第七七話 「最強を目指せ!/其の三」
昭和15年10月20日。
温暖な瀬戸内の空は雲の量の大小こそあれど、気持ちの良い秋晴れの天気が続いていた。呉軍港内にて休暇中の艦魂達にも、その乗組員達にあってものんびりとした一日を与えてくれ、毎日の甲板掃除のお仕事中であっても水兵さんの内の何人かはあくびを放つ始末。「月月火水木金金」の言葉を常套句にしている当事者が彼等である事を嘘かとも思わせる程で、呉軍港内にポンツーンと供に浮かぶ新型戦艦が朝から晩まで放つあんなにうるさい機械音もそんな日々でのお飾り程度になってしまっている。給水船や交通船のような工廠の雑役船舶すらも軍港内の片隅でのんびりと波間に浮かぶ揺り篭と化しており、波間に映るお空でいつもの空中哨戒任務に励むカモメ達の方がよっぽど働き者であった。
極めて暢気な10月の呉。
大した重労働も無く海軍では三食の内でもっともボリュームがあるお昼ご飯への期待感も薄まるこの頃、神通は同じく呉鎮守府所属である後輩、最上を伴って、彼女の妹にして同じく七戦隊を組んでいる鈴谷艦へと来訪していた。
普段から鋭い眼光とそれに伴うおっかない雰囲気を少しも色褪せさせない神通の来訪には、一応は彼女とは話もした事がある鈴谷もどこかおどおどとして視線をあちこちに泳がせてしまう。平気なのは神通を姉と慕って憚らない最上くらいで、珍しく自分が戦隊長を勤める七戦隊の所属艦に足を運んでくれた神通を笑みを伴って歓迎した。
『ごくろうさまです、神通中尉! ほら鈴谷、ちゃんと挨拶!』
『ご、ごくろう様です・・・。あ、あの、よ、ようこそ・・・。』
『ん。二人ともすまんな、せっかくの休み中に。』
神通はその強面な人相に反して決して不機嫌な訳ではなく、鈴谷艦の最上甲板で出迎えてくれた最上と鈴谷に軽く手を上げて挨拶する。元気一杯の最上はすぐさま神通の隣に寄り添うようにして立ち、右肩の上から前に流した綺麗な黒髪を振り回すようにして何度も頭を下げながら明るい声で対応してくれるが、艦の分身である鈴谷はその声色にかなりの震えがこめられていた事にも示されている通り、硬直した身体を小刻みに震わせて神通の怖い顔を長時間直視できずに視線を右往左往させていた。白く綺麗な鈴谷の頬には冷や汗も浮かんでおり、陽が昇っているとはいえ肌寒い感もあるというのに頬の中程で切り揃えた横髪が汗で両頬にペッタリとくっついている有様だった。
その理由は鈴谷を含めた七戦隊が神通率いる二水戦と同じ第二艦隊に属する仲で、しかも二水戦とは第二艦隊内で第二夜戦隊という戦闘グループを構成している七戦隊の事情にある。
最上も鈴谷も二等巡として類別される艦体を分身としているが、その実情は高雄型や妙高型といった一等巡と似通った性能を持った立派な中型戦闘艦。特に主砲は中口径艦載砲では最強クラスの「五〇口径三年式二号二〇センチ砲」を今年の春までに掛けて同型艦全てに装備しており、砲門数の面でも一等巡とはほぼ同じと非常に強力な砲撃力が彼女達の持ち味であった。その事から七戦隊は、二水戦が敵艦隊への突撃躍進を実施する際に遠距離からの砲撃で支援するという役割で運用されるのだ。
故に両戦隊の艦魂達は戦隊同士での打ち合わせを普段からそこそこの頻度で行っており、鈴谷にとっても最上にとっても神通はお仕事の上では割りと近しい関係にある。人間の社会で例えるなら、同じプロジェクトに参加する部署違いの仕事仲間といった感じだ。もっともそこに笑みを伴ってお仕事に励む光景が無い事など、この人の苛烈な性格を考えれば察するのに難しい事は無い。最上型は最新鋭故にその艦魂達は皆若く、神通とは大の仲良しである明石よりもちょっとだけ歳を重ねた20代前半の容姿を持つ。当然のようにまだまだ経験不足な感は否めず、それは艦隊訓練の成績に如実に現れる。そして彼女達の未熟っぷりは、「鬼」の渾名を頂く神通によって激しいお叱りの恰好の標的とされてしまうのだった。その上で『この馬鹿が!』と頭ごなしに怒鳴り散らす神通の態度は、慣れていないとインパクトが余りにも大き過ぎる物だった。
