第七五話 「最強を目指せ!/其の一」
昭和15年10月14日。
明石海峡を通って瀬戸内の海を横切る明石艦は母港である呉軍港へと到着。呉工廠電気部庁舎群前の潜水艦桟橋脇に位置する、製鋼部と砲熕部間に至る桟橋へと接岸した。
11月の艦隊再編成を前にしての整備で呉海軍工廠は夏真っ盛りの時期における蝉の鳴き声を思える程の機械音が鳴り響いており、港内の桟橋という桟橋には所属の艦艇が連なるようにして所狭しと錨を下ろしている。故に工廠の波間には開けた空間が少なく、それにあわせて明石艦も桟橋への接岸は曳船の微妙なさじ加減に頼らざるを得ない。常日頃から明石艦の三倍はあろうかという空母や戦艦を押す事をお仕事にしている曳船の乗組員達にも今日のお仕事は中々に大変なようで、何度も船位の修正をしながら時間をかけて明石艦は桟橋に繋留された。おかげで航海当番や当直甲板員の乗組員や艦橋配置の者達には気が抜けない時間が続き、艦中央の甲板に舷門が備え付けられた頃になって、やっと彼らの表情にも明るさが満ちる。
改装中の艦艇もそこそこにある呉海軍工廠はどの船渠もてんやわんやの日々であるらしく、明石艦の整備入渠は11月の新艦隊編成公布後と決定。乗組員達には半舷上陸、しかも帰省の許可もついた長期休暇が通達され、偶数日である本日によって上陸が適った右舷直の乗組員達は皆一様に笑みを浮べて艦を降りていった。
艦隊訓練中は常に稼動していた艦内工作部署用の発電機も運転を止め、煙の流れが消えた明石艦の第一煙突にはさっそくカモメ達が舞い降りて一休みをする。麗らかな秋晴れの下、長い長い艦隊訓練と大観艦式を終えた事もあり、在艦の乗組員達もまた緊張の糸を幾分緩めた雰囲気で呉の一時を過ごし始めていた。
その一端は明石艦の甲板に早くも表れており、艦首や艦尾、最も広い艦中央の甲板に張られた洗濯索には乗組員達が身に付ける白い褌が列を成して瀬戸内の潮風と舞っている。
遠目から見ると織物産地で見かけるような綺麗な光景なのだが、それらの一つ一つが常に包んでいる代物が何であるかを知っている者にあっては特に感動を得るような事は無い。むしろ逆でさえある。
その内の一人にして、ましてや女性である明石にとってはそれが自分の分身を包むように干されるているのが不快な事この上なく、例え洗濯済みの物であったとしても瞳に映す事にはいつも抵抗を抱いてしまう。その不快感を昔は相方への八つ当たりとして発散していた事すらもあったくらいだ。
しかし今日の明石は、自身の分身に列を成す褌群を目の仇にして機嫌の方位を傾ける事は無かった。ひらひらと宙を舞う褌により満艦飾を施される自身の分身よりもさらに視線を吸引するとんでもない代物が、久々に戻った呉の波間には出現していたからである。
『な、ななななな・・・、なんじゃありゃーっ・・・!?』
両目の前に添えた双眼鏡から目玉がとび出るかという勢いで彼女は驚き、叫んだ後も口を大きく開けて双眼鏡が映す工廠中央の波間から視線を逸らさない。その隣では先に呉へと戻っていた仲良しの神通が腕を組んで控えているがやはり彼女の視線もまた明石と同じ物に向けられており、明石ほどに表情に表してはいないもののその顔には驚きの色が浮かび出ている。
周りをぐるっと陸地に囲まれた呉工廠のど真ん中。
