第八一話 「最強を目指せ!/其の七」
「つい昨年に生まれたばかりの艦魂が、支那事変という舞台で実戦経験も積んだ同じ艦種の先輩を破る。」
長く帝国海軍にて励んできた伊勢や日向にあってもこれは前代未聞の出来事で、日差しを遮る天幕の下で一緒になって感心の溜め息を放っている。それは二人を含めた大会本部に集っている艦魂達の中でも、最も長く生きてきた浅間にあっても例外ではないらしく、独特の力みが感じられない声色で霞の戦いぶりを絶賛。お偉方に友人が認められた事を確信した明石も、胸の前で小さく拍手して霞の勝利を讃えた。
一方、どよめきがまだ静まりきらない中でも試合は順次行われ、大会本部前のマットの上には勝利の歓声と敗北の涙が交差して行く。各駆逐隊選抜の選手で競われる本日の試合はどれもこれも目が離せない内容の物ばかりで、明石はまだ話した事も無い者がそこに居たとしても一緒になって一喜一憂する。
やがて何試合かが進んだ頃、龍驤艦の飛行甲板の上にはまたしても明石の知る人物の名前が木霊する。それを声に変えているのは審判の呉竹だ。
『右舷側、第12駆逐隊、東雲二曹! 左舷側、第16駆逐隊、雪風二水!』
『はい!』
『うスっ!』
何事も型に嵌る事を嫌う鼻っ柱の強い雪風は、型通りの挨拶をせずにすっくとその場に立ち上がる。大会本部からそれを見ていた明石にとって、それは雪風という少女の大きな特徴であり微笑ましさすらも抱いてしまう物なのだが、第三者に対してはあまり受け取られ方が良くないのが実情である。そしてそれを、普段から口の利き方に至るまでげんこつを伴って教えている当の雪風の上司が許す筈も無い。彼女が立ち上がるや否や、雪風のお尻には後ろから神通の右足が叩き込まれる。
『返事は"はい"だ、馬鹿者が。』
『ぎゃっ・・・!』
不意打ちにも近いお叱りで前のめりに2、3歩ほどよろめく雪風。その光景は怖いお師匠様より教えを受ける艦魂の有り触れた姿なのかもしれないが、皆が見ている前での私立神通学校の教育風景は龍驤艦の甲板を失笑の渦に巻き込んでしまう。どうにも雪風はその身に攻撃を受けると今の様に虫の悲鳴にも似た断末魔を口から漏らしてしまうらしく、そのなんとも間抜けな悲鳴はその場にいる二水戦以外の者に笑い声を発せずにはいられなくしてしまう。故にたちまちの内に飛行甲板の上には、心底面白いと言わんばかりの笑い声が幾重にも響き渡った。
『『『 あはははは! 』』』
大会本部のお偉方も含めての爆笑は気持ちの良いくらいの代物であったが、雪風や二水戦の者達にとっては恥ずべき失笑以外の何物でもない。お尻を擦って口をへの字に曲げている雪風とそんな彼女を睨みつける神通を除き、所属の駆逐隊の少女達は周囲から浴びせられる声に赤面しながら恥を忍ぶしかなかった。
やがて審判である呉竹に促されて雪風は再びマットの上を歩き始めるが、その先で対戦相手を待っていった先輩も口に手を当てて笑っている。自分の不注意も棚に上げて今の自分を笑う声に、鼻っ柱の強い雪風はどんどんと口の先っぽを尖らせていく。すると定位置に着いた所で徐に対戦相手の先輩、東雲が長い髪を後頭部で結いながら声を掛けてきた。
『ははは。大丈夫? いきなりダメージ食らっちゃってるじゃない。』
嘲笑の混じる先輩からの一言もまた雪風の心を逆撫でる。ただこれ以上の失笑を買いたくないので、口先を山の形にしつつも彼女は先輩の声に波風の立てない内容で返事をする。
しかし東雲はただ眼前の後輩を嘲り笑うつもりはなかったらしく、雪風の返事に大きく頷いて優しげに言った。
『へ、平気っスよ。いちち・・・。』
『うん、その意気だ。じゃじゃ馬なくらいが駆逐艦の艦魂にはちょうど良いのよ。』
まだまだ嘲笑の余韻が残る中で耳に届いた言葉は、自分の失態を否定するのではなく受け止めてくれた物。鼻つまみ者としての自己理解も多少は意識している雪風だったが、先輩の笑みにそれまで尖っていた口を戻す。恐らくこの先輩はその昔、自分と同じ様なやんちゃな時代を過ごしていたに違いないと想像し、込み上げてきた親近感に鼻の頭を親指で掻きながら白い歯を覗かせて口元を僅かに吊り上げる。
