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第八二話 「最強を目指せ!/其の八」

 大歓声を背にして僅かに両手を広げながらゆっくりとマットの中心に歩みを進める吹雪(ふぶき)。首の後ろで小さく結った髪は彼女の輪郭に精悍さを与え、人懐っこい顔立ちの大元である丸い目を細めてじっと(かすみ)に向けたまま、彼女は少し前屈みの姿勢で近づいてくる。見透かした様な瞳を細めて作るその不敵な笑みも手伝い、霞は生まれて初めて柔道の相手に対して不気味さとそれに伴う恐怖を抱いた。それも上司より竹刀を打ち込まれるのを尻を突き出して待つ際に抱く高鳴るような恐怖ではなく、内海である瀬戸内の岸にうちよせる静かな波を思わせる恐怖だ。

 一筋の冷や汗が額を流れていく中で霞は思わず生唾を飲み込み、ざわざわと胸を中を駆け巡っていく気味の悪さに声もなく抗う。何もそれは吹雪の身長が小柄な自分より比して大きいからでも、一回戦で攻守において極めて高次元で両立している柔道の腕前を見て臆病になっているからでもない。それだけ吹雪という先輩の全身から立ち昇る猛者の雰囲気が、まだまだ生まれたばかりの艦魂である霞の心を握りつぶさんとしているのだった。


 だがその時、吹雪に対する声援があちこちより響く中で霞の背後より怖い上司である神通(じんつう)の声が遠く聞えるや、すぐにそれに続いて彼女の仲間である少女達による必死の応援する声が放たれてきた。


『戦場に足を踏み入れた時から戦は始まるんだぞ、お前達。猿はもう戦ってるんだ。そら、ちゃんと応援せんか。』


『あ・・・。か、霞さん! 頑張ってください!』

『霞姉さん! 落ち着いて行くんや!』

『霞先輩、勝てますから! しっかり!』

『猿ー! テメエ無様な試合すんじゃねーぞ、オラァ!』


 ゆっくりと振り返った先にて霞の瞳に映るのは、相変わらず腕組みをして睨むように眼差しを向けてくる上司と仲間達の姿。8駆を欠いている今の二水戦では最年長者たる霞には、後輩達の必死の応援に、唯一人の妹である(あられ)の励まし、そして大嫌いな雪風(ゆきかぜ)の怒号にも似た声が矢継ぎ早に放たれてくる。霞は眼前の強大な相手に胸が高鳴っていたが、ふとそこに認めた一人一人の仲間達の顔が彼女の心に規律を与えていった。

 怖いけど頼りになる上司に自分と違って何をやってもトロい妹、恥も外聞も無く大きな声を上げて声援を送る陽炎(かげろう)型の後輩達、これまでの大会の進捗で気持ちが騒いでいるのか、『負けちまえ!』等と自分の躍進を阻害する言葉を珍しく放たなかった雪風。それら全てが霞にとっての家であり、いつも居る場所、二水戦である。当たり前の物として過ぎて行くおっかない日常と、腹の底から大嫌いな雪風との喧嘩に明け暮れて苦労ばかりの日々であるが、そんな日々と伴われる思い出こそが霞にとっての二水戦であり、何物にも変えがたい彼女の大切な居場所であった。

 マットの上で相対している敵は身の丈も積んだ経験も全て自分より上回っている強大な敵だが、霞はこの時になぜ自分がこうして強敵と戦おうとしているのか、その理由を改めて思い出す。雪風と一緒に言い出す事になったのは不本意であったが、上司の下へ赴いて頭を下げた時、いつぞやのお洗濯をした時にその場を同じくしていた霰からこれまで耳に出来なかった上司の本心を聞いた時、彼女は神通を始めとする二水戦という居場所の為にその身を捧げようと強く願った。全ては二水戦という名の居場所の為に、と。