そこには大きな浮き桟橋に挟まれる超大型の艦体が浮かんでいた。ポンツーンの上には高さ50メートルはあろうかという巨大なクレーンが備え付けられ、その艦体の全体がそのまま明石達には見えている訳ではないのだが、クレーンの根元より大きくはみ出した艦体の端の部分だけでも二人がこれ程までに驚くだけの内容を含んでいる。上部構造物もまだろくに組み立てられていないがその艦が持つ艦首と艦尾に至る長さは悠に250メートルもあり、明石の分身が二隻縦に並んでやっと同等となるくらいだ。また、横から見ている事からよく解かる高低差のついた艦首甲板とは逆、すなわち艦尾付近の平坦な甲板上には一軒家にも相当する程の大きな作業小屋が建てられており、眼前の艦が長さだけでなく幅にあってもかなりの数値を有している事を明石と神通に教えてくれる。
二人はしばらく唖然として無言のままその艦を眺めていたが、明石に先んじて呉へ帰っていた神通がおもむろに口を開いて明石に眼前の艦の事を告げた。
『伊勢さんから最上が聞いてきたんだが、あれは帝国海軍最新鋭の戦艦らしい。8月に進水したんだそうだが、今まであんな艦を造船船渠で造ってたとはな。新型の艦の建造とは聞いていたが、まさかこれ程大きい艦だったとは・・・。』
『うへぇえ〜、でっか〜・・・。』
神通によって破られた沈黙により、明石もつられる様にして脳裏に浮かんだ言葉をそのまま口から漏らす。月並みな言葉ではあるが、それ以上の言葉が見つからなかった。ポンツーンへの資材輸送を行う交通船や運貨艇と比較するとその様はまさに鯨と蟻で、明石達が見ている所とはその艦を挟んで反対舷側のすぐそばに15820トンの巨体を持つ給糧艦の間宮艦が停泊している事が全く意識できないほどである。
明石は呆気にとられつつもふと長門より横須賀にて教えてもらった事を思い出し、ゆっくりと双眼鏡を降ろすと溜め息混じりの声で眼前の艦の正体を語った。
『・・・大和って言うんだって。』
『やまと? あの艦の名か?』
『うん、長門さんが言ってた。将来は長門さんに代わって連合艦隊旗艦が約束されてるから、今の内に色々な事を教えてあげてるんだって。』
『ほ〜う。・・・お? あれは間宮か・・・?』
声を受けた明石は右隣に立つ神通の視線を辿る様にして眼前の巨艦を瞳に映し、先程まで巨大さをよく伝えてくれていた艦尾甲板の作業小屋付近にアルミ製の配食器を片手にテクテクと歩く間宮の姿を認める。彼女はそこから左舷に広がる波間より二人の視線を浴びている事に気付いていないらしく、文字通り脇目も振らずに上部構造物の土台の部分から大和艦艦内へと降りていった。
『ふん。間宮め、メシの世話であの艦に入れるのか。』
『いいなあ、間宮さん・・・。』
二人揃って漏らした言葉は、今しがたみつけた友人への妬み。明石とは観艦式の際に同じ特務艦の艦魂として親交を深めた間宮は、神通にとっては生まれた時期も故郷も同じ幼馴染。それ故に二人が放つ言葉は一様に近しい感じを伴う物であったが、妬みというちょっと暗い色合いの感情を込めた声としたのには理由が有る。
実は呉に入港してすぐ、明石や神通といった所属艦艇の艦魂達には、呉在泊の艦艇の中では最も高い階級を頂く伊勢艦の艦魂より、この大和艦の甲板に足を着ける事はしばらく遠慮して欲しいとの通達が出されていた。なんでも大和艦は一般国民はもちろんの事、どうやら海軍軍人にあってもその正体を機密にしている存在らしく、事実、明石や神通の分身に乗組む兵員達には厳重な緘口令が敷かれていた。明石や神通はまだ知らないが、彼女達の分身を始めとする多くの艦艇が柱島や江田島の泊地に身をおかず、狭い呉の波間に密集して錨を下ろしている事自体、その艦体をもって大和艦を呉工廠の波間が望める場所から直接見る事が出来ないようにとの配慮から実施されているのである。