第七二話 「紀元二六〇〇年記念特別観艦式/前編」
昭和15年10月11日、0900。
果ての無い青空は絶景の秋晴れで、少しひんやりした横浜の空気を水平線からもだいぶ上がった太陽の光りが切り裂いていく。雲ひとつすらも見えぬ空にこの世に生きる全ての物が目覚めの挨拶をするのが、太古の昔より続く悠久の時の流れで繰り返されてきた常。それは人間も、鳥も、草花や木々であっても同じだ。
しかしその日の横浜は随分と静かな物で、波間が揺らぐ事で起きる小さな波の音が辺りに木霊するだけだった。
毎朝、自然界における起床ラッパを担当してきたカモメ達にとってもそれは同じで、彼等は岸壁に囲まれる横浜港の沖合いで錨を下ろす比叡艦のマストや色鮮やかな満艦飾索を足場として翼を休めている。小刻みな間隔で首を捻り、おもむろに翼を広げてくちばしでのお手入れに勤しむカモメ達。足場とする比叡艦やその乗組員達と同じく彼等にとっても今日という日は記念すべき日であり、羽毛に覆われたその身体のおめかしにも余念が無い。格好悪い姿を今日は見せてはいけないのである。
するとその刹那、比叡艦からも近い陸地の一角からは甲高い鉄の軋む音が大きく響き渡り、カモメ達はそれを合図として一斉に宙へと舞い上がる。野性味溢れる彼等の鳴き声は人間達からするとうるさく感じるかもしれないが、彼等にとっては他意は無い。なぜなら脈絡無く響くカモメ達の声は、彼等なりの万歳の声なのだ。
そしてその声が向けられるのは緊張の面持ちを浮かべる比叡艦乗組員とこれまた同じく、今まさに「よこはまみなと」駅に滑り込んだ列車に対して放たれていた。
真っ黒な生地に金色の刺繍で作られた袖章や肩章、胸の辺りに散らせるように掲げた数多の勲章、広い間隔で離れた複列の金ボタン、まるで人形が被っている物がそのまま大きくなったような二角帽子という、いわゆる正装と呼ばれる服装で身を包んだ男達が見守る中、数両編成の列車はそれまで鳴らしていた甲高い鉄の軋むような音を段々と小さくしつつその動きを完全に止める。車窓から覗く車内に施された白いカーテンも眩い車両だが、その一両一両の車体の真ん中には大きな菊の御紋が描かれており、この列車が皇族ご用達の御召列車である事を示していた。
やがてとある客車のドアが開かれると、正装姿の初老の男達がドアの前に進み出る。見ればその顔ぶれも海軍軍人としては豪華で、9月に海軍大臣になったばかりの及川海軍大臣を始め、伏見軍令部総長宮、山本連合艦隊司令長官、塩沢横須賀鎮守府司令長官など層々たる者ばかり。だがそれも不自然ではない。
なぜなら一様に彼等が深々と頭を下げる中で客車から降りてきた人物は、彼等海軍軍人の全てを統率するただ一人の人物であり、本日今より挙行される観艦式において最上級の御親閲者なのであった。
一方、駅から見える波間の遥か沖合いでは、満艦飾でその身を飾った参加艦艇が万全の準備を整えて粛々と式が始まるのを待っていた。
数キロ四方に及ぶ式場海域に集った総数98隻の陛下の御船達、その整列する様は堂々たる物であった。東西に少しばかり長い式場海域には横隊を組んだ6列の艦列があり、陸地側に当たる西方の端を艦列の先頭艦とする。その内訳は北側より、
・第五列
日向艦、沖島艦、天龍艦、八重山艦、蒼鷹艦、神風艦、沼風艦、波風艦、野風艦、伊号第十五潜水艦、呂号第五七潜水艦、呂号第五八潜水艦、第三号掃海艇、第一号掃海艇、第四号掃海艇、第二号掃海艇、第五号掃海艇、第六号掃海艇