 刹那、霞は深い深呼吸を放ちながら、ゆっくりと視線を背後の仲間達から眼前にて不敵に笑っている吹雪へと戻していく。その瞳には自らの願いを適える為に心の隅で静かに燃え上がらせた闘志の色が帯びており、それを認めた吹雪は見透かすような目を向けながらもほくそえむのをやめる。これまでになく霞の身体から放たれる、殺気にも似た静かな雰囲気を感覚的に認めたからだ。


『ほほ。良いツラ構えになったな。』


 嬉しそうにそう言うと吹雪は胸の前に両手を持ち上げて指を鳴らし始める。乾いた感じの響きの良い音は片手になっても放てるらしく、吹雪が持つ片方の手では親指が人差指や中指を上から抑え付ける度にパキパキと耳通りの良い音が木霊した。


『いかにも隊を背負ってるって感じだね。ま、こっちも特型姉妹のメンツが懸かってるんだ。手加減無しの本気で行かせて貰うよ、ちっちゃいの。』

『はい。願います。』


 吹雪の迫力も伴った言葉にも霞は静かに燃える心を揺るがす事はなく、強く結んだ唇と少しだけ尖がった眼差しで声を返す。その顔には既に恐れはなく、少女ながらに戦に挑む事を心に決めた事を示す霞の表情は、吹雪に彼女が精神的な面において自分と同じ立ち位置に居る事をよく教えてくれる。久々に目にする事のできた、仲間や姉妹への想いを背負って立ち向かってくる駆逐艦の艦魂の顔だった。

 やがて審判である呉竹(くれたけ)の放つ合図の声に従い、マットの上に相対した吹雪と霞は大会本部、そしてこれから戦うお互いへと向けて礼をする。吹雪はさしもに今回の試合に参加している特型駆逐艦のネームシップである為か、彼女を応援する声は礼を交歓する間も常に甲板のあちこちから矢継ぎ早に放たれており、その内容も勝利を期待している物が大半であった事から、いかに吹雪がその強さを広く認められているが良く示されていた。

 おかげで霞を応援する少女達の声は次第に掻き消されて行くものの、受け取る側の霞はその事に不安を抱く様子は無い。互いに礼を終えて目を合わせるや、吹雪とほぼ同時に霞は右足をやや後ろに下げて半身になり、緩く曲げた指で構成される両手を胸の前で伸ばす。

 審判の呉竹も二人の準備が終わった事を確認し、声を張り上げて本日注目の対戦の火蓋を気って落とした。


『おし、はじめ!』




 熱が篭る両選手への応援が龍驤(りゅうじょう)艦の甲板を染める中で、供にそれぞれの想いを背負って戦いに挑む霞と吹雪は周囲の喧騒とはうって変わって落ち着いていた。霞は得意の飛び跳ねるような足さばきで距離を詰めたり離したり、右から左へと身体を素早く流してみたりと小さな身体を目一杯動かし、対する吹雪はすばしっこい霞の動きを追う形になりながらも苛立ちを募らせずにじっと相手の動きに目を凝らす。時折、霞が半歩ほど踏み出して吹雪との袖の取り合いを演じる事はあるが、双方とも目にも留まらぬ速さで相手の襟や袖を握る手を牽制し、どちらも両手で相手に組むまでの体勢には至らない。ましてこの吹雪は霞に比して頭一つも違う程に身長が高く、それに伴って腕や脚も霞よりずっと長い為、霞としてはとても攻め難い相手であった。

 するとその時、それまで上半身を起してほぼ直立の形で構えていた吹雪が突如として腰を落とす。小柄な霞が前屈みで構えているにも関わらず、吹雪の視線の高さは霞と同じくらいの高さまでになる程だ。


『む。』


 突如として構えを変えた吹雪に、霞は何かの攻撃の兆しとみて吊られるように足に力を込める。霞自身も得意の突進の際にこのような姿勢をとるので、吹雪が低く構えた意図は瞬間的に察知できたのだ。そして吹雪は霞の予想通りに長い足を前後に大きく開き、霞を目掛けて跳びかかるように前進して腕を伸ばしてきた。もとより体格と腕力に差が有ると心得ている霞は身構えながらも持ち前の素早い足さばきで吹雪の攻撃をかわそうと企図していたが、吹雪の腕は予想外の速度で霞の腕へと伸びてくる。


『せいや!』

『むお・・・!?』


 これまで対戦してきた先輩方とは一味違う吹雪の突進は、自慢の足を駆使した霞の回避を許さず、残像すらも見えない吹雪の右手は霞の前に伸ばしていた左手の袖を瞬時に掴む。


 は、速い・・・!