その厳重な機密処理は艦魂にあっても例外ではなく、新たに帝国海軍の象徴となる新鋭戦艦の扱いには一戦隊所属の伊勢が非常に気を使っている。その一端が大和という新米艦魂との面会謝絶実施であり、明石や神通がこうして大和艦を眺めるだけで終わっている事の真相なのだ。直に会えるのは伊勢と、彼女の妹にして現在はこの呉にて練習艦任務に就いている日向、そして整備入渠というお休みを貰って母港へと帰り、その料理人っぷりから食事調達係を拝命した間宮の三人のみにしか許されていなかった。
『う〜ん、長門さんから仲良くしてあげてって言われてるのにぃ・・・。』
是非とも明石は眼前の艦を分身とする者に会ってみたかったが、それが適わない残念な気持ちを声に変える。長門に頼まれた事を実現できそうにない事もまた、少しだけ尖がり始めた明石の口の原因でもあった。また神通にあっても、幼い頃より勝手しったる仲である間宮が大和艦の艦内へと入っていった事に、自分と間宮との間にある種の不均衡が存在しているように思えて不満げである。短い口癖を放ちつつ流し目で大和艦を眺め、神通はそんな自身の心模様を表して見せた。
すると突如として明石は顎に手を当てて首を捻り、何か考え事をするかのように呻き声を響かせ始める。
『む〜〜〜・・・。』
どうにかして大和艦の艦魂と会えないかと考えを巡らす明石。ふと視線を流した方向には褌の群れがあり、不浄にして不快極まりないそれらに一瞬だけ憎しみを募らせた明石は、今度は逆の方に顔を向けて2、3歩ほど歩きながら頭を捻ってみる。そしてちょうどそこにいた仲良しの姿を瞳に映し、彼女が荒い気性とげんこつ必須の教育姿勢の持ち主である事を思い出して一つの策をおぼろげながら脳裏に浮かべた。
『おお、教育中なら行けるかもぉ。』
『ん? なんだ明石?』
何やら閃いたのか僅かに見開いた瞳を輝かせる明石に神通はその言葉の意味を問うが、返って来た明石の声に神通がさらに声を返してやる事は無い。否、正確にはお叱りの言葉が口から漏れてくるのに先んじて、明石には神通の緩く握ったげんこつが向かって行くのだった。
『教育中に怪我しちゃったら軍医の私の出番だ! 神通なら怪我の一つや二つ─。』
『馬鹿者が。』
ゴン!
『ふんげぇっ・・・!』
どうにも手が速い神通の拳は何の躊躇も無く明石の脳天に真上から振り下ろされる。これでも軽い方だというのは殴り合った事もある明石にはよく解かっているのだが、それでもこうして食らった後に残る鈍痛と余韻は半端な物ではない。160センチ台の身長を持つ明石は女性にしては背が高く、170センチ台の神通とはみてくれの上ではそれ程までに身長差がある訳ではないのに、いつもながら明石は自分とはうって変わって力持ちで他人を叩き慣れている友人を心底不思議に思う。これで冗談を解かってくれればと人柄に対する願望を抱きつつ、明石は頭のてっぺんを右手で擦りながら目の端に薄っすらと涙を溜めた表情で神通に弁明した。
『ほ、本気で言ってる訳ないでしょ・・・。あいだだ・・・。』
『自分の罰当たりな物言いを冗談とすりかえるな、馬鹿者が。ついこの間やっと進水した最新鋭の戦艦に怪我なぞもっての他だろうが。』
『う・・・。』
生真面目で生来が理論的な思考回路を持つ神通。物言いは荒っぽいがその言葉の意味には、明石が反論できるだけの余地が無い。艦魂社会での健康管理、怪我への処置を役目とする者が、自ら患者の出現を願うなど言語道断である。それに反論しろというのは当の軍医さんである明石にはどだい無理な話だった。結局はギロリと神通に睨まれて明石はすっかりはしゃぐ気持ちを律されてしまい、鐘の音の様に響く鈍痛に歪めた表情で自身の言動を反省するしかなかった。