そんな事から長女の最上を除いて妹達はすっかり彼女に怯えきってしまい、加減のできないその人柄を嫌って普段から進んで話しかけるような事も無くなってしまう。正直な所、鈴谷にとっては付き合うのも嫌なお人が神通という艦魂なのだった。
しかし幸いな事に澄ました顔の神通は、今日はお仕事の事で鈴谷の分身にやってきた訳ではなった。もちろん鈴谷に怒号を浴びせるつもりなど元より無く、緊張の渦中にいる後輩に彼女としては優しさの篭る声を放つ。ただそこにはとある者達への弱冠の揶揄もあり、鈴谷はそれが自分達と同じ海軍軍人である事を知って強張った表情をほんの少しも柔らかくする事が出来なかった。
『鈴谷、休んでる所で悪いな。こんな時に人事異動なんぞ発令しおって、海軍省の馬鹿供はこれだから困る。』
嫌いな物はトコトンまで嫌いになってしまう神通。帝国海軍の運営を司る者達であってもその矛先は緩和される事は無く、吐き捨てるようにそう言った彼女にはさすがの最上も幾分強張った苦笑を浮べる。僅かに苛立ちが募ったのか神通は片手を添えた首を小さく左右に捻って鳴らし、眼前にておっかない雰囲気の濃度を上げた彼女に鈴谷は縮こまる胸の中をさらに一層小さくしてしまった。
そこで神通の人柄に幾分は慣れている最上は彼女が鈴谷の下へと訪れたそもそもの目的を声に変え、どうすれば良いのか解からなくなって今にも泣きそうな表情で俯く鈴谷の心を恐怖の束縛から解放してやる。
『あ〜っと・・・、少し風が冷たくなって来ましたね、神通中尉。甲板の上で立ち話もなんですから、早速ご案内しますよ。ほら鈴谷。』
前髪を左右に揺らしながら笑みを作る最上の声はいつも柔らかで、神通の表情から不機嫌の色を引かせるのと同時に、鈴谷身体をも恐怖と緊張の束縛より開放してくれる。『ふん。』といつもの様に鼻を鳴らす神通の顔を覗きこむようにして鈴谷は声をかけ、最上の言葉も示している神通の用事を早速実現させる事にした。
『い、今は午食のお時間ですので、か、艦長室にてお食事をしておられます・・・。あ、案内しますね・・・。』
『ん、頼む。鈴谷。』
まだまだ怯えきっている鈴谷に声を返した神通は再び眉間にしわを寄せている。鈴谷はそんな彼女から視線を逸らすようにして背を向け、自身の分身の艦長室へと向かい始める。神通と最上もそれに続いて鈴谷艦の中へと足を踏み入れていくのだが、神通は決して鈴谷の案内の不手際や自身への人当たりに腹を立てている訳でもなければ、さっきの彼女自身の言葉にあるような海軍省の者達への不満を募らせて怒ったような顔をしているのではない。彼女の不機嫌そうな表情の曇り具合は、今から向かう鈴谷の分身の中にある艦長室にその理由があるのだ。
その後しばらくして神通の一行は鈴谷艦内艦長室へと到着し、重苦しい金属音を放ちながら艦長室の扉を開ける。帝国海軍の最新鋭艦艇の内の一つである鈴谷艦の艦内は通路も含めて綺麗な物でそれはこの艦長室においても例外ではなく、3人の瞳に映る扉の向こうは隔壁や天井、備え付けの木製の机や椅子、舷窓の縁の輝き具合までよく清掃が行き届いた美しい一室が広がっていた。
だが神通はそんな室内の様子なぞ眼中には無い。扉を開けた正面、部屋の一番奥にある机の辺りに向けた視線は、彼女がよく知る困ったお人を正確に捉えていたからだった。鈴谷が言ったとおりその人物は午食の真っ最中で、机の上には長方形の盆に乗った碗や皿が並べられている。ほのかにのぼる湯気と同時に煮魚の香ばしい香りが3人の鼻をくすぐるのだが、それでも神通の表情が晴れる気配は無い。するとその内、扉の辺りで立ち尽くす3人には食事中のその人物より声が放たれる。