 そう霞が脳裏で呟く間も吹雪の流れるような身のこなしは停滞せず、霞が咄嗟に吹雪の袖を取るのも構わずに胸を合わせるような格好で身体を寄せてきた。

 体格にて劣る霞にとっては危険な状態である。霞はすぐさま吹雪の袖と襟を掴んで腕を伸ばして身体を添わせている吹雪へ抵抗するが、腕力も去ることながら柔道の経験が段違いである吹雪はそんな霞の動きなぞ手に取るように解かっていた。突っ込んだ勢いをそのままに吹雪は自身の右足を霞の前に出ている左足に外側から引っ掛け、両腕をぐんと振って霞の身体を左側に傾けようとする。

 素早いその攻防に目を釘付けにしていた見学者達の中、ふと誰かが叫んだ。


小外刈(こそとがり)だ!』


 霞を応援していた二水戦の少女達はその声に驚く。その技は彼女達が知る中で、いま眼前にて技を仕掛けられている霞が最も得意とする物なのだ。普段の武技教練では何度仕掛けても霞には通じず、逆に何度も彼女の小外刈によって倒されてきた。きっと一級品に違いないであろうその技を、いとも簡単に霞が目の前で仕掛けられつつあるのは彼女達にとっては驚愕の一瞬。阿鼻叫喚の様相を呈するのも忘れ、少女達は霞の今にも投げられそうな姿を声を失って眺めるだけだった。

 しかし、霞も得意の小外刈が吹雪の攻める手段であった事で、無意識の内に彼女の細い左足は動いていた。それは二水戦の中でも彼女と伯仲した柔道の腕前を持つ雪風の存在があったからで、雪風の最初の試合と同様に霞は武技教練の試合で雪風より何度か返し技でこの技を封殺された事があるのだ。「猿」の渾名に違わない身軽さと器用さを持つ霞は、吹雪の右足が絡んだ自身の左足を引っこ抜くようにして振り解き、逆に吹雪の右足の外側から左足を巻きつけた。


『お・・・!』


 霞の咄嗟の返し技は吹雪にも意外だったらしく、足の掛かり具合も良い事から彼女はそれ以上霞の身体を腕力で傾けようとはせずにすぐさま右足をマットの上に下ろした。ただ踏み込んだ勢いがそのままである事から吹雪はつんのめるような姿勢となり、霞はその一瞬を見逃さずにすぐさま横へと回って吹雪の身体に覆い被さる。いかに体格が違えども横から攻められるのは柔道ではかなり不利だ。背の低い霞が吹雪の背中に乗って押さえつける体勢になり、それまで吹雪を応援していた歓声に悲鳴の色が滲んでいく。

 だが吹雪は上から押さえつけられながらもすかさず片手を霞の胸座辺りへと伸ばし、バランスを欠いた霞を道連れにしてマットの上に突っ伏してみせる。もちろん経験豊富な吹雪は一緒に倒れる事で霞の攻めが成立していない事を示したのであり、審判の呉竹やマットの隅で副審として試合を見守っている若竹(わかたけ)早苗(さなえ)は判定の声を上げなかった。そして自分より体格が小さく軽量である霞は、続く寝技の攻防ではうつ伏せに丸くなる吹雪をちっとも攻める事が出来ない。これもまた吹雪には計算済みであった。