厳しいお人だった。
その後もしばらくの間、明石は隣に立つ神通の鋭い眼光に時折怯えながら眼前の大和艦の姿を眺めていたが、その内にふと背後に友人とは別な人物の気配を感じて振り向く。するとそこには自身も日常でよく用いている淡く白い光が収束していく様子があった。やがて神通もそれに気付いて明石と同じく背後へと視線を向けるが、ちょっと珍しいのはその光の収束の基点が二つ並んで存在するという事。
『う? なんだろ?』
つい明石は不思議な眼前の様子に疑問の声を漏らしてしまうが、それに反して神通は現状を極めて正確に認識している。なぜなら神通はそんな二つの基点を伴って光が収束する様を日頃から見ており、その光が輝きを失せる前にそこへと姿を現す者らを既に名前すらも明確に予測していたのだ。
『ふん。あいつ等か。』
神通がそう呟くように言うと同時に光は輝きを鎮め、入れ替わりにそこには黒い水兵の軍装に身を包んだ二人の少女が現れる。明石、神通供にどちらの顔もよく知っている物の顔だったが、彼女達が声を掛ける前に二人の少女はふと隣に出現したお互いの顔に視線を向ける。刹那、二人は瞬間的に怒りの色を表情に浮べて怒号を交わした。
『あ! テメエ、猿!』
『雪風! 何しにきたのよ!』
明石と神通の前に現れたのは、神通の部下に当たる霞と雪風。供に二水戦の元気印として日夜励み、大正生まれで20台も後半に差し掛かった上司とは逆に、昨年に生まれたばかりの10代後半の容姿を持った少女の姿をした艦魂であった。その外見と同様にまだまだ落ち着きという物が備わっていない人柄と、同じ瞬間に隣り合わせて明石の背後付近に現れた天敵への怒りを剥き出しにし、二人は大きな声を張り上げて口論を始める。
『アタイがどこで何しようが関係ねえだろうが!! さっさとボロの分身に帰れよ!!』
『私は戦隊長に用があってきたんだよ! アンタこそ邪魔だからさっさと帰れぇ!』
『邪魔はテメエだ、バ〜カ! 猿は猿同士で話してろや、エテ公め!!』
『なにを、この野郎!!』
毎度毎度の事ながら、二人は用が有る人物を前にしても挨拶もせずに罵声を投げ合う。麗らかな秋晴れの呉に怒りの声を響かせて霞は雪風に跳びかかり、肩まで伸びた雪風の巻きグセのある髪の毛を引っ張って頬を張る。雪風もまた負けじと左手を霞の褐色の肌で成る頬に伸ばし、思いっきり爪を立てて引っ掻きながら逆の頬に平手打ちを叩き込んだ。
『でりゃあ! 死ねえ!!』
『この猿!! おるぁあ!!』
明石と神通が先程まで瞳に映していた建造中の大和艦より響く重機の音をも掻き消すほどに、二人はボカスカと殴打する音をけたたましく放って取っ組み合いとなった。お互いの襟や髪を掴んだまま甲板の上に倒れこみ、交互に馬乗りになって相手の腹に膝を突き刺し、鷲掴みにした頭を甲板へと打ちつける。いつもの事とは言え、その喧嘩っぷりは双方ともとても派手だ。
文字通りの犬猿の仲である霞と雪風だが明石にとってはどちらも供に大事な友達であり、彼女は甲板の上でのたうち回る様に殴り合いに興じる二人を止めようとする。しかしそれよりも速く、明石の横を神通の肩が通り過ぎていく。スっと伸ばした背筋を少しも曲げずに胸を張って歩く神通の背中はさも海軍軍人らしくスマートな雰囲気を持つが、明石はそんな麗しい歩き方を持つ友人が僅かに肩をいからせて歩いている様子に、当の彼女が事の他ご立腹である事をすぐに察した。