・第四列
千歳艦、神威艦、多摩艦、常盤艦、千代田艦、伊号第十六潜水艦、伊号第一二四潜水艦、伊号一二三潜水艦、呂号第三四潜水艦、呂号第三三潜水艦、伊号第一二一潜水艦、如月艦、弥生艦、望月艦、睦月艦
・第三列
金剛艦、榛名艦、熊野艦、鈴谷艦、最上艦、利根艦、筑摩艦、陽炎艦、大潮艦、朝潮艦、荒潮艦、満潮艦、霰艦、霞艦、不知火艦、黒潮艦、雪風艦、初風艦
・第二列
長門艦、陸奥艦、伊勢艦、山城艦、摂津艦、涼風艦、江風艦、村雨艦、春雨艦、夕立艦、五月雨艦、漣艦、綾波艦、浦波艦、初雪艦、白雪艦、吹雪艦
・第一列
赤城艦、飛龍艦、蒼龍艦、瑞穂艦、五十鈴艦、伊号第六八潜水艦、伊号第七一潜水艦、伊号第七五潜水艦、伊号第七四潜水艦、伊号第八潜水艦、伊号第七潜水艦、伊号第五三潜水艦、伊号第五五潜水艦、伊号第六六潜水艦、沖風艦、峯風艦、矢風艦
・番外列
長鯨艦、迅鯨艦、勝力艦、駒橋艦、明石艦、間宮艦、早鞆艦、尻矢艦、宗谷艦、朝光丸、金龍丸、大成丸、凌風丸
となっている。
最南端に当たる部分にて番外列を構成する明石艦は、他の番外列艦と同様に朝7時に見学の民間人を乗せて本牧地区の桟橋を出発し、既に受閲地点に錨を下ろしている。艦橋から艦尾にある後楼に至るまでの甲板に天幕を張り、さらにその上には艦首旗竿から軍艦旗の翻る艦尾旗竿にまで及ぶ満艦飾索を展張した明石艦だが、色鮮やかなその艦影全体には同じくらいの緊張感で張り詰めた静寂が纏われている。
だが艦の命である明石に関してはその限りではなかった。
人気の多い甲板には居場所が無い明石はお気に入りの場所である艦橋頂上に設置された測距儀天蓋にて、肌寒い横浜の潮風に僅かに肩を震わせながら波間の仲間達を見つめている。艦内幹部達の様に正装を持っていない事が残念だったが、それが自分を含めた艦魂という存在における限界であったにしても彼女は失念などそれ程していない。外套と手袋を身に付ける下にはいつもの第一種軍装であるが、実は長門を始めとした偉い艦魂達も正装など持ってはいないのだ。
ただ、せっかくのおめかしをした分身に比して、いつも通りの格好という自分の姿にはちょっとだけ物足りなさを感じた明石。7時の出港に先駆けての乗組員全員による早起きに併せて目を覚ました明石は洗面の際に時間をかけ、いつもは首の後ろで一本に縛っている長めの髪を今日は全て後ろに流してみた。そんなに髪型に詳しくない明石なりのちょっとしたオシャレで、横髪も耳に掛けて後ろに流す。既に同じ髪型で一年も過ごしてきた事に気付きながらの髪型変更だったが、少しだけ大人っぽい雰囲気が滲み出る鏡に映った自分の姿を明石は大変気に入った。
『おおお!』
つい感激の声を上げていつもの自分の印象が変わった事を喜んだ明石は、お風呂上りにいつも使っている髪留めを後頭部に施して髪型を整えて今日という日に望む。黒と白の軍装しかもっていない明石を含んだ帝国海軍艦魂の、ささやかながらも精一杯のオシャレだった。
おかげで人間の女性の様に多種多様な飾りつけが出来ない事を、明石は海軍軍人ではない見学者達の格好を目にしても憂う事は無く、いよいよ迎えた晴れの日に赴く意気で自身の心と表情を律する。それは自分と仲間達の晴れ姿を一望できる測距儀天蓋の上に出ても変わらず、日常では旗旒甲板や航海科の倉庫で眠っている各種の信号旗が一斉に連なる満艦飾索を瞳に映しても、いつもの様に無邪気に声を上げてはしゃぐような事は無かった。