『お、神通じゃないか。なんだ、オジサンが恋しくなって来たのか?』
『何が恋しいだ、ジジイ。』
神通と始めとする3人は人間には姿を見る事すらもできない艦魂なのだが、彼女達に放たれた言葉は少し低めの男性の声。最上と鈴谷はまだ若い事もありその生涯では初めて声を交える事の出来た男性になるが、既に誕生して15年以上も経ている神通にあってはその限りでは無く、しかもつい先日まで自身の分身の中で一年近く目にしてきた人物であるからその言葉には初対面の雰囲気などは含まれてはいない。即ち、彼女がいま目にしている男性とは、10月15日まで神通艦艦長の役職に就いていた木村昌福大佐であり、この度の人事異動でこの鈴谷艦艦長へと転勤となっていたのだった。しかし転勤といっても同じ呉鎮所属にして、同じ第二艦隊所属どころか同じ第二夜戦隊を組んでいる鈴谷の分身が転勤先である事から、神通にあっては一時の別れなどという感覚はちっとも湧いてこない。
やがて神通はツカツカと室内へと足を進めて行き、机に腰掛けてゆっくりと端を勧めている木村の正面まで近づく。今時珍しいカイゼル髭を生やしている木村は右手の指で片方の髭をつまみ、立派な髭が汁に浸らない様に注意しながら味噌汁を啜っており、見慣れた上に彼と対面すると表情が自然と曇ってしまう神通は別として、その愛嬌ある可笑しな姿に最上と鈴谷は小さな笑い声を漏らしている始末だ。
そんな中で神通はすぐさま自分が鈴谷艦へとやってきた用件を声に変える。それは決してお仕事に関係がある物ではなく、ただ単に神通がこのお人を艦長として迎えてしまった不幸な後輩、鈴谷を心配しただけの物であった。そして声を放つ相手に慣れているのは木村にしても同じ事で、神通が眉をしかめて睨みつけてくる事に対しても彼は澄ました顔で箸を進めていた。
『ジジイ。鈴谷や最上といった七戦隊の奴らは私達二水戦と組んでいる大事な仲間だ。だから変な気苦労を持って鈴谷に倒れられでもしたら私が困る。もし鈴谷に何かあるようなら、私が黙っておらんからよく覚えておけ。』
『お前なぁ、そんな事を言う為にわざわざここに来たのか?』
自分への戒めの言葉に些か呆れた声色で木村は声を返す。だが神通は言い終えてすぐに木村と目を合わせるの拒絶するような仕草で背後に振り返り、扉の辺りで二人のやりとりを見ていた鈴谷に向かって口を開いた。
『おい、鈴谷。このクソジジイはケツは触ろうとするは、風呂を覗こうとするは、油断も隙もあったモンじゃない。だからもし何かあったら泣き寝入りせずに私に言って来るんだ。戦隊運動の教練の時に掃海具に巻き付けて海中を引きずり回してやる。』
『お〜、怖い怖い・・・。』
まるで歌に合いの手を入れるかのようなタイミングで声を放つ木村。最上は愛嬌のある彼を気に入ったのか口に手を当てて笑いを抑えているが、真面目に鈴谷という後輩の心配をしてやった神通にあっては面白くも何とも無い。小さく舌打ちを放って背後を睨み、それ以上の軽口を木村が叩けないようにした。
どうにもこういうひょうきんな木村の物言いが神通には自分を馬鹿にしている様に思えてしまい、決して当人がその気が無い事を知りつつも生来が真面目な性格の彼女には看過できない物である。だがここで竹刀を振り回して時代劇さながらの大退治劇を展開すると昼休み後に控えている部下達の特訓に間に合わないと神通は考えて冷静さを取り戻し、再び顔を鈴谷や最上のいる扉の方に戻して歩き始める。
『お帰りでしょうか。神通中尉。』
『ああ、もう用は済んだ。最上ももう戻っていいぞ。』