『ひひ、どもっス。』
『よおし。じゃあ、始めようか。』
そう言った東雲は呉竹に視線を流すと、呉竹は自身と彼女の視線が交わった事を合図と捉えて試合の進捗を再開させた。
『正面に礼!』
規律という物が纏われたその言葉は少し賑やかになりつつあった龍驤艦の飛行甲板上を一瞬にして静寂に包み、それまで嘲笑を放っていた者達は小さな咳払い一つで笑い声を静めた。その真ん中で大会本部に静かに礼をするや、雪風と東雲は向かい合って今度はお互いに礼をする。二人とも歳の差を除外してそれぞれが相手に好感を抱き、再び小さな笑みを交えるとほとんど同時に腰を落として身構える。
『始め!』
続けて放たれた合図を耳に、雪風と東雲の試合が始まった。
一悶着の末にようやく行われる事で二水戦の少女達は溜め息混じりで雪風の応援に入るが、神通だけは顔色を変えずに黙ってマットの上の教え子を眺めている。大会本部からお偉方に混じって友人の戦う様を見る明石も心配の色を隠せないが、170センチは有ろうかという高い身長を持つ東雲に比して、雪風は霞と同じく150センチ台の小柄な体格なのだから無理も無い。おまけに先程のお叱り劇に見て取れるように、雪風は艦魂としてまだまだ生まれたばかりの幼い者であり、すっかり大人びた顔つきで常に余裕がありそうな雰囲気を持つ東雲と相対する様は相当にミスマッチの感がある。霞の時は開幕一番でその只者ではない所を垣間見せる事ができたので心配する事は無かったが、性格に反して意外にも慎重な袖や襟の取り合いを演じる雪風にはどうしても対戦相手との不利が存在しているように見えてしまうのだ。
ただその上で、上司である神通は眉一つ動かさずにじっと雪風の戦う様を見守っている。腕組みをして体重を片方に寄せたその立ち姿はまるで第三者の視点とも言えそうであり、たまたま近くで見学していた最上は神通のその様子を不思議に思って声を掛けてきた。
『神通中尉。随分と落ち着いておりますね?』
神通の事を姉と慕う最上は飽くまでも彼女の邪魔にならぬように神通の隣まで静かに足を進めると、ほんの少しだけ顔を寄せてそっと呟くような声で言った。肩口からサラサラ垂れる美しい黒髪を耳に掛けながら最上は回答を待つが、神通より返ってくる言葉はやはり彼女が眼前の試合に対して憂いを抱いていない事を示している。
『ふん。犬の試合なら別に心配する事もないからな。』
『へぇえ。そんなに強いんですか? あの子。』
『ふん。まあな。』
寡黙な彼女はそれ以上は語ってはくれなかったが、じっと向けている優しげな神通の眼差し
にその言葉が嘘ではない事を確信する。どうやらついさっきまで笑われていた雪風という若者は、自分より背も高くて経験が豊富な先輩を柔道の相手としてもさほど苦にはならないらしい。最上は『へぇえ〜。』と唸り小さく頷きつつ、神通から眼前の試合場へと視線を戻す。
すると早くもそこには神通の言葉を現す光景が広がっていた。
見れば雪風と東雲はお互いの襟や袖を握り、お互いに頭をあてがう様にして体勢の崩し合いを行っている。柔道の攻防においては良く見られる姿であるが、20センチ程も身長差がある二人の事情を考慮すると、小さい方の雪風がその体勢で攻防を展開できている事自体が軌跡にも近い代物である。柔道に造詣の深い艦魂達はすぐにその事に気付いて雪風の姿を目で追い始め、その中で雪風と東雲は足を大きく左右に開いて上半身や腕を振って互いの姿勢を崩そうとする。
『くぬっ! でえい!』
『やるなぁ・・・、さすが神通さんとこの若いのだよ・・・! よく練習してるな・・・! てやっ!』
『と、当然ッスよ・・・! おりゃ!』
両者ともども、しかめっ面で作る笑みと会話も交えつつの攻防を繰り広げ、取っ組みう二人の足元には汗が次々に弾ける様にして滴る。だが身体の大きい東雲がいくら上半身を捻ったり掴んだ雪風の襟や袖を引っ張っても、雪風は腰を低くしてしっかりと両脚を踏ん張って姿勢を崩す事は無い。それもマットへと着けた雪風の足は一度たりとて浮き上がったりせずに、足の裏をピタッとくっつけて逆に東雲の姿勢を崩そうと攻める程である。