『礼砲員、礼砲用意!』
『礼砲員、砲に就け!』
するとその内に彼女の足元に位置する艦橋がにわかに騒がしくなり、それに併せて艦首甲板にある第一主砲、そして艦尾甲板にある第二主砲には待機していた配置の兵員達が走り寄って礼砲火薬の準備を始める。
転じて横浜港内では大元帥陛下と従う者達が乗った御召艇が桟橋を離れ、御召艦である比叡艦に向かって白波を立て始める。そしてこの瞬間を持って、栄えある紀元二六〇〇年を祝う特別観艦式の挙行とされた。
御召艇が桟橋を離れたのを確認した比叡艦からは電波が発信され、式場海域にて整列する参加艦艇の全てに式の始まりを告げる。各艦では艦長の号令に従い発砲の指示が出され、凌風丸と大成丸を除いた全艦艇によって皇礼砲が実施された。見学者が乗艦している明石艦では発砲と同時に彼等の歓声が響き、自分達が乗った艦を含む眼前の海軍艦艇の勇壮な姿に大喜び。皆一様に艦側の手摺から身を乗り出し、艦首方向に広がる96隻の一斉発砲に心を躍らせる。
もっとも明石艦で主砲を操作する兵員達にあっては、21発に及ぶこの皇礼砲の実施は結構大変な物であった。というのも皇礼砲は5秒間隔での発砲にて規定数回をこなすのが慣例で、廃莢や装填の手順も考えると2基4門しかない明石艦ではかなり急いで操砲せねばならないのだ。観艦式という晴れの場ではいつもの訓練の様に空薬莢をその辺に無造作に置いておく事など出来ないし、その上で秒刻みの正確なタイミングで引き金を引かねばならない。距離により発砲音が連続してしまう事は致し方ないが、観艦式における皇礼砲は全艦艇が揃って発砲炎を灯さないとさも統率が取れていないように見えてしまい、極めて格好が悪い礼砲となってしまうのである。無論、そんな皇礼砲を他ならぬ大元帥陛下に対して行って良い訳が無い。故に明石艦の主砲を掌る青木砲術長の声にも気合が入り、兵員達もまた訓練とは違った色合いの汗を光らせた操砲となる。
やがて21発の発砲を終え、明石艦も錨を下ろす式場海域は真っ白な発砲の残煙によって僅かに視界が遮られるが、横浜の潮風も今日という日を祝ってくれているのか、ふいに強めに沖合いへ向かって風を起して式場を覆う煙のカーテンを追いやってくれた。
『へっへ〜ん。』
再び開けた視界に仲間達の変わらぬ勇姿を入れ、なおかつ皇礼砲を仲間達と供に見事にこなせた事を明石は喜び、両手を腰に当てて胸を張りながら声を漏らす。もちろん主砲配置の兵員達における普段の訓練の成果であるが、我ながら会心の礼砲ができた事に彼女は口元を緩めた。
そして時を同じくして横浜港では先導艦の高雄艦と供奉艦の加古艦、古鷹艦が微速で港外まで進み、いよいよ陛下に御乗艦して頂いた比叡艦が動き出すのを待つ。既に御召艇も艦を離れて錨も上げた比叡艦は、それほど時をおかずして小さな白波を艦首に起しながら浮標から離れ、式場海域へと向かってゆっくりと動き出し、それを見計らって式場海域の艦艇が2度目の皇礼砲を実施して岸壁や桟橋も含めた横浜の波間を轟音と煙のカーテンで飾り付ける。
雷の声と謳われる砲声が木霊する中、艦首と艦尾の甲板に天幕を張った比叡艦は横浜港の防波堤をすぎた所で高雄艦らと合流し、ゆっくりとした速度で進みながら隊列を整える。先導艦の高雄艦が先頭、御召艦の比叡艦はその後ろを進み、供奉艦たる加古艦と古鷹艦が続いた。
