弟の背中には、飛行甲板にいる全ての者達から惜しみない拍手が送られるのだった。
その後、雪風はマットの上に留まり、続く表彰式では伊勢より本大会の優勝者として、人間達が感状に使う厚手の紙に達筆な日向が綴った賞状を貰う。誰もが認める呉鎮守府最強の駆逐艦の艦魂としてその名は記され、若輩者の多い二水戦の駆逐隊が現代の艦魂社会においては猛者の集う屈指の部隊である事を雪風は晴れて証明してみせたのであった。
奇しくも後年、彼女の分身はその武勲を讃えられて、「呉の雪風、佐世保の時雨」と人間達にも崇められる事になる。
一方、中々泣き止む事の出来ない霞は仲間達の輪に戻るや、すぐに明石より事後処置を受ける事になる。幸いにも彼女の右足首は艦尾甲板で処置した時と状態は変わっておらず、明石がその事を伝えると神通は珍しく大きく溜め息を放って胸を撫で下ろしていた。
神通の心優しく部下想いである所を目にした明石。心配していた試合が終わり、霞の足の具合もとりあえず悪い方向に進行していない事を確認できてようやく笑みを浮べ、鼻水も混じる湿った顔の霞に慰めと労いの言葉を掛けながら処置を行った。
するとその場に表彰式を終えた雪風が戻り、みんなの視線が集中すると丸めていた賞状を両手に広げてみせる。だがすぐにそれを片手で持つと彼女は仲間の輪の中を足早に進み、艦尾甲板での処置の際と同じく仰向けに寝て右足を薬箱の上に乗せた霞に賞状を突き出しながらこう言った。
『どうだ、猿! テメエよりアタイの方が強いって事の証明だ! この呉で一番強いのがアタイだかんな! 悔しかったら次の艦隊編成で待機してる時に奪いに来い!』
マットの上での神通への言葉を聞く限りでは霞への認識を幾分かえた様にも思えていたのだが、やはりそう簡単に人当たりを変える事など中々出来る物ではない。喧嘩した後の仲直りだって難しいのは人間も艦魂も無く、そも一年以上も殴る蹴るの喧嘩を当たり前としていたこの二人である。ただ、最後の『奪いに来い。』の一言には明らかに霞のみに向けた雪風なりの想いが滲んでおり、さらに続けられた彼女の声が二人の間に芽生えた新たな感情を、神通や明石、その他の二水戦の仲間達にもしっかりと確認させた。
『来年だろうが再来年だろうが、それまで吹雪上曹や他の奴らには絶対に譲んねーでやるよ! だからテメエ、絶対に足治せよな!』
処置の手を休めないながらも明石は雪風の言葉に微笑み、泣きじゃくる霞に励ましの言葉を何度も掛けてやった。
ようやく一歩進んだ雪風と霞の仲は、まだまだ草原から石が無くなった程度の物で道と呼べる物など何一つ無い。しかし明らかにこれまでの様なただの喧嘩の相手では無くなっている。そして本日初めて目にする事が出来た神通の部下を抱擁する姿と、そこに纏わるそれぞれの想い。それらは霞の怪我を理由に試合続行を止めさせていたなら絶対に見れなった物であり、間違っていないかと迷いながら出した明石の判断から誕生した物である。いま考えてももしかしたら軍医としては間違いなんじゃないかと明石は思ったりもするが、例えそれを師匠の朝日より咎められても変える事は無いだろうなともこの時ふと思った。明石が誕生させた物は艦魂なりの絆であり、思いやりであり、夢であり、そして艦魂達の持つささやかな青春だった。命に対する理想という言葉を考えた時、これらが放棄される様ではいけないと明石は信じる。
その一端に軍医として関わり、見出せる物は何であるのか。
言葉にできぬそんな事を知識として知るのではなく、心の中で強く感じ得る事ができたような気がする明石であった。
しかしこの柔道の大会において神通達が改めて思い知った戦の持つ理不尽さは、その牙をさらに尖らせて彼女達に襲い掛かろうとしている。艦魂達が汗と青春の全てを懸ける事のできるこの柔道の大会は、翌年の12月8日を持って不幸にも無期限の延期が決定。上司と同じ柔道の戦い方を持つ霞による神通の教えが正しい事を証明する機会は、これ以降ついに実現する事は無かったのだった。
どこまでもどこまでも、戦とは理不尽であった。