ツカツカと甲高い靴音が耳元に迫っても、霞と雪風はお互いの顔を目掛けて振り下ろす拳を止める事は無い。日頃から明石もさっき頂戴したげんこつの痛さを肌身を通してよく知っているのに、どうしても憎き天敵を懲らしめる衝動に霞と雪風は我を忘れてしまう。やがて眩しい程に天にて輝く陽の光がふとそこに無くなる事に二人は気付くが、お互いの顔を覆う影を形作っている者に目を向けるやその表情は凍りつく。そこにはやっぱり、額にて脈動する筋を浮べたおっかない上司の顔があった。
『こんの馬鹿が!!』
咄嗟に霞と雪風はもはや何度目かも覚えていない拳の打ち合いをどちらからという事も無く止め、素早く立ち上がって直立不動の姿勢を取って詫びの言葉を放とうとする。だが毎度の事ながら既に手遅れだった。神通の怒号というカミナリの迫力に目を瞑った刹那、二人の頭には神通のげんこつが振り下ろされる。
『ぎゃっ・・・!』
『ぐあっ・・・!』
二人の頭のてっぺんを同時に襲ったのは神通の両手の拳。右利きである神通の事は霞も雪風も、そして大の仲良しである明石も知ってはいるのだが、同時にそんな利き手の差異がげんこつのダメージに反映されない事もよく知っている。細身でスラっとした長身の体型ながら、その実は大変に力持ちで足も速い神通。同じ体型の明石とは大違いであるが、いつも昼間の部下達への教練が終わった後に一人黙々と自室にて腹筋や懸垂をこなしているというのだから無理も無い。その上で昔からその荒っぽい性格と度胸で先輩方との喧嘩沙汰を繰り返してきた神通は、喧嘩慣れしている事もあって拳を振る行為の正確さは正鵠を極める。いつぞや起こった、同じ第二艦隊の一員にして三潜戦の戦隊長である五十鈴との一件もその一端だ。おまけに彼女は他人への判断が極めて短絡的であり過ぎ、過去に今の自分と同じ二水戦の戦隊長を務めた経歴を五十鈴が持っていたとしてもその人当たりを変えよう等とは微塵も考えていない。嫌いな奴はトコトンまで嫌う。神通の悪い癖でもあった。
そしてこんな人柄の彼女が事もあろうに自身の前で大喧嘩する部下をげんこつ一撃で終わらせる筈も無く、彼女はその場にうずくまり頭を抑えて悶える霞と雪風の奥襟をむんずと掴むと、軽々と腕を上げて二人をその場に吊り上げる。
明石から見るとそれはまるでデリックにて吊り上げられる鋼材の様で、例え霞と雪風が小柄な体格の持ち主であったとしても片手で各々を持ち上げてしまう神通の腕力に驚いてしまう。
『貴様等、戦隊部外者の明石のところで騒ぎおって! そんなに私のツラに泥を塗るのが面白いか! ああん!?』
声を向けられている訳ではないのに、明石をも思わずビクンと肩を震わせてしまう程の神通の怒号。それを真正面から浴びる霞と雪風はボロボロと涙を流して詫びの言葉を放とうとするが、怒り心頭の上司に二人の心模様を察しようとする気は微塵も無い。お叱りの言葉を言い終えるや、神通は部下二人を吊るし上げた手を交差させるように振り、霞と雪風はお互いの額に全く企図せぬ頭突きを放たされてしまう。
『『ぐっへ・・・!』』
重苦しく鈍い衝撃音が木霊し、二人はまったく同じ悲鳴を上げて苦悶の表情を浮かべる。神通は二人のぶつかった額が離れるとすぐさま両手から力を抜いて部下達を解放してやるが、力持ちの上司によるお仕置きで相当量のダメージを負っている霞と雪風は足を甲板に着けると同時に膝から崩れ落ちて折り重なるようにぶっ倒れた。