『登舷礼式用意! 登れ! 艦首に向け!』
明石艦内に号令が響き、それまで艦内にて待機していた主砲配置以外の乗組員達が一斉に最上甲板に集合。服の折り目も美しく整えた第一種軍装を身に纏う彼等は甲板に出るや艦首を中心とする舷側に一列になって整列し、号令の通りに艦首方向に身体を向けて直立不動の姿勢を示す。動くのは風に靡く水兵さんの帽子のペンネントだけで、礼砲の残り香である火薬臭い潮風を吸っても彼等は眉一つ動かさない。いよいお大元帥陛下の御親閲が始まるのだ。
測距儀の上からその様子を眺めていた明石だが、彼女が立っている測距儀の付け根に当たる艦橋天蓋にはそれまで艦橋の中にいた艦内幹部の者達が登ってきた。特務艦長を先頭にしてその後ろに艦内各科の科長達が整列し、さらにその後ろには士官らが並ぶ。その数およそ10数名の男達は明石とは違って陽の光を浴びて輝く金色の刺繍が眩しい正装姿で、いつも通り黒一色の明石はちょっとだけ人間達を羨ましく思う。ただこの期に及んで彼女は指を咥えて正装姿の彼らをまじまじと眺める事は無い。艦内のお偉方である彼等が艦橋天蓋に登ったという事は、自身の艦影を陛下の目に入れる時間がすぐそこまで迫っている事を示しているからだ。
ふと明石は正面の乗組員達から、左舷に広がる横浜港に向ける。既に親閲艦隊は横浜港からもだいぶ離れ、御召艦である比叡艦の大きな艦橋が特徴的な艦影もかなり大きくなってきた。どうやら最初は明石が並ぶ番外列の前にある第一列と、少し隔てて北側に並ぶ第二列の間を通って親閲に及ぶらしい。よく見るてみると明石と同じ様に、これより親閲を受ける列の艦魂達は皆一様に艦橋の天蓋に出て、肌寒い横浜の潮風にも表情を崩す事無く気をつけしている。明石はそんな仲間達の様子と、第一列と第二列の先頭艦の間に艦首を向けて進み行く親閲艦隊の姿を瞳に入れ、軽く袖や胴回りの服装を手で直してから背筋を伸ばして揃えた指先を足の横につける。
しばらくすると明石の耳には、列先頭付近の艦艇達から奏でられる君が代のラッパが遠く聞えてくる。各艦の航海科員達がゆっくり慎重に吹くラッパの調はいよいよ始まった陛下による御親閲に荘厳な雰囲気を纏わせ、明石とその足元にて順番を待つ乗組員一同は固唾を呑んで見守った。
明石艦の受閲位置は先頭艦の長鯨艦から4番目の位置で、微速で進む親閲艦隊が艦首方向にまで来るのは少し経ってからとなったが、その間遠めに御親閲の様子を眺めるのには乗組員も見学者も飽きる事はない。艦の命である明石もまた同じで、前列に並んでいる赤城艦や飛龍艦の向こうに見え隠れする親閲艦隊の様子をじっと眺める。
明石艦とは同じ第二艦隊所属の艦艇である飛龍艦は今回が始めての民間に対するお披露目であり、明石の背後下方に位置する艦中央部の甲板から聞えてくる見学者達も親閲艦隊と重なる際に飛龍艦の姿を目に入れて物珍しそうに声を上げる。
『お、なんだあの空母。新しい奴か?』
『式次第に書いてあるぞ。一番左の大きいのが赤城で、真ん中の小さいのが飛龍、その隣が蒼龍だってさ。』
『飛龍艦は去年竣工したばっかりの最新鋭艦だな。俺も初めて見たぜ。』
スーツ姿の男達の声を耳に入れ、明石は同じ艦隊の仲間である飛龍と蒼龍も緊張の色合いを表情に浮かべて頑張っているのだろうと思って口元を緩める。