これには大会本部も含めた会場全体からも喝采が起こった。
『おお、あのちっちゃいのも凄いや!』
『信じられない・・・、あの身長差で互角に乱取りしてる・・・。』
体格の不利を物ともしないその戦いぶりはさっきまでの雪風への嘲笑とは一転し、彼女の小さな身体に備わった実力に驚きと感心を抱く。恐らくはこうなるだろうと予測していた神通はほくそえむように少しだけ口元を釣り上げ、教え子の優秀さを示せた事をそれを教えた者として喜ぶのだった。
一方、ほど良い集中力で相手との駆け引きに浸る中、小柄な体格からは想像もつかない程に腕力が強くてバランス感覚も良い後輩を目の当たりにした東雲は、いつの間にかその表情から余裕の色を消し去っていた。正直な所、さっきから本気で後輩を組み伏せてやるべく攻めているのだが、足を払おうとしても雪風は上手く両脚の位置と重心を移動していなし、袖を掴んだ腕の動きは同じ様にして自身の袖を掴んでいる雪風の腕の力によって自由に使用させてもらえないのだ。柔道の腕前にはそこそこの自信もあった東雲なのだが、初戦、まして相手が生まれたばかりの少女なのに、ここまで苦戦するとは思ってもいなかった。頭に描く戦いも試合が始まってからというもの、雪風の巧みな防御によって一度も成し遂げる事ができていない。その事から少しずつ東雲は焦りと供に苛立ちを胸の中に募らせていく。
もっとも勝負事において何事も自分の思う通りに行かないというのはどこにでも有る事であり、相対している雪風だって自分の狙いを東雲には上手く封殺されている状態である。鼻っ柱の強く物言いも脳裏に浮かんだ言葉をはっきりと述べてしまう性格の雪風も決して気が乱れていない訳ではないのだが、まさに駆け引きの真っ最中である東雲と比して雪風は苛立ちを募らせる状態には至っていない。なぜならこの時、雪風はこの柔道の大会に向けた特訓の中で上司より授かった教えを、心の奥で言い聞かせるように何度も唱えているからである。
「攻撃も防御も、戦の中での駆け引きという流れの中で生ずる一時的な状況を比率の観点から指しているに過ぎない。どちらも戦の中にあっては常に必ず同時に存在している。」
今また再び雪風の身体は東雲の上半身の捻りに傾けられるが、雪風は払われないように注意しながら足をマットに突立てて東雲の崩しに対抗する。既に呼吸は心拍数と同期して間隔が短くなっており、顔のあちこちから噴出す汗は滝の様に雪風の顔面を伝って行く。袖を掴みっぱなしの指もできれば今すぐ伸ばしたいという衝動を雪風の意識に訴えてくるが、彼女は歯を食い縛って両手の指にさらに力を込めて今度は東雲の姿勢を崩そうと揺さぶり始めた。
『でえりゃ・・・!!』
唯でさえ身体の大きい東雲にはやはり効果は薄く、雪風の一声も伴った揺さぶりは東雲の腕力ですぐに封殺される。
まさに一進一退の攻防で試合の成り行きを見ている者達は手に汗を握り、瞬きする瞬間すらも惜しんで二人の戦う様を食い入るように眺める。東雲と雪風が属する駆逐隊からは必死の応援が叫ばれ、本日これまでの所では最も白熱した試合の様相を呈した。
その最中にも、雪風はひたすらに上司から教えてもらった事を胸の中で唱える。それは自分で掴み取った物ではなく他人より与えられた物であったが、与えてくれた人物が他ならぬ神通であるという事だけで、雪風は疑う事も無く上司よりの教えを声も無く連呼する。
「攻撃も防御も常にそこにある物。その比率が変わるだけで、どちらかが欠ける等という事は無い。だから攻撃は最大の防御には絶対に成り得ない。」
するとその刹那、戦の在り方に対する上司よりの言葉を意識していた雪風に反して、ふつふつと溜まっていた苛立ちに駆られた東雲は雪風の身体を薙ぐ様に強引に腕と上半身を真横に捻り、同時に薙ごうとする方の足を雪風の足にあてがった。
それは明らかに足を引っ掛けて雪風を真横に投げ飛ばそうとする様子に他ならず、瞬時に会場中の歓声は鳴りを潜める。もちろん東雲の仲間達の表情は笑みの寸前であり、雪風の仲間達は今にも悲鳴を上げそうな表情で凍り付いていた。