久々に見せる神通の鬼教官ぶりにさしもの明石も息を飲む。昔の様に顔を殴りつける様な事は無くなったのは大きな進歩かもしれないが、もはや憎しみさえも感じれる程に部下を叱り付けるつける友人の姿は、元来が心根の優しい明石にとっては少し度が過ぎているように思えた。まして明石が立場として頂き艦魂として日夜励んでいるのは、他人の怪我を癒す事を生業とする軍医さんである。常日頃からこんな調子で部下を虐め鍛える二水戦の日常はやっぱり生傷が耐える事は無く、例えお仕事であったとしても怪我を負う者を毎週欠かさず発生させる神通のやり方には疑問を抱く事がままあった。
故に神通とて神通なりの考えが有るのはよく理解しつつも、明石は思い切って声を掛けてそれ以上のお仕置きを控えるように促してみる。だが明石に帰ってくる友人の言葉はこれまたいつも通りの代物であった。
『じ、神通・・・! あんまり手荒に─。』
『黙れぇえ!! 二水戦の事には口を出すな、明石!!』
癇癪持ちの神通はその怒りの温度が冷めるのに時間を要する。振り向いてきた彼女の表情は鋭く釣り上がった瞳がさらに鋭利さを増しており、いつもは遠慮無しに物が言える明石も恐怖と迫力に気圧されて言葉を失ってしまった。こういう所が帝国海軍艦魂社会において指折りの嫌われ者とされるそもそもの原因だった。
もっとも神通はそれ以上部下に拳を振り下ろす気は無く、拒否の姿勢を示したものの仲の良い明石が懇願してきたという現実に沸点を突破していた心を鎮め始める。その人柄における放熱の効率は非常に悪い為に彼女の風貌からは恐ろしさという雰囲気が中々消えないが、神通は腕組みをしながらギラリと甲板に突っ伏す部下達を睨むだけであった。
それからしばらくした後、明石とお仕置きに悶絶する二人の部下を従えた神通は明石艦艦内の一角にある明石の部屋へと赴き、全員床に腰を下ろしてなんとか居心地の良い空気を部屋に作ろうと考えた明石が銀バイしてきた御菓子を囲んでようやく声を交える事に成功する。そもそもが艦隊訓練も終わって帰省休暇状態である今の艦隊事情において、何ゆえに霞と雪風が上司の下へと姿を現したのか。それを二人に問う神通の眉や瞳はだいぶ角度を浅くしつつあり、霞と雪風はそれを認めて胸を撫で下ろす。既に涙も鈍痛も消え失せている事から、二人はいつもの口調で上司の問いかけに答えた。
『11月の艦隊編成のせいだと思うんですけど、今の呉には所属の駆逐隊が全部戻ってるみたいなんです。それと戦隊長と明石さんが見てたあのおっきい艦の事もあるみたいですけど、いま軍港内には各駆逐隊の艦魂達が全部集まってるじゃないですか?』
最初に口を開いたのは霞で、雪風によって引っかかれた赤い爪痕を浮かび上がらせた麻色の頬を撫でながら言った。ついさっきカミナリを派手に落とされた為に頬の責任を求めるような行動には出ないが、胸の中ではまだ天敵への憎悪が燻っているらしい。上司を挟んで反対側にて胡坐をかいている雪風に時折視線を流し、眉間にシワを作って瞳の中に炎を纏わせている。
一方、神通はそんな二人の様子に気付きつつも、自身がその真ん中に陣取っている事から再戦の危機は無いであろう事を予測し、首をゆっくり捻ってコキコキと鳴らしながら声を放つ。
『ん、そうだ。11駆から20駆の全艦が集結してる。私達二水戦と同じ様に、各戦隊の旗艦も含めての整備補修が組まれてるからな。それがどうした?』
『せっかく呉鎮所属の駆逐艦が揃ってんスから、その中で一番強い奴が誰かを柔道の試合で決めようって話があるんスよ。11駆の吹雪上曹が言いだしっぺらしいっス。』