『くぬっ・・・!』


 なんとかうつ伏せになった吹雪を押さえ込もうとする霞だが、小さい身体の彼女は吹雪を満足な体勢で抑え込む事は出来ず、上になっている吹雪の帯と奥襟を掴んで仰向けにしようと試みるも自分より体重が重い吹雪はビクともしない。次第に焦りの色合いが表情に出始める霞は大粒の汗を掻いており、彼女が寝技で吹雪を攻める事にかなりの労力を注いでいるのは傍から見ても一目瞭然であった。


『霞姉さん! 頑張るんや!』

『ちっくしょ〜、やっぱダメか。猿は寝技は苦手だからなぁ。』


 霰の必死の応援の横から雪風の冷静な寝技評が響いてくる。これまで何度も霞と対戦する機会のあった雪風であるから、霞が寝技で吹雪相手に苦戦するのは先刻お見通しであったのだ。

 霞も懸命に腕を取ったり身体を揺すったりしていくが、吹雪はうつ伏せで丸くなった姿勢をほんの少しも崩さずにただ時間のみが過ぎていく。その内に審判の呉竹の声が放たれ、吹雪は計算通り技の掛け損なった事で生まれた危機を帳消しにしてみせた。


『待て! 両者、中央へ!』


 それは寝技状態で一向に決着がつきそうに無い事からお互いに立ち上がって試合開始の時と同じく定位置からの再開を促す物で、寝技とは言え霞による一方的な攻勢が遮られたのと同時に、吹雪としては不利な状態を脱した意味合いを含む。故に唇を噛んで眉間にしわを寄せる表情の霞が立ち上がるのに対し、吹雪は汗を拭いながらも不敵に笑ってゆっくりと立ち上がった。

 もっとも判定として霞と吹雪の双方に有利な判断が授けられた訳ではないから、試合としては未だにどちらとも優劣が得られていない五分の状態である。霞も、彼女を応援する仲間達もすぐに頭を切り替え、再開される袖の取り合いに意識を集中させて呉竹の合図を待った。

 やがて胴着の乱れを直し終えた吹雪が身構えた事で呉竹は再開を命じ、再び二人は足を使ってお互いの袖や襟に手を伸ばす駆け引きを始める。




 その一方、部下の戦いぶりを腕組みをしたまま一言も発せず眺めている神通の横では、彼女を姉と慕う最上(もがみ)が霞の戦いぶりをハラハラしながら見守っていた。神通と親しい最上は義理もあって神通の部下の霞を応援しているのだが、体格的にも先程の寝技の攻防でも相手より優れた所を見せる事が出来ない霞を瞳に映すと、どうしても最上の脳裏には「負け」の二文字が過ぎってしまう。目の前で応援している少女達の気持ちを考えるととても口には出せない言葉ではあるものの、最上の中に渦巻く霞への心配は刻一刻とその色を濃い物にして行った。

 そんな事から思わず最上は隣にいる神通に対し、視線を送る事も無く霞の戦いぶりを案ずる言葉を放つ。しかしいかにも動揺している感のある最上の声とは裏腹に、返されてきた神通の声はいつもの冷静さが篭った彼女らしい声色であった。


『か、霞ちゃんは大丈夫でしょうか、神通中尉・・・? 吹雪を相手にしては上手く攻めれてないみたいですよ・・・。』

『ふん。戦という物はそもそも片方の思惑通りに進む物じゃないさ、最上。それに見ろ。さっき吹雪に捕まった事を警戒してか、猿の動きがより機敏になった。あれだけ汗を掻いててもあのくらいに動ける所を見ると、猿の体力にはまだまだ余裕はある。ま、そういう風に鍛えてきたんだがな。』


 あまりにも落ち着き払った神通の声は、歓声に埋め尽くされる龍驤艦の飛行甲板の上ではある意味で場違いな感じさえ漂う。ちょっと驚いて声の主に顔を向ける最上の瞳には、表情どころか釣り上がったその瞳の大きさすらも全く変えていない神通の横顔が映る。瀬戸内の穏やかな潮風に揺られる長い前髪の狭間、神通の目は涼しげな晴天をそのまま投影したかのように澄み切っていた。