特に飛龍は明石とほぼ同年代の艦魂で、第二艦隊での戦隊長会議の際には利根と並んで明石とは頻繁におしゃべりをする同期のような間柄。落ち着きのある大人しい性格を持つが、今まさにその飛龍艦の艦首の前を陛下の座上する比叡艦が横切る光景を目にしても明石は彼女に対して心配を抱くような事は無い。まだまだ半人前の自分や泣き虫の利根とは違って口数が少なくとも腹が据わっている飛龍の事は良く解かっているし、何より飛龍艦の隣にはさらに大きな艦影を持つ赤城艦という先輩が浮かんでいるのだから尚更だった。
数日前の宴会にても新米空母の艦魂として飛龍と蒼龍は赤城の下に真っ先に向かって挨拶を行っており、明石もまた挨拶回りをしつつもそんな3人の様子をしっかり目撃していた。元々は巡洋戦艦としてこの世に誕生した赤城艦の艦魂、赤城は神通と同じく「海軍砲術学校金剛艦分校」の卒業生で、大正生まれのベテランとして飛龍と蒼龍の挨拶を快く受け取ると同時に、『同じ空母として頑張ろうじゃないか。』と二人の後輩を歓迎してやる。
師匠譲りの荒い気性とげんこつ必須のスパルタ教育もまた神通と同じで、帝国海軍の艦魂社会でも指折りの嫌われ者である彼女だが、その実は不幸にも関東大震災とワシントン海軍軍縮条約の影響でまだ顔を合わせた事すらも無い3人の姉妹全員を失ってしまい、やっと艦艇として竣工した頃には既に天涯孤独の身だったという悲しい過去を持つ。だがそんな彼女は、まだまだ軍装姿も似合わない雰囲気を持つ飛龍と蒼龍が同じ空母としてわざわざ挨拶に来てくれた事を大変に喜び、初対面にも関わらず二人を実の妹の様に可愛がって宴の場にいる荒っぽい赤城の性格を知る者達を驚かせたのだった。
その光景を記憶に蘇らせる事ができた明石は、綺麗な笑みを伴って眼前にて御親閲を受ける飛龍艦と蒼龍艦の姿を見守る。さしもに明石が立つ測距儀の天蓋からは艦の命である飛龍や蒼龍の姿をみつける事が出来ないが、隣に赤城という先輩にして姉貴分がいるのなら心配の火種はない。
そしてゆっくりと比叡艦を含む親閲艦隊が進んでいく最中、明石の足元に位置する艦橋天蓋にてその光景を目にしていた特務艦長より声が発せられる。
『皇紀2600年の節と大元帥陛下を遥拝し、万歳三唱!』
その声に明石はいつの間にか抜けていた手足に力を込め、乗組員達と同じ直立不動の姿勢をとる。そして特務艦長が再び放った声に続き、乗組員達と一緒に声を上げた。
『天皇陛下〜! ばんざ〜い!』
『『『ばんざ〜〜い!!』』』
お腹とお尻に力を込め、両腕を天に向かって伸ばして万歳を絶叫する明石と乗組達。ちょうど五十鈴艦の辺りを横切っていく比叡艦は上部構造物を挟んで艦首と艦尾の全ての甲板に天幕を張っており、明石も含めて乗組員達にはどこで天皇陛下が御親閲しているのか解からなかったがそんな疑問を微塵も声に出そうとせずに彼等は万歳を続けた。
その頃、両舷から起こる万歳の声で包まれる比叡艦の艦橋頂上。海面からかなりの高さがある防空指揮所に設置された主砲射撃所の天蓋にて、艦の命である比叡は眼下に広がる仲間達の姿を眺めていた。それ程ただっ広い訳でもない主砲射撃所の天蓋はちゃんと手摺があっても、目も眩むような高さには落ちてしまう事を憂慮せずにはいられない。だが比叡はそよぐ潮風に少し伸びた髪を揺らし、澄ました顔で仲間達の整列振りを一瞥する。その手には漆塗りの小さな黒い盆が握られており、盆の中では真っ白な織物の上にいつぞや富士から託された大先輩の亡骸、即ち旧厳島艦のボルトがぽつんと置かれていた。絶好の秋晴れである空から降り注ぐ陽の光を浴びて鈍い輝きを放つボルトは赤錆も目立つような古ぼけた代物だが、比叡はふと盆を握った両手を胸の高さで前に伸ばし、身体の向きを右舷から左舷にゆっくりと向けて呟くように声を放つ。