神通のさらなる問いに今度は雪風が答える。霞に引っ張られて乱れた髪を右手で撫で、赤く腫れた頬を左手で擦っているが、これまた天敵と同じ様に彼女もまた神通の横顔の向こうにある霞に憎悪の視線をチラチラと投げる。相も変わらずの仲の悪さを示す二人と、その板挟みとなる上司の神通。その光景を明石は正面から瞳に映しており、なかなか解かり合う事の出来ない霞と雪風の関係が未だに続いている事に落胆して小さく溜め息をした。
一方、神通は両側から迫ってくる険悪な空気にいつもの冷めた感じの表情を変える事は無く、さっきの様に拳を握って振り上げる気配も放っていない。むしろここに至って知った部下達が訪ねてきた理由は彼女の心を少しだけ明るくしているくらいで、神通は左右の部下達に流し目を送りながら会話を続ける。
『ほお、吹雪がか。大方、各鎮守府別の最強を決めるつもりだな。アイツらしいなぁ。』
『あ、そっか。吹雪上曹、前に二水戦にいたんですね?』
『うむ。アイツは中々筋の良い奴でな。那珂の四水戦にいる雷と供に、奴は柔道の腕前は相当なモンだった。おそらく去年の艦隊編成で時雨が佐鎮に転籍したから、この際各鎮守府最強を決めようとでも思ったんだろう。』
突如として神通の口か出てきた名には、霞と雪風どころか明石にも聞き覚えが無い。3人で首を捻るが、その中でも声色の弾む上司に恐怖を拭い去った雪風はすぐにその事を問う。
『しぐれ? 誰スか、戦隊長?』
『白露型の二番艦、時雨。去年の艦隊編成までは姉貴が率いてた一水戦9駆に所属してた。お前達に比べればだいぶ艦体は小さいが、吹雪や雷とも互角に渡り合えるくらいの柔道の腕前を持ってたんだ。姉貴がよく自慢しててな。今は27駆に移ったから、横須賀は6駆の雷、佐世保は27駆の時雨で決まりだな。舞鶴は駆逐隊がそんなに無いから、実質残りは呉だな。』
長く水雷戦隊旗艦として励んできた神通だけに、帝国海軍の駆逐艦事情は結構詳しい。自分を遥かに凌ぐ軍歴を垣間見て明石は感心の吐息を漏らすが、霞と雪風にあっては上司のお言葉にちょっと違う感情を抱いていた。それは今しがた上司が挙げた名を持つ者達と自分達が同じ駆逐艦として類別される艦を分身としている事に根本があり、例えそれが先輩方であろうとも胸に沸かせた逸る気持ちを抑える事が出来ない。やがて二人は僅かに腰を浮かせると二人して上司に膝を詰め、それぞれが抱いた気持ちとそれに伴うある考えを声に変え始めた。
『戦隊長! 呉は何が何でも私達、二水戦の駆逐隊が相当するべきだと思うんです!』
『6駆は四水戦で、27駆は一水戦っス! アタイら"花の二水戦"の駆逐隊は、帝国海軍の全駆逐隊中最強じゃなきゃダメッスよね!?』
何時に無く表情に力を込めて声を張る霞と雪風。普段は神通にヘコヘコと頭を下げて忠実に従う二人だが、この日は敢えて神通に正面から意見をするような姿を明石に見せる。
その理由はさっき神通が話した帝国海軍における駆逐艦の艦魂事情その物で、昨年に生まれたばかりの二人は帝国海軍の中で一目置かれている駆逐艦の艦魂が皆、自身から見れば先輩に当たる者達ばかりである事に強い不満を持っていた。といっても二人は決して先輩方の存在を疎ましく思っている訳ではなく、そこに帝国海軍の最精鋭部隊である二水戦に属してる者が名を連ねていない事が我慢ならないのである。怖くて厳しい二水戦の日々で鍛えられつつも、その日々は同時に彼女達に確固たる二水戦所属の駆逐艦としての責務と覚悟を実らせており、二水戦という名に込める想いは戦隊長である神通とほぼ同じくらいまでの認識にまで上り詰めているのだ。