 最上はそんな神通の横顔に、彼女が部下の心配をちっともしていないのかと思い、つい今しがた放った神通の言葉もそんな内容であった事を改めて思い出して試合場に目を向ける。

 マットの上では相変わらず霞と吹雪の双方が素早い足さばきでお互いの距離を詰めたり、横に回り込んだりとしており、時折二人が互いの袖を取り合おうとする腕の動きもまた燕が空中を突っ切るかのような速さで行われていた。しかしさっきのように吹雪の突進に今度の霞は捕まるような事は無く、ひらりひらりと横に回りこんで側面から攻めようとする。どうやら背も高く力の強い吹雪を相手に正面からの組み合いは危険と判断したらしく、寝技に移行する前の時と同じ様に、霞は吹雪の軸線を逸らした上で身体の側面から組む事を狙い始めていた。吹雪にとってもこの霞の攻め方の変化は少し予想外だったのか、常に半笑い気味であったその顔には大粒の汗と供に死地に赴いたかのような真剣な表情が浮かび上がっている。その内に何度目かの突進をまたしても霞に回避された吹雪は吐き捨てるような呼吸と供に声を放ち、無意識の内に試合を見守る者達に自身が焦り始めている事を示すのだった。


『ハア、ハア、クソ・・・。すばしっこいな、ハア、ハア・・・。』


 肩で息をしている吹雪は既に腰もだいぶ浮き上がり、前に伸ばす両腕も腰と胸の間の辺りまで下がっている。汗びっしょりなのは霞も同じで、麻色の頬をだらだらと流れていく雫を胴着の袖で拭うが、霞の構えは試合開始とほとんど変わっていない。少しだけ前屈みの姿勢で半身になり、顎の高さまで挙げた両腕を相手の方向に伸ばす。それは彼女の上司である神通の言葉が示す通り、体格の大きな吹雪を相手に戦いつつも霞は体力の消耗においてほぼ互角かそれ以上である事を物語っていた。


 その差に気付いたのは吹雪を良く知る彼女の妹達も例外ではなかったらしく、たまたま付近にいた吹雪の妹達の会話が最上の耳へと届いてくる。


『いやあ、あの霞って子にはたまげた。もう3試合目だっていうのに、全然姿勢が乱れないや。』

『吹雪姉さん、段々と攻めあぐねて来てるね。側面を取られるのが怖いから、突っ込むのも躊躇し始めてる。ほら、踏み込みの足がもう半歩くらいしか出て行かないもの。』




 吹雪の実の妹達までもが、段々と吹雪有利の形勢が変わって来ている事を声に変えていた。最上の瞳に映るのは依然として体格の違う選手達の試合であるも、神通や吹雪の妹達の言葉を勘定すると思った以上に霞は善戦しているらしい。もはや最上の胸の内からも心配の色は消えかけており、入れ替わりに芽生え始める安堵の念につられるようにして彼女は笑みを神通に向ける。


『神通中尉! もしかすると・・・!』

『騒ぐな、最上。まあ、猿はよくやってるように見えるのなら正解だ。』

『す、すごい、霞ちゃん。あんなにちっちゃいのに・・・。』


 奮闘著しい霞を確認できた最上は感動し、無意識の内に胸の前で拍手を送りながら霞の戦いぶりを褒める。生来が神通と違って明るい性格を持つ彼女はさっきまでのはらはらした展開が緩和できた事で素の気持ちを浮かび上がらせ、艦魂としての世代や実力、体格に経験までもまるで違う吹雪を相手に形勢変更を強要しつつある霞を讃える言葉を放つ。


『霞ちゃん、天才ですね・・・。あの小さくて細い身体に、こんな才能があるなんて・・・』


 最上の呟くような声に、それまでずっと正面だけを見てきた神通の瞳が僅かに隣の最上の方向へと傾く。二水戦旗艦として、艦魂社会における上司の役割を頂いている者として、戦隊部外者である最上より手塩にかけて育てた部下が褒められる事は本来なら彼女の無上の喜びであるのだが、この時の神通は含みを持たせた声色で最上が放ったとある言葉を復唱した。


