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第八三話 「最強を目指せ!/其の九」

 それはほんの一瞬だった。

 吹雪(ふぶき)の顎の輪郭の最も下側から伝う汗の雫が落ちた瞬間、見学者の中の何人かが瞬きをした瞬間、腹から声を出す為に目をつむっていた(あられ)が瞼を上げた瞬間、そして獲物の動きと(かすみ)の静かに打つ心臓の鼓動が重なったまさにその瞬間、猫科の動物の様に足をしならせた霞は銃口から飛び出す銃弾と化して吹雪の胸を目掛けて詰め寄り、踏み出した足が地面に着く前には早くも彼女の両手は吹雪の袖と胸座(むなぐら)を握っていた。


『うあ!! クソッ・・・!』


 身体全体どころか呼吸まですら疲労に支配されつつあった吹雪は完全に反応が遅れてしまい、霞の顔が視界一杯に広がる頃になって自身の袖や胸座に伸びる霞の腕を取りに行く。だが既に時は遅く、霞の腕を掴む前に吹雪の身体は袖と胸座に伸びた両腕に押される形で後ろへと退き始めた。試合開始の頃は疲労も無かった事から霞と同じくらいの目線で戦う吹雪の姿勢は強力な霞の突進を受け止める為に重心を低くした物だったが、滴る汗と規律が乱れた吐息は吹雪の意識からそんな対策を滲ませており、吹雪の上半身は甲板とほぼ垂直の状態となり腰の位置も浮き上がってしまっていた。吹雪と霞の分身である駆逐艦の事情では人間達の間で盛んに用いられる「トップヘビー」の状態その物で、重心が高い事から波の動揺に負けて転覆という事態になる事は帝国海軍の駆逐艦の中では人間も艦魂も最も気を使っていた事。それをこの時、霞のすばしっこさと豊富なスタミナに集中力を乱していた吹雪は完全に思考の中から欠落させていた。そも体格に差がある事で吹雪の重心は何もしなくても霞より高いのであり、全身バネの如き勢いで突進する霞を相手にする際は絶対に必要な対策だったのである。

 今更ながらにその事を脳裏に過ぎらせる吹雪であるが、既にそれを履行する時期は完全に逸している。

 吹雪を始めとした特型駆逐艦の姉妹達には悪夢として記憶される5年前の第四艦隊事件。

 波浪で参加艦艇が軒並み重傷を負ったその惨劇を彷彿とさせる、霞という大波が既に彼女の身体を屠ろうとしていたのだった。

 ガクンと勢いに負けて仰け反る身体に吹雪は必死で力を込めるが、次いで前に残していた右足が何かに密着されて払われていく事に気付く。もちろんそれは、麻色に輝く肌で成る霞の左足だ。


『どぉりゃああ!』

『ぐ・・・!』


 突き飛ばすような勢いで倒れ始める吹雪は左足一本での姿勢維持を試みるが、霞の渾身の押しは勢いが激しすぎた。全体重を預ける様な突進が受け止められる筈も無く、すぐに吹雪の左足の膝はカクンと曲がって支えの役目を終えてしまう。その一瞬は吹雪の妹達を地獄に引きずり込むには十分であり、逆に霞を応援する仲間達や見学者の一部の連中は悲鳴とも歓声ともつかない叫び声を上げ、龍驤(りゅうじょう)艦の飛行甲板は興奮と歓喜と慟哭が入り混じったるつぼと化した。



『あぐ!?』


 だがその時、これまで吹雪の身体を全力で押す霞の力を支えていた右足が突如として支点を失い、マットに食い込んでいる筈の霞の右足は滑る様に流れて霞の身体から力を急速に失わせた。ほんの一瞬の出来事だが吹雪と霞はその事にハッとして、お互いの姿勢において唯一の変化点である霞の右足に視線を向ける。するとなんたる事か、不幸にも霞がつま先を食い込ませた部分は試合場を成す繋ぎ合わせたマットの繋ぎ目に程近い場所であり、飛行甲板の上に敷いているだけであった事から霞の踏ん張りに耐え切れずにマット自身が横滑りしてしまっていたのである。