神通は足早に扉の前に進みながら最上と声を交える。『用件は済んだ。』の一言で緊張の渦中にあった鈴谷は胸を撫で下ろし、いつも怒ってばかりである事から苦手なこの人がやっと自身の分身から去ってくれる事を声に変えずに喜んだ。不満げなのは言いたい放題言われてしまった木村だけである。咄嗟に放つ彼の声にはどこか焦る様な所もあるが、神通はそんな彼の気心なぞ屁とも思わずに背を向けたまま声を返した。
『お、おい、もう帰るのか・・・!?』
『ふん、用は済んだ。それに中年の髭ヅラなんか、何が楽しくてこれ以上見なきゃならんのだ。帰る。』
なんとも辛辣な物言いを吐いて捨て台詞にしようとする神通。一言で髭ヅラと言われてしまえば元も子もないが、持ち主である木村なりにこの立派なお髭の手入れは結構気を使っている。毎朝ちゃんとメーカー物の油を使って固めるのもそうだし、濡らさないようにお髭の片方を摘んで汁を飲むのも彼なりの苦労という物だ。
もっとも木村は自身の最大のトレードマークであるお髭の事を酷評された事にはほとんど意識を傾けておらず、わざわざ自分を訪ねてきてくれた神通が会って数分もしない内に帰ろうとする事に声を上げた。その理由を聞かれもしないのに木村は口にするが、それに帰ってくるかつての相方の声はやっぱり荒々しい事この上ない代物だった。
『せめてメシが終わるぐらいまでいろよ、神通。一人で食わにゃならんメシはつまんないだろ。ほらオジサンと半分こ─。』
『なんで私がジジイのメシの相手をしなきゃならんのだ! 一人で食うのが嫌なら兵卒にでもなれば良いだろうが!』
いともやたやすく怒りが沸点を突破してしまう困った性格の神通は、一度は背を向けて去ろうとしたにも関わらず木村に振り返ってそう叫ぶ。やはりその怒号の迫力は凄まじく、胸を撫で下ろしていた鈴谷は肩を大きく震わせて険悪な部屋の空気に涙目となる。神通を実の姉と公言して慕っている最上もさしもに神通の怖さにたじろいでしまい、甲板での立ち話をしていた時の様にその場を取り繕う言葉を放つのが億劫になってしまった。
ただ木村にしては別に神通を怒らせるつもり等は毛頭無い。
彼自身の言葉にも示されている通り、帝国海軍の艦長さんを頂く者は乗組みの士官や兵下士官などの様に一同に顔を合わせて食事をする事が出来ない役職で、潜水艦や駆逐艦といった艦内容積に余裕の無い艦艇でもなければ一人で食事を摂る事が原則であった。時に他の艦艇から来たお客さんや転勤に伴う部下の労い等を目的として軽い晩餐を催したりもするのだが、何百人ともなる部下の中で気に入った者を頻繁に食事誘ったりすると乗組員達の統率に支障がでてしまう。だから艦長さんの普段の食事とはいまの木村の様に一人で静かに食べるのが一般的で、それ故に烹水の任に就く者であっても艦長専用の者が艦内に配置されているのだ。
そんな中での木村の言葉は、例え艦魂であっても自身とは面識のある者に侘しい食事をちょっとでも賑やかにして貰いたいとのささやかな彼なりの願いが込められている。それにむさ苦しい男所帯で生きる一般的な普通の男性諸君において、何をしてくれるという訳でなくとも食事の際に綺麗なお姉さん方が3人も傍らに居るとやはりその食事は楽しく明るい物になるという物。眼前にてこちらを睨みつける約一名の問題児がその中にいるとしてもだ。
そして木村はこの時、つい数日前まで一年近くも艦長さんとして勤めて来た神通艦を分身とする彼女に、つい最近目にしてきた彼女達の生活において少しだけ離したい事があった。それは神通艦が栄えある帝国海軍二水戦に戦隊旗艦であるのと同時に、その命たる神通が部下の艦魂達を従える役職を艦魂として頂いているのと関係する。幸いにもその話題の一端を神通は自ら声に変えてくれ、例えそれが木村の願いを遮るような物であっても彼はその言葉に自慢の髭をピンと立てて微笑むのだった。
『それにのんびりメシを食う暇なんか私には無い! 今日もこれから猿と犬に教練をつけねばならんのだ!』