『ふん。天才・・・か。』


 言い終えるやすぐに神通は視線を眼前の霞と吹雪の試合へと戻す。怒りの感情が篭っていなかったその声は最上に何か失言があったのかと意識させるような事は無かったが、どこか自嘲気味な半笑いで口にした事が最上には気になって仕方ない。首を傾げてその言葉の裏に考えを巡らすも普段から寡黙である神通の考えは最上には読む事が出来ず、彼女は教え子の試合を静かに見守っている神通の邪魔をせぬようにそっとその事を問うてみた。


『どうしたんですか、神通中尉?』

『・・・・・・。』


 最上の問いかけを受けて少しの間、神通は返事をしなかった。

 鋭い釣り上がったその瞳はおっかない雰囲気を帯びているが、神通に慣れている最上から見るとそれは彼女の機嫌が最上の声を受けて斜めに傾いている訳ではない事を示している。それにこのお人はミリ単位程しか気の長さを持っていないので、もし仮に怒ったとすれば当に最上には怒号が返ってきている。数日前の鈴谷(すずや)という妹の分身にて最上が見た、かつて艦長として神通が迎えていた木村大佐との一悶着はその最たる例だ。

 すると神通の気の短さを考慮している最中の最上に、当の神通はふいに組んでいた腕を解すと首に片手を添え、響きの言い音を放って首を鳴らしながら言った。


『猿の体力は別に才能なんかじゃない。いかに吹雪みたいな強敵と相対していても体力が維持できてるのは、こんな私の下でも歯を食い縛ってついてきて、普段から手抜きをせずにひたすらに頑張った猿が得た当然の代物だ。最上。』

『え・・・?』


 短い言葉を返すのみで最上は声を失ってしまう。それは神通の言った事に目の前で必死に吹雪と戦っている霞を褒めるような内容であったからでは無く、『こんな私』とどこか自分を蔑むような物言いをしていたからだった。

 ただ、最上とてその一言に込められた意味合いを理解できない訳ではない。げんこつ必須のスパルタ教育と供に金剛(こんごう)という師匠より受け継いだ、峻烈で非常に短気な性格の神通。同じ第二艦隊に属して彼女と親しい最上は、普段から『私の思う通りの戦をする。反抗は絶対に許さん。』と口にして部下達や戦隊部外者に厳しく当たる神通を常に目にしてきた。その矛先の主目標はもちろん、いま眼前で死闘を繰り広げている霞を始めとした少女達で、まだ生まれたばかりの艦魂であるという事も一切考慮せずに神通は竹刀片手に部下である少女達の教育に勤しみ、それに異議を唱える者には喧嘩沙汰に発展するまでに怒りを示す。それどころか二水戦という戦隊の障害になろうものなら第二艦隊の艦魂達を束ねる愛宕(あたご)高雄(たかお)に対してでも平然と牙を剥く程であり、持ち前の度胸から五十鈴(いすず)のような直接の先輩に対しても遠慮せずにかかっていく。こんな性格であるから二水戦と供に同じ第二夜戦隊を組んでいる七戦隊の最上を始めとした姉妹達は神通の困った性格の火の粉を浴びてしまう事も間々あり、先日の鈴谷を含んだ妹達は他の艦魂達と同様にこの神通を毛嫌いしていた。最上としては頼りになる姉と見る事が出来るのだが、余りにも我が強すぎる上に意志の強要を暴力で成す事を屁とも思っていない神通に、誰しもがそんな接し方をする事ができないのは無理も無い話である。

 もっともそれに起因する言動を本人の前で取る事は彼女の持つ鉄拳の恰好の標的となってしまう為に、先日の鈴谷の様に当たり障りの無い態度で接する事が当たり前である。だから最上は、この神通が「周りの者達に自身がどう思われているか」など知りもしないのだろうと思っていた。