神通は何時に無く覇気を伴った表情で顔を近づけてくる霞と雪風にその心中を察し、僅かに口元を緩めて胸に湧いた嬉しさを滲み出す。そのとっても小さな笑みに明石もつられて表情をほころばせ、室内は幾分朗らかで明るい空気が漂い始める。だが神通は霞と雪風が口にした事を実現する為にはとある大きな障害がある事を思い出し、表情を再び律して口を開いた。
『お前達、その柔道の試合とやらでそれを証明したいのか?』
『そっス! 各駆逐隊から選抜した奴での勝ち抜き戦をやるらしいんで、これで優勝できれば間違いなく呉最強の駆逐隊はアタイ達になるっスよ!』
『二水戦の名を上げる絶好の機会です!』
『だが楽ではないぞ? 特に吹雪は私が見てきた駆逐艦の奴らの中でも柔道の実力は屈指の代物だ。正直な所、お前達で相手になるかどうかは私には疑問だ。』
少し厳しい感じの物言いをする神通だが、その言葉は嘘ではない。
吹雪という艦魂の分身は帝国海軍が世界に誇る特型駆逐艦の一番艦であり、既に建艦から10年以上も経っている古い艦だ。しかし登場した当時、彼女を始めとする特型駆逐艦は列強の海軍をその超高性能ぶりで驚愕させ、ロンドン軍縮会議でアメリカ代表団の一員に『特型駆逐艦50隻となら、我が軍の全駆逐艦300隻と喜んで交換する。』とまで言わしめた傑作駆逐艦。その艦魂にして長女たる吹雪は駆逐艦の艦魂として分身にも違わぬ大変に優れた実力を持っており、彼女とは過去に二水戦における部下として接した事が有る神通は、現在の部下である霞や雪風では吹雪にはまだ及ばないと考えているのだ。
しかし神通の声を受けても、霞と雪風には引き下がろうという選択肢は微塵も浮かんでこない。むしろ当の二人もまた、自分達はまだまだ大先輩には太刀打ちできないと自己評価はしており、それ故に上司の下へと足を進めたのだ。出向いた先で天敵と鉢合わせしてしまった事は間が悪いの一言であるが、上司も含めた二水戦の名を輝かせる事に意欲を燃やした霞と雪風は、床に手を着いて現状を打破する為の協力を懇願した。
『解かってます、戦隊長! だから試合が行われるまでの間、私に柔道の教練をつけてください!』
『絶対に勝ちたいんス! お願いっス、戦隊長!』
一様に頭を下げてお願いする霞と雪風。いつもならお互いに『すっこんでろ!』の一言を叫んで喧嘩になる二人だが、今日は必死の懇願に専念して神通の目をじっと見つめてくる。極めて真摯なその姿は霞と雪風がこれまでに無い強固な気持ちを抱いている事を示しており、明石は初めて目にした彼女達の姿に目を丸くして声を失った。もちろんそれは神通も同じであったが、彼女は両脇にて深く頭を下げてくる二人に交互に視線を配ると口元を大きく吊り上げる。
仲間がいる隊の為、姉妹がいる隊の為に頑張りたい。
その為には如何に強敵であっても戦いに挑んでみたい。
彼女達の面倒を見始めてほぼ一年。その中で並々ならぬ決意を上司である自身に隠さずに部下達が示してくれた事が、神通に嬉しくて嬉しくて仕方なかった。やがて彼女は軽く握った拳を足に打ち付けてパチンと音を鳴らすと、珍しく感情の色合いが濃く滲んだ声色で叫ぶように声を返す。放たれた言葉は短い物だったがそこには彼女なりの部下への気持ちが溢れており、普段はまず見せる事の無い稀有な言動をとった事も併せて、明石は神通の顔にに笑みを送るのだった。
『よおし、わかった! お前達二人を呉最強の駆逐艦にしてやる!』