ところが当の雪風だけはまさに自分の足首に東雲の足が触れようとするまさにその瞬間、それまで胸の中で唱えていた神通の教えが自分なりの解釈へと変化する事を認める。既に雪風の身体は体格に優れる東雲の力任せの構成で流れ始めているが、雪風の得た彼女なりの解釈はまさに今という瞬間こそが勝負を決める絶好の機会であると示している。
「攻撃は防御には成り得ない。攻撃する際は同時に敵が常に持つ反撃の選択肢も想定して防御を企図し、防御の際は敵に攻撃一辺倒という楽な選択肢を与えない様に攻撃もしっかり意識する事。」
ここに至ってそう悟った時、雪風のゆっくりとした視界に映った東雲の足は無理を押して出してきた代物で、ある程度の姿勢の規律を失った状態での強引な東雲の攻めは今しがた得た解釈の後者を欠いていた。雪風のこの瞬間的な察知は正鵠を得ており、これまで思う通りの試合運びを出来なかった事から強引に攻めに転じた東雲からは防御の意識が完全に抜けていた。それどころかやっとの事で雪風の片足がマットから浮き、その小さな身体が真横に流れ始めた事に、思わず『よしっ!』と頭の中で声を上げている有様である。
何時の時代、どこにでもある失敗の根本に存在する物の内で特に多い物。それは気の緩みから来る油断である。例え一瞬たりとは言え、まさに東雲はこの時に油断をしていた。そして雪風が死中に活を見出したのは、まさしくこの一瞬である。
『くぅお・・・!』
『ふおっ・・・!?』
浮き上がった身体が流される最中、雪風は東雲の足絡み合った自身の足を器用に折り曲げ、外側から東雲の足に真似をするかのようにしてあてがう。するとそもそもの姿勢が強引な攻めによって不安定だった東雲の身体は雪風の足を支点として傾き始め、雪風と同じ方向に崩れ落ち始めた。雪風の見事な返し技が発動された瞬間であり、二人揃って絡み合うようにマットに倒れる中、固唾を飲んで試合を見守っていた全ての者達から驚愕の声が上がる。
『おおおおお!』
『上手い! 返した!』
やがて雪風と東雲は全くの同時にマットへと崩れ、お互いが最後の気力を振り絞って腕に力を入れたのか二人とも背中からマットに倒れた。重苦しい衝撃音を伴って倒れるもほぼ同じ体勢、同じタイミングで倒れた事から、雪風と東雲はすぐさま上半身を起して勝敗の行方を決定する呉竹の顔に視線を向ける。お互いに汗だくで大きく方で息をしながら裁定を待つのだが、この勝負は最後の最後で雪風の返し技によって東雲の身体が崩れた事、そしてその結末が同じタイミングで二人とも背中より落ちた事で結果は誰の目にも明らかな物であった。
すなわち、攻める方に対して繰り出した返し技が成功しているのであり、試合場であるマットの隅で副審を務めている若竹や早苗は左舷側に手を上げて主審である呉竹の裁定を補助する。やがて二人の姉妹と同じ判断を持っていた呉竹は左手を天に伸ばし、勝者の名を声に変えて寥々と辺りに響かせた。
『返し技、一本! 雪風二水の勝ち!』
呉竹がそう言った刹那、雪風はその場に立ち上がって弓を引くような格好で拳を引いて叫ぶ。足元では悔しさで唇を噛んでいる東雲が表情を苦くしているが、そんな先輩への気遣いも忘れて雪風は喜びを声に乗せた。
『しゃああーっ!!』
この大一番と再びの番狂わせで会場中からは大きな歓声が沸き上がり、霞を除いた二水戦の少女達はまたしても仲間の躍進が適った事に抱合って喜ぶ。大会本部にてそれを見守る明石の耳には近くにいるお偉方の会話が響き、その内容がこれまた友人達を褒める物であった事から胸を躍らせた。一進一退の末に返し技で勝負が決まるという試合その物の展開も面白かったし、20センチ以上も体が離れている中で小柄な雪風が成し遂げた事もまた、先程の試合の内容の良さを引き立ててくれる。
マットの上では東雲が悔しそうに顔をしかめながらも笑みを溢しており、呉竹の合図で礼をした後、すぐに後輩の肩に手を置いてその勝利を湛えていた。
『くっそぉ、強いなぁ。』