『厳島先輩、陛下と供にご覧下さい。厳島先輩が黄海や日本海で命を賭して戦い、その末に生まれたのがここにいる者達です。皆が艦尾に掲げるのは、厳島先輩が掲げたのと全く同じ十六条旭日旗ですよ。』
伸ばした両肘にぐっと力を込めて口にした比叡の声は呟くような口調でもあった為にとても小さな声で、不意に幾分か強めの風が吹くとすぐにその声は風によって波の彼方へと運ばれてしまう。隣に立っていたとしても聞き取りづらい程だったが、盆の中で鈍い光を放って輝くボルトには声などいらない。手にしている比叡すらも気付かぬ中、旧厳島艦のボルトはほんの少しだけ淡く白い光を混ぜて輝き、横浜に集った堂々98隻の後輩達の姿に応えたのだった。
やがて高雄艦に率いられた親閲艦隊は隊列最東端まで来ると取舵を切ってゆっくりと回頭し、僅かに列単を北上すると今度は第三列と第四列の間を通って親閲を続行した。
もう既に明石のいる番外列の親閲は終わり、乗組員達も姿勢をそのまま堅持しながらも安堵の溜め息を放って胸を撫で下ろしている。気張って万歳を叫んだ明石も固まっていた身体を柔らかい物にし、おもむろに軍帽を取って荒く頭を掻く。もちろんまだ観艦式は終わっていないし、大元帥陛下が未だ御親閲を続けている中で座るような事はしないが、これまでにない緊張感を伴って眼前の比叡艦に姿勢を正した明石はちょっとだけ疲労を覚えたのもまた事実だった。
揃えていた足を開いて幾分は楽な姿勢をとり、明石は首を左右に軽く捻って身体に残る淡い疲労感を緩和する。『ふうぅ。』と声も混じった息を漏らしての親閲艦隊を目で追う明石は、比叡艦第三列と第四列の間に艦首を向けてゆっくりと通る様を認めて微笑む。
なぜなら第三列は第二艦隊の所属艦で主に編成されており、そこにいるのは明石とはいつも同じ艦隊の構成員として頑張っている仲間であったからだ。また、列最後尾の初風艦から先頭より三番目の熊野艦に至るまでの艦艇達は全て帝国海軍最新鋭という第三列は人間達からも割と注目されており、比叡艦左舷に人だかりができているのが遠目からでも明石には見てとれた。特に艦首甲板に主砲塔4基、艦尾側甲板には広大な航空機搭載設備を備えるという利根艦と筑摩艦はその珍しい艦影もある為か、海軍軍人らもこぞって比叡艦左舷に並んで両艦の姿をまじまじと眺めている。
同じ年代である筑摩と利根の目立ちっぷりをちょっと妬みながら瞳に映していた明石だが、その内に親閲艦隊は列先頭の艦を通過すると再び取舵を切って回頭。明石を含む受閲艦隊とは直交する形で船足を止め、高雄艦を先頭とした隊列のままで投錨した。
そして親閲艦隊の各艦の錨が静かな横浜の波間を突き破った刹那、式場海域全体には轟々と唸る航空機のエンジン音が木霊してくる。
『あ、あれだ!』
『おお、航空隊だ!』
見学者や観艦式の詳細を知らない水兵達が一同に顔を向けて指をさす東の空。東京湾まで続く事から水平線が広がるだけの方角だが、乗組員や見学者の声につられて明石も顔を向けるとその空には横列を幾重にも重ねた黒い粒が迫ってきていた。どんどん音量を上げる轟音の震源地であるその粒の群れは、全国から集まって横須賀や館山の基地にて待機していた海軍航空隊の精鋭達。真っ青な天気の中でその銀翼に日の丸を輝かせ、一糸乱れぬ編隊を組むその様はまさに日の丸を背負った海の荒鷲だ。