 だがそれは違う。

 既に15年以上もこの世を生きてきた先輩である神通は、自分の性格も、それによって周囲に抱かれる感情も百も承知しているのだ。その事を思い知る最上の前で、霞とそれを応援する少女達を瞳に入れながら神通はさらに声を放ち、知って知らずか最上の神通に対する理解が間違いではない事を確認させてくれた。


『ふん。・・・私がこんな性格なのは知ってるだろう? 私は猿も入れたあいつ等に両手を上げて好かれる様な教育なんかしてはいないし、嫌われるのも承知で厳しく鍛えてきたつもりだ。嫌な事もあっただろうし、辛いと思った事も何回もあっただろうさ。でもそれを耐えれたのは才能なんかじゃない。あいつ等の若さと崇高なガムシャラさ、そして私みたいな奴でも上司と仰いでくれた全員の気の良さだけなんだよ。最上。もちろん一人一人の個性や長所みたいな物は有るし、それを上手く使った生き方を与えるのも他の戦隊長の奴等にはできるんだろうな。だが私が求めた・・・、いや、こんな私に許された唯一の二水戦の在り方はこれだけなんだよ。ただひたむきに励む気の持ちようと、血の滲むような努力の積み重ねだけだ。二水戦所属として生きるだけなら、才能なんかいらない。私はそれでも帝国海軍最強の部隊、花の二水戦を作ってみせる。』


『神通中尉・・・。』


 どこか自分に言い聞かせるように声を放つ神通を、最上は静かにみつめる。部下の奮闘を目の当たりにして彼女なりに何かを決意したのだろうか、長い前髪の奥で光る釣り上がった瞳が一瞬鋭くなるも、そこにはこれまで最上も見た事の無かったほのかな優しい色合いが滲んでいた。先輩方からは「呉鎮の大うつけ」と蔑まれ、かつての部下達からは「部下をも殺す鬼」と忌み嫌われ、同年代の仲間達からは「解体候補の残りカス」と揶揄されながら生きてきた神通なりの二水戦に懸ける想いを、最上はこの時に初めて知ったのだった。

 やがて試合場での声援が大きくなるのに合わせて、神通は声援の真ん中で戦う霞や、応援する部下達と同じ色合いに瞳を輝かせて口を開く。


『私達二水戦に天才はいないし、必要も無い。だが二水戦(わたしたち)こそが帝国海軍最強の戦隊だ。』


 歓声に掻き消される神通の声。正面に位置するマットの端に並んで声を張り上げる少女達に聞えぬように小さめの声で言ったのだろうが、間近にいた最上にはしっかりとその声と込められた力強さが伝わっていた。




 そして上司の神通が彼女なりに決意を改めていたその眼前にて、神通と同じ色合いに瞳を輝かせた霞は、疲労の激しく足さばきが停滞した吹雪に一足飛びに間合いを詰めていた。これまでにない歓声が霞の動作によって放たれ、吹雪がハッとして霞の姿を疲れた視界の中で探す刹那、吹雪の袖と胸座には陽に焼けた麻色の肌を持つ手が襲い掛かり、次いで吹雪の視界一杯に霞の顔が広がる。


『うあ!! クソッ・・・!』

『どぉりゃああ!』


 電光石火の勢いを持つ霞の身体が吹雪に寄せられる。まさにこの時、霞は最強の相手に対し、自身の思う通りの体勢で捉える事に成功したのだった。間髪を入れずに霞の細い左脚は吹雪の前に出ていた右足に外側より巻きついて裏から払い、吹雪の身体は後ろへと傾いていく。試合開始時には吹雪によって逆に仕掛けられたその技を、試合を見守る見学者の全員が瞬時に思い当てる。その中でも最も霞を知る実の妹の霰は一番最初に意識の中にその技の名を浮かび上がらせ、息を飲む展開が続いていたこの試合の最大の局面を目にして真っ先にその名を声に変えるのだった。


『小外刈! 霞姉さんの小外刈や!』

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