『ひひ、あざッス。』
『やっぱ無理はダメか。良い試合だった。こっから先も頑張るんだよ。』
『うッス!』
『ははは。返事は"はい"な。』
『あ、はい!』
気さくな先輩との会話が雪風の勝利に沸いた胸の内を一層盛り上げ、ついつい試合前に上司より尻から叩き込まれた返事の仕方を忘れてしまう。東雲の優しげな注意ですぐに返事は訂正し、深々とお辞儀をすると二人は試合場であるマットの上をそれぞれの仲間が待つ方へと歩き去っていく。
当然の様に二水戦の少女達は大騒ぎで、雪風は戻ってくるなり姉達から歓喜の印として頭を何度も引っ叩かれ、大人しい霰や妹達からは次々に抱きつかれてその場に崩れ落ちそうになってしまう。
『こらあ・・・! お、重いって・・・!』
激戦を終えたばかりの雪風には実力をもって仲間達の祝福を回避する事は難しかったが、ふと正面にゆっくりとした足取りで進み出てきた上司の声が響くや、雪風に群がる少女達は表情を正してそれまでの行為に終止符を打つ。
『馬鹿者が。まだ一回戦だぞ。初戦で浮かれるようではいかん。犬に油断させて負けさせるつもりか、お前等。』
いつものおっかない声と表情は、二水戦の少女達が例外なくその恐ろしさを身をもって知っている物。声が響き終わると同時に雪風に伸びた幾重もの仲間達の手は引き潮の如一斉に持ち主の身体へと戻っていき、やっとの事で開放された雪風は乱れた柔道着を直して直立不動の体勢をとると神通に試合の報告をし始める。
もちろんその結果は神通とてさっき実際に目にしているのだが、大変に見事な勝利を得た部下の言葉として聞くのが上司である彼女なりの楽しみの一つでもあったりするのだ。まして勝利という良い結果は表情に現れておらずとも神通の胸の内をご満悦としており、普段の生活では滅多に聞く事の出来ないお褒めの言葉が雪風には返ってくる。
『戦隊長。なんとか勝ったッス。』
『ん。最後まで諦めずに、東雲の強引な攻勢を逆に自分の攻勢へと転じたのは見事だったぞ。犬。お前達も今の犬の試合を良く覚えておけ。攻撃と防御は常に同時に存在する事の良い例だ。』
スパルタ教育で名高い神通だが教えを授ける者としても彼女は一流で、雪風を褒めると同時に今の試合の要点を他の部下達に教えることも忘れていない。霞だけはやや不満げであったが、さっきまで雪風への応援と祝福で有頂天だった少女達は上司の言葉をしっかりと肝に銘じ、今しがた目にした試合を上司の教えの好例として脳裏に刻むのだった。
その後の試合は順調に進み、勝ち抜き戦である本日の試合において、徐々に柔道の腕前に定評がある者達がその名を対戦表の次の欄へと進めていく。大会本部の伊勢や日向、大先輩の浅間らは極めて平均値が高い試合が連続する事で笑みが絶えず、明石も友人達の頑張りとこれまでの所では怪我人が一人も出ていない事に表情を綻ばせる。『せっかくみんなで集まったのだから。』と言って師匠と同じく英国生まれの浅間が淹れてくれた紅茶も、絶品なその味は明石の心から怪我人への憂いを消してくれた。視界の端に映る、飛行甲板の一角で集まって時折笑い声をも上げている神通とその部下達の姿も微笑ましい。龍驤艦の飛行甲板上に木霊するたくさんの応援の声もヤジが混ざるような下品さは皆無で、競技会形式とは言えど艦魂達の良き催し物が続けられている事を素直に喜んで見守るのだった。
そして明石の友人の中でも今回の大会参加者である霞と雪風の躍進もまた留まる所を知らず、なんとなんと二回戦においても各々が持ち前の能力を存分に発揮して勝利をもぎ取る。なまじまだまだ10代後半が関の山という幼い容姿を持ち、揃って小柄な体格である霞と雪風が、20代で身長もそこそこにある先輩方から一本判定を取っていくその様子は、次世代型駆逐艦である彼女達の分身を鑑みると帝国海軍の将来に一筋の光を与えてくれる。それになんと言っても「元より不利な負け戦を勝ち戦にする」という物事の展開には、艦魂に限らずとも何やら燃えてしまう物である。故に霞や雪風が二回戦に望む際、駆逐艦の部下を持たない明石を含んだ大会本部のお偉方や呉軍港の雑役船舶の艦魂達からは二人を応援する声が大歓声となって上がるようになっていた。