『おおお〜、でっけ〜!』
思わず声を上げてしまう明石の頭上に迫って来るのは帝国海軍において運用される航空機の中でも非常に珍しい4発機で、一見するとお船のような機体と横長の大きな翼を持っている事が特徴の九七式飛行艇。上から見ると三角形の編隊を12機で組んでおり、式場東南寄りから侵入して西北の方角に抜けるコースで飛行するらしい。まるで越冬の為に飛来してくる白鳥の様に等間隔の編隊を維持し、編隊より突出した一機の九七式飛行艇に後続の編隊がピッタリと追尾していく。見事な空中分列飛行だった。
どよめきと歓声が起こりつつある背後も、今まで目にした事の無い航空機の大編隊を瞳に入れた明石には全く気にならない。大きくした瞳を爛々と輝かせ、頭上を通り過ぎていく銀翼の日の丸の群れを明石は脳裏に焼き付ける。また、ちょうど時を同じくして艦橋の付け根辺りから見学者向けに放った下士官の声は、突如飛来した大編隊の詳細を明石にも教えてくれた。
『え〜、ただいま上空を飛行中の大編隊は、本観艦式の為に全国各地の海軍航空隊基地より集結した部隊になりまして、参加総数は527機! 指揮は前列で先頭艦となっております赤城艦座上、小澤第一航空戦隊司令官!』
『ご、527機・・・!』
『うお〜、すげえ!』
大空を颯爽と駆け抜けていく大編隊の空中分列行進には、波間に浮き続けるだけの98隻の光景とはまた違った迫力がある。見学者にあってもそれを感じる事が出来たようで、疾走感溢れる航空機の編隊飛行に喝采を浴びせた。
銀翼の大編隊に感動している明石も乗組員の言葉に驚きつつ、次々と頭上を飛んでいく大編隊を飽きもせずに眺め続ける。帝国海軍観艦式史上最大の527機という参加航空機の中には第二艦隊の仲間である飛龍や蒼龍が搭載していない機体もたくさん混じっており、特に主翼の端から端までの長さが40メートルもある九七式飛行艇の飛ぶ様は圧巻。その4発の発動機から轟く爆音も巨大な怪鳥の鳴き声を思わせ、腹の底を揺さぶるかのような迫力に明石は叫ばずにいられなかった。
『わ〜〜〜! ばんざ〜〜〜い!』
自身の分身の中でも最も高い所に測距儀の上にてはしゃぐ明石。視界を波間に下げれば数キロ四方の波間を圧する仲間達の勇壮な姿が広がり、上に向ければ雲一つない秋晴れの空を埋め尽くす航空機の大編隊。波間は軍艦旗で、空は銀翼に描かれた日の丸で彩られ、自身を含めた帝国海軍の持つ壮大さを明石はこの時よく理解する。例え戦争という巨大にして凄惨な事業を遂行せねばならなくても、例えその中で自身が花形である戦闘艦には類別されていなくても、明石は自分の分身の旗竿に軍艦旗が翻っている事をとても誇らしげに思った。故に彼女は万歳を連呼する。
『帝国海軍、はんざ〜〜〜い! わ〜〜〜!』
この4年後、明石はこの観艦式の際に見た様な航空機の大編隊をもう一度目にする事になるのだが、今の彼女はそんな自分の4年後などを意識する事もなければ、それが自身の生涯で最後に見た空になる等とは夢にも思っていない。
この後も続く観艦式で味わえる喜びに思う存分浸るのが、明石にとっても乗組員達にとっても精一杯の事だった。