『おお、それそれ。あの二人だよ、神通。』
『ああん・・・?』
自身が率いる二水戦の事に口を出される事を極端に嫌う神通は、既に二水戦から離れた木村が自身の部下達に対しての話題を切り出そうとしている事で眉間に一層深いしわを作る。唇の間より漏れてきた声にも怒りの色合いが濃く滲んでいるが、木村にあってはその事で彼女に対する態度を改める事は無い。空になった碗や皿が目立つ中、大きめの皿の一角にて残っていた漬物をチビチビと齧りつつ、木村は自身が思う神通の部下に当たる者達の事、すなわち柔道の特訓に最近精を出している霞と雪風の二人について率直な意見を放つ。
『あいつらには休暇をやった方が良いぞ、神通。今は根性で頑張ってるが、逆にそれが心身ともに足枷になってるようにオジサンには見えるなぁ。』
木村の声色にはどことなく明るさが込められ、その表情も微笑と、彼の人柄を鑑みても極めて彼らしい言動であった。だがそんな軽やかな声に、扉を背にして突っ立っていた最上と鈴谷はいよいよ震えていた肝を潰してしまう。それはもちろん、彼の言葉が放たれた相手にとって、艦魂達の間では禁句とされてきた二水戦に対する第三者からの意見に他ならなかったからだ。
すると神通は肩をいからせて大股で木村の下へと歩み寄りながら、これまでに無い砲声にも聞えるかのような怒号を彼に向けて放つ。
『黙れえ!! 二水戦の事には口を出すな、ジジイ!!』
そのまま机ごと蹴り上げでもしそうな勢いで迫る神通。鋭く研ぎ澄まされた瞳を吊り上げるその表情は、長い前髪が揺れて遮られていてもすぐ解かる。彼女を知る人物でなくとも、すっかり彼女がご立腹になっている事は一目瞭然であった。
ところが彼女が向かっていく先から帰ってきた木村の言葉に、神通はふと歩みを止めて荒々しい息遣いに規律を戻らせ始める。彼と供に分身の中で過ごしてきた中でこれまでにも何度かあった思いも寄らぬその言葉を耳にし、神通は声を静めて考えを巡らすのだった。
『二人とも最初の気合と自分達から懇願したって事実で、今の辛さを耐えてるんじゃないのか? 別に悪い事じゃないのかも知れんが、肝心の目標でもある大会に対しての二人それぞれの意気込みや重要性を忘れてるように見える。そんな状態で二人を大会に出して良いのか、神通よ。オジサンの見たトコじゃ、大会当日になっていざ相手と立ち会った時に闘争心が湧かないで呆気なく負けると思うぞ。』
『むぅ・・・。』
短気ながらも理論的な考え方をする神通は木村の放った部下達への考察を声には出さずに頭の中で分析し始めるが、どうにも彼の言葉には説得力が不思議と備わっている。ここ数日の記憶の中にある部下達の言動は自身の教えに元気と気合が混じった返事をする物ばかりであるが、汗びっしょりになってそんな返事をする部下達の心底にある物は確かにいわゆる「根性」の二文字であった。特に霞は何にでも情熱を注ぐ熱血な性格で、彼女に負けるのが大嫌いな雪風もそれと張り合う形で神通の教練に耐えている。もちろん二人がただ言われた事をやれば良い程度の認識でダラダラとやっているとは微塵も思わない神通だが、はたしてガムシャラに励むだけの姿勢が最強という栄冠に繋がるのか神通はここに来てふと疑問に思った。
師匠である金剛の教えや普段から部下達に言い聞かせてきた戦闘艦の艦魂としての教育内容はどれもこれも詳細な数値、過去の実戦を例にした状況と過程の分析に、色眼鏡越しには捉えない在りのままの結果と、生来が理詰めで物事を考える神通らしい物で、それこそが今の帝国海軍艦魂社会を束ねている長門をして『天才』とまで言わしめた所以でもあった。
何事も頑張るだけで結果が出るなら苦労はしない。