それは彼女達が属する駆逐隊、次いで上級部隊の評判とすぐさま結実して行き、明石の耳にはそれを示す伊勢と浅間の会話が響いて来る。
『あの若い二人、とてもよく鍛えられてて感心するわね。敷島さんでもあそこまで鍛えられる物ではないわよ。一体どこの隊に所属してるの、伊勢?』
『はい、浅間さん。あの子達はどっちも二水戦所属です。戦隊長は神通ですよ。左舷側のあそこで腕組みしてる奴です。』
『まあ、そうなの。それにしても、神通はああやって見てみると敷島さんの若い頃にそっくりね。私達が日本に来た頃の敷島さんも、ああやって腕組みをしてムスっとした表情で仁王立ちしてたものよ。ふふふふ。さっきあの雪風って子のお尻を蹴飛ばしたのも、むかし金剛を教育してた時の敷島さんと全く同じじゃない。でもきっと敷島さんと同じ様に、怖いけどとても優秀な教官となってるのね。あういう子達を育てられてるのなら間違いないわ。』
どうやら霞や雪風の師匠筋に当たる神通は好評を得ているらしい。
そも艦魂社会でもその短気で峻烈な性格からかなりの嫌われ者である神通。彼女と大の仲良しとして付き合う明石も頻繁に困らされたりするのだが、部下達の奮闘によって神通の人物としての株が認められたのは仲良しとしては嬉しい限り。しかもその事を声に変えたのは明石の師匠と同年代の者である浅間だったという事もあって尚更だ。
その事から明石は神通への第三者達の眼差しが少しだけその色合いを変えた事を喜ぶと同時に、そのきっかけでもある霞と雪風の奮闘を心の底から感謝するのだった。
だがちょうどこの時、明石が優しげな笑みを送っている二水戦の面々とはマットを挟んで逆側の甲板端に陣取るとある駆逐隊では、大会での注目を集めている霞と雪風にとって最大の障害となる者が数人の仲間に囲まれて試合に臨む為の準備運動を行っていた。腰を深く落として屈伸運動をするその背中を仲間が押し、緊張の度合いを確かめようと声を掛ける。それに対して返って来るのは半笑い気味の落ち着いた返答であったが、背中を押す女性は今より試合に挑むその人物が緊張感を抱いていない事を別段不思議な事だとは思わなかった。なぜなら彼女こそ、これまでずっと呉鎮所属の駆逐艦の艦魂達の間で最も柔道の腕前が秀でた人物であったからだ。
『綾波も東雲も負けちゃったけど、落ち着いて行けば大丈夫だよ。』
『ほっ、と・・・。へへへ。なあに、久々に面白い試合ができそうだからワクワクしてるだけだよ、初雪。今回の大会を企画した甲斐があったってモンだ。』
その言葉に初雪と呼ばれた女性がフッと口元を緩めて笑みを作る中、それまで屈伸運動をしていた女性は音も発せずに立ち上がって首を左右に捻る。響きの良い乾いた音を放って首を回し、彼女は試合場であるマットの向こう側へと視線を送った。そしてその瞳に映るのは、自身と同じ真珠色の柔道着を身に付け、陽に焼けた麻色の肌を顔に覗かせる少女。その背後にはかつて自身が上司と仰いだ鋭い釣り目を持つ人物と、艦魂としては生まれたばかりである10代後半の容姿を持つ少女達が拳を握って見守る姿。麻色の肌の少女も含め、彼女達は緊張感を滲み出す幾分強張った顔をしている。
だが無理もない。なぜなら今から彼女達が挑む相手は、本日の大会において掛け値無しに最強の敵であるからだ。
やがて審判の呉竹がマットの中心に進み出てこれから始まる試合における二人の選手の名乗りを上げ、名を呼ばれた者がマットへと足を進めて行く。
『右舷側、第11駆逐隊、吹雪上曹! 左舷側、第18駆逐隊、霞一水!』
『来たー! 吹雪姉さん!』
『吹雪姉さん! 頼んだよお!』
瞬時に龍驤艦の飛行甲板の上には歓声が沸く。もちろんそれは下馬評で文句なしの一位と目され、今回の大会での優勝候補筆頭がマットに上がったからである。
緩く唇を噛んで渦巻く緊張を飲み込んでいる霞の眼前に現れた相手は吹雪。決勝戦前の3回戦目にして、呉鎮最強の栄冠を目指す霞は今大会最大の試練へと挑む事になったのだった。