 唯でさえ体重の軽い霞の身体は突進の力を失うのもまた早く、それまで一貫して吹雪の身体を後方に押していた霞の突進力は前後の方向から下方向に逸れ始めていく。霞としてはまさに予想だにしなかった不幸で、吹雪の右足に巻きつけた自身の左足を添えるのがやっとの状態でる。そして後輩のこの一瞬の乱れを、絶体絶命の危機に瀕して遅まきながら再び集中力を研ぎ澄ませていた吹雪が逃す事は無い。既に膝も曲がってしまっている左足をしっかりとした支えにする事こそできないが、元来が体格の面で霞を凌ぐ吹雪には左足のほんの僅かな支え具合でも、身体を支持していたただ一本の右足を失って宙に浮いているに等しい状態の霞を操る事など造作も無い。


『けえい!』

『うあ・・・!』


 砲声の如き一声は放って吹雪が腕を曲げると霞の身体はいとも簡単に、お互いの足が絡みつく方向へと流れて行く。試合開始時にも見せた吹雪の巻き込む様な腕の動きがまたも発動された。しかも完全に姿勢の維持を失っている軽量の霞であるから分が悪い。背を向けてマットへと崩れ落ちる吹雪の真横へと霞の身体は流れ、それに合わせて吹雪は身体を腰の力でぐるりと捻って背中ではなく側面よりマットへと落ちる体勢になろうとする。またしてもミスをカバーできる能力に秀でた吹雪の奇策であった。


『おおおー!!』

『ナイスだ、吹雪姉さん!』

『あかん! 霞姉さん!』

『さすがに上手いや、吹雪姉さん! 寝技勝負なら有利だ!』

『猿・・・! クソ、なんだってこんな時にマットが動くんだよ!』


 お互いの陣営から批評も混じる声が上がる中で、段々と流れていく身体に危機を募らせる霞。その脳裏にはこのまま推移しても悪くてまた五分の判定が下されるだろうとの予測と供に、その後に続く寝技の攻防では開幕時と同じく自分はなす術が無いだろうという前途がありありと描く事が出来る。同じ内容は既に歓声の中にも混じっていたが、実際にここまで吹雪と相対してきた霞はその事を肌身を通して思い知っているのだ。足も腕も吹雪は長いし、その太さも自分とは違う。脚力を生かした速度的な戦いが出来ない以上、霞にとっての寝技の攻防は万に一つの勝ち目も無い。そこまで察しが着けば、この試合の決着すら火を見るより明らかであった。


 ま、負ける・・・!


 一回戦ではそう思って試合に挑む事を大事であると認識した霞であるが、この瞬間だけは意識の中に木霊するその言葉が何にも増して怖い。恐怖に抗わなければと意識の片隅で願うも、神経を介して動かそうとする霞の腕は吹雪の腕の力に勝てる事は出来ない。もはやビクともしなくなった腕を呪いつつ、霞はこれで自分が目指した呉鎮最強への道が立たれてしまうのだろうかと悲観し始める。だがそれと同時に脳裏の暗闇に照らし出されていく幾重もの場面が、霞の挫ける一歩手前の心に疑問を投げ掛けていった。

 過ぎっていく場面は、今は横須賀に帰っているもいつも自分や霰を可愛がってくれる8駆の姉達、先輩と慕って頭を下げてくれる陽炎(かげろう)型の後輩達、トロい性格で手を焼きながらも憎めない唯一人の妹である霰、いつも遠慮なしに喧嘩ばかりしている大嫌いな雪風(ゆきかぜ)、そしておっかないながらも期待を掛けてくれ、常に自分達を導いてくれる尊敬すべき艦魂としての上司であり、師匠でもある神通(じんつう)。それらは何としても笑顔を与えてやりたいと霞が願った、心の拠り所たる二水戦であり、皆の顔が一様に浮かんでいく最中に全員の声で霞への質問が放たれる。


 負けてもいいのか?


 その刹那、食いしばった歯を唇の隙間から覗かせ、しかめた眉の下で片目を薄っすらと開く霞。考えるまでも無く、その質問には霞の胸の奥に潜む意志が否の答えを返していた。


 負ける訳には行かない。

 みんなの為、全てはみんなの為。全ては愛する二水戦の為。



『ぬおおおお!!』

『なに・・・!?』


 やっと吹雪の腕によって霞の身体の側面がマットに対して現れようとしたその時、霞は滑ったマットから離れて宙に浮いていた右足を瞬時に折り曲げたかと思うと、すぐにまたバネのような動きで伸ばしてマットに突き刺す。ほんの一瞬の空中の感覚では右足がどの様な角度でどのくらいの高さからマットを噛む事が出来るか解からなかったが、とにかく速く動かす事だけを再び燃え始めた闘志の中で叫んで踏み出した。

 そこからは音も無く、目から認める視界からも色が褪せていく。電気が走ったような感覚が右足に走ると供に霞の右足には少し柔らかいマットの感触が伝わり、霞の身体には後追いの形で再び前へと向かう推力が与えられる。間近に位置している吹雪は戻りつつあった姿勢がまたしても後ろへと傾く事に仰天し、見開いた瞳には戦慄と衝撃の色合いが滲んでいる。綺麗に片方だけの背中を先としてマットに倒れる事は無かったが、霞は吹雪と錐もみ状態でマットの上に打ち付けられる瞬間まで、ゆっくりとしたその視界の中で吹雪の背中がマットへと設置する様を瞬きもせずに見ていた。


『ぐお・・・!』

『どあ・・・!』


 半身より伝わる強い衝撃が二人の口から意図せぬ内に短い苦悶の声を上げる。それと同時に霞が得ていた色褪せた音の無い視界は元に戻り、彼女の耳は驚愕の結末を目にして静まり返った試合会場の中で響く自分と吹雪の荒い息遣いをだけを拾っていた。どこか心地が良い静寂に気付きながら霞はふと倒れたままで視線を横に流し、青く澄み渡った空を瞳に映す。穏やかな瀬戸内の潮風に曳航されていく白い雲の動きを少しの間だけ目で追った霞だが、その横でけたたましい物音が放たれた事で我に変える。


 試合・・・、吹雪上曹・・・、結果・・・!


 もはや単語を繋ぎ合せただけの言葉であったが、霞を少しの間の呆然とした状態から連れ戻すには十分。片腕をついて上半身を起すと、物音の主である吹雪は立ち膝状態で審判の呉竹(くれたけ)に見開いたままの瞳を向けている。その視線を追うようにして呉竹へと霞も目をやったその瞬間、呉竹は右手を左舷側に伸ばして声を張り上げた。


『いっぽーん、霞一水!! それまでえ!!』


『『『 おおおーー!!! 』』』


 割れんばかりの歓声が龍驤艦の上に木霊する。その音量たるやは相当な物で、ブイに繋がれたままの龍驤艦は航行中を思わせる微細な左右へのロールを発生させる。辺りの海面は一陣の強めの潮風が撫でて行き、気ままに空を待っていたカモメ達は意図せぬ突風で描いていた飛行航路から弾かれる様に青空へと舞い上がっていった。

 龍驤艦飛行甲板上の中心でそれを耳にする吹雪と霞はその音量に意識を誘われる事は無く、吹雪は立ち膝状態で判定を耳にするや後ろにパタリと倒れて大の字となる。焦点を失った両目を空の一角に投げ、力が篭らない指先で天を仰ぐ彼女であるが、その隣では上半身を起してマットの上に座る形になった霞が同じく天を仰ぐ。だがそこに篭っている二人の胸の内は正反対であり、霞は爪が手の平に食い込む程に強く握った両手の拳を空へと突き刺し、しわが出来るくらいに目をつむって、大きく開いたその口からは歓喜の絶叫を放った。


『しゃあああーーー!!』


 その小さな身体に詰める事のできる息を全部使って放つ声は、今大会最大の山場を見事に制してみせた自分への声援。甲板上のあちこちから放たれる歓声を押し退け、むしろ我こそがその歓声の中心なのだと示すような声であった。

 無論、それは間違いではない。

 霞は勝ったのだ。下馬評でもダントツの一位、自分が生まれる10年以上も前から長く負けた事が無かった吹雪という大先輩を相手に、まだまだ10代後半の容姿を持つ新米艦魂の霞は見事に勝利してみせたのだった。



『やったーー!!』

『猿め、やりやがった!』

『霞さん!』

『や、やったわぁ・・・! 霞姉さん、勝ちはったわぁ・・・!』

『よっしゃー! 霞先輩!!』


 またしても仲間が勝利した事に二水戦の少女達は完全に我を忘れる。誰という事も無くその場に立ち上がり、マットの上で天を仰ぐ霞の元へと全員が走り出した。雪風が試合を終えた時は勝利に浮かれる事をきつく戒めた神通もこの時は声を発せず、部下達が思い思いの方法で感動を表現する事を良しとしてやる。長い間、柔道の試合においては土が着いていなかった吹雪を負かしたのだから少女達の喜び様は半端な物では無かったし、神通も期待を懸ける教え子が強敵を打ち破った事に嬉しさが抑えきれない。他人に見られないように波間へと顔を向け、引きつった口元に規律を戻そうとするのが関に山であった。

 わーわーと鳴り止まぬ事を知らぬ歓声の中心では未だ立ち上がっていない霞に、駆け出した10人近い少女達が折り重なるようにして抱きつく。下敷きになる者は身体にかかる重さに苦言を呈する事も無く、霞が打ち立てた殊勲に一緒になって歓喜の声を上げた。霰などは実の姉の大記録にて胸の中に打ちひしぐ感動の波が収まりきらなかったかったのか、ぼろぼろと涙を両頬に伝わせて気味の悪い震えた声で霞の名を呼ぶ。


『か、霞姉さん・・・! や、やった・・・。やったわぁ・・・!』

『泣くなよ、もお。』

『泣いてんじゃねぇよ、霰! ははは!』


 しわくちゃで酷い顔の霰を叩きながら雪風が笑い、つられて霞の身体に纏わりついた仲間達へと笑みが連鎖していく。並み居る先輩方を相手に勝ちをさらい、遮風柵に天幕を張った大会本部に詰める伊勢(いせ)等のお偉方の前で証明して見せた自分達の底力。戦の主は霞と雪風であるのは事実だが、四方八方から送られてくる拍手と歓声の余韻は間違いなく彼女達を含めた二水戦へと向けられていたのだった。


『はいはい、そこまでだよ、おチビちゃん達。喜びの抱擁は礼の後。柔道は礼に始まり礼に終わるんだからね。』


 霞に群がって騒ぎ立てていた二水戦の少女達に声を掛けたのは審判を務めていた呉竹。その言葉通り本来ならお互いへの礼を終えていないのでまだ試合は終わっておらず、その上で勝手に試合場たるマットに足を踏み入れるのは良い事ではない。少女達はすぐにその事に気付いて再びマットの端へと戻るも、その表情からは霞に与えられた笑みが消える事は最後まで無かった。ただ呉竹はそんな二水戦の少女達が自分の言った事を理解していないと憤る事は無く、静まる事の無い笑い声にも緩んだ口元を律しはしない。かつては自分達もこうして仲間の勝敗に一喜一憂していた事を思い出し、今ではすっかり歳を取って試合に挑む元気すらも無くなった事を寂しく思うのと同時に彼女なりの懐かしさを覚えたのだった。

 やがてゆっくりと霞が震える足取りで立ち上がるのと時を同じくして、呉竹に立つ様に促された吹雪も起き上がる。お互いにフラフラとした立ち姿でどちらも全身全霊を込めた戦いだった事を見学者達に示し、呉竹の放つ合図によって礼を交える。その最中に、霞は眼前に立つ大先輩が涼しげな表情の中で瞳の両端に光る物を輝かせていた事を見逃さなかった。


『お互いに礼!』


『・・・有難う御座いました。』

『良い試合だったよ、ちっちゃいの・・・。軍艦旗を背負う駆逐艦の艦魂に相応しい、立派な水兵だ・・・。ありがとさん・・・。』


 深々とお辞儀をしてそう言った吹雪は一瞬だけ笑みを除かせるとすぐに霞に背を向け、拍手で迎える霞より幾分歳を重ねた姉妹達の下へと戻っていく。

 頭一つも大きい身長を持つ吹雪をついさっきまで相手にして戦った事から霞は彼女の身体の大きさを肌身を通して思い知らされていたが、振り返る事無く綺麗な歩みで去っていく彼女の背中はどこか物寂しく、苦戦した事が嘘だったかのようにどこか小さく霞には見える。

 その時、ふと霞は二水戦を背負って戦った自分に対し、あれほどの腕前を持つ吹雪は何を背負っていたのかと考える。奇しくも一回戦の時の様に敵になって考察を巡らす霞の瞳に映るのは、姉妹達の労いと優しげな笑みを受けた瞬間、その場に崩れて口元を抑えながら大粒の涙を声も無く流す吹雪の姿。昭和という新たな時代に沿うようにして生を受け、全世界の海軍が驚愕した特型駆逐艦の系譜をこれまでずっと引っ張ってきた者の涙だった。彼女から始まる世界最強の駆逐艦の血筋はめぐり巡って当の霞にも流れ、今では霞の属する朝潮型の次期型である陽炎型へと引き継がれている。だがその身を浮べて早や10余年の月日を数える今、耐える事の無いその血統が後輩にもしっかりと確認できた事を喜ぶと供に、その中で今ではもう古い型と成り下がってしまった自分達特型姉妹の事情に、吹雪はネームシップとしてなんとか抗おうとしていたのではないだろうかと霞は思った。見れば吹雪の周りに集まった姉妹達は優しげな笑みと柔らかな手を彼女の肩に連なる様にして乗せ、細くした各々の瞳からは晴天から注ぐ陽の光によって輝く一筋の流れが一様に溢れている。

 霞はその光景に、吹雪が口にした言葉の意味とその心の内を明確に悟った。『軍艦旗を背負う駆逐艦。』という吹雪の言い回しは霞を始めとする二水戦の者達を現代の駆逐艦の代表と認めたからであり、その上で既に現代においては例え艦魂社会で偉い立場を頂いていたとしても、帝国海軍の駆逐艦の主力として大手を振る事はもう自分達には出来ないのだと、吹雪とその姉妹達は霞との試合で深く理解してしまったのだった。

 これまでの艦齢の中で見てきた思い出を瞼の裏に描き、悔しさと寂しさが入り混じった心で止め処なく涙を流れ落とす吹雪。

 それはまだまだ若い霞には味わえない、艦魂独自の厳しい現実を受け止めんとしている大先輩達の姿であった。



 吹雪上曹。さすがに特型駆逐艦の長女です。

 誇り高い特型の血筋を継げた事を、これからは大事にします。



 意識の中でそう呟くや、霞は再び吹雪へと頭を下げる。尊敬すべき先輩達を目の当たりに出来た事を誇らしい事として胸に刻み、彼女達の涙の輝く様を目に焼き付けておく事こそが、いつかは自分もそうなるであろうと考える霞なりの誠のような気がした。




 やがて霞は試合場を後にして、もはや狂気じみた喜び様を見せる仲間達の元へと戻る。勢い良く抱きついてくる陽炎や不知火といった後輩達を困ったような笑みで退け、まだ泣き止んでおらず般若のお面のような顔になっている霰に少し声を掛けた後、奥側に当たる飛行甲板の一番端にて腕組みする上司に勝利の報告を始めた。


『ぜえ、ぜえ・・・。か、勝ちました・・・、戦隊長・・・。』

『うむ。素晴らしい内容だ、猿。最後までお前らしい素早い柔道で勝負できたな。』

『は、はい・・・! ぜえ、ぜえ・・・。』


 ついさっきまで波間に顔を向けて笑みを静めようと懸命になっていた神通だが、残念ながら効果は無かった様だ。彼女は数日前の宴の時と同じく釣り上がった目の角度を緩くさせ、白い歯がもう少しで覗けそうな程に唇の端が頬へと食い込んでおり、周りの部下達と同化するように微笑を浮べる。

 その一方、さっきの絶叫が堪えたのか、緊張の糸が緩んだのか、それとも狂喜乱舞する仲間達の歓迎ぶりが効いたのか、霞は試合中の彼女とはうって変わって大きく肩で息をしており、なんとも聞えの悪い声を伴って乱れた呼吸をしている。汗の量も試合中のそれとほとんど大差は無く、霞にしては珍しく眉間には薄っすらとしわがよせられていた。


 随分と疲れてるな。やはり体格の違いが辛かったのか?


 どうにも疲労の色が激しい教え子に神通は軽く首を捻る。そもそもがさっきの試合のきっかけになったのは、最上(もがみ)も絶賛した小さい霞の身体からは想像もつかない程の持久力である。吹雪との試合ですら最後の最後まで続いていた筈の霞の体力なのに、試合が終わってここまで歩いてくるだけで消費し尽くしてしまうとはとても思えなかったのだ。

 そんな中、霞の背後からは仲間達の祝福の言葉が掛けられてくる。


『霞さん、本当に良い試合でしたね! マットが動いちゃった時はビックリしましたけど、最後の突進なんて発射管から飛び出す魚雷みたいでしたよ!』

『あはは・・・、ありがとね・・・。ぜえ、ぜえ・・・。』


 飽くまで笑みを作って仲間の声に応えてみせた霞であるが、神通はふい霞へとかけられた声の内容である試合の終盤の局面を思い出した。

 バテ始めた吹雪にタイミングを見計らって飛び掛った霞は完璧な姿勢で吹雪に小外刈を仕掛けたのだが、その際に軸足であった霞の右足が置かれたマットが滑るようにズレてしまった。おかげで霞の姿勢と突進力が失せて危うく吹雪と道連れに倒れる所であったが、霞は最後の気力を振り絞って宙に浮きかけた右足を再びマットに突き立てて吹雪を押し返す。

 今でも瞼の裏に鮮やかに蘇る教え子の奮闘ぶりを神通は記憶から再生していたが、この時、神通はある事に気付いく。当の霞ですらも負けると思いつつも、こうして上司を含めた二水戦のみんなに笑顔を与えてやりたいと願いながら無我夢中で再度マットに立てていたその右足。神通はその右足を注視して何度も記憶の中に残る試合の映像を脳裏に投影すると、完全に笑みが消えた顔ですぐ目の前にいる霞を見る。仲間達に汗に埋もれた笑みを送る彼女だが、いつもは綺麗な立ち姿を維持する霞が今は左足に体重を掛けて立っている。すると神通の中では霞に対するとある考察が生まれ、それは仲間達からの抱擁を困ったような微笑で一貫して拒否していた霞の帰ってきた際の態度と接点を築く。

 刹那、それ以上考える事をやめた神通は霞の肩を抱くようにして手を伸ばし、驚いて顔を覗きこんでくる霞に目もくれずに傍にいた最上へと声を掛けた。


『最上。明石(あかし)に艦尾甲板に来るように伝えてきてくれ。』


 姉と慕う神通とその部下達が笑みを交える様子を嬉しそうに眺めていた最上は、何やら血相を変えている神通の声に面食らう。何時の間にやら神通の顔からはさっきまであった笑みが無くなっており、部下の勝利の報告を受けて嬉しい筈の今の状況で向けてきたいつもの鋭い眼光に思わず口にした事を聞き返す。

 しかし返されてきたのは、何か急な用件を頼もうとする神通の焦りの色も滲んだ声だった。


『え? 艦尾甲板、ですか?』

『ん。飛行甲板の艦尾側じゃないぞ。艦尾甲板に来るようにと明石に伝えてきてくれ。それとここを頼む。』







 霞を連れた神通は、龍驤艦の艦尾甲板へと白い光を放ってやってくる。

 試合会場である飛行甲板はサンサンと陽の光を浴びれて居心地も良く、眩しい程の太陽に照らされて10月末なりの暖かさという物も感じる事が出来たが、数段は下がった艦尾甲板は湿った潮風が吹き抜けるだけの肌寒い所であった。飛行甲板の上一面に広がる青空も、艦尾甲板にあってはその飛行甲板で蓋をされた格好になっていて望む事はできない。艦体より伸びる大きな二本の支柱は霞や神通の居る甲板からにょっきと天に向かって傾斜してそびえ、頭上に広がる飛行甲板の裏側へと延びている。おかげで二人が現れた甲板はとても薄暗い。夏真っ盛りの時期なれば避暑地としては最高の居場所なのであろうが、この時期はただ寒さを必要以上に訴える閉塞感の激しい所であった。

 ただ、小さな艦体に大きな上部構造物を載せる形で建造された龍驤艦は普通のお船の乾舷がそのまま飛行甲板まで延長されているような構造をしている事もあり、狭くて暗くて肌寒いというなんとも立地条件の悪いこの艦尾甲板は、龍驤艦で唯一の舷門設置甲板として艦の玄関ともなっている。舷門当番の水兵はのんびりとした呉の日々によって往来が殆ど無い事を良い事に艦内へと行っているらしく、舷門も含んで艦尾甲板には神通や霞のような艦魂はおろか、人間の乗組員唯一人すらもいなかった。

 そんな場所へ突然に連れてこられた霞は、上司の意図が読めずに声を掛けるのを躊躇っていた。もっとも飛行甲板にて『行くぞ。』と声を掛けられた辺りからずっと自身の肩に抱くようにして手を乗せている上司には、ご立腹の際に見せる殺気にも似た雰囲気が感じられない。その事もまた霞が神通の考えている事を悟れないようにしているのだが、当の神通は霞の肩に手を触れたまま正面にある艦尾旗竿にて潮風と戯れている軍艦旗を無言で眺めるのみだった。

 するとしばらくして霞と雪風の正面には白く淡い光が収束し始め、一瞬の輝きを放って弾けるのと同時に明石が姿を現す。


『よっと。お、いたいたぁ。』


 試合中は神通や二水戦の近くには居なかった明石だが、大会医務担当として大会本部に詰めながら霞の奮闘を目にしており、自分を呼びつけた神通には目もくれずにさっそく霞へと労いと祝福の声を掛ける。


『霞〜、頑張ったね。もうとっても感動しちゃったよ、私。』

『ど、どうもです、明石さん・・・。ぜえ、ぜえ・・・。』


 何やら唇と眉をしかめて息苦しい中での吐息を漏らす霞に、明石は余程さっきの試合が大変だったのだろうと察する。吹雪という猛者を相手にしたのだから無理も無いと彼女は思い、疲労の色に染まる霞にせめてもの救いとばかりに笑みを向けたてやった。

 しかしそんな明石とは正反対の胸の内を抱いていたのが、この場に居る明石のもう一人の友人たる神通で、彼女は霞の顔を覗きこむようにして目をやると不意に口を開く。


『明石。』

『ん、なあに?』


 名を呼ばれた明石は霞に寄り添うようにして立っている神通の顔に視線を向けるが、そこに何やら神妙な面持ちを浮べている友人の表情を目にして笑みを薄くして行く。すると神通は明石が表情から笑みを消したのを認めるや、今度は肩を触れている霞に眼をやった。


『・・・痛いのか?』

『んくっ・・・。な、何の事ですか・・・?』


 いきなりの神通の問いかけが明石には全く理解不能の代物であるが、霞は上司の声を耳にした瞬間、一瞬だけ顔を歪めるとまたすぐに疲労感で満ちた表情になって聞き返すような声を返す。だが霞のそんな顔色の一瞬の変化は神通が彼女に抱いていたとある憂いが現実である事を示し、同時にそれは霞が上司に対して嘘をついた事を物語る。

 間髪おかずに神通はそれまで霞の肩に置いていた手を離すと霞の首根っこを掴み、自分と対面する形で立っている明石の間へと霞の身体を腕一本の力に任せて押し出し始めた。


『う・・・!』


 神通の顔に力みが無かった事と腕の振りがそれほど早くなかった事から、彼女が本気で霞を投げ飛ばそうとしている事は無いのは明白であったが、霞は身体が流れた拍子に踏み出した足で自身の身体を支えきれずにその場に崩れ落ち始める。しかし床に倒れる前に霞の身体は屈みこんで伸ばした神通の腕によって宙で受け止められ、霞は神通の両腕で抱かれるような格好となった。


『うっぐ・・・!』


 神通の突飛な行動に苦悶の声を上げる霞。明石はすぐに神通に向かって部下を手荒に扱おうとする事を糾弾しようとしたが、その最中に神通が霞の右足を覆う柔道着の裾を捲った事で声を失う。


『じ、神通─! あ、あああ・・・!』

『やはりさっきの試合の最後に・・・。馬鹿者が、何故言わんのだ、猿!!』

『あっ・・・、ぎ・・・!』


 明石と神通の声に、霞はただ歯を強く噛んで顔を歪めるばかり。そして明石と神通が一緒に視線を向けている霞の右足は、足首のくるぶしの辺りの皮膚が濃い青紫色で染まっていた。

 人間の女性と同じ身体のつくりを持つ艦魂であるから、人体としての組成も彼女達は見る限りは人間達と同じであるのだが、霞の右足首はこれが人体が持てる肌の色合いかと思える程の毒々しい色で埋まっている。今の今まで真珠色の柔道着の裾で隠れていたが、霞の持つ特徴的な陽に焼けた麻色の肌がそこには微塵も無い。くるぶしの起伏が腫れあがった皮膚でなだらかになっており、明石にも神通にも霞の右足首の間接がどこに有るのか解からないくらいであった。


 既に決勝進出を決め、呉鎮最強の栄冠まで後一歩の所で、霞には今大会最大の試練が突きつけられたのだった。

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