木村の言葉はふと自身の脳裏を過ぎったそんな声と奇妙な一致を見る。まして一年程にも及んだ彼との付き合いの中で意外にも艦内で課す訓練を激しい物としていた木村を知る神通は、ここまでの考察とそのきっかけとなった彼の言葉に偽りや誤りなどを見つける事は出来なかった。
しばし考え込む神通は、二人の可愛い部下がなんとか頑張る一辺倒の今の状況を打開できるよう策を練る。しかしそのまま『頑張るのはダメだ。』と否定してしまうのは二人の心を無下にする非道な行いのように思えるし、『ほどほどにしろ。』と言っても身も心もまだまだ少女の域を出ない二人にはその加減が解からないに決まっている。変に頭を使って曲がりなりにもせっかく集中できている今の霞と雪風の調子を狂わせるのは、上司である神通としてはとても看過できる物ではない。なんとか二人の励む事に対する現状を維持しつつも、その内面的な姿勢を正してやらねばならない。
まさに無理難題であった。
『さあて。どうする、神通よ。』
『ん、むぅ・・・。』
そんな中で木霊した木村の声に、神通は再び眉間にしわを寄せる。だがそれはさっきまでのような怒りによって作り出された物ではなく、二兎を追って得るかの如き難しい問題に彼女が必死に取り組んでいるからだった。もはやそこには第三者の口出しに意地を張る神通の姿は無く、何としてでも部下達に良い結果に繋がるような日々を送らせてやりたい悩める一人の上司の顔がある。やがて彼女は一向に纏まりを見ない考えに行き詰まりを覚え、怖いお人と自身を認識する鈴谷、最上という後輩が後ろに控えているにも関わらず、思い切って木村にその答えを問う事にしてみた。
『・・・休日を与えればそれは万事治まると思うか、ジジイ?』
『う〜ん、どうだろうなぁ。羽を伸ばせるのは勿論なんだが、肝心なのはあの二人が柔道や今度の大会に向けて気持ちを新たに持つか、改める事だとオジサンは思うぞ。まあ、これ以上の具体的な策はオジサンも艦長なんてお仕事をやってる中ではよく頭を捻る事だからなぁ。なかなか上手くいかんモンだ、わっはっは!』
『むぅぅ・・・。』
敢えて自分の立場を話して大変さを伝える木村であったが、同時に自分と同じく一端の上司として頭を捻る神通に彼は笑いの声を上げる。それは彼の投げ掛けた疑問に神通が答えられないのを嘲笑った訳でもなく、柄にも無く他人の前で難しい表情を浮かべながら頭を捻るその姿が可笑しかった訳でもない。木村は神通の友人である明石のかつての相方と同じ様に人間の世界には大変に珍しい艦魂の見える人物で、海軍軍人として励んできたこれまでの生涯で何人もの船の命達を見てきたのだが、その中でもこの神通はその破天荒で気性の荒い性格が目立つ印象深い艦魂。なまじ水雷畑をずっと歩んできた木村としては、帝国海軍水雷戦力の申し子とも言える程に水雷の知識、経験を持つ神通は、同じ水雷の世界に生きる大事な仲間でもあり、40代にも差し掛かった中年の自分とは少し離れた20代後半の外見を彼女が持つ事から早くに生まれた娘のようにも思える。そしてそんな彼女が自分と同じ境遇、懸案で頭を捻る今と言う瞬間が、どこか彼には嬉しかったのだった。
結局そのまま神通は木村の示してくれた部下達への懸案に対して回答を見つける事が出来ず、『むぅ・・・。』と電動機の稼動音にも似た唸り声を連発して鈴谷艦を後にした。やっとの事で怖い怖い彼女が居なくなってくれた事を鈴谷は喜び、最上が苦笑いして見守ってくれる中で徒労の溜め息を放って甲板にへたり込む。波間の向こう、鈴谷艦からはちょっと離れた所に錨を降ろしている特徴的な4本煙突の艦影を横目にしつつ、最上と鈴谷はお互いに労いの言葉を掛けて何事もなく終わった今日という一日に安堵した。
そしてそれに併せて、「鬼の戦隊長」との異名を誇るあの神通を声色も表情も変えずに自然体のままで落ち着かせ、自分との話し合いのペースに引き込んでしまった木村という人間に深く感